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彼我師 ~藍編~  作者: 貴浪
黒よりいでし藍
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水面の戯れ

 困る、という漢字は面白い。

 一時期、白藍(はくらん)はこの漢字について真面目に考えたことがあった。

 木が囲まれて「困る」だ。

 何に囲まれるのか。ああ人間か。伐採して利用する事しか考えない人間に取り囲まれた木々が困っている図を漢字にしたのか。

 そんなつまらない想像をしていると、その時共に旅をしていた知り合いの彼我師(ひがし)が本来の意味を教えてくれた。

 木に囲い、つまり身動きの取れない様子を表しているのだそうだ。自由に体が動かせない状況は困る、という事だ。

 それはそうだろう。自分の意思があるのに、その意思の通りに体が動かないのでは不自由なのは当然である。

 そして白藍は、今まさにその環境にいた。

「…なあ、考えなおしてくれるとありがたいんだが」

 左右から羽概絞めにされた態勢で、白藍はそう言ってみる。

 川べりである。

 水を飲もうと屈み込んでいた隙をつかれた。背中に刃物を突きつけられれば、溜息と共に大人しく両手を上げるしかないであろう。

 白藍の言葉に、誰一人反応しない。

 余計な事は話さない。この落ち着き払った態度といい、盗みの玄人のようである。

 目の前の男は、白藍の荷をあさっていた。

 白藍を抑え込んでいる二人に、荷をさぐる男、そしてその脇に控える四人。計七人だ。幾ら武術の心得があると言っても、これだけの人数相手であれば余計な抵抗はしないに限る。

