黒よりいでし藍 終
次の日、まだ鳥がさえずり始める前に白藍は起き出した。
右隣の布団では白玄が寝ていたはずだが、既にもぬけの殻である。
朝食の材料でも調達に行っているのだろう。
白藍は師よりも早く起きたためしがない。
左隣では、珠黄が大の字になってぐっすりと寝込んでいた。苦笑して布団をかけ直してやる。
昨日泣いた後は、憑き物が落ちたかのように元気になっていた。これから、どんどん成長するのであろう。
白藍は、寝巻きから藍の水干に着替える。
それからさっと旅支度を済ませ、土間の草履を履いた。
挨拶はせずに発つつもりだった。
戸口を開けると、大きな満月が山の端に沈みかけていた。
外はまだ暗い。
息をついて数歩歩きだした途端、
「黙って行くつもりか」
少し離れたところに、白玄が腕を組んで立っていた。
漆黒の水干が満月の光を浴びている。
白藍は肩を竦めた。
「泣かれちゃ困るからな。ガキは苦手だ」
すると白玄が目を細めた。
「珠黄にじゃない。俺に、だ」
何と言って良いのか分からず、白藍は黙り込む。
近づいてきた白玄は、白藍から十分な距離をとった場所で足を止めた。
昔に較べ年をとったとはいえ、まだまだ偉丈夫である。
そのがっしりした体格は、白藍よりも大きい。
口を開いた白玄を白藍は両手を挙げて制した。
そして意を決し、話した。
「俺が五年もここに寄り付かなかったのは、・・・・・・あんたにとって俺はどうでもいい存在だと思ってたからだ。むしろ邪魔だろうってな」
白玄は、己の感情を真っすぐに表さない。
それは自制心に富んでいるからであり、彼我師としては非常に優れている。
だが、それが弟子を不安にさせることを本人は全く気付いていない。
「みんながな、あんたみたいに強くねえんだよ。大事に思ってくれてるならそう態度で表わしてくれねえと、分からないんだ」
昨晩の珠黄への態度と同様だ。
五年避けたのは、白藍が白玄を嫌うからではない。
好かれている自身がなかったからだ。
「煙管吸う習慣だってな、あんたが吸ってたからだ。あんたが倒れたのに当て付けてる訳じゃない」
まだ白藍はここで修業していた時、白玄は煙管を好んで使っていた。
しかしある日、白玄は裏の畑で倒れていた。気づいた白藍が急いで医師を呼び、事なきを得たが、原因は煙管の吸い過ぎだと言われたのだ。
あの時の白藍の恐怖は、言葉では言い表せない程のものであった。
それなのに白藍が煙管を愛用しているのを見て、白玄はそのことに対する当て擦りだと思っているようであるが、そうではない。
「倒れたことへの嫌味で吸ってるんじゃない。あんたが吸ってたからだ。真似してるうちに手放せなくなったんだよ」
「・・・真似?」
白藍は吐き捨てるような口調で返した。
「悪いかよ。親代わりの人間のやってたことを真似するのは、当たり前のことじゃねえのか。見てろよ、珠黄だっていずれあんたに似てくるぞ」
何故、喧嘩腰になっているのだろうか。
それは白藍が知りたい。
自分の情けなさに泣きたくなってきた。
――もうヤケだ。
開き直った白藍は、
「大体な、あんたは感情を見せなさ過ぎるんだ。こっちはどう反応していいか分からねえだろうが。あんたにその気はないだろうが、壁を作られてる気分になるんだよ」
言葉が、全く要領を得ていなかった。
何を言いたいのか、白玄には少しも伝わっていないだろう。
しかし、何も言わずに発つつもりだったのだから、台詞など用意してはいないのである。
「お前な――」
気が滅入ったようにその場へしゃがみこんだ弟子を見下ろし、白玄は冷静な口調で言った。
「いつもそんな調子で祭事をやってるのか?彼人と意思疎通出来てるんだろうな?」
落ち込みに輪をかけるような台詞であった。
白藍の告白よりも話術の方が、師として気になったらしい。
頭を抱えた白藍に、白玄は変わらぬ調子で続けた。
「高藍、お前覚えてるか?お前がここへ来て最初の頃、白禅のところへお前を連れていっただろう」
急に話を変えられ、白藍は訝しみながらも頷いた。
「ああ。庭で散々待たされた時だろ?」
落葉の時期であり、白藍は落ち葉を相手を一日中遊ぶしかなかった。
「そうだ。あの時な、俺はお前を白禅の弟子にしようとしたんだ」
「・・・は?」
思いも寄らぬ言葉に、白藍は固まった。
「どういうことだ?」
