【聖女】
剣を鞘に収めてニコニコと笑う少女に、呆気にとられるアルス。
武器を持っていることから、十中八九冒険者だろうか。騎士団という可能性も考えたが、それはすぐに思考から追い出す。そういう風貌には見えない。
見覚えのない顔だ。少なくともレイン・カルナの住民ではないだろう。町で見かけたことはないし、最近誰かが引っ越してきたという話も聞かない。
「お前は――」
――誰だ?
そう続ける前に、アルスはとあることに気がつく。
少女は確かにアルスのことを“ノア”と呼んだ。現代の名ではなく、前世の名を。
アルスはついさっき前世の記憶を取り戻したばかりなのだ。アルスがノアだということを他の誰かが知っているはずはない。
だとすれば、一体なぜアルスのことをノアと呼んだのか。「やっと見つけた」とはどういうことか。
この少女は何者なのか。
「……あぁ、やっぱり分かんないよね。ボクのこと」
そんなアルスの疑問を見透かしたかのように少女は呟く。
アルスは申し訳なく思いながら頷くと、少女の笑顔に寂しさの色が混ざったように見えた。
「……まぁ、そりゃそうだよね。あの頃と今のボクじゃあ全然違うし……。ボクもノアの技の名前を叫んでるのを聞いてなかったら、キミがノアだなんて分からなかったかもしれないし……」
「――ちょっと待て!何でお前がノアの技を知ってるんだ!?」
【勇者】の剣技は全てが我流だ。加えてそれを誰かに教えるようなことはしていない。それから五百年も経った今となっては【勇者】の剣技を知る者はいないはずなのだ。
知っているとすれば、今も昔も共に魔王と戦った仲間達だけ。そこまで考えて――アルスの全身に衝撃が走る。
「……まさ……か……!?」
目玉がこぼれんばかりに目を見開いたアルスに、少女は微笑む。
それは先程までの子供のような無邪気な笑顔ではなく、全てを慈しむような柔らかい笑顔。
その笑顔にとある人物の姿が重なる。怪我を負った者全てを癒す祈りを捧げる、かつての仲間の一人の姿と。
――そして今もなお、【聖女】と人々から慕われる美しい女性の姿と。
「レントロー……ゼ……?」
アルスはその女性の名前を呼ぶ。
呼んでおきながら、そんなはずはないと頭の中では否定していた。
死んだはずの魂が新たな生を受けたというだけでも奇跡的なことなはずなのに――いや、例え魂というものが輪廻して転生するものだとしても、同じ時代に生きて死んだ二人がまた同じ時代に生まれ変わって再会するなど、どんなおとぎ話の世界だ。
信じられるはずがない。一体どれほどの偶然が重なれば、そんな奇跡が起こるというのか。
しかし――
「……うん」
そう目の前で頷きながら一筋の涙をこぼす少女に、【聖女】の姿が重なって離れない。姿かたちも雰囲気も口調も声色も、全くの別人のそれだというのに。
どんな思考よりも強く、強く、まるで魂が訴えかけてくる。
目の前にいる少女は、あの【聖女】の生まれ変わりだと。
【勇者】がアルスとして生まれ変わったのと同じように、この時代に再び生まれてきたのだと。
アルスは、それを間違っていると思うことができなかった。
そして――
「……久しぶりだな、五百年ぶり……か?」
そう言って、処理しきれない感情をそのままに笑うアルス。その胸に、己の感情をぶつけるように少女は飛び込んだ。
「ずっと……ずっと会いたかった、ノア……!」
アルスが驚きの表情を見せたのは一瞬。その返事の代わりに少女の頭に手を乗せ、優しく撫でる。
不思議なものだ。
アルスがノアとしての記憶を取り戻したのはほんの少し前のことだというのに、ずっと前からこの瞬間を待ち望んでいたような気がする。
きっと、記憶など無くとも、この魂が仲間のことを覚えていたのだろう。
「……なぁ、レントローゼ」
「……ん?」
指で涙を拭うかつて聖女と呼ばれていた少女に、アルスはこう続けた。
