受け継がれない力
ゴブリンの棍棒が振り下ろされる。ブオンと豪快に音を鳴らし、アルスの鼻先をかすめた。
避けられたのは攻撃を見切ったからではない。突然現れたゴブリンに驚いて反射的に体を引いた結果、偶然避けられただけだ。
しかし避けた結果、元々いたゴブリン八匹に加え、背後に現れたゴブリン二匹を追加した合計十匹のゴブリンの中心に自ら飛び込むかたちとなってしまった。
完全にアルスを包囲したゴブリンは踊るように跳び跳ねる。まるで勝利を確信したかのように。
いや、実際に勝敗は決したのかもしれない。まだ本格的にぶつかり合ってもないというのに、アルスには勝てるビジョンが見えなかった。
――マズい、マズい、マズい!
アルスは心の中で焦燥に叫ぶ。
四方八方を塞がれ、退路はなし。
複数体を相手にできる実力もなければ、技術もない。
他方向から同時に来られれば捌ききることは不可能。
このままでは確実にやられる。数に圧されて殺される。
――死ぬ?こんなところで?
そう、死は間近に迫っている。つい数時間前まで町で平和に過ごしていたのが嘘のように。
冒険者とは常に死と隣り合わせだ。いつ、どんなときに、何が原因で命を落とすか分からない。
そして、その時がアルスにも現れた。死神の鎌はすでにアルスの首を狙ってもたげられている。
嘲り笑うゴブリンの声が頭に響く。ブオンブオンと棍棒を素振りする音が心臓を揺さぶる。全てが死を告げる囁きに聞こえ始め、心臓がドクンと脈を打つ。
あらゆるものの動きがゆっくりに感じ、頭が真っ白に染まる。
アルスは顔を伏せる。
恐怖心からではない。アルスの心を覆い尽くすのは、悔しさだった。
情けない。こんな依頼もこなせないとは。
情けない。ゴブリン程度も倒せないとは。
こんな魔物、かつての自分だったら障害にすらなり得ないのに。
――ん?
――かつての、自分?
かつての自分とは、一体どういうことだろう。
一体自分は何を思っているのだろう。
死を目前にして頭が狂ったのだろうか。
アルスは自分自身が考えた事に疑問を持つ。すると――
――次の瞬間、全く別の光景が目の前に広がっていた。
(な、何だ……!?)
先程までいた森の中ではなく、そこに広がるのは大きく抉れたクレーター。全ての雲が吹き飛んだ空。
何もかも無に還ったような空間の中、アルスは突然横たわったような視点へ推移した。
ゴブリンの姿などどこにもなく、代わりに目の前に倒れているのは、美しいという言葉そのものを表したような女性――【聖女】レントローゼ。
『――そんなに悲しい顔をしないで、ノア』
(……これ、は……!)
――それは、アルスが何度も夢で見た光景だった。
また夢を見ているのか、はたまた幻か。だが、いつにも増して現実的なものに感じられた。
レントローゼの手が、アルスの頬を撫でる。
頬を這う柔らかな感触が、その手の指先までの繊細な動きが、失われつつある体温が、女性の吐息や視線の動きが――
『魂は廻っている……。わたくしたちの魂もまた、巡り廻ってこの世界に帰ってくる……。大丈夫、きっと、また会えます……。だから、笑って』
――そう言って浮かべる聖女に相応しい微笑みも、全てに覚えがある。
それは夢で見たからではない。
それを見て、聞いて、感じた確かな記憶が、アルスの頭の中にある。
――あぁ、そうか。そういうことか。
今まで見てきた、【勇者】の夢。
【聖女】レントローゼの名を聞いたときに感じた強烈な懐古感。
そして今見ている幻視の全てが繋がり――アルスは理解する。
――俺はかつて、こうして死んだんだな。
真っ白に染まった頭の中に、次々と記憶が浮かび上がってくる。
信頼できる仲間たちと共に冒険したあの日々を。
どんな困難も乗り越えてきた眩しい時間を。
魔王を倒すという困難を成し遂げた輝かしい瞬間を。
そして――魔王の自爆に巻き込まれ、仲間たちと共にこの世を去った絶望の最期を。
俺は、俺の前世は――――。
――その直後、アルスの意識が元の場所に戻された。
十匹のゴブリンたちが醜く口元を歪ませ、中心にいる人間を棍棒で滅多打ちにするのを待ちきれないと、腕をぐるぐる回す。
先程までどうあがいても絶望しかなかったこの危機的状況を、アルスは打破する術を思い出した。
複数のゴブリンに囲まれたのならば、全てのゴブリンを同時に打ち倒してしまえばいい。
それを可能にするのは、伝説と謳われる【勇者】が――前世のアルスが自分で編み出した技。
自らが生み出した分身と同時に多方面を攻撃する剣技。
かつての自分の姿を思い浮かべ、流れるような動作で剣を構え直す。
頭を冷静に、体に力を込め、その技の挙動をイメージする。
あらゆる敵を同時に切り裂く無数の剣は、舞い羽ばたく翼の如く。
「我流剣技……〈十翼斬〉!」
アルスの体から飛び出した十の分身が、周囲の空間全てに銀色の閃光を走らせる。悲鳴をあげる間もなくゴブリンの体が一刀両断され、十個の肉の塊となって地に倒れる。
それは、瞬きする間よりも一瞬。
その一瞬で絶望的状況をひっくり返し、全てが終わる。
――――。
――――はずだった。
「…………あれ?」
間の抜けたアルスの声が響く。
忙しなく動いていたゴブリンたちもまた唖然と動きを止める。何かをされたのかとゴブリンたちは自分の体を見回し、何も起こっていないことが分かると、その視線が再びアルスに集中した。
アルスはただ呆然と立ち尽くす。
状況は何も変化していない。
そう、アルスはただ技の名前を叫んだだけで、実際には何も起こっていなかったのである。
十の分身を生み出したことも、ゴブリンを全て同時に切り伏せたこともただの頭の中のイメージであって、実際には何もできていなかった。
「な、何で!?どうして!?」
自分で編み出した技だというのに何も発動しないというのは、一体どういうことだろうか。
アルスはその答えを探るようにブンブンと剣を振る。
それは自分がイメージしている動きとは程遠い剣さばきだった。動きは鈍く、太刀筋もぶれていて鋭さがない。
ノアとしての記憶があるというのに、アルスという体が全くついてこれていない。かつての自分と現在の自分では、天と地ほどの差があるようだ。
(転生したのに、実力までは受け継いでないってことかよ!)
