黒よりいでし藍 三
「来たか、問題児が」
渡り廊下を過ぎ見慣れた一間に入った途端、厭味のこもった言葉をぶつけられた。
上座に十数人の人間がずらりと横並んでいる。
厭味を言ったのは、そのうち中央に座る老婆であった。体中の水分が枯れたように小さいが、その瞳からは炯々とした強い光が放たれてる。
後見所元帥、白禅だ。
気付かれないよう舌打ちした白藍は、入り口ぎりぎりの場所に腰を下ろした。
すると再び老婆が皮肉を口にする。
「何を離れておる。後ろめたさがあるからか?それは多少、やましさは感じるであろうよ。毎年毎年、危うい所で資格を更新するのはそなた位だからな」
「うるせえな。全員にそうやって厭味言ってんのかよ」
つい反撃すると、あっさりと返り討ちされた。
「優秀な人間に厭味を言う程私は暇ではない。本当のことを言われて耳が痛いのならば、少しは彼我師として真面目に務めよ」
白藍は片頬を引きつらせ、横を向いた。
耳が痛いのは事実だったからである。
それを見て、白禅は目を細めた。
「ほお、今年も懲りずに芳しくない結果を持って来たようだな。余程彼我師としての誇りがないと見える。―――報告書を出せ」
本題だ。
僅かに天を仰いだ白藍だが、仕方なく手にした巻物を近寄ってきた男に手渡す。
彼我師としてこの一年にこなした祭事の記録だ。
この記録を基に、彼我師としての資格の進退が決まる。
男はそれを持って幹部らの前に膝をつくと、恭しく白禅へと献じた。
素っ気無く受け取った白禅は、一度白藍の方を一瞥して、すぐに目を落とし読み始めた。
表情は全く変化しない。
それが逆に不気味であった。
最後まで目を通し、白禅は無言で巻き物を隣の幕僚に寄こした。
幕僚の全員が読み終えるまで、白禅は腕を組み目を閉じていた。
まるで生殺しだ。
白藍にとっては、一年の中で一番嫌な時間かもしれない。
巻き物が白禅の手に戻る。
静かに目を開けた白禅が、実に冷静な声で問うた。
「どうだ。何か弁解してみるか、藍よ」
返事をせず、聞こえないかのように横を向いたままの態度をとった。
嫌味を言われる内容なのは、報告した白藍自身がよく分かっている。
「藍、今回は少し酷いな」
別の幕僚が呟く。
「祭事の数は殆ど増えておらぬではないか。彼我師が不足しているのはお前も存じておるであろう」
彼我師不足は深刻だ。ここ数年、古参の彼我師が引退していく数と、新参の彼我師の数とが釣りあっていないのだ。新しい彼我師の教育は急務である。
そこで、現在は現役の彼我師が穴を埋めるという形をとっている。毎年、一人あたり十の祭事を増やせ、というのだ。
白藍も努めてはいる。
しかし、何故か厄介事に巻き込まれるのが常なのだ。
他の彼我師と話をしても、どうも白藍は面倒な祭事ばかりを担当しているようだ。
増えるのは祭事でなく、面倒事ばかりである。
一番端の比較的まだ若い幕僚が、巻物のある点を指差して聞いた。
「これは何だ?彼我師不在の村で祭事を執り行ったのであろう。他の彼我師へ移譲予定、とあるが。何ゆえ自分が担当者とならぬ?」
翔嶺と耶介の村だ。
ああ―――、と白藍は呆気なく答える。
「彼人に嫌われたもんで―――。次も俺が行ったら、確実に殺されます」
あちこちから溜息がもれた。
「彼人と悶着を起こすな、とあれほど口を酸っぱくして申しておるのに」
「殺されても文句は言えんぞ」
「まさか鏡の間で煙管を使用している、という事はあるまいな」
「それ以前に祭事はきちんと行っておるのか?」
多くの幕僚が苦言を呈す。
いちいち返答するのも煩わしく、白藍は自分のことにも関わらずに静観を決め込んだ。資格が抹消されれば、別の生き方をするまでである。
すると、黙っていた白禅が口を開いた。
「その村に関しては、藍に責められるべき点はなかろうよ。藍が介入した時点で、祭事が数年滞っておる。偽者がおったようだがな。むしろそれを把握しておらなんだ我らに問題があろう」
珍しく肩を持つ白禅に、白藍は思わず目をしばたかせた。
この老婆からあまり優しくされた憶えがないからだ。
しかし、矢張り一言付け加えられた。
「だが、山賊どもから襲われたのはそなたの不注意。そして祭事の数が全くと言って良い程増えておらぬのも事実だ。―――藍、今年は本当に危ういぞ」
「分かってる。さっさと決めてくれ」
白藍を前に、幕僚が小声で合議を始めた。
端々に聞こえてくる単語は、あまり芳しくないものばかりである。
真実、難しいかもしれない。
―――商人って、どこで品物仕入れてるんだ?
