鈴鳥 五
白藍は、藍色の水干から白の浄衣に袖を通した。
一の扉と二の扉の間にある、狭い小部屋である。
目の前の二の扉を進むと、そこは神の座す聖域。
鏡の間だ。
陽が傾きはじめ、御堂の中も明度が落ちつつある。
黄昏。
それが、祭事を始める時刻である。
真っ白い装束に身を包んだ白藍は、呼吸を整えると二の扉を開けた。
部屋の奥の中央に、群青色の布のかけられた鏡が祭られてある。
彼人の本体だ。
少し離れたところに座り、目の前を見据える。
そして、静かに告げた。
「彼我師、白藍だ。今年の祭事を始めたい」
しかし反応がない。
「おい」
少し待ったが、やはり無反応だった。
「―――」
考え、白藍は立ち上がった。
そして、迷うことなく目の前の鏡へ近寄り、手を伸ばす。
群青色の布に指が揺れたその時。
「ちょっ、何してるの!」
子どものような声が響いたかと思うと、いきなり右の袖を掴まれた。
「それに触らないで。僕の本体だって知ってるでしょ?」
いつの間にか、白藍の右隣に小さな子どもが立っていた。
否、彼人である。
必死に白藍の右腕を引いていた。
「白藍!怒るよ!!」
「怒るのは俺だ、チビすけ」
顔を真っ赤にして叫ぶ彼人に、白藍は呆れたように返した。
この彼人とはもう六年の付き合いになる。
どちらかと言えば居丈高な態度をとる彼人が多い中、この彼人は非常に珍しい存在だ。
彼人が人の形をして現れるのは、彼我師と会話し易くするためである。
本来は彼人に実態はない。
そしてその形は、それぞれの彼人の特徴を現わしているだけであり、目の前の彼人が本当に子どもという訳ではないのだ。
実際、この彼人は、既に数百年この村に存在している。
とりあえず鏡を戻し、もとの場所に座りなおす。
「何で隠れた?」
鏡を白藍から守るようにして両手を広げている彼人に問うと、彼人は口の両端をきゅっと結んだ。
まるで本物の子どもだ。
その様子に、白藍はため息をつく。
「黙ってても分からん。祭事をしたくなかったのか?」
祭事を執り行う彼我師に居留守を使った彼人など、前代未聞である。
じっと見つめると、彼人はおそるおそる口を開いた。
「・・・怒られると思って」
「俺にか?何したんだ」
再び黙った。
白藍は何も言わない。
考えを纏める時間を与えてやるのは、子どもを相手にする鉄則である。
「・・・ごめんなさい」
小さく震える声だった。
「僕、俊斗と友だちだったの」
白藍は気づかれぬよう息を吐き出した。
予想外の展開である。
まさか、彼人が村の子どもと接触していたとは。
鏡の前で、彼人は小さくしゃがみこんだ。
「俊斗はよく布団にいた。暇そうだったから、つい声かけたんだ。そうしたら、俊斗には僕の姿が見えたんだ。そして面白い話をしてくれて―――。代わりに僕も色んな話したんだ」
馬が合った、ということだろう。
彼我師以外の人間に彼人の姿が見えることは、そうそうない。
俊斗に見えたのは、俊斗の魂が、僅かにだが彼人の世界に近くなっていたからだろう。それはつまり、生命力が弱まっていた、という意味でもある。しかし、人と関わらぬ彼人には、俊斗がどういう状況だったか、ということが分かっていない。
声をかけたのは、病気がちで友人の少ない俊斗を憐れんだのではない。
相手をしてくれそうだったからだ。
「俊斗も、お前に同情の感情がないことを察した。だから、親しくなったんだろう」
だが、問題はそこではない。
杉正の言っていたことを思い出す。
十に満たない子どもが、自分の存在したという記憶を消したいと願った。
嘆き悲しむであろう両親のために。
「俊斗から、頼まれたんだな?」
しばしの逡巡の末、彼人はこくりと頷いた。
両手を胸の前で握り締めている。
「親が悲しむからって。―――断ったんだよ?白藍に頼んでって言ったんだ。白藍だったら上手くあしらってくれるだろうと思って」
しかし俊斗は頷かなかった。