鈴鳥 三
書庫から屋敷へ帰った杉正は、白藍を客間に通した。
開け放たれた障子越しに、見事な菖蒲が乱れ咲いているのが見える。
湯呑みを持った杉正が戻ってきた。
「杉、また本が増えたんじゃねえか?」
書庫に入りきらなくなった本が、屋敷のあちこちに散乱しているのである。
照れ笑いをした杉正は湯呑みを置いて座った。
「大掃除しようと思ったんだけど、捨てる本がなくってね。書庫を拡張することにしたんだ」
「大したもんだな、学者ってやつは」
桧皮色の水干を纏った華奢な杉正だが、この若さで村長を務めている。加えて植物学者としても高名らしい。
長身でおっとりとした杉正だが、村の細々した世話と植物研究、その双方をそつなくこなしている。
本来、他人の世話をすることに向いているのだろう。
庭先に向いた白藍の視線に気付き、杉正は目を細めて笑んだ。
「菖蒲、綺麗だろう?今年は機嫌よく花を咲かせてくれたんだ」
欲や見栄などとは一番かけ離れた男である。
杉正は幼い頃に両親と死別し、しかも病弱なため、乳母一人によってこの広大な屋敷の中で育てられた。
子どもの心を持ったまま、大きくなったのだ。
風が吹き、杉正の首元まで伸びた少し長めの黒髪がさらさらと揺れる。
白藍は菖蒲を見たまま、長い付き合いの友人に問うた。
「何か問題でも起こったのか?」
困った、と杉正は書庫で言っていた。
見た目とは裏腹に、大抵のことならば一人で処理出来る男である。
僅かに姿勢を正し、杉正は口を開いた。
「二か月前に、村の子どもが一人、亡くなってね」
白藍は視線を杉正に戻す。
「何故?」
「病だよ。俊斗っていう男の子だ。元々、病弱な子だったんだけど去年の秋くらいから体調を崩したんだ」
十歳だったという。
燃えるような紅葉が山を染める頃から、少年は床に伏せるようになった。
幼い時から色白だった肌が、どんどん透けるように青白くなる。
両親は出来る限り手を尽くしたが、俊斗の容体は悪くなる一方であった。
枕から頭も上げられなくなった春先、杉正は俊斗を見舞った。
「あの子は小さい時から寝てばかりだったからね、歳の割にとても大人びてた。もう長くないって分かってたんだろうけど、瞳は驚くくらい澄み切ってたよ」
杉正は俊斗が喜びそうな本と果物を渡した。
いつもならすぐさま本の内容を確かめる俊斗も、その時は力なく笑って、首を左右に振ったという。
『もう文字も読めないんだよ。ごめんね、杉さん』
幼い子どもが、自分の先を見越している。
胸が痛くなった杉正は、ついこう言った。
『俊斗、本なんていつでも読めるようになるよ。もうすぐ白藍が来る時期だ。白藍に祭事で神にお願いしてもらおう。病が治るように、って』
『杉さんは優しいね。でもいいんだ。僕が死ぬのは運命なんだから』
苦しみは、人を賢くするのだろう。
たった十の子どもが、ここまで己の死を冷静に受け入れる。
取り乱すこともなく。
白藍は小さく息を吐くと、懐から煙管を取り出して片膝を立てた。
そしてゆっくりと煙を燻らす。
「子どもは大人よりも生に執着しないからな。七つまでは神の子ってのも、案外こういう意味じゃ当たってる」
幼子の方が、世の摂理を素直に受け入れられる。
そういう点は、彼人たちと非常に似通っているのだ。
静かに言った白藍に、杉正は頷いた。
「そうだね。あの子自身は死に逆らおうとはしていなかった。どちらかと言うと、両親の方が動揺してたよ。―――俊斗も、それを心配してたんだ」
白藍は目線だけで話を促す。
「俊斗は一人っ子なんだ。両親にとっては唯一の宝。あの子を失うことは、これ以上ない哀しみだ。だからね、俊斗はこう願った」
自分のことを忘れるように、と。
死後、両親が自分の存在ごと忘れてしまえば、彼らは苦しむこともない。
この子どもは、自己の生きた証よりも、両親の安らぎを望んだのだ。
「馬鹿だな」
白藍は、ずばっと切って捨てた。
驚く杉正に、白藍は面倒げに答える。
「よく考えろよ。自分の子どもだぞ?いくら夭折しても、その子どもの存在を忘れることが幸せだと思うか?」
あのな―――、と白藍は射抜くような視線を杉正に向けた。
「どんなに辛い事実でも、逃避だけは何の解決にもならねえ。忘れるってのは、自分の生きてきた過去を否定することだ。死ぬほど辛い出来事だろうが、それを受け入れなけりゃ人は先に進まねえんだよ」
楽なだけの人生などない。
白藍は煙管の灰を煙草盤に落とした。
「まあ、記憶なんてのはそう易々と消えるもんじゃない。ましてやいくらガキが願ったところで、親が我が子を忘れる訳ないからな。所詮はガキの戯言だ。―――何だ杉、困ったってこの事か?お前らしくないな。いいか、死を悲しむのは良いが惑わされるなよ」
そう言った白藍は、祭事について思案した。
夕方から始めるとして、終わるのは恐らく月の入りの時刻。
その後、祭事で使用した白の水干を洗う。早々に乾かし、香で焚き染めて浄化しなくてはならない。そうなると、出発は明日の正午だろう。
すると、杉正が言い難そうに口を開く。
「あの、白藍・・・。それがね、―――」
「何だ。彼人には何も頼まんぞ。死んだ人間は、たとえ彼人でもどうしようもない」
これからの計画を考えていた白藍は半ば上の空で杉正にそう返す。
違う、というように杉正は首を振った。
「俊斗の両親が、・・・本当に俊斗のことを忘れたんだよ」
段々、悪い癖が出てきました。
話が長くなるんです(年寄りか)。
結果、ついに前話から分割投稿です。なんせ、5話は1話に比べて倍以上の文量・・・。今回は何とか短く収めようと思います。
そして本題ですが、登場人物の名前に困ってきました(笑)。
基本的に一話使い切りとなりますが、よければ投稿してください。