「……奇跡って、本当にあるんだな」
***
アルスと少女は、群生地の近くにある泉の畔に移動した。ゴブリンの血で汚れてしまった薬草を洗うためである。
さすがに血塗れの物をそのまま依頼主に渡すわけにもいかない。
「そっか、今はアルスっていう名前なんだね」
「あぁ。お前は今はなんて名前なんだ?」
薬草を泉に浸し、左右に揺らすように洗いながらアルスは問いかける。
「今はね、レンっていうんだ」
少女――レンはアルスの手の動きを目で追いながら答えた。
「レンか、良い名前じゃないか。前の名前とちょっと被ってるんだな」
「ただの偶然だけどね。……ねぇ、ノ……アルス」
「うん?」
レンはアルスの顔に視線を移す。
「アルって呼んでいい?昔みたいに、二文字の方が呼びやすいんだ」
「好きに呼んでくれ。あっ、ノアだけは勘弁な」
「フフッ、分かってるって」
【勇者】も【聖女】もとっくにこの世に存在しない過去の偉人の名前だ。そんな名前で呼びあってたら変な目で見られるだろう。
「……手伝おうか?」
自分が斬ったゴブリンの血で薬草が汚れたことを気にしているのか、レンは手伝いを申し出る。
「いや、大丈夫だ。もう少しで終わるしな」
元はと言えば、アルスがゴブリンの群れに対応できなかったことが原因だ。
落としかけた命を救ってもらったのだから、これ以上手助けをしてもらうのは忍びない。それがただ洗うだけの簡単なことであっても。
本当は殴られた右肩がまだ痛むのだが、それは表に出さないようにしていた。前世から剣の腕を受け継げていたら余計な怪我を負わずにすんだのに、と思うがそれは無い物ねだりというやつだろう。
「そういえばまだ礼を言ってなかったな。……ありがとう、レン。助けてくれて」
「どういたしまして。治癒魔法は使えなくなっちゃったみたいだけど、代わりに剣の腕を磨いた甲斐があったよ」
「あぁ、すごかったな。誰かに教わったのか?」
「ううん、【勇者】の剣を真似てみただけなんだ。いっつも後ろから見てたから、イメージはバッチリだったよ」
「…………マジ?」
過去の記憶の中の、しかも他人が使っていた剣を真似てそこまで強くなったということらしい。転生を経て回復魔法の才能を失った代わりに、とんでもない剣の才能を手に入れたようだ。
剣に代わる才能らしきものが思い当たらないアルスにとっては羨ましい限りである。
「……そんなんで普通はそこまで動けるようにはならんぞ。凄いな」
「そ、そう?フフッ、アルに褒めてもらえると嬉しいな。……ねえ、その、昔みたいに撫でて欲しいな」
少しだけ頭をこちらに傾けるレン。アルスは手についた水滴を拭うと、その頭を軽く撫でた。
「んっ……えへへ」
レンは嬉しそうに頬を緩ませる。
そういえばこいつは昔から頭を撫でられるのが好きだったな、とアルスは思い出す。
撫でてほしいときは今のように、さりげなく頭を向けてきたりしたものだ。王女や聖女という立場だからか、それとも過去との性格の違いか、今のように露骨に要求してきたりはしなかったが。
アルスはレンの頭を撫で続ける。
小動物のように目を細めるレンの姿を見ているうちに、自分に妹がいたらこんな感じだったのだろうか、などと妄想し始めたが――
――ふと耳に飛び込んできたガサガサと茂みが揺れる音が、それを中断させた。
風に揺られたにしては不自然なその音は、アルスの額に嫌な汗を流させる。
またしても魔物が現れたというのだろうか。アルスは恐る恐る後ろを振り向いた瞬間――骨まで響く衝撃が左肩を襲った。
「ぐぁっ!?」
こぶし程の大きさの石が、アルスの左肩で跳ねて泉に落ちていく。それに引っ張られるようにアルスも泉に落ちそうになったが何とか耐え、鈍い痛みに耐えながら顔を上げた。
――その先にいたのはまたしてもゴブリンだった。
(また……か!いくらなんでも数が多すぎだろ!)
