暗夜の灯り
冷気で澄んだ寒空に、朧の月が浮かんでいた。
枯葉で埋まった道を急ぎつつ、白藍は面倒そうにずれ落ちそうな背中の荷物を抱え直す。
藍色の水干の隙間から、冷たい空気が入り込んでくる。
―――大分遅くなったな。
夕刻までには村に入れると思っていたが、山越えに案外時間がかかってしまった。
別段、今回の村に用がある訳ではない。呼ばれている別の村までの通り道だ。
日が暮れる前に宿を探しておきたかったのだが、この様子だと今日も野宿かもしれない。再び夜露に濡れる事を思い、白藍は憂鬱な気分になる。
地に足の付いた生活程の幸せはないだろう。しかし、それは同時に村に縛られる事でもある。良くも悪くも、だ。
―――無理だな、俺には。
結局、それに落ち着く。
今まで一度も一箇所に定住した事のない白藍に、何処かある場所で死ぬまで生きる、という事は想像出来ない。所詮は流れ雲のような生き方しか白藍の頭にはないのだ。
だがそれを不幸だと感じた事はない。
どんな生活にも、恵まれた点と不便な点はあるものなのだ。
その時、白藍は通り過ぎようとした足を止め、大きな木の方を見遣った。
―――ん?
男が一人、木の下で佇んでいたのだ。
夜の闇と、男の気配の希薄さで、容易には気付かなかった。
「驚いたな。人がいたのか」
声を掛けると、男は静かに軽く頭を下げる。
白藍は近くまで寄った。
時刻が時刻だ。人待ちしている訳でもあるまい。
「あんたまさか、此処で夜明かしするつもりか?」
「ああ。森の中よりもこっちの方が安全だ」
男は目を閉じたまま短く答えた。
白藍は首を傾げる。
「あと少し先に村があるだろう。あの村には入らないのか?少なくとも此処よりは安全だぞ」
ここまで来て、わざわざ野宿する理由はない。それとも、入れぬ理由でもあるのか。
すると、男は意外げな表情を見せ、それから目を閉じたまま笑った。
「何だ、村は近いのか」
あ?と白藍は訝しむ。
村に近付くにつれ、田畑が増え、道が整備されてゆく。
周囲の様子を見れば分かる筈だ。
そこで白藍は、男の姿を見て気が付いた。
白藍が近付こうとも、男は一度もまぶたを持ち上げない。
「なああんた、目が見えないのか」
男は笑う。
「村が近い事に気付かなかった訳が分かったか?」
「ああ。納得した」
男の横に佇み、煙管を取り出しつつ、白藍は素直に答えた。
ふう、と一息煙を吐き出す。
「良かったら、俺が村まで連れて行くが?あんたはどうしたい?」
一見して、男は旅慣れにしているように見えた。荷物も最最小限に抑えてあり、何が旅に必要なのかを知っている。
申し出は無駄かもしれないと思いつつ、白藍はそう声を掛けた。
すると、男は悩むように腕を組んだ。
「村に行くのもいいんだが、俺は急いで彼我師も探したい。此処で夜明かししようとしたのは、村に気付かなかったのもあるが、此処にいて通りかかる彼我師を捉まえた方が確率は高いと思ったからでな」
「何の為に?」
白藍は己がそうだとは名乗らなかった。
役職上、彼我師は面倒事に巻き込まれ易いからだ。悪用される事も少なくない。
男は瓢々と答えた。
「今から俺の生まれ育った村に一時帰郷する。毎年祭事の時期に帰るんだが、去年、世話になっていた彼我師が死んでな。困ってるんだ」
彼我師の数は、絶対的に不足しているのが現状である。
探そうと思って、そう易々と見つかるものではない。彼我師の死後、祭事が滞る村も多いのだ。
白藍はしゃがみ込んで、草鞋の紐を結び直す。
今回は、純粋に彼我師として必要とされているようだ。
次の目的地の村は、十日後までに到着すれば良い。祭事に遅れなければ支障はないのだ。
―――少し位、寄り道も構わんか。