 玄人であれば、殺人などという危険度の高い行為は避ける筈である。ならば、ここは静かに嵐が過ぎるのを待つだけだ。

 その時、風呂敷を広げていた男の表情がかすかに動いた。

 手には祭事に纏う白の浄衣が握られている。

「まさかお前―――、彼我師(ひがし)か」

 その言葉を機に、左右の男たちの手に力が入った。

 白藍は小さく息をついた。

 彼我師だとばれるほど、面倒な事はない。

「お前ら、冷静になれ。俺は山向こうの村へ行く約束があるんだよ。頼むから面倒な真似は―――おいっ」

 白藍の願いも空しく、一様に青ざめた彼らは白藍を川の方へと引き摺り始めた。手足をばたつかせるも、必死の抵抗は全く意味をなさない。

 白藍は怖々と川を見下ろした。

 昨夜の大雨で、川は水量と速度を増している。

 盗人に負けず顔色を青ざめさせた白藍は、最後の説得を試みた。

「おい、話を聞け。彼我師は神じゃなく人間だ。俺たちに何かしたからって罰なんかあたるわけ―――」

 浄衣をねじ込まれた荷を括り付けられると、

 とん。

 情け容赦なく、川へと突き落とされた。

 ―――くそったれ。

 ありきたりな悲鳴に近い罵声が頭に浮かんだ直後、白藍は派手な飛沫と共に川の中へ姿を消した。



 厭な夢を見た。

 遠い昔の、忘れたとさえ思っていた記憶である。

 いや、忘れたと勝手に思い込んでいた過去。

 彼我師になる前の、遥か遠い昔だ。

 焼けるように体が熱い。

 ゆっくりと眼を開ける。

 視界がきちんと一点に定まらない。

 ふと顔だけを横に向けると。

「…あ?」

 すぐ目の前には炎があった。

 前髪が僅かに焦げている。

 息のとまった白藍は急いで体を動かそうとするが、何故か上手くいかない。体が自分のものではないようだ。

 立ち上がったのもつかの間、頭がぼうっとしてよろめく。

 崩れ落ちた瞬間、誰かの力強い腕が白藍の体を支えた。

 のろのろと顔を上げる。

「よお。眼ぇ醒めたか」

 短く髪を刈り込んだ、精悍な男であった。

 白藍を支えたまま、がっしりとした体格とは対照的な人懐っこい笑みをその顔に浮かべている。

「…ここは?」

 喋ってみて、口さえも上手く動かない事に驚く。

 男は白藍を元の場所へ寝かせながら答えた。

「俺のねぐらだ。川の上流から気絶した人間が流れてきた時は驚いたぜ」

 このくそ寒い冬空に水浴びか?―――とからかい、男は白藍に厚い毛布を被せた。

 藍色の水干ではなく、こざっぱりとした単衣を着せられているのに気付く。

 首が回らず、何とか目だけを動かし周囲を窺う。

 明度は低く、何となく湿っぽい。

 洞窟のようであった。

 焚き火が、何とか白藍に視界を与えている状態だ。

 男はその大きい体に浅縹色の水干を纏っている。

翔嶺(しょうれい)!起きたの?」

 男の背後から、小さな人影が覗いた。

 翔嶺と呼ばれた男は、にこやかに笑ってその影を膝の上に抱きかかえる。

「ああ、もう大丈夫だろう。後は熱が下がればな」

 しかし耶介(やすけ)―――と翔嶺は苦笑を湛えた。

「焚き火を近付け過ぎるなよ。兄ちゃんが焦げるだろうが」

 子どもは不思議そうに翔嶺を見上げる。

「だって、川を泳いでたから寒いんでしょ?」

「物事には距離ってもんが大切なんだ。遠過ぎても近過ぎても、互いに悪影響を与える。分かるか?」

 うん―――と子どもはにっこり頷くと、そのまま洞窟の外へと走り去ってしまった。

「悪いな。前髪、焦げただろ」

 翔嶺は頬を掻く。

「道理で、いやに火が近いと思った」

 力が入らず、ぼそりと呟く白藍に、翔嶺は苦笑を返した。

「悪気はないんだ。いかんせん、まだ餓鬼でな」

「あんたの子どもか?」

 熱の残る頭で何気なく問うと、翔嶺は僅かな沈黙の後、短く答えた。

「妹の子だ。妹夫婦が死んだんで、俺が引き取ったんだ。それより―――」

 翔嶺はあぐらをかいて頬杖をつくと、好奇心に満ちた瞳を白藍に向ける。

「何で川を流れてたんだ。荷は持ってたから、物捕りに合ったって訳でもなさそうだしな」

 言いつつ、翔嶺は上を指さす。そこには藍の水干と共に、濡れた白藍の荷がぶら下がっていた。乾かしてくれているらしい。

 途端に白藍は先ほどの悪夢を思い出す。眉間に皺を寄せ、嫌々ながら事情を語る。

「その物捕りだ。川で水飲んでる隙に囲まれてな」

「ん?じゃあ何で荷物が無事なんだ」

 白藍はため息をつく。

「俺は白藍という」

「白?じゃあお前・・・。なるほど。彼我師か」

 名に白がつく者は、すべからく彼我師である。

 名乗ると正体がばれるのは、彼我師の厄介な所だ。

「荷の中に白の浄衣を見つけた途端、奴ら、青くなって俺を川にどぼん、だ」

 彼我師は神と人を舫う。つまりは橋のような役目を負うのだが、人によっては彼我師自体もあちらの住人のように思っている者も多い。

 そういう人間は、彼我師を恐れ、忌避しようとする。

 先ほどの盗人らは、荷を奪われた白藍が後に何か見えざる力をもって仕返しをする事を恐れたのだ。故にいっそのこと殺してしまおう、という訳である。死ねば復讐も出来まい、と。