頭の中は、次の生業のことで一杯である。
「このたわけ。自分の話をされておるのに、呆けておる間抜けがどこにおる」
苦々しい白禅の言葉で、白藍は正気に戻った。
合議が終わったようである。
幕僚の誰もが難しい顔をしていた。
どちらに決まったにしろ、全会一致という訳ではないようである。
白禅がしわがれた声で、重々しく告げる。
「彼我師白藍、今回は及第とする。だが、よいか。次はないぞ。来年も似たような報告をしてみよ。即刻資格は剥奪、私の世話係にしてやるからな」
「何だそれ。資格はともかく、ばばあの世話だと?彼我師じゃなくなった人間に対してまであんたらは拘束力ないだろ」
驚きのあまり、つい口が滑った。
白禅は冷ややかな視線を下座の白藍に向ける。
「首を繋いでやった恩人にばばあだと?よいか藍、幕僚の約半数はこの決定に反対しておる。半数だ。現時点では、一番の最低点であろうな」
言われずとも、幕僚らの態度を見れば分かる。
しかしわざわざ本人を前に言わずともよかろう。
「だが、そなたは無能ではない。むしろ祭事の際の腕は突出しておると言っても過言ではないのだ。玄から直接教えを受けただけはある。我らが不満なのは、そなたの職分を超えた行動だ。何故祭事以外に関わろうとする?面倒事に巻き込まれるのは経験上よく分かっておろうが」
その白玄から言わせれば、白藍の甘さが原因だそうだ。
だがそう話すと、白玄と会ったのかなどと問われ面倒な事になりそうなので、白藍は返事をしなかった。
白禅は目を細める。
「彼我師は人と神とを舫う存在。それ以上でも以下でもない。ましてや村の相談役ではないのだ。そこをしっかり肝に命じよ。良いか、あの白玄の弟子であることを忘れるでない。そなたは期待を背負っておるのだ」
「・・・」
「返事が聞こえぬ」
「・・・分かったって」
渋々頷いてみせると、ようやく場の緊張が僅かに和らいだ気がした。
自分は余程、幕僚たちに手を焼かせているようである。
しかし、師匠がいかに名のある彼我師だったとしても、それは自分には無関係だ。
早いうちにそれを幕僚らに認識させておかないと、白藍はいつまでも彼らを失望させるだけであろう。
トンビが鷹を産む事もあれば、その逆も当然あり得る事なのである。
白禅が柄にもなく味方し誉めてくれたが、自分が不肖なのは十分自覚していた。
そういや―――、と白藍は思い出したように口を開いた。
「数ヶ月前に文を送っただろ?薬売りの件だ」
捨て置け。
それだけ書かれた返事が白藍に戻ってきた。
普段なら慎重過ぎる程に調査を重ねる後見所らしからぬ答えだった。
「俺の書き方が悪かったのかもしれないからあんたらに直接言う。その男、かなり危険だ。及第ぎりぎりの俺が何を言っても説得力がないだろうが、彼我師に対して何か憎悪のような感情を持っているように感じる。早めに手を打った方がいい」
勘だ。
特に証拠や証言がある訳でもない。
だが、あの村で男の話を耳にした時、白藍は何か得体の知れない感情が背中を走ったのを感じたのだ。
畏怖
嫌悪
何とも言えぬ、奇妙な感情だ。
どちらにしろ、彼我師にとって良い存在とは程遠い。
彼我師としての実力はともかく、白藍は己の勘だけは信じていた。
昔からなぜか当たる。
「監察の人間にでも調べさせろ。絶対何か出てくる」
そう言った後、白藍は場の雰囲気が再び緊張を帯びたのを感じた。
―――奇妙だ。
幕僚らの反応がどこかおかしい。
眉をひそめると、白禅の静けさ漂う声が響いた。
「藍、今言ったことを聞いておったのか?祭事以外に心を割くな」
思いがけない返答に、白藍は思わずまじまじと白禅の顔を見返す。
「俺は確かに不真面目だが、勘だけは他人より優れてる。あの男は放っておくべきじゃない」
「勘だけの男が偉そうに言うでない。―――良いか藍、手紙でも申した通りだ。その薬売りは捨て置け。そなたが関わるべき相手ではない」
手紙は、白藍の意図を十分に汲んだ上での内容だったというのか。
信じられなかった。
何より彼我師や己の組織を守ることに躍起となるのが、後見所である。
そのためならば多少の身内の犠牲も厭わない程だ。
その代表である幕僚らが、脅威の芽となりかねない男の存在を無視しようとしている。
「・・・正気か?禅師」
白禅は鋭い眼光を白藍に向けた。
しわだらけで小さい体だが、威圧感は他の幕僚にさえ劣らない。
元帥の肩書きは伊達ではないのだ。
「一度しか言わぬぞ、藍」
そして白禅は低い声で告げた。
「手をひけ。その話は忘れよ。命令だ」
返答に詰まった白藍は、口をつぐんで白禅を見返す。
そして、白禅の表情にほんの僅かだが、苦いものが含まれているのを白藍は見て取った。
―――何かあったな。
白藍ごとき下っ端には知らせられない、何か大事が起こったということか。
白禅は妥協を許さぬ厳しい幕僚で知られるが、それは後見所、ひいては彼我師たちを守るためである。決して私欲のために動くことはない。
白禅は、後見所のために、白藍を薬売りの男から遠ざけようとしている。
「―――監察方は、最近忙しいのか?」
「藍!禅師のお言葉を察しておらぬのか!」
白藍の確かめるような言葉に、一人の中年の幕僚が叱りつけた。
すると白禅が小さく息を吐き出し、その幕僚を宥める。
「よい、角」
「しかし禅師」
白角と呼ばれた幕僚が不満げにすると、白禅は片手をあげてそれを制した。
「こやつも、このまま煙に巻かれて大人しく引き下がる男ではなかろうて。後々勝手に動かれるよりも、初めから納得させた方が手間がかからぬ。・・・そうだ、藍。監察には休みを返上させて動かしておる」
薬売りは、後見所が総力をあげてその動向を探っているということだ。
更に何か問おうとする白藍を抑え、白禅は鋭い眼光を白藍へと投げつけた。
「分かったな、藍。何か勝手な真似をしてみよ。すぐさまその首を胴から切り離してやるからそのつもりでおれ」
「―――分かった。とりあえず俺は手を引こう」
一応頷いてみせると、幕僚らの安堵する空気が感じられた。
だが白禅だけは疑わしげにこちらを睨んでいる。
余程、日頃の行いが信用されていないようだ。
そして白藍自身、このままで終わらせる気はなかった。
情報を持ってくると、老人や玉廉と約束した。
関わったのは白藍である。無責任に放棄は出来ない。
これ以上何を言っても無駄だと思ったのか、白禅は話を変えた。
「藍、菊には会ったか?」
「ああ。化け狐だろ?相変わらずガキみたいな野郎だ」
「その狐だ。そろそろ幕僚に引き上げようと思っておる」
白藍は驚いた。
「菊をか?若過ぎるんじゃないのか?」
「数ヶ月前に一人、体調を崩してな。欠員が出ておるのだ」
そう言えば一人足りない。
幕僚は元帥以外に十四人と決められている。
つまり白禅の左右にはそれぞれ七人ずつが並ぶ筈なのだが、右側には六人しかいない。
「確かに若いが、実力は他を抜きん出ておる。そなたはどう思う?」
白藍は少し考え頭をかいた。
「いいんじゃないのか。彼我師としての素質も性質も十分だ。間違ったことはしないだろう」
嬉しい話だ。
親しい人間の出世である。
だが―――。
「何で俺なんかに聞く。もしかして全員に聞いてるのか?」
白禅は鼻をならした。
「幕僚を選出するのにわざわざ全員に意見を問う訳あるまい。意見を聞いたのは、そなたは確かに間抜けだが、信用出来るからだ」
「何だよそれ」
褒められているのか貶されているのか分からない。
「期待しておる、ということだ。少しは周囲から嘱望を受けておることを察しろ」
もうこれ以上勘違いさせておく気はなかった。
白藍は面倒げに反論する。
「言っとくがな、俺は師匠みたいにはなれないぞ。鷹がトンビを育てたんだ。俺は白玄の優秀さは全く受け継いでない。無意味な期待はやめてくれ」
師の名前が重かった。
彼我師として独立後、一度も帰らなかった理由の一つがそれである。
たまたま師として白玄がついただけであり、白藍にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。
実力以上の望みを持たれても、白藍はそれに応える力を持っていないのだ。
すると急に、白禅が馬鹿にしたような顔をしてみせた。
「そなた、間抜けな上に阿呆のようだの。勘違いも甚だしいわ」
予想だにしなかった罵声に、白藍は呆気にとられる。
「・・・は?」
まじまじと見返す白藍に、白禅は呆れたように手を横に振った。
「この不肖者が。説明してやる気も失せた。さっさとその間抜け面と共に退出しろ」
自分から謎掛けをしておいて説明もせずに追い出すとは、あまりの仕打ちである。
何か言い返そうとした白藍に、別の幕僚が口を開いた。
白禅の次に古参の彼我師である。
「藍。玄の人の名に捉われているのは、お前の方ではないか?」
どういう意味だ―――、と問う前に、白禅がその幕僚を留めた。
「もうよい千。この馬鹿には自分で考えさせろ。幕僚が子守までする必要はない」
ついには赤ん坊扱いだ。
口と性格の悪い年寄りである。
だからこそ、白玄とも渡り合えるのだろうが。
そして意味深長な言葉の理由をはっきりと知らせられぬまま、白藍は黄舫堂、水の間から締め出された。
「次は一番優秀な報告書を出してやるよ。あんたが来年の査定まで生きてたら、な」
去り際、悔し紛れに捨て台詞を吐くと、白禅がにやりと笑った。
「その言葉、ゆめ忘れるなよ藍。駄目だった時は本当に私の世話係だ」
結局、最後まで勝てなかった。