仲間の彼我師らには、寄り道が多いと叱責される白藍である。
しかし、必要とされている状況を無視する程、白藍は人に絶望していなかった。
「俺は白藍という」
名乗った。
男が眉を顰めて白藍の方に顔を向ける。
「白?あんた、もしかして彼我師か」
彼我師は、その存在を彼我師と認められた時、新たに名を与えられる。
人間としての名を捨て、人と神を繋ぐ橋として、新たに生き直す事が求められるからだ。
そして、その名には白の字が必ず含められる。
祭事に纏う水干の色が、それを表しているのだ。
故に、名を名乗れば彼我師だという事がすぐに知れる。
便利は反面、容易に名乗れない、という欠点もある。偽名を一つは持っている彼我師も多い。
立ち上がり、白藍は荷物を抱え直した。
「祭事に必要なんだろう。一緒に行くよ」
男の顔に輝くような笑みが浮かんだ。
白藍はその素直な笑顔を意外に思いつつ見た。
初めは皮肉げな男かと感じていたからだ。
村に、特別な思い入れでもあるのだろうか。
「じゃあ、悪いが頼む。行こうか」
そう言い、男は何の迷いもなく村とは別の道に足を踏み込んだ。
慌てたのは白藍である。
「おいっ、そっちは道が違うぞ。村に行くなら左だ」
振り返った男は、にやりと笑う。
嫌な予感が、白藍を襲った。
「知ってる」
「知ってるって、おいどういう意味だ」
「宿を取る暇などない。祭事は明後日だからな。あんたには急いで俺の村まで来てもらわないと困るんだ。ぎりぎりまで歩いて、今夜は野宿だ。当然だろ」
人に物を頼む態度ではない。
「・・・やられた」
悪用と言えば、悪用かもしれない。
どちらにしろ、容易に名を教えた白藍が悪いのだ。
「俺は雪市。市で構わない」
「くそ。今夜こそ布団で寝られる筈だったんだがな」
ぶつぶつと呟きつつ、白藍は人を食った男の後を追った。
半月が天頂で静かに光を下ろしている。
―――眠い。
夜は完全に更けていた。
雪市は足を止めようとしない。
恨みがましい視線を前を行く雪市へ向け、白藍は声をあげた。
「おい市っ、いい加減にしろ。夜通し歩かせるつもりか」
黙っていたら、村に着くまで休みを取れなさそうである。
雪市は前を向いたまま素っ気無く答えた。
「俺には昼も夜もないからな」
遊ばれているような気がする。
「生まれた時からなのか?」
諦めて横に並んで歩く。
「病でな。人生の半分を暗闇で過ごしている事になる」
「光を知っているのか」
低い声で呟く。
雪市は自嘲するように笑う。
「そうだ。初めから暗闇に生きていたら、もっと楽だったんだがな」
光を知る者が、突如闇に突き落とされる。
それは、人をどういう世界に誘うのだろう。
「数日は気が狂いそうになるな。数ヶ月は夢で闇に追われる。見えぬ眼ならば、いっそこの手で潰してやろうと指を突っ込みかけた事もある。だがな」
そこで言葉を切った雪市は、白藍の方へ顔を向けて小さく笑った。
「人ってのは都合良く出来てる。慣れるんだ。光のない世界が俺の日常になるのさ」
そして―――、と不意に足を止め、不敵に笑った。
「視覚を失った分、他の器官が鋭くなってな。眼が見えてた時よりも鋭敏に察する事が出来るようになった。―――例えば、人の押し殺された気配や、殺気、などをな」
訝しむ白藍を余所に、雪市は前方の闇へと声を掛けた。
「まどろっこしいぜ。早く出て来いよ。時間の無駄だ」
言葉が終わらぬ内に、闇から三人の人影が姿を現した。
手には各々武器らしきものを所持している。
夜盗だ。
「・・・面倒事ってのは、重なるもんだな」
呆れ果てた白藍は、ぼそりとそう呟いた。
一方の夜盗たちは、にやにやと不快な笑みを見せながら二人の方へと寄ってくる。