 無力な白藍からしてみれば、いい迷惑だ。

「そりゃあ、災難だったな。化け物扱いされて川に突き落とされ、熱を出し、餓鬼には前髪焦がされ」

 翔嶺はおかしそうに笑って労わる。

 からかわれているような気もするが、熱のせいで言い返す気力もない。

「化け物扱いは日常茶飯事だよ」

 白藍は気だるく右腕を両目の上に乗せる。

 何となく、熱が上がってきたような気がする。

 翔嶺は目を丸くして白藍を上から覗き込んだ。

「あーあ、さっきより悪化してるな。ちょっと寝てろ。どうせ今日は―――」

 翔嶺の言葉が遠のいていくのを感じ、そのまま白藍は再び夢の中へと落ちていった。



 川べりは、寒い風が舞っていた。

 思いっきり振り下ろした斧は斜めに木へ突き刺さると、そのまま引いても押しても動かなくなってしまった。

 試行錯誤している白藍に、後ろから子どもの無邪気な声が響いた。

「おっちゃん、下手だねえ」

 耶介の言葉に、白藍は苦笑して振り返る。

「俺は一応、翔嶺(しょうれい )よりも年下だぞ」

 聞いているのかいないのか、耶介はにこにこしながら白藍の周りを走り回る。

 それにしても。

 薪がうまく割れない。

 白藍は片膝を立てて座り込む。

 そして懐に手を入れ、目当てのものがないことを思い出し思わず舌打ちをした。

「何だ白藍。昼前からやり始めて割ったのはたった三本か」

 大量の藁を肩に担いだ翔嶺が現れた。

 その飄々とした態度に、白藍は文句を言う。

「煙管、返してくれ」

「お前馬鹿か。病人が寝ぼけたことぬかしてんじゃねえよ。そんなに煙吸いてえんなら、まず咳を止めるこったな」

 言われた途端、こんこんと咳が出てきた。

 止めようとしても勝手に喉から出てくる。

 な―――とにやり笑われ、白藍は咳で返事も出来ずに半眼でじとっとした視線を送った。

 しかし翔嶺はそんな白藍の態度も笑い飛ばす。

「しばらくは俺の言うことを大人しく聞いてろ。どうせ四日は村を出られん」

「は?」

 思わず裏返った声が出る。側に立つ翔嶺を見上げた。

「どういうことだ」

「今夜、うちの村で祭事がある。祭事から四日は村の出入りが禁じられてんだ。あきらめな」

「四日?―――嘘だろ」

 三日後に、ある村で祭事を行う予定がある。

 中々気難しい彼人で、去年辺りからやっと白藍の言葉に耳を傾けてくれるようになったばかりだ。四日もここに滞在しては、祭事には間に合わない。

 確実に、彼人の信用を失くす。彼我師としては最悪の行為だ。

 急に立ち上がる白藍の腕を、さっと翔嶺が掴む。

「待てよ。どこ行く気だ」

「すぐにここを出る。四日も足止めくらうなんざ、ご免だ」

 普段からあまり上から評判の良くない白藍だ。

 今度こそ後見所(こうけんどころ )から睨まれるのも、時間の問題である。

 だが翔嶺は掴んだ手を放そうとしなかった。偉丈夫な翔嶺の力は、手を振り払うことを許さなかった。

「四日以内に出られる、っつったらどうする?」

「・・・あ?」

 思わぬ言葉に、白藍は翔嶺を見上げた。

 翔嶺は真剣な瞳で続ける。

「お前の力量次第ってことさ。お前、彼我師だろ?―――ちょっと手ぇ、貸せや」



 陽が山の端にかかっている。

 空全体が朱色に染まる。

 耶介を洞窟内に留め、翔嶺は白藍を村まで連れ出しそうとしていた。

 翔嶺と耶介が暮らしている洞窟は、村から山沿いに少し川を上った所にある。つまり、二人は村の人間とは離れて生きているということだ。

 通る道は山の獣道。

 足場は悪い上に、翔嶺の歩幅は大きい。

 山に慣れている白藍でさえも、たまに遅れをとった。

 豪快に歩くため、翔嶺の浅縹色の水干には足を進める度に泥が付着する。しかし本人は全く気にしていないようだ。

 途中、翔嶺はぽつぽつと語った。

「うちじゃ、ある一族が彼我師を代々担ってきた。男も女も関係ない。父親が彼我師の場合もあれば、母親の場合もある。そして夫婦は自分たちの長子を後継者と定め、修行に出す。こうけん、って所で師となる彼我師を見つけるんだそうだ」

 後見所(こうけんどころ)のことであろう。彼我師を纏め上げる機関だ。

 権力者である朝廷に与していない彼我師は、自分たちで身内の把握を行う。それは彼我師という資格であったり、祭事時の振る舞いであったり、様々だ。翔嶺の言う通り、新参者を師匠となり得る彼我師に引き合わせる場合もある。

 つまり、彼我師と名乗るからには、後見所の公認が必要となる訳なのだ。

「だが五年ほど前にこの一族が絶えた」

「絶えた?」

「流行病さ。運悪く、彼我師を担ってきた血統の人間が死に絶えた。凶事であるが、仕方がない。病で死ぬのも運命だ。それで一族が絶えたなら、文句なんか言っても何も変わらん。そうだろう?」

 問題はその後だ―――、と翔嶺はぼそりと呟いた。

「あの時は俺もまだ村に住んでた頃だ。流行病が治まってひと月と経たねえうちに、旅の人間が村に入ってきた」

 二人連れの男であった。

 その内の一人が彼我師と名乗ったそうである。

「村じゃ次の祭事に頭を痛めてたからな。年寄り連中は喜んでその男を迎えたさ」

「それでめでたし・・・って訳には、いかなかったんだな?」

 白藍の言葉に、翔嶺は表情を険しくした。

「初めの祭事が行われた夜、隣村に住む娘夫婦へ会いに行こうとした老人が死んだ。原因ははっきりしてない。医者も首を捻った」

 凶事はそれだけでは終わらなかった。

 祭事の日と前後して、村から死者が多く出るようになったのである。

 そして年を重ねる度、ある法則が浮かび上がってきた。

 商いへ出ようと村を出た夫婦。

 宿を求めて入ってきた旅人。

 遠地での仕事から戻ってきた若者。

「祭事の日から前後四日間、この村へ出入りをする人間のみが死ぬ。例外なく、だ。村の人間かどうかは関係ない」

 流行病、と片付けるにはいくまい。

 毎年、決まって祭事の近日に死者が出るのだ。しかも、村の境界を超える者のみが。

 つまり白藍もその凶事の対象となる訳である。

 ―――俺も出られない、ってことか。

 村人だけの話であれば、無視して脱出も出来た。なにしろ担当の祭事が控えている。安っぽい情に流され、彼人の機嫌を損ねる訳にはいかない。

 しかし。

 はあ、って白藍はため息と共に頭をかいた。

「村を出りゃ死ぬ、って分かってる以上、何とかするしかないな」

 盗賊から川に突き落とされたのが運の尽きだ。

 白藍が協力するつもりになったのを感じ取り、翔嶺はふっと笑った。

「悪いな。だが、流れ着いたのが運よく彼我師だ。利用しない手はない。あんたも用事があるんなら、さっさと片付けようぜ」

「・・・まったく」

 溜息しか出てこない。

 どうやらこうやって人に容赦なく使われるのは、白藍の体質のようなものであるらしい。

「それで、俺は何をすればいいんだ?」

「まずは、今うちの村に入り込んでる彼我師を見定めてくれ。あの男、本物かどうかも怪しい」

 それはまあ、容易なことだ。

 彼我師は、後見所という組織に統括される。年に一度は後見所は彼我師全員に招集をかけ、集会を開く。そこで彼我師らは、互いの情報を交換し、論文を発表しあう。彼我師の資格更新が行われるのも、この時だ。また、後見所の公認なしでは、勝手に彼我師と名乗ることは許されない。

 つまり、相手が正当な彼我師であれば、白藍が顔を知らないなどということはあり得ないのである。

 それで?と白藍は前を行く翔嶺に問う。

「もし、そいつが偽物だと分かったら、それからどうする」

 すっと目を細めた翔嶺は、不穏にも指の骨を鳴らす。

「そいつの答え次第だな。問題は祭事と称して何をやったか、だ。場合によっちゃあ、体に聞く」

 どすの利いた声であった。

 この男の暴走をとめることも、白藍の役目のようである。

 思わず白藍は天を仰いだ。ついでに咳が出る。

 ―――踏んだり蹴ったり、だな。

 藍の水干の袖口で口元を押さえつつ、白藍は熱の残る頭でぼんやりと考えた。

「着いたぞ。ここだ」

 川の流れが細くなった所で、翔嶺は言った。

 そのまま足を止めず、二人は人目につかぬよう村の中へと入り込む。

「あんた、元はここの人間だろ?こそこそする必要があるのか?」

 訝しむ白藍の問いに、翔嶺は素っ気なく答えた。

「俺は村を捨てた人間だ。堂々と歩けるか」

 そんなものか―――、と白藍は一応納得したように見せる。

 しかし内心、疑問がいくつかあった。

 まずは幼い耶介を連れて村を出た理由。

 二つ目に、別の村へ移らずに村近くの洞窟へ住みつく理由。

 三つ目に、村の人間から隠れる理由。

 そして最後。

 今の彼我師を連れて来たという男の存在。

 ある村で、一人の不穏な存在を、白藍は知った。

 その男は、薬屋の格好をし、村々を渡り歩いているようである。そして、行く先々で何かしら秩序を乱す。平穏に暮らす人に揺さ振りをかけ、凶事をもたらそうとする。あげく、彼我師に対して挑発するかのような気配を残していく。神体を模した鏡を、揺さ振りの道具として使う真似をするのだ。

 あの村を出た後、白藍は後見所に連絡をとった。一応、報告だけと思っていたのだが、後見所からの返事は、意外なものであった。


 捨て置け。


 それだけである。

 彼我師は政治勢力である朝廷からの庇護を全く受けていない。加えて、神と関わるという職業柄、貴族からは侮蔑、畏怖され、民からは崇敬される。つまり、味方をつくりにくいのだ。故に後見所は、己の立ち位置を守るためには何でもするという傾向がある。彼我師を守るのは、彼我師だけなのだ。やりすぎだ、と白藍が思う時もあるくらいである。

 こんな後見所からしてみれば、この薬屋の存在は明らかに目障りのはずだ。気にならない訳がないのである。朝廷からの間諜か、と疑うくらいはするであろう、と白藍は思っていたのだ。その後見所が、捨て置け、の一言でこの件を終わらせようとしている。どう考えても、奇妙だ。

 ―――まあいい。

 必要であれば、いずれ明らかになってくるだろう。

 今はまだ、その時ではない。

 近々行われる集会で、他の彼我師たちからそれとなく情報を集めるのが得策である。

 川沿いに山を下った村に入った二人は、祭事の行われる御堂まで行き、周りの草むらへと身を隠した。彼我師として祭事を行うつもりであれば、その男は必ずここに来るからである。

 陽が落ちてきた。

 太陽は西へと消え、昼と夜とが混じる黄昏が、世界を支配する。

「―――来た」

 翔嶺の緊張した声が密やかに響く。

 御堂の前には、男が一人、うろうろとしていた。

 強い北風が吹き、首元で適当に切った白藍の黒髪が暴れる。

 その風に男はいたく驚いた。否、怯えた、と言った方が正確だろう。

 悪人らしからぬ態度である。

 ―――それなりの態度とってくれよ。

 中途半端に良心や人情を持ち合わせた禍因ほど、扱いにくいものはない。非難しにくいという意味ではなく、憐憫の情を抱いてしまうからだ。つまり白藍は、被害者と加害者、双方の肩入れをするはめになるのである。甘い、と仲間から注意される所以である。

