黒よりいでし藍 四
広間に戻った白藍は、そこで古い知り合いにつかまった。
白藍よりも十は年嵩の男だが、何となく昔から親しくしている。
「今年はついに落第か?」
からかう男に白藍は腕を組んで言い返す。
「俺の落第よりあんたの引退の方が先だと思うがな」
男は声を上げて笑った。
「言ったな。覚えておけよ。俺の引退より先にお前が落第したら、お前は俺の小間使いにしてやる」
ついさっき聞いたような台詞だ。
白藍はつい舌打ちする。
「ばばあにも似たような事を言われてきたばかりだ」
「禅師か。後見所にはなくてはならないお方だな」
それは確かだろう。
白藍は声を小さくした。
「邦、薬屋について何か思い当たらないか?」
白邦は首を傾げた。
「薬屋?いや、俺は特に何も知らない。何だ藍、また面倒事に首突っ込んでるのか」
「どうも性分でな。邦、悪いが知り合いにもそれとなく聞いといてくれないか。どんな情報でもいい」
「構わんが。・・・藍、あまり目立つなよ。後見所に逆らっては彼我師は生きていけない。それはよく覚えておけ」
分かった分かった―――と適当に流し、白邦と別れる。
後見所あっての彼我師。
それは白藍でもよく分かっている。
だが、曲げられない事というのはあるものだ。
ふと顔を上げると、見知った顔が離れたところを歩いているのが見えた。
「白雅!」
名を呼ばれた女は、白藍の姿を認めると一瞬眉間にしわを寄せたが、一応足は止めてくれた。
白藍と同期の彼我師だ。
流れるような長い黒髪を束ねる事なく背中に下ろしている。
「生きてたの?」
近寄った瞬間、開口一番そう言った。
初対面の人間は大抵これでこの女から距離を置く。
「相変わらずきついな、影鬼の白雅」
不本意な通り名で呼ばれ、白雅は何も言わずに凍りつくような冷たい視線を浴びせてくる。
この一睨みに勝てる人間はそうはいない。
鬼と言われる所以だ。
固まった白藍の様子に、仕方ないとばかりに一度すっと視線を横に流した白雅は、ひたっと白藍を見据える。
「玄の人に会ったそうね」
途端に白藍は天を仰いだ。
もう広がっているのか。
「誰に聞いたんだ」
「噂よ。みんな知ってるわ」
顔を伏せて髪をかきまわす。
早いところ、この場を去った方が得策のようだ。
他の彼我師たちからも質問攻めにされるのが目に見えている。
「雅、薬屋について何か知らないか?」
髪をまとめる仕草をしていた白雅は、動きを止めて手で髪を束ねたまた白藍を見遣った。
「毒蜘蛛のこと?」
白藍は目を瞬かせた。
「毒蜘蛛?」
「通り名よ。今監察方が探索してる薬屋の」
何事もないかのように応える白雅の横顔を、白藍はただ見つめる。
幕僚しか知り得ない情報を、何故白雅が知っているのだ。
視線の意味に気付いたのか、白雅は髪を下ろして答えた。
「私、今監察方所属なのよ」
「―――本当か」
耳を疑った。
監察方は、裏の裏に存在する機関である。
選ばれる人間は非常に少なく、また当人がそれを口外することはない。
「お前、それ言っていいのか?」
思わず聞くと、当の本人はあっけらかんと頷く。
「禅師のお達しよ。あんたはどうせ無意味に責任を感じて首を挟んでくるだろうから、私が監視役としてあんたと常に繋ぎをとるように、と」
さすが白禅だ。
先見の明である。
白藍の行動をお見通しという訳だ。
でもね―――、と白雅は続ける。
「監視っていうのは建前上よ。つまり、禅師はあんたに情報を流してやれって仰ったの」
白藍は目を丸くして白雅を見た。
「俺に情報を?」
さっきはあれ程介入するなと釘を刺された筈だ。
白雅は気だるげに答えた。
「禅師はね、あんたの能力を買ってるのよ。でもあんたは幕僚たちから評判が甚だ悪い。水の間では手を引くよう言うしかなかったの」
「・・・へえ」
何と言えばよいのか分からず、ついそんな言葉しか口を出なかった。
すると腕を組んだ白雅が冷ややかに目を細める。
「へえ、じゃないわよ。分かってる?あんたごときのために禅師は幕僚を騙してるのよ。たかだか下っ端彼我師で、大して役にも立たないあんたのために」
