深淵の蒼き天狗
丁度良い気候だった。
暑くなく、かといって寒くもない。
つまり過ごしやすい季節だ。
ただ、風が強い。
森の深淵に入り込んでいた白藍は、藍色の水干の袖を黒の紐でたすき掛けしていた。
時折思い出したかのように風が吹き荒ぶのである。
初めは我慢していたが、次第にばさばさとはためく袖がうっとおしくなったのだ。
中途半端な長さの髪も煩わしい。
昔は師匠に切ってもらっていたが、長じて彼我師として旅をするようになってからは、白藍自身が身の回りの事に無頓着なため、見かねた村の女たちが散髪してくれるようになった。そう言えば、前回切ったのは三カ月は前である。五日前に立ち寄った村でも切ってもらう予定だったが、思いの外祭事に苦戦した結果、その時間がなくなってしまったのだ。
「自分でやってみるか」
そう一人ごちたが、ここを抜ければいいだけの話である。こうやって、結局はどうでもよくなり、次の村で半ば強制的に散髪されるのだ。
白藍は鬱蒼と茂る木々を見上げた。
まだ昼にも関わらず、辺りは暗い。
しかしその暗さは、闇夜のように芯からのものではなく、現世から隔離されたような冥さだ。森を抜ければ眩しい光を受けるが、繁茂した木々がその光の侵入を拒んでいる。
木が光を遮断し、人を常世へと誘っている。
それを感じる時、白藍は何となく人力の限界を思い知らされるのだ。
古くから森は神の領域と言うが、そういった妖しさが森を異界に見せるのかもしれない。
何となく不気味になってきた。
僅かに表情を引き締めた白藍は、速足になり早々とこの場を立ち去ろうとした。次の祭事に急かされる訳ではないが、本能的に長居すべきではない気がするのである。
その時に前方から視線を感じた。
兎か鹿かと思った白藍は、何となく視線を向けた。
そこに立っていた存在が視界に入った途端、白藍の一切の動きがとまった。
そして己の眼を疑う。
人型をしたそれは、白藍が自分に気付いた事を知ると、目元を細めて笑った。
金縛りにあったかのように、瞬きさえも凍る。
その時、一陣の強い風が白藍をなぶった。
思わず腕で眼を庇う。
風がやみ、そっと顔を上げた白藍は、再度自分の目を疑った。
先程までそこにいたものが、綺麗さっぱりいなくなっていたのである。
「―――天狗?」
暫くして、呆然としていた白藍はそう呟いた。