ゴブリンの群れの個体数は精々五、六匹が普通だ。先程の十匹の群れですらかなり珍しいというのに、更に現れたのは更に増えてなんと十二匹。
一体どれだけの個体数がこの場所に生息しているというのか。こんなことは今まで無かったというのに
「グギャギャ!」
ゴブリンは一斉に棍棒を振り上げて威嚇する。アルスに石を投げた個体は急いで混紡を拾い、遅れて威嚇のポーズを取った。
右肩に続き左肩まで怪我を負わされたアルスは剣に手をかけることすらままならない。
「レン、さっきは手伝いを断っといてなんだけど、こいつらを追い払うのを手伝ってくれ」
自分ではどうしようもできずレンに助けを求めたが、返事が返ってこなかった。
「……レン?」
不審に思って目線だけを向けると、俯いているレンの姿が目に入る。そのせいで顔に影が落ち、どんな表情をしているのかよく見えない。
「……くも……」
聞き取れないほど小さな声で何かを呟いたかと思えば、レンはゆっくりと立ち上がっておもむろに剣の柄に手を動かし、鞘から剣を抜く。
――その瞬間、一番近くにいたゴブリンの首がゴトリと音をたてて地面に転がり落ちた。
「なっ……!?」
何が起こったのか、一瞬アルスには理解できなかった。ただ、レンが剣を抜いた瞬間に銀色の閃光が走ったようにしか見えなかった。
それはゴブリンにとっても同じことのようで、仲間が殺されたというのに、怒りも困惑もせずに凍りついたように立ちすくんでいた。
「よくも……」
レンは一歩大地を踏みしめるように歩を進める。
驚くほどドスの効いた声だった。一瞬、誰の声だか分からなくなってしまうほど。
「よくもよくもよくもよくもよくも……!」
更に一歩、歩を進める。
呪詛のように繰り返されたその言葉は、殺気にまみれていた。
ゴブリンの表情が青ざめる。小さな体だというのに、まるで巨大な化け物のような威圧感を発する目の前の人間に、誰もが恐怖していた。
「よくもッ!アルを傷つけたなァァァァ!」
爆発するような怒りの絶叫。黒い気配がレンを中心に拡散し、全身を貫く。天使のような容姿の悪魔がそこにいた。
背筋が凍り、全身が粟立つような感覚を覚える。矛先を向けられていないアルスですらこれなのだから、ゴブリンたちが感じている恐怖は想像を絶するだろう。
その証拠に、もはや戦意というものが感じられなかった。
しかし、そんなことは関係ない。
レンは再び剣を振るい、銀色の一閃を描くと、再び一匹のゴブリンの首が落ちた。
吹き上がる真っ赤な噴水が地面を濡らすよりも先に、更に一匹、もう一匹とその命を断っていく。
それは、もはや戦いとは言えなかった。一方的な殺戮が繰り広げられるその光景は、蹂躙という言葉を具現化しているようだった。
あっという間にゴブリンの数が半分まで減っていた。
武器を下ろし、逃げ出そうとするゴブリンをレンは逃がさない。
戦意を失った者を後ろから斬りかかるのは騎士道精神に反するなどと言うが、そんなものはレンには関係なかった。瞬間移動のごとく間合いを詰めると同時に首を落とし、別の方向に逃げたゴブリンも同様に凶刃の餌食になっていく。
――気がつけば十二匹ものゴブリンの群れも、残りはたった一匹。逃げ出そうにも足が冗談のように笑い、立つことすらできなくなっていた。
声にならない声を出そうと口をぱくぱくさせているのは、命乞いだろうか。
レンは氷の視線でゴブリンを見下ろす。
ゴブリンの腕からは既に血がにじんでいた。それはこの一連の蹂躙でつけられたものではなく、始めから負っていた傷だ。
「そうか、さっき逃がしたゴブリン……」
それはアルスがレンに助けられたとき、一匹だけ逃げ出したゴブリンだった。新たな仲間を連れて仕返しに来たのだろう。
これで少なくとも二十一匹の群れだったことになるが、衝撃的な光景が目の前で繰り広げられたせいか、アルスはそれに驚くことはできなかった。
「……キミを逃がしたせいで、ボクはとっても不愉快だ。余計な情けをかけたことを後悔してるよ」
レンは剣をゆっくり振り上げると――
「――消えろ」
冷酷な風切り音と共に、最後のゴブリンの命が切り裂かれた。
あまりに容赦のない蹂躙。
鬼、悪魔、修羅――そういった言葉がアルスの頭の中に並ぶ。
アルスに見せていた笑顔は幻想だったのではないかと思うほど冷酷に無表情なその顔は、子供が見たら間違いなく泣き出すだろう。あるいは、泣く子も黙るかもしれない。
かつて聖女と呼ばれていた者とは思えないその気迫と殺気に、アルスは絶対にレンの耳に届かないように小さく呟く。
「……あれ?お前……そんな奴だったっけ?」