 やれやれ、とため息をつき、白藍は無造作に立ちあがって草むらから姿を現した。男がひっと飛び上がって驚くのを無視し、白藍は腕を組んで目の前に立つ。

 いきなり出てきた藍の水干を纏った男にじろじろと見られ、男は腰の引けた様子で一歩後ずさっていた。

 しばらくその顔を見つめ、静かに口を開いた。

「・・・見た事ない顔だな。お前、名は?」

「え?名前?えと・・・、白雅―――」

「嘘つけ。白雅って彼我師は確かにいるが、そいつは女だぞ。それにお前ほどびくついてない。むしろ、鬼の権化のような人間だ」

 白藍は即座に一蹴した。

 嘘ではない。白雅は白藍の同期だ。

 つまり、この男は彼我師ではない。

 嘘がばれた男は頭を抱え込み、白藍から顔を背けるような態度をとった。

 いつの間にか、翔嶺が目を細めて男の背後に立っている。二人で男を挟み込むような形となった。

 あのな―――、と白藍は諭すように言う。

 いい加減、この哀れな男が可哀そうになってきたのだ。

 よく見れば、痩せ細った気の弱そうな男である。瞳には完全に負けの色しかない。子どもであれば、今にも泣き出すであろう。

「祭事で何かしくじったな?あのな、彼人は素人の手に負えるもんじゃないんだ。素直に理由を話して、さっさと楽になれ。後は俺が引き受けてやるから」

 途端、翔嶺が動いた。

 男の腕を掴むと、乱暴に背中で捩りあげたのだ。

 驚いた白藍が声を上げる間もなく、翔嶺は男の背後から耳元で囁く。

「なあ、目的は何だ。こんなまどろっこしいやり方で、お前らは何を企んでたんだ?」

 動揺した男は、何が起こったのかもよく飲み込めずに、目だけを耳元にある翔嶺の方へ動かす。

「っあぁ―――」

 男の喉から悲鳴があがる。

 返答が遅い事に苛立ったのか、翔嶺は腕に込める力を強めたのだ。

 白藍はぞっとした。翔嶺の行動に、一切の迷いがみられない。その顔には、冷酷とも言える無表情がある。

 憎悪に呑まれた人間の顔だ。

「翔嶺っ!てめえ、何やってる!」

 怒鳴る白藍に、翔嶺は冷静なほど醒めた瞳を向けた。

「何って、尋問だ。必要な事を喋ってもらわねえと、話にならないだろ」

「そういう意味じゃねえよ!」

 再び怒鳴りつけ、白藍は無理矢理に翔嶺から男を引き剥がした。

 怯える男の背中をさすってやり、白藍は鋭い視線で翔嶺を見遣る。

「どうしたんだ翔嶺。あんたらしくねえ。・・・この場に耶介がいたとしても、同じ事が出来るのか?」

 耶介の名が出ると、翔嶺は正気に戻ったらしい。

 見慣れた温かみのある瞳を白藍に向け、済まなさそうに眼を閉じる。そして、白藍と男から数歩離れた。頭にのぼっていた血が下がり、白藍に全て任せる気になったようだ。

 息をつき、白藍は男と向き合った。

「俺は白藍という。彼我師だ」

「・・・本物?」

「嘘ついてまで成り澄ましたい身分じゃないさ。俺は事の次第を詳しく知りたいだけだ。ここ数年この村に起こってる異変、知ってるな?その原因を教えてくれ。もしも彼人、―――神が絡んでいるなら、俺が彼我師として収拾をつける責任があるんだ」

 さっさと村を出たいだけ、という本音もあるが、それはおくびにも出さない。

だが実際、白藍は動かねばならない。祭事と前後して人の死んでいる事件が起きている限り、今白藍が手を下さずとも、必ず後見所が動く。情報網は恐ろしいほど緻密な後見所のことだ。白藍が僅かでも関与したことを知るであろう。その結果、ここの処理を担当させられるのは、結局は他ならぬ白藍自身である。

 いずれにしろ、盗人らに川へ突き落された時点で、白藍が介入するのは決まっていたのだ。何の因果だ、と本気で考え込んでしまう。

 何かしら異変の原因を知っているはずの男だが、中々口を開こうとはしない。

 白藍は急かさずに、ただ黙って根気強く男の告白を待つ。

 黄昏が過ぎ、闇夜が迫ってきた頃。

 つと頭を上げた男は、決意を湛えた顔を白藍へ向けた。

 真実が、明かされ始めた。



 一の扉と二の扉との間にある、黄道の間。

 彼人のいる鏡の間と人の世とを繋ぐ空間であり、いわゆる彼と我の境界だ。

 ここで藍の水干から白の浄衣に着替えた白藍は、二の扉を前にし、面倒だと言わんばかりに大きく息をついた。

 翔嶺は御堂の外で待っている。彼我師以外の人間は、御堂の中へ入れないからだ。それならば帰って耶介の傍にいてやれ、と言ったが、翔嶺は頷かなかった。先ほどの異常なまでの怒気と言い、何か白藍にも隠しているようだが、あえて強くは聞かなかった。人は隠したい事の一つや二つ、あるものである。

 村の人間たちは、みな家に閉じこもっていた。普通、祭事は縁起事であり、並行して祭りが行われるものである。だが数年前から死人が出るようになってからは、祭事の前後四日間、つまり計九日間は、必要最低限以外は物忌みの如く家へと引きこもるようになったらしい。

 それでも毎年、死人は出た。

 旅人や商い、病など不可抗力な事態はあるのだから仕方がない。

 だが。

 ―――まるで通夜みたいだな。

 明朗な雰囲気の中で祭事を行うのに慣れている白藍にとって、この空気はいささか尻の据わりが悪い。

 彼我師と名乗っていた男は、白藍の質問が終わった途端、即座にこの村から逃げ出した。翔嶺はそれを捕らえようとしたが、白藍に止められ何とか諦めた。

 朝廷が組織している|検非違使に突き出してどうなるものでもないし、あの男はあの男で反省もしていた。それに先ほどの話を聞く限り、あの男が真の黒幕だとは言いにくい。

 それよりも、この村に大切なのは祭事の正常化だ。

 腹に力を入れ、さっと二の扉を開け放った。

 薄暗いが、目が利く程度の明度はある。

 鏡の間、だ。

 去年の祭事からは誰も出入りがないはずであるのに、ここには全くほこりや塵が見られない。むしろ毎日掃除が行われているかのような清浄さである。

 鏡の間は概してそうだ。こんなところにも、彼人の図り知れぬ強大な力というものを見せつけられる。

 部屋の北側、つまり二の扉から入って真正面には、神体が祀られている。この村も、大多数と同じく、神鏡だ。

 普段ならば鏡の装飾、模様、色などから、民俗学的見地を見出そうとする白藍であるが、今回は流石にそんな余裕はなかった。

 不遜と思われぬよう神体から十分距離をとり、板の間に腰を下ろす。冷気が体のあちこちに纏わりつくのが分かった。

「突然、すまない。俺は彼我師、白藍。前任の代役として来た。だが村人らの承認もまだだから、これから毎年俺が担当するかはまだ決まって―――」

 ふと白藍は言葉を切った。

 人型をとった彼人(かれひと)が、急に白藍の目の前に現れたのだ。腰に手を当て、覗き込むようにして白藍を見下ろしている。

 小さい、男童の姿をしていた。瞳には好奇心が浮かんでいる。彼人に性別や年齢など存在しないが、それでも彼人ごとの個性のようなものが権化する際に生じるものだ。

「彼我師?今度は本物なの?」

 あどけない声で、核心をついた問いを発する。

 無邪気さを装いながらも、どこか怒気のようなものを感じ取るのは白藍の気のせいであろうか。こちらを見下ろす視線が、酷薄でさえある。わざわざ、人型をとった真意も気になった。

