弱者
ゴブリン・ロードにとって、これはただの娯楽だった。
命令に従う僕たちを使い、自分を頂点とした国を作り、近辺の資源を食い荒らした後は別の目ぼしい場所に移動する。そこで新たな国を作り、また自分だけの領域を作り上げる。それがゴブリン・ロードにとっての日常だった。
領域に入り込んだものは例え圧倒的な力を持つ大鬼だろうと、森の暗殺者とも呼ばれる森林蜘蛛だろうと――ヒトだろうと、ただの暇潰しのための道化にすぎない。
圧倒的な数で押し潰してしまえば、皆等しく無力。多少僕がやられようが、世界中に生息する適応力と繁殖力を持つゴブリンなど、代わりはいくらでもいる。
――取るに足らない雑魚。
――恐れる必要の無い弱者。
そう侮られ続けるゴブリンに成す術もなくやられる道化の絶望の表情を見ること、それがゴブリン・ロードにとって何にも勝る快感だった。
本能のままにただ獲物を狩る獣ではなく、高い知能を持つ高位の魔物が故の残酷な毒牙。それに抗おうと、必死に抵抗を試みる人間どもが今回の道化。
そのうちの一人が今、力尽きて倒れた。
ゴブリン・ロードは口角が上がるのを抑えきれず、体を大きく揺らして笑う。身につけた貴金属のアクセサリーがじゃらじゃらと鳴った。
もっとはっきりとこの眼で人間どもが絶望する顔を見るため、ゴブリン・ロードは高台へと移動する。幾重にも重なる僕の軍団の壁の向こうで、慌てふためく人間の姿がよく見えた。
「畜生!……畜生ォ!!ふざけやがってクソ野郎どもがぁああ!!」
一行の中で一番でかい大男が半狂乱に陥り、吠える。まだ絶望よりも激昂の方が勝っている人間がいることにゴブリン・ロードは若干の苛立ちを覚えたが、すぐに思い直した。
そういう風に気を強く振る舞っている者ほど、どん底に落ちた時の表情は極上のものになるのだ。
最初に打ちのめした森妖の男を助けるために何かやっていたようだが、そんなものは無駄な努力。
あの人間どもはもう詰んでいる。後は精々足掻く様を楽しませてもらうとしよう。
ゴブリン・ロードは再び高みの見物の姿勢に入ろうとした――その時。
「――オイ、小娘!?」
大男の脇をすり抜け、小さな人間が前へ歩き出した。
ゴブリン・ロードは眉をひそめ、自分の中の警戒レベルを上げる。見ていた限りでは、あの人間は一行の中で最も強いと判断していたからだ。
「何やってんだ!!……まさか突っ込む気か!?」
小さい人間は歩みを止めない。その手に持った剣が鈍く輝く。
それを見たゴブリン・ロードは胸がざわめくのