相撲の生命
「横綱の品格 問われる資質」
単なるスポーツ競技ではなく、国技、神事あるいは伝統だという相撲の横綱において、品行方正と強さが求められるのは、おおむね分かる。
ただ、なんとういうか、結局のところは、横綱という昭和の幻想に、下手をすれば江戸どころか、神話という幻想迄にも、時代を飛ばさねばならぬほどの何一つ変わらないものなのだ。
強いやつは小細工等しない。
技術は弱いやつのもの。
強者が弱者の真似をしてはならない。
横綱は強いゆえに、弱者の振る舞いをしてはならない。
猫だましなどの小手先の技術を使ってはならない。
奇襲が認められるのは、弱者まで。
格上が使って勝った所でなんの価値があろうか。
例え才能だけで勝てようとも、凡人のように、弱者のように、驕り、怠け、才能に溺れる事などあってはならない、そんな横綱に価値などない。
自分に厳しくあれ。
研鑽を怠らず、緩まず、酒、金、女、博打、世にある娯楽全てを捨て、練習し他人を敬愛してそして、勝ち続けることだけが求められる。
勝ち続け、品行方正であることが求め続けられる横綱
そんな横綱がいない昨今、相撲に未来はない。
理想が高すぎて、高尚すぎて、緩むことも出来ない。
神様しかできないような素晴らしき横綱。
神様がいなくなれば、散会するお祭りのような世界。
格下が勝てば座布団舞うような世界
横綱が負ければため息が出る世界
登り上がった世界で待つのは苦難の日々
神様でいることに耐えられないだろう。
「横綱の品格 問われる資質」
そんなこと言っている余裕はないはずなのに、相撲の素晴らしさ高潔さなんて語っている場合ではないはずなのに。
今にもまた神様が消えそうな、座布団の雨が降りそうな世界。
日本人が愛した横綱 神様を
世間様はきっと殺そうとする。
つまらないと見捨て。
品格がないと見据て。
勝てないと見捨て。
横綱達をよって集って理想を押し付けきっともっと殺そうとする