 背中では冷汗を流しつつ、平静に見えるよう落ち着いて答えた。

「一応、後見所の承認は受けてる。ここ数年、儀に則った祭事が行えなかったことについては、申し開きの仕様がない。すまなかった」

 ここで頭の一つでも下げるべきなのであろうが、目前が無表情に見下ろしてくる彼人の視線がそれを許さなかった。少しでも目を逸らせば、あっという間に呑み込まれてしまいそうになる。

 間違いない。

 この彼人は―――、怒っていた。

 普通の人間が見れば、ただの幼い子どもが大人に何か問うているようにしか見えまい。一見しればさぞ微笑ましい図であろう。

 しかし他の彼我師がこの場にいれば、躊躇わずこう言う筈だ。

 逃げろ、と。

 それ程、部屋は怒気に包まれていた。それは純粋な怒りであった。妬み、劣等感、憎悪、そのどれも含まれぬ、透明といっていい怒り。彼人はただ、彼人たる自分が謀られようとした、という事実に、真っ直ぐな怒りを持っていた。

 だが他の感情を交えぬが故、それは人間の怒りよりも恐ろしい。

 腰を浮かしたくなる気持ちを必死で抑え、白藍は彼人と見つめあっていた。

「その様子だと、今回の事情はある程度知ってるみたいだね」

 可愛らしい声が静かに響く。

 白藍は頷いた。


 そもそもは、一人の男が企てた事であった。

 

 男は実直な人間だった。商人として真面目に働き、僅かな収入で細々と、しかし餓える事もなく暮らしていた。

 三十を幾つか超えた時、男は村の女と結婚した。この女も男同様にしっかり者であり、二人は周囲でも評判の仲睦まじさだった。

 数年後には子どもにも恵まれ、男はますます仕事に精を出すようになった。男は行商に出て、女は子どもを育てながら畑を耕しその帰りを待つ。

 幸せを絵に描いたような生活だったのだ。

 そんな日々に綻びが生じたのは、ある夏の日の天災である。

 晴れ着である絹の衣を得意先の多い村まで運んでいた男は、山越えの途中でその大雨に遭った。衣を庇おうにも雨が酷くてままならない。どこかへ身を隠そうにも山中では雨宿りできる家もない。

 不可抗力であった。

 結局、絹の衣は全て駄目になった。

 水に晒されると、絹はしわやしみになってしまう。これでは、商売品として扱うのは無理だ。

 大雨の後、男に残ったのは使い物にならない濡れた絹の衣と、それを購入した際の莫大な借金であった。

 無一文になったのであれば、親子三人、一からやり直せばいい。

 だが手元には、親子二代かかっても払いきれないような借金があった。

「男は苦悩した。自分だけならまだしも、妻と、況してや子どもにまで、借金で一生苦しむような辛い人生は送らせられない。―――そして、考えた」

 この村には、ある名物がある。

 村の中に小高い丘があり、そこでしか採れない珍しい花だ。

 薄紫の優雅な花を咲かせるそれは、近隣のみならず、遠方の村からも人気がある。裕福な貴族などは、こぞってこの花を求めた。

 だが、ある一日だけ、この花が流通しない日がある。祭事だ。この日だけは、何百年も前から、花を外部に持ち出すことが固く禁じられていた。

 男はそれに目をつけた。

 値段とは需要と供給の均衡で決まるものである。

 需要ばかりが高まり供給が皆無な日には、その価格は異常な程つり上がる。

 祭事の日にこの花を売ればいいのだ。

「だが人目につく訳にはいかない。祭事に花を持ち出すのは禁忌だからな。だから手頃な男を一人雇い彼我師と名乗らせ、あんたに祭事の数日間、人が出入りしないように頼んだ」

 そこで白藍は咳き込んだ。まだ、風邪が治りきっていない。

 彼人は童の姿のまま、醒め切った瞳を白藍に向けている。

 そして、狙い通り祭事の日に花を持ち出す事に成功した。花は高値で捌かれ、男は今までの数年分の金を数日にして手に入れた。

 だが男の誤算は、死者が出た事だ。

 祭事の周辺日に村の境界を超えようとした者は、原因不明に死ぬ。彼人が手を下していたとすれば、医師に何も掴めないのは当然だ。

 男は焦った。

 危険を冒して祭事に介入した目的は借金を返すためであって、死人を出す事ではないのだ。だがここで計画を止める訳にはいかない。結局、苦肉の策として祭事の前後四日間、村の境界線を踏まないようにという彼人からの託宣があった、と偽彼我師に言わせる事にした。

 だが男の誤算はこれだけではなかったのだ。

「二年目の被害者は、村の若い夫婦だった。―――この男とその妻だ」

 早く金を集めこんな不遜な事をやめよう、と思った男は、二年目には妻にも協力してもらい、倍の金を手に入れようとした。そして二人揃って村を出ようと境界線を踏んだ。

 夫婦は村を出た瞬間、死んだ。

 まさか、この仕組みを造った自分までもが死ぬとは思っていなかったのだろう。

「甘いよね」

 そこで初めて、彼人が表情を変えた。

 笑ったのだ。

「あなたが言ったこと、一つだけ間違ってるよ。あの偽者の彼我師はこうお願いしに来たんだ。祭事の日とその数日、人間が自分たちの家から出ないように、って」

 だから命を取ったんだ―――、と彼人は無邪気に言った。

「人間が家に篭るのは、外に何か害する存在がある時でしょ?それにあのおじさんは花を村の外に運びたがってた。だから、境界付近に近付く人間を殺すっていう手の込んだ事をしてあげたんだよ。まあ、自分は絶対大丈夫、って思い込んでたのが間違いだったんだけどね」