「―――それ、言い過ぎじゃないか?」
あまりの罵倒に小さく言い返すと、白雅は片方の口角を上げて鼻で笑った。
「私は本音以外は言わないわ」
相変わらず手加減のない女だ。
面倒になって何も言い返さない白藍を、白雅は真剣な顔で見据えた。
「いい藍?慎重に行動しなさいよ。あんたの不始末がひいては禅師が背負うことになるの。今、上は色々面倒な事態にあるわ。ただでさえ多忙な禅師をこれ以上煩わせないで」
何か、後見所の見えない部分を覗いた気がした。
関わるべきではない世界なのかもしれない。
しかし、何かにつけ自分の肩を持ってくれる白禅が、白雅を通して手を貸してくれようとしている。
受けた恩は、返すのが人情だ。
「雅。俺に何か出来る事があれば、とばばあに伝えてくれ」
冷徹な表情を見せる事が多い白雅が、ふと小さく笑んだ。
「そっくりそのまま伝えてあげるわ。でも、あんたには似合わない世界よ。あんたは今まで通り、瓢々と彼我師として村々を回ってればいい。それが禅師には救いになる」
「俺は非力か?」
「汚れ仕事は私たちに任せておきなさい、ってことよ。こういうのは生まれ持った性格だから、頑張ればどうにかなるって話じゃないの」
白雅の瞳は、どこまでも深く、底の見えない湖のような色をしていた。
同期だった人間が、いつの間にか自分の知らない世界を見ている。
いつまでも変化がないのは、自分ばかりなのかもしれない。
「藍ちゃん、何てこと言ってくれたんだっ!」
突如として背後から突撃され、白藍は前のめりになる。
危機を感じた白雅は無情にもすっと脇に退き、白藍はそのまま前方へと倒れこんだ。顔面を思いっきり床にぶつける。
倒れた白藍の背中に涙で濡れた顔を押し付けているのは、白菊であった。
資格更新を終え、水の間から帰ってきたばかりのようである。
「菊!てめえ!」
「藍ちゃん、俺を幕僚に推したって本当か!?藍ちゃんの馬鹿ぁ!」
「あ?」
何とか白菊を離して仰向けになると、今度は胸にすがりついてくる。
藍の狩衣がびしょぬれだ。
上半身を起こす。
「菊、あのなあ」
白藍が呆れかえると、白菊は涙まみれの顔を上げた。
「俺は幕僚になんかなりたくないっ!藍ちゃん、余計なこと言いやがって。俺に恨みでもあるのかよ!」
「何だ、お前出世したくないのか」
驚く白藍を白菊は睨む。
その手は白藍の藍の狩衣をぎゅっと握り締めていた。
「藍ちゃんだってそうだろ。才能あるくせにわざと手抜いて仕事してさ。俺だって出世なんかしたくない!」
話がよく見えなかった。
混乱する白藍に代わり、白雅が膝をついて白菊に視線を合わせた。
「菊、幕僚になるのが嫌だったら断ればいいでしょう?」
すると白菊は泣くように叫んだ。
「禅ばあが脅すんだあっ!断ったら禅ばあの世話係だ、って!」
どうやら、脅し文句となっているようである。
白禅の冷えつく冷笑が、容易に想像できた。
傍らでは白雅が呆れたように空を仰いでいた。
「これも藍ちゃんが無責任なこと言うからだ!俺は嫌だあ」
いつまでも泣き続ける白菊を横目に、白雅は背を向けてその場を去ろうとする。
「雅、どこ行く」
白藍が声をかけると、白雅は肩越しに顔だけを白藍に向けた。
「禅師にとりなしてくるわ。これだけ泣いてちゃ、無理やり幕僚にしても役に立たないわよ」
そう告げると、白雅はあっさりと去っていった。
冷淡だが、その実、優しい。
白雅らしい態度であった。
胸元を見下ろし、まだ泣き続ける白菊をうんざりと見る。
「おい菊、いい加減泣き止め。雅が禅師に取り合ってくれるそうだ。だから幕僚入りの話は、なしになるさ」
鼻をすすりつつ白菊は顔を上げる。
目が完全に赤い。
「藍ちゃんは甘いよ。あの禅師がやすやすと意見変える訳ないだろ。今年はよくっても、来年にはまた同じ話が出てくる。そしたら・・・。嫌だあっ!」
白菊は再び泣き叫びだした。
周囲にいる他の彼我師らが、何事かと集まり始めた。
「あー、もー」
宥めるのを諦め、白藍はかろうじて起こしていた上半身も床に横たえた。
何だか、ひどく疲れた一日だった。