「よう、兄ちゃんたち。こんな夜更けに野郎二人で道行きとは、しけたもんだな」
「放っとけ。余計な世話だ」
のうのうと言い返す白藍は、溜息をついて下げた頭を掻く。
本当に、ついてない夜だ。
「命は取らねえ。黙って荷物だけ置いていけば、な」
夜盗はゆっくりとこちらへ歩みを進める。
白藍はどうしたものか、と周囲を見遣って退路を探す。だが生憎と、逃げ切れそうな横道はなかった。
退路はない。
連れは盲人。
八方塞りだった。
その時、雪市の顔に不遜な笑みが浮かんだ。
ゆらり、と雪市の体が傾く。
「え?」
呆気に取られた夜盗の一人が、どさりと地に伏した。
「・・・何だ」
残り二人が眼を見開く。
倒れた夜盗の側に、肩に小さな刀を担いだ雪市が立っていた。
「遅い。お前ら、それで本当に山賊か?」
刀からは鮮やかな血が滴り落ちていた。地面に模様が広がる。
白藍は眉を顰めた。
呆然とする二人の夜盗は、じりじりと足を下げていく。
「さっさと失せろ。死にたくないならな」
雪市の気だるげな一言で、夜盗らは一斉に逃げ出そうとした。
「待て!」
怒鳴るように叫んだのは白藍だ。
滅多に声を荒げない白藍らしからぬ行為である。
声の大きさに驚いた夜盗は、その場に立ち竦む。
倒れた男の側にしゃがみ込んでいた白藍は、男の傷跡から顔を上げると残りの二人を見た。
「連れて行け。仲間だろう。すぐに医者に見せれば死なない」
はっと我に返ったように、夜盗らは顔を見合わせる。そして白藍から奪うようにして仲間を抱きかかえると、急いで来た道へと引き返していった。
その気配を見送っていた雪市は、近くから平和とは言い難い視線を感じ取った。
「・・・刺す必要があったのか。お前の腕なら、怪我させずに済んだと思うが?」
しゃがんだままの白藍が低い声で問う。
雪市は瓢々とした態度で白藍の方を向く。
「彼我師は意外と甘いんだな。襲ってくる人間に情けなど無用だろう。殺しても誰が文句を言う訳じゃあるまいし」
「そういう考えは好かねえな。お前に人を殺す権利などない」
無言のまま、不穏な空気が通り過ぎる。
雪市に夜盗を殺す気がなかったのは確かだ。傷は急所を外してあった。失せろ、と警告も発している。
だが、傷を負わせる事を厭う様子が全く感じられなかった。其処が、白藍の神経に触れたのだ。
睨み合いに先に根負けしたのは、雪市の方であった。
ふいっと顔を逸らし、見えない眼を白藍から外す。
「分かったよ。そんなに怒るなって」
「怒っちゃいないさ。諭してるだけだ」
ふっと場の雰囲気が緩む。
白藍が立ち上がるのを感じ取り、雪市は進むべき道の先へ向いた。
「それにしても白藍、お前本当にただの彼我師か?威圧感が普通じゃないぞ」
共に歩き出すと、雪市がぼそりと呟いた。
白藍は笑う。
「彼我師って時点で普通じゃないだろ。人間じゃなくて妖怪だ、と言われる位だからな」
現に貴族辺りからは、畏怖と侮蔑が複雑に交じり合った感情を持たれている。
「でも人間だろ?」
気を遣ったのか、雪市はそう返してきた。
白藍は前を見据えて答える。
「そうだ。そして、さっきの奴らもな」
人の命を奪う事の重さを、雪市は分かっていない。
悪い奴だから、死は当然。それは一見、格好が良い腹の括り方かもしれない。
だが、所詮は思考の停止でしかない。
異質の者に対し、理解しようとする努力を諦めているだけだ。
そういう逃げを、白藍は許さない。
逃げて、他人を害する人間を、白藍は認めない。
暗い光を宿した瞳で、白藍は雪市を見詰めた。
雪市は前方を見たまま足を止める。
そして、はあと大きく息をつく。
「分かったと言ってるだろうが。白藍、お前あんまり睨むな。見えない俺でも、お前の視線は恐いぞ。―――俺が軽率だった。自分の非くらい、自分が一番分かってるさ」