 首を傾げ、彼人は心痛の表情を浮かべる白藍の顔を覗く。

「彼我師が偽者だって分かってたけど、黙ってあげてた。自分勝手なお願いをしてきても言う通りにしてあげた。その挙句、自分の不注意で無様に死んでさ。・・・馬鹿みたいと思わない?」

「っ―――」

 白藍の鼓動が大きく脈打つ。

 彼人が何時の間にか吐息の届くところまで顔を近付けていたのだ。

 そのまま、沈黙の時間が過ぎる。その流れる刻が、一生続くように白藍には思えた。

 童の姿の彼人が、静かに問う。

「祭事って、何のために行われるか知ってる?」

 畏怖で言葉を失う白藍に代わり、彼人は自分で答えた。

「僕たちの考えと、人間の考えをぎりぎりまで、互いに一番の利となるようにすり合わせるため。だよね?」

 その時、白藍の呼吸が止まる。

 何か目に見えぬ力に、首が力一杯絞め上げられていた。

「かっ―――」

 思わず首元に手を伸ばすが、そこには何もない。白の浄衣は乱れてさえいなかった。

「彼我師の名もその考えに由来してるって聞いたよ。彼岸の神と、此岸の人を舫う」

 彼人は何事も起こっていないかのように、至極平静に話す。苦しむ人間を前に、童が冷たい視線を浴びせる。一種、異様ともいえる光景であった。

 生命の危機に晒されながら、白藍はこの彼人が何を言いたいのかを分かってきた。

 担当彼我師が死去した事を把握せず、新任を送り込まなかった。

 これにより、正式の祭事は数年滞っている。

 加え、偽者をのさばらせ、自分たちにとって都合の良い願いのみを一方的に言い立てた。

 彼我師、後見所。そして人間そのものに対し、この彼人は激憤しているのだ。役目を怠り、自分勝手な要求をする者たちに。

 申し開きの仕様がない。

 心底、白藍はそう思った。このまま殺されても、仕方ないのかもしれない。

「・・・何か言いたいこと、ないの?」

 言い訳もせず、黙って首を締められる白藍に、彼人は不思議そうな顔を向ける。

 ―――言おうにもこの状態じゃ無理だろ。

 つい心の中で突っ込み、白藍は笑う。勿論表情には苦しげな色しかない。

 そのまま首元に入れられた力が緩まることなく、白藍はゆっくりと意識を失っていった。



 息が苦しかった。

 浅い呼吸を何度も繰り返す。胸も苦しい。

 ゆっくりと白藍は目を開いた。

 そして僅かに顔を上げ。

「・・・おい」

 白藍が目を覚ましたのに気付き、白藍の胸の上に座っていた耶介は満面の笑みを浮かべた。そして思いっきり抱きついてくる。

「・・・あー、もー」

 邪気のない態度に、白藍は耶介を振り払う事なく仰向けのまま天を仰いだ。

 最初に流れ着いた洞窟のようである。湿気のある洞内は、しっとり肌寒かった。

 ―――助かったのか。

 記憶が途切れるまで、怒り狂った彼人に殺されかけていた筈である。

「おう、気がついたか」

 あっけらかんとした声が響いた。

 子どもの保護者が、白藍の頭の方から顔を覗きこんでいた。

 耶介がねだるように手を伸ばすと、翔嶺はひょいっと容易に抱き上げる。

 息苦しさがやっと消えた。

「どういう状況だ」

 寝転んだまま問うと、翔嶺は俺が聞きてえよ―――、と切り返した。

「何時まで経っても出てきやしねえと思ってた矢先、御堂からお前が出てきた。というか、ぶっ飛ばされて出てきた」

「は?」

 思わず聞き返す。

「だから。戸が開いたと思ったら、お前が中から物凄い勢いで投げ出されたんだよ。すんでのところで俺が受け止めてやったから良かったものの、あのままだったら、木に激突してちょっとした怪我負ってたとこだぞ」