アルスがイメージする動きができないことに苛立ちを覚えていると、唖然としていたゴブリンの一体が動き出したのが視界の隅に映った。
ゴブリンの体が急接近し、棍棒が振り上げられる。
アルスはそれを何とかかわしたが、ここでも自分の体の重さに驚いた。それどころか、かつてと比べて反応まで明らかに鈍くなっている。下手に過去の記憶を取り戻したせいで、まるで今の体が自分のものではないような感覚に陥っていた。
すかさず二匹目のゴブリンが接近する。それと同時に三匹目も飛びかかるようにアルスに襲いかかる。
二匹目の攻撃は何とか弾き返せたものの、動揺が色濃く残ったアルスは、その次の攻撃までは捌ききれなかった。
「ぐはっ……!」
棍棒がアルスの右肩を捉え、鈍い音を鳴らす。骨を直接殴られたような激痛に、アルスの悲痛の声が漏れた。
体を全体を貫くような衝撃に、アルスは体を大きくふらつかせる。
それを好機と、残りのゴブリンたちが一斉に飛びかかった。
残り七匹からの同時攻撃。右肩を負傷したアルスにはそれを捌く術はない。
いや、例え負傷していなくとも、アルス程度の実力ではどうしようもなかった。
(せっかく生まれ変わったっていうのに、結局殺されるのかよ。……情けない最期だな)
アルスは自分を皮肉るように笑う。
前世の記憶など何の役にも立たない。
きっとあれは走馬灯にようなものだったのだろう。
ここで殺される運命は既に決まっていたのだ。
アルスは次の瞬間に来るであろう激痛に身を強張らせ、その先に待ち受ける自分の運命を受け入れるべく目を閉じた。
――それから体感にして数秒。
激痛どころか殴られたような衝撃にすら襲ってこない。
(――あれ……?)
代わりに、キィンと風を切る透明な音がした。
続けて聞こえたのは、いくつもの何かが地面に倒れたような音。
アルスは恐る恐る目を開く。次に見える光景が三途の川でないことを祈りつつ、ゆっくりと。
そして見えた光景は、目を閉じる前とは変わらない森の中だった。
ただ違うのは、あれだけいたゴブリンの姿が消えていることだった。
視線を下に向けると、そこにあったのはゴブリンだった魔物の死骸。真っ二つに両断されて緑を赤く染める肉の塊が、何が起こったのか分からないといった表情のまま絶命していた。
何が起こったのか分からないのは、アルスも同じだった。
ゴブリンたちが飛びかかってから攻撃を加えるまで、アルスが目を閉じた一瞬の間に、十匹ものゴブリンが全て切り伏せられている。かつてのアルス――【勇者】ならばそれも可能だっただろうが、残念ながら今のアルスにそんな力はない。
殴られた右肩の痛みすら忘れさせられるような異様な光景の中心に、アルスはたった一つだけ立っている姿があることに気がつく。
一体どこから現れたというのか。それは、シンプルな装飾の鞘を腰に差した剣士のようだった。
後ろ姿から分かるのは、快晴の空の如く透き通った水色の髪と、アルスよりも一回り以上小柄な体躯。鎧の類いは身に付けておらず、動きやすさを重視した少年のような服装に長めの黒いマフラーを首に巻いていた。
手に持った剣からは血が滴っており、その剣士がゴブリンを一掃したであろうことが見てとれる。
「……ギ、ギギャ……」
絞り出すようなゴブリンの声が聞こえる。
唯一致命傷には至らなかった一匹のゴブリンが、腕から血を流しながら立ち上がった。
圧倒的な力の差をあの一瞬で悟ったゴブリンは、酷く怯えた様子で剣士を見上げる。死に怯える生き物の本能だろう、これまでに見たこともないほどの速度で逃げ出し、瞬く間に森の奥へと姿を消してしまった。
ゴブリンがいなくなり、剣士はゆっくりとアルスの方へ振り向く。
抜き身の剣を持ったまま振り向く動作に何とも形容しがたい恐怖感を覚えたが――すぐに霧散した。
それは、子供のような可愛らしさを持った少女だった。一見して少年のようにも見えるその容姿は、ショートストレートな髪型も相まって中性的な端麗さも兼ね備えている。
十匹のゴブリンを瞬殺できるどころか魔物とすら戦ったことのなさそうな無垢な顔をしており、艶のある健康的な肌が森に差し込む光の帯を浴びて輝いていた。
そんな少女が、身長の差から見上げるようにアルスの顔をじっと見つめる。そして、天使のような笑顔を浮かべてこう言った。
「――やっと見つけたよ、ノア!」