白玄は片目を眇めて、頭を掻く。
「山で鼻の垂れたガキを拾ったはいいが、自分で育てる自信がなかった。俺は知っての通りの性格だからな。だから、あの婆あに押しつけようとしたんだ」
聞いた途端に白藍は叫んだ。
「あんた、最悪だな!俺がさっき言いたかったのは、俺はあんたを嫌いじゃないが、あんたはどうなのか、ってことだぞ!それを・・・、ああ、もう、信じらんねえ。捨てようとした!?どんな師匠だよ!この鬼っ!」
月が完全に沈み、徐々に光が差してきた。
辺りが朝焼けに染まる。
だから――、と白玄は苦い顔をする。
「最後まで聞け。相変わらず血の気が多いな。あの時、白禅は俺にこう言った」
――まず己でやってみろ。駄目ならその時だ。そなたに他人と心からかかわる能力が欠如しておるのかもしれぬし、その子どもに運がないのかもしれぬ――
「あんたらなあ・・・」
呆れてそれ以上、言葉が出なかった。
駄目もとだったということか。
まるで実験台扱いである。
「お前にとっちゃ、そうかもしれんな。・・・だが、白禅は俺にもっと別の意味を見出した」
――だがそなたがその子どもを彼我師として育て上げられたならば、それはそなたにとって大きな光となろう。人に畏怖、威圧を与え、黒という彼我師から最も遠い名を冠せられたそなたが、もし仮に小さな幼子を一人真っ当に育てたとあれば、それはそなたが紛れもなく人間だという証明になろうよ白玄。修羅に子どもは育てられぬからな。その子ども、そなたの手で育てるがよい――
「分かるか高藍?お前の存在は、俺が血の通った人間だということを、俺自身に示す灯火だ」
「――灯火?」
「昨日言ったろう。白玄という名に圧迫されているのはお前だけじゃない、と。俺も、俺自身に押し潰されそうに感じる時がある」
白玄は歩を進め、白藍の目の前に立った。
すぐ目の前に、白玄が居る。
「お前が俺の技量を受け継ぐことは、無事に毎年集会へ出ることは、生きていることは、俺にとっては誇りであり、自分が血の通った人間であることの証明だ。――だからな、結果的に、お前は馬鹿だ」
急に罵倒された。
白藍はどんな表情をしてよいのか分からず、戸惑う。
「何でそうなるんだよ」
すると、白藍はふっと笑った。
例の、優しく、切なげな笑みだ。
「俺がお前を邪魔だと思ってると勘繰ったところが、だ。そんな訳ないだろうが。お前は俺の弟子だぞ、高藍」
嫌われてはいない、ということであろうか。
白玄は、軽く白藍の頭をはたいた。
「おい、間抜け面になってるぞ。ただでさえ付け込まれやすい性格してるんだ、少しは用心しろ」
言うと、白玄は白藍の横を通り過ぎ、腕を組んで家の壁にもたれかかった。
朝日が、白玄のいる場所を染める。
眩しさに白藍は目を細めた。
「行け。死ぬなよ」
長年しこりとなっていたものが、すうっと消えていくような気がした。
しばらく茫然と立ち尽くしていた白藍は、はっと我に返る。
「死なねえよ。禅のばばあと賭けたからな。今年以上の報告書を見せるって」
そうか――と白玄は僅かに笑った。
子ども扱いされているようで、何となく居た堪れない気持ちになる。
もう去ろう、と思い一旦は背を向けたが、しかしもう一つ、どうしても聞きたいことがあった。
足を止めて体ごと振り返る。
「なあ・・・。来年も、来ていいか?」
来年の今日も、同じように迎えてくれるだろうか。
それだけが、気がかりだった。
すると白玄は、
「聞くな。自分で考えろ」
と短く言い放ち、犬でも追い払うかのように右手を振った。
「情報を言語だけに頼るな。彼人と対峙する祭事における非言語情報の重要性は、嫌というほど教え込んだ筈だがな。少しは自分の頭で察しろ」
確かに幾度も言われ、白藍が最も苦手とする技術であるが、今はもっと別の言い方があるのではないか。
しかし。
「・・・ま、いいか」
これが、白玄という男である。
他ならぬ、白藍の師だ。
出会ってから十数年、やっと悟った白藍である。
苦笑して再び背を向けると、しっかりとした足取りで歩き始めた。
数十歩離れたところで右手をあげ挨拶しつつ、叫んだ。
「近くまで来たら寄るからな!」
返事は聞こえなかった。
だが下を向いて笑っているのだろう。
白藍は見慣れた男の姿を思い浮かべ、山を下っていった。
雪はまだ、深く深く山を包み込んでいる。
春はもう少し先のようだ。