鈴鳥 六
『間に合わないよ。あの人がまたこの村に来るまで、僕はきっと生きられない』
月の明るい夜、俊斗は布団で上半身だけ起こして小さく笑った。
縁側に腰掛ける彼人は力一杯首を横に振る。
『でも・・・。駄目だよ。僕が白藍に怒られる』
『どうして?人間の願いと神の考えを調整するのが、彼我師の役目だろう』
目を閉じ、俊斗は静かに言った。
『お父さんたちの記憶を消して欲しいという僕の願いと、それを聞き入れてもいいという君の考え。彼我師のお兄さんが困ることは何もないよ』
『だけど・・・』
彼人は渋った。
白藍が嫌がることを分かっていたからである。
『多分、駄目だと思うよ。白藍はあまり祭事で事を動かしたがらないから』
不思議そうに首を傾げる俊斗に、彼人は説明した。
『彼我師って一口で言っても、色々なんだ。僕たちの考えを人間の願いよりも優先する人もいるし、その逆もいる。でも白藍はちょっと変わってて―――。あの人はどちらの意見も、なるべく反映しないようにしてる』
『どうして?』
『僕ら彼人が供え物を要求するのも、君ら人間が豊作を願うのも、所詮はわがままでしょ?白藍はね、そういうことは自然に委ねるべきだって考えてる。あまりに均衡が崩れると調整はするけど、多少の歪みは放っておくんだ』
そう。
前任者とのあまりの違いに、最初は彼人もうろたえた。
だが慣れると、世の流れを無理に変えようとはしない白藍の方が正しいように思うようにもなってきたのだ。
だから六年も続いている。
でも―――と俊斗は落ち込むことなく言った。
『僕は彼我師にじゃなく、君に頼んでるんだよ』
『俊斗・・・』
彼人は口ごもった。
何と言われようと、人間のごたごたに首を突っ込みみたくはない。
他ならぬ俊斗の頼みではあるが、基本的に彼人はそういった感情の機微は分からぬ。
些事だ。
親が子をどれだけ愛そうが、子が親をどれほど想おうが、それは村に何の影響も与えない。
自分を知る村人がいなくては彼人はこの世に存在しえないため、村の存亡にはある程度関心を寄せ る。
しかし個々人の感情まで気に掛けるほど、彼人は人間に近い存在ではないのだ。
『お願いだよ』
何時にないその真摯な声に、彼人は俊斗を見た。
俊斗は、真っ直ぐ、揺らぎない瞳で彼人の方を見つめていた。
思わず彼人は気圧される。
『僕には彼人の君にあげられるものが、何もない。してあげられることもない』
『別に何も欲しくないよ、俊斗』
奇妙なことを言う俊斗に、彼人は困惑しつつ答えた。
俊斗はゆっくり頭を振る。
『だから、僕はお願いするしかないんだよ。君がこういうことにあんまりかかわりたくないと思ってるのも分かってる。でも、・・・頼むよ。君しか出来ないんだ』
寝巻きの襟元を強く握り締めているのが見えた。
切迫した様子が、彼人を動かした。
『―――分かった。いいよ。記憶、消してあげる』
死や別れなど、そんなこと彼人にとってはどうでもいい。
はっきり言えば、関心がない。
もっと言えば、人間のことに余計な手出しをして白藍に怒られたくはない。
しかし、強い願いは彼人に興味を持たせ、引き寄せる。
興味を持たせれば、それは彼人の力を半ば手にしたも同様だ。
その瞬間、俊斗の全身から余分な力が抜けた。
『ありがとう』
そう呟き、ふわりと笑った。
今まで彼人が見た中で、一番澄み切った笑顔であった。
俊斗が死んだのは、それから三日後。
通夜に来た人間の話によると、庭先で見たことのない子どもが、布団に横たわる俊斗をじっと見ていたという。