祭事が近くて苛立ってたんだ―――、と雪市はつまらなさそうに一人ごちた。
「うちの村の彼我師が死んだ、って言っただろう?」
話しつつ、雪市は道の脇に逸れ、その場に寝床を作り始めた。
やっと休む事が出来るようである。
やれやれと天を仰いだ白藍も、大樹の根元に大きな布を敷いた。
「年寄りだったのか?」
何気なく答えたその言葉に、雪市は感情を押し殺した声で応じた。
「若い女だった。名は蕗。山越えの途中、山賊どもに殺されたんだ」
動きを止め、白藍は早々に地面へ横たわった雪市を見遣る。
雪市は見えない目を開け、闇を凝っと見詰めていた。
「蕗は何処からかふらりとやってきた彼我師でな。時折気が向いた時に村を訪れていた。彼我師だから村の女たちとは多少違う部分もあったが、気のいい女だった。―――今年には俺と祝言を挙げる筈だった」
白藍は大樹に背中を預け、煙管を口にした。
何も言えない。
「もう旅はやめろ、と言ってはいた。夫婦になるんだから、ずっと村にいて欲しいとな。だが蕗は頷かなかった」
『彼我師は止めようと思って止められるものではないの、市』
困ったような笑みを浮かべ、蕗は雪市から目を逸らした。
村の小高い山で、雪市は蕗を呼び出していた。
『旅をやめたらいいだろう。村にいても彼我師は続けられる』
『あちこちの村に、私を待っている人間が大勢いる。それを裏切れる程、私は人間性を捨ててはいないわ』
『蕗』
『市、無理言わないで。私は彼我師よ。それは誇り』
蕗の強い色を宿した瞳を受け、雪市は下を向く。
自分の言っている事が、蕗を苦しめていると分かっているからだ。
蕗は雪市の目の前に立ち、雪市の顔を両手で包んだ。
『私から誇りを奪わないで』
その一言が、雪市の心を決めさせた。
絞った喉から、雪市は細々と息を吐く。
『・・・旅の途中で死ぬなよ。これを約束してくれないなら、俺はあんたを村から出さない』
はい?と蕗は苦笑した。
『未来の事なんて、約束出来ないでしょう』
『いいから』
男心が分からない女だ、と雪市は内心肩を落としつつも、普段は閉じた瞳をゆっくりと開き、目の前にいる蕗を見つめた。
夕日が、辺り一面を朱に染める。
『ただ、約束してくれればいい。必ず、この村に戻ってきてくれると。何処まで遠く旅に出てもな』
目を丸くしていた蕗は、やがてにこりと笑んだ。
『帰ってくる。当然でしょう。この村が、私にとって初めての故郷になるんだから』
「死体が見つかったのは、蕗が旅に出て三月後の秋。偶々狩りをしに山へ入っていた村の人間が発見した」
暗闇の中、道向かいにいる雪市の声だけが響く。
「近くに蕗を襲った山賊どもの死体も転がってた。合い打ちだそうだ。あいつも彼我師だからな。それなりに武術は心得てた」
「山越えは、彼我師の数が絶対的に少ない理由の一つだからな」
白藍は小さく呟いた。
白藍自身も、幾度か命を落としかけている。
はあ、と雪市は寝転んだまま仰向けになり、大きく息を吐き出した。
「だろうな。蕗の右腕にも深い傷跡が残ってた。相当の修羅場を潜っていたようだ。変な所で肝の据わった女だったからな。―――そして蕗は死んだ。祭事のためうちの村に帰って来る途中でな。そして俺は村を出て、旅人になった。あそこに定住するとどうしても蕗の事を思い出すからな」
「それで旅人、か」
奇抜な発想をする男のようである。
「だが、人を殺す理由にはならんぞ」
「山賊全員を怨んでも仕方ない事は分かってるさ。しつこいぞ白藍」
「しつこくもなる。大体お前・・・」
本当に反省してるのか、と言い掛けた言葉の途中で、白藍は眉間の皺を深くした。
雪市の言葉に引っ掛かりを感じたのだ。
「祭事に帰って来る途中で殺された?―――おい、という事は、もしかして去年の祭事は行われていないのか?」
「え?ああそうだ。代わりの彼我師を探したんだが、急には見つからなくて。蕗の葬儀もあったし」
参ったな―――、と白藍は目元を細める。
「どうかしたのか?」
雪市が地面から上半身を起こす。
白藍は渋い顔を作った。
「神ってのは気まぐれなくせに意外と律儀な奴でな、たとえ一年でも祭事を欠かすと快く思わねえんだ。神によっては、村ごと消される場合もある」
「本当か?いや、でもうちは大丈夫だ。村の人間と定期的に文の遣り取りをしてるが、異変は何も聞いていない」
「お前らはよくても俺がよくないんだよ。彼我師の死によって途絶えていた祭事が、新しい彼我師によって再開されると、その新しい彼我師には不幸が起こりやすい」
「つまり?」
「俺が殺される可能性がある、って事だ」
白藍は大樹から身を起こすと、そのまま草の上に寝転がった。
道を挟んで、二人の男が地面に体を臥している状態である。
どうするか。
瞬く星空を見上げ、白藍はぼんやりと考える。
雪市から逃げる手もある。
彼人と行う祭事は、一般に思われている以上に危険が伴うものなのだ。彼我師の多くは旅の途中で不幸に逢うか、祭事による不幸かによって命を落とす。畳の上で死ねる彼我師は非常に稀有だ。
「逃げるか?白藍」
不意に雪市の冷静な声が響いた。
その声色に、白藍は溜息をつく。獲物を見定めた狼の如き気配である。
雪市の剣術の腕は明らかだ。白藍がどう足掻いても、無傷で逃げ切れる可能性は低いだろう。
「心配するな。行ってやるよ。俺は体力の方はからっきしだからな。ましてやお前みたいな手垂れを相手にするつもりは毛頭ない」
ぼやくように答えると、雪市はそうか―――、と頷いた。
「視覚が人の情報処理に与える割合はかなりでかい。故に光を失った人間は別の面が発達せざるを得ない。それが俺の場合は反射神経だったって事さ」
「大層な才能だ」
溜息と共に茶化す。
布団もない、屋根さえもない。加えて夜盗に、不履行年のあった祭事を押し付けられる。
厄日だ。
改めてそう実感した白藍であった。
「雪市か。一年ぶりじゃないか」
村に入った途端、雪市の周りには大勢の人間が垣根をつくった。
畑仕事の手を休め、雪市の姿を見つけた者たちが一人残らず集まってくる。
「また痩せたな、市よ。ただでさえ肉がつかない体なんだから、しっかり喰えって言っただろうが」
「無駄に肉がついてるよかマシだろ。余計なお世話だ」
「憎まれ口は相も変わらず達者なようだね。心の方は成長してるのかい?」
「昔っから図体だけ大人のガキみたいな野郎だからな」
「久し振りにあってそういう事しか言えねえのか、あんたらは」
散々な罵詈雑言の嵐であるが、雪市は可笑しそうに笑っている。村の人間もそんな雪市を懐かしみ、親しみを込めて接していた。
白藍は群集から一歩引いた所で、そんな様子を見ていた。
そんな白藍に気付き、雪市が人々の輪の中に引きずり込む。
「っおい」
無理矢理に腕を引かれ体勢を崩す白藍の抗議の声にも耳を貸さず、雪市は白藍の肩に腕を回して村人らに言った。
「こいつは白藍。彼我師だ。今年は祭事が行えるぞ」
「彼我師だと?」
「市、そりゃ本当か」
期待に目が輝く村人を前に、白藍は軽く目礼する。
「気がかりだったんだよ。去年はしてないもんだからさ」
不安そうに両手を擦り合わせる中年の女に、雪市は目を閉じたまま笑ってみせた。
「安心しろ伯母貴。こいつは蕗の後を継いで、毎年来てくれる」
白藍は眼を半眼にして調子の良い事をぬかす雪市を呆れたように見る。
蕗という名に一瞬雰囲気が重いものを孕んだが、雪市の帰還と彼我師の来訪という二重の好事に、村人らは湧いていた。
「そうだ市坊。目によく効くっていう薬草を手に入れたんだ。煎じてやるからうちに来いよ」
男の言葉に雪市はいや、と掌を向けて断る。
「嬉しいが後で頼むよ。それより、先に祭事を済ませよう。―――白藍」
名を呼ばれ、煙管を懐から取り出していた白藍は目を遣る。
「御堂に案内する。準備はいいか?」
ゆっくりと煙を吐き出し、白藍は答えた。
「今夜は布団で寝かせてくれるんだろうな?市」
「お前が神に殺されなかったらな」
「精々外で祈ってろ」
応酬を繰り返し、二人は瓢々と御堂へと向かった。
雪市は村の人間らに手を振り、
「二人で行って来るよ。皆は宴の準備でもしててくれ」
と告げた。
言われた村人たちは、宴の場所を確保したり、食材の用意に走ったり、と各々の職分へ取りかかった。
「いい村だな」
呟く白藍に雪市は笑う。
「のんきな人間ばかりだ。大した事件もない田舎だから」
「幸せってのは、そういうもんだろ」
故郷というものを持たない白藍には、一度も実感する事のない種類の幸福であろう。
御堂は、他の村々と同じく、人通りの少ない村の奥にあった。鬱蒼と茂る木々が御堂を守るように佇んでいる。
古式ゆかしい形式の小さな堂で、村にある家々よりも造りはしっかりしていた。全て神木でつくられている事が御堂の条件となる。
「市、お前は此処で待っててくれ」
御堂の中には、彼我師以外の人間が入る事は許されない。
人の身であちら側と関わる事は、人である事を止めるのと同義なのだ。
「本当に殺されかけたなら、迷わず逃げて来いよ白藍。うちの奴らも彼我師死なせてまで神と共存したいとは思ってない筈だ」
少し真剣みを帯びた声で雪市は白藍を真っ直ぐ見た。
着替えの為に藍の水干の首元を緩め、白藍は不敵な笑みを浮かべる。
「俺は一応玄人だぜ?お前は戻って知り合いに挨拶でもしてこい」
「挨拶しに行く程の知り合いはいねえよ。此処で待ってるさ」
「物好きな男だな。好きにしろ」
言葉の通り雪市は戻る気はないらしく、近くの木にもたれかかった。
白藍は肩を竦め、黙って御堂へと足を踏み入れた。
一の間を潜り、白藍は二の間を控えたそこで藍の水干から白の浄衣へと着替える。
彼我師の名には頭に白の文字が付く。下には何か自分に関連する文字を入れるものだ。白藍の場合は普段纏う衣の色である。故に白藍。
蕗の場合は普段、周囲に名乗る通り名だ。
白の名とは別の名を持つ彼我師は多いものである。
浄衣を身にした白藍は大きく息を吸うと、二の間の扉を開けた。
その瞬間、顔の真横を何かが物凄い勢いで通過した。
僅かに白藍の顔を掠め、頬から血が滲み出る。
「・・・俺にあたるなよ」
眉間に皺を寄せて呟き、鏡の間へと入る。
「今更何の用だ、彼我師」
不機嫌な女のような声が部屋に響き渡った。
神に性別年齢などないが、それでも神ごとの個性のようなものは存在する。
部屋の上座にあたる場所に、鏡が祀ってある。そしてその上部に白い靄がかったものが浮遊していた。
彼人である。
白藍は冷静に部屋の中央へと腰を下ろす。
その悠長な態度が、彼人を更に苛立たせたようだ。
「|白暁はどうした。お前などに祭事は任せられぬ。白暁を連れて来い」
蕗の彼我師としての名のようである。
死んだ事を知らないのであろうか。
いや、それはあり得ない。
仮にも神だ。知らない事などこの世にあろう筈がないのだ。
だとすれば。
白藍は静かに口を開いた。
「俺は彼我師、白藍だ。白暁の後継と思ってもらえたらいい」
「私の言葉が聞こえなかったのか?白暁以外と祭事を執り行うつもりはない。さっさと村から出てゆけ。青二才の彼我師よ」