 いいながら、翔嶺は耶介を抱いたまま立ち上がる。

 話を聞き、白藍はぞっとした。

 彼人の仕業に違いない。

 あのままあの場で失神されていても迷惑だったのだろう。

 それにしても、外に追い出すにしてももう少しやり方というものがあるだろうに。

「失敗―――、だったんだろうな」

 結局、彼人と話し合いは終わらず、これからどうするべきなのかも聞けなかった。祭事としては最悪であろう。

「失敗?何言ってるんだお前」

 白藍の独り言を聞き、翔嶺は不思議げに首を傾げた。

「上手く纏めたんだろ?境界は普通に戻ったし、お前も何時でも出て行ける」

「戻った?何で分かるんだ」

 眉を顰める白藍に、翔嶺はしれっと答えた。

「さっき境界を跨いでみたからな」

 呆然とするあまり、白藍は言葉がなかった。

 白藍の報告を待たず、そんな事をするとは。下手すると、死んでいたかもしれないというのに。

「―――あんた、馬鹿決定だな」

 うるせえ―――、と翔嶺は足元の白藍の頭を軽く蹴る。

 そんな翔嶺の様子を、白藍は仰向けのままでじっと見上げた。

 先程、偽彼我師に狼藉を働いた時と較べると、だいぶ落ち着いたようである。

 そして、白藍は風邪が治っているのに気付いた。

 彼人が何かしたのであろうか。

 ―――まさかな。

 あれだけ邪険に扱われ、そんな親切な事をしてくれる筈がないだろう。

「泊まってくだろ?外はもう暗いしな」

 気軽に問われたが、白藍は微妙に言いよどむ。

「いや・・・。行くよ。雪が降ってる訳でもないから、山越は楽だ」

 いつもの悪い癖だ、とは自覚しつつも、白藍は断った。

 その返答に目を見張った翔嶺は、腕の中の耶介を地面に降ろし。

「耶介。―――兄ちゃんと遊んでやれ」

 力一杯頷いた子どもは、何の遠慮も力加減もなく、全力で白藍の腹に飛び乗った。

 白藍は呻くと、そのままぐったりと動かなくなった。

「年上の人間の言う事は聞いておくもんだぞ。晩飯までそのまま寝てろ。耶介、食材探してくるから待ってろよ」

 にやにやして翔嶺は洞窟の外へと出ていった。

 その後たっぷり耶介の相手をさせられ、翔嶺の作った温かいきのこ鍋を食べた。何度も出て行こうとしたが、酔った翔嶺に乱暴に首に腕を廻し阻止された。酒が入った翔嶺は、普段よりも陽気になった。意外にもなついた耶介は白藍の寝床に入り込んできたため、寝かしつける役までこなした。勿論、子どもなど身近にいない白藍にとっては初めての体験である。

 悪い日ではない。

 夢に落ちる間際、白藍はそう思った。



 耶介を起こさないよう、白藍と翔嶺はそっと洞窟を出た。

 時刻はまだ早く、陽もまだ昇っていない。

 淡い霧が出ていた。

 手を翳して山を見上げ、翔嶺は目を細めた。

「間に合うのか?次の祭事があると言ってたが」

「ぎりぎりだな。まあ、大丈夫だ。気難しいが、悪い彼人じゃねえし」

 ほら、と浅縹の水干の翔嶺が何かを手渡す。

 煙管であった。

「ああ。忘れてた」

 思わず気の抜けた声が出る。

 翔嶺は腰に手を当てて白藍を見下ろす。

「お前、元々好きでやめられない訳じゃないんだろ?中毒にならねえ内にやめとけよ」

「ご忠告どうも」

 口ではそういいつつも、白藍はさっそく煙管に火を灯した。

 肺に満たした煙を、ゆっくりと吐き出した。

 やっと、落ち着いた気がする。

「人の話、聞くつもりねえな?」

 睨む翔嶺の視線を、瓢々とかわした。

 そのまま、しばらく煙草をふかす。

 静かな時間が、二人の間に流れる。

「二年目に死んだ夫婦だがな」

 不意に、翔嶺の低く抑えた声が響いた。

「耶介の両親だ」

「―――そうか」

 半ば予想はしていた事実に、白藍は短くそう答えた。

 それならば納得出来る。翔嶺が見せたあの異常な程の怒りも、耶介と共に村を離れている理由も。

 だがな―――、と白藍は構える事なく口を開いた。

「村の人間は、耶介の親が原因だとは知らないんだ。こんな辺鄙な場所で暮らす必要はない。二人で村に戻って、同年代の子どもと遊ばせてやれ」

 そこで白藍は翔嶺をすっと見据える。

「あんたの罪悪感は、耶介には何の関係もないんだ」

 翔嶺は目を伏せて横を向いた。

 この男の苦悩は、妹夫婦が何をしているのかを見抜けなかった事にある。

 そして、そんな自分を責めている。

 偽彼我師に向けられた怒りは、自分に対するものでもあったのだ。

「あの子は真っ直ぐだ。道理を知っている。あんたを責めたりはしねえよ」

「・・・かもな」

 歯切れの悪い返答であった。

 白藍は僅かに息をつく。

 他人から見れば、翔嶺に非がないのは明白だ。

 だが、当事者にはそう簡単に割り切れない感情というものがある。

 翔嶺が真実妹夫婦の死を吹っ切るには、まだ時期が早いのだろう。それを見極めるのは、白藍ではなく、翔嶺自身である。

 ふっと顔を上げた翔嶺は、気分を変えてにやっと笑った。

「ま、何にせよ世話になった。お前を川に突き落とした盗人に感謝だな」

「俺には厄日だった。水難だ」

「女難でも悩んでみろよ、青年」

 年上の男の戯言を無視し、白藍は煙管を懐に仕舞った。そして荷物を背に負う。

「来年は別の彼我師を手配する。俺はここの彼人にはどうも嫌われたみたいだからな」

 翔嶺は驚いたように目を見張った。

「何だ。お前は来ないのか」

「来年も俺が担当すると、今度こそ彼人に殺される」

「耶介が寂しがるな」

 翔嶺が僅かに洞窟の方を見遣る。

 何と言っていいのか分からず、白藍はとりあえず、

「―――近くを通ったら寄るよ」

 と告げた。

 普段なら言うだけで滅多に再訪はしない。だが、この二人にはまた会いそうな気がした。

 翔嶺は豪快に口を開けあくびをする。

「見送らねえぞ。俺はもう一度寝る」

「ああ。じゃあな」

 ひらひらと手を振る翔嶺に背を向け、白藍は次の村を目指した。

「気をつけろよ」

 そう言った翔嶺は、最後まで白藍を見送り続けていた。


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