言葉の一つひとつに棘を感じる。
―――彼人が現実逃避とはな。
白藍は息を吐いた。
「知ってる筈だ、彼人。白暁はもう死んでる。山賊に殺されたんだ」
「本気で私を怒らせたいのか彼我師。私はお前と話すつもりはない」
「だが人間はこの鏡の間には入れんだろう。俺が去ってもまた来年別の彼我師が来るだけだぞ。蕗は二度と現れない」
「私は蕗などという女は知らぬっ。白暁だ!」
靄のある所から何かが飛んできた。
今度は本気であたりそうになり、白藍は慌てて横に倒れこんでそれを躱す。
鈍い音と共に、白藍の背後にあった壁に穴が開く。
気の塊のようなものだ。それも彼人のである。
体勢が崩れて床に手をついていた白藍はそれを見て、冷や汗を流した。
「あんたな、八つ当たりで人を殺す気か」
「死にたくなければ失せよ」
取り付くしまもない。
彼人とは思えない反応である。内心、白藍は驚いていた。
ここまで一人の彼我師に固執する理由を探らねば、どうにもならないであろう。
座り直した白藍は、首に手をあてて静かに言った。
「白暁の前は、どの彼我師が担当だったんだ?」
まさか彼我師が交代する度にこの騒ぎなのか、と白藍は危惧する。
しかし、彼人は黙り込むとその問いに答えなかった。
眉を顰めた白藍は、ふとある考えに至る。
「もしかしてあんた、もとは別の場所の土地神だったんじゃないのか?」
可能性の一つとして口にしたのだが、案の定彼人は無言のままであった。
白藍の中で疑問だったものがすっと消えていく。
土地神とは、名前の通りその土地一帯を管轄する彼人である。村に祀られているのは村神で、土地神とは多少区別される。村神は村に住む人間がいて初めて存在し得る。つまり、人間なくして村神はこの世に形を為せないのだ。
しかし、土地神は違う。山や河、高原など村以外の土地そのものを管轄する土地神は、人間に祀られるという事がない。そしてそれは、人間がいなくとも存在が可能な神だという事だ。
だが、何があっても消滅しないという訳ではない。土地神がいるのは、村ではない土地に限られる。つまり、管轄する土地に人が入り込み、その場が村となってしまった場合、土地神は消える。そこに村人らの祈念が創り出す別の彼人が生じるからだ。
土地神は村にはいられないのである。
「新たな村神が生じた事で消滅しかけていたあんたを、白暁が見つけたのか?」
「―――神と言えども易々と消え去りたくはないものだ」
ようやく彼人が語り始めた。
「彼我師には自然の理には手を出さぬ、という輩が多い。しかしあの娘は違った」
『助けられるなら、私は助ける。たとえそれが全部ではなくてもね。私がそうしたいからそうするだけ』
そう笑い、白暁は土地神の依代である拳程の石を拾い上げると、村神が不在していたこの村まで運んだ。
そして、土地神だったものは村神へと変貌したのであった。
「白暁はあんたにとって親みたいなもんだったんだな」
彼人にそのような人間染みた感情があったのか。全員とは言わないが、彼らは超俗的であり、また一見すると非情でもあるからだ。白藍にとっては新しい発見であった。彼人にも個性があるとは言いつつも、これ程人に近い言動をするものもいるのだ。彼我師仲間から聞いた事はあったが、実際白藍が目にするのは初めてであった。
白藍は小さく溜息をついた。
「人間ってのは、死ぬようにできてるんだよ。誰だって、な」
「分かっている。そんな事は」
「あんたは分かってるんじゃなくて知ってるだけだ。知識としては知っているが、頭じゃ理解してない。認めてもない」
間髪入れずに白藍はそう返す。
人間とは違う次元で生きている彼人にとっては、受け入れ難い事なのかもしれない。
だから―――、と白藍は続ける。
「それが分かってる人間は、その時その瞬間を精一杯生きる。明日が来ないかもしれないという事実を受け入れている人間は、今を全力で生き抜くんだ。覚悟を持ってな」
覚悟―――、と彼人は呟いた。
「永遠なものなんて、存在しないからな。それはあんたらだって同じだ。土地が村になれば土地神は消え、人間がいなくなれば村神は消滅する。この世は総じて春の夜の夢、風の前の塵、だ」
「・・・ふん、何千年前の古典を引用している。平家物語など読んでいる人間の方が少ないぞ。源平という言葉を知っている者自体が少数派だ」
「文学も歴史も同様だな。時が過ぎれば忘れ去られ、存在そのものが消される」
彼人の態度に安定したものを感じ取り、白藍は安堵する。
「私はそなたから一つ良い事を学んだぞ、彼我師よ」
彼人は笑いを含んだ声で白藍に告げた。
ほう、と白藍は微かな笑みを浮かべてその言葉を待つ。
祭事の成功を感じた。
「存在する内は全身全霊で生を楽しまなければ損だっ。そうだろう」
元気良く言い放った彼人の言に、白藍は固まる。
「私は過去に捉われ過ぎていた。もう後ろは振り返らぬ。白暁の事は良い思い出として一生忘れぬが、もう塞ぎこむ事はせぬ。前を見る事もしない。私が見据えるのは今だけだ」
「・・・まあ、そういう腹の括り方もあるな」
潔い事は潔いが、少し達観させ過ぎたような気もする。
生き方を定めた彼人が暴走しない事を、祈るばかりであった。
霧が一面に立ちこめていた。
「もう行くのか?」
振り返ると、其処には寝起きらしき雪市の姿があった。
あくびを噛み殺している。
夜明け前だ。宴が終わってからそれ程時は経っていない。
村を出る前に、白藍は白暁の墓の前に来ていた。
「もう少し此処にいろよ、白藍。俺はお前の別の名前も聞いてねえんだぜ?」
雪市は白藍の横に立って、白暁の墓を見つめた。
白藍は苦笑する。
「俺に通り名はない。蕗みたいに他人と関わらないから必要ないんだ」
それにしても、眼が見えないとは思えない程自然に動く男であった。余程五感が研ぎ澄まされているのであろう。
「名なんかどうでもいい。なあ、お前足をつける気はないのか?」
「俺は一生このままだ。それが俺の生き方だ」
「蕗みたいな事言ってんじゃねえよ」
雪市は毒づく。
白藍は言った。
「いや、蕗は此処に留まるつもりだったんだ」
「―――何だと?」
顔を強張らせた雪市は、ゆっくりと白藍の方に顔を向ける。
「蕗という名は聞いた事がないから分からなかったがな、俺はこの女を知っていたんだ。彼我師としての名は白暁。俺の同期だ」
彼人が白暁と言った時は驚いた。
「お前と蕗が、知り合い?」
「一年前の集会で、白暁は俺に担当の村を委託したんだ。自分は村に根付くから、ってな」
「村に・・・」
雪市は小さく呟く。
「気のいい奴だった。まさか死んだとは知らなかったが」
それより―――、と白藍は墓に背を向け呆然としている雪市の肩をぽんと叩いた。
霧は相変わらず消えない。
「お前こそ、このまま逃げ続けていいのか?お前に旅をする理由はない筈だ」
「村にいる理由もねえよ」
「本当にそうか?村に帰った時、あんなに皆で歓迎してくれただろう。俺にそんな人間はいないが、市、お前にはいる」
羨ましくもあるよ―――。
人が自由な鳥を羨むように、鳥とて、地上の人間を羨む事はある。
そして、白藍は振り返る事無く立ち去ろうとした。
「白藍っ!」
白藍は足を止める。
「来年も、来いよ。うちの祭事はお前が継いだんだからな。お前が責任持て」
ふっと笑い、白藍は霧の中へと消えていった。
勝手な男だ。
そう面白そうに呟く声を、雪市は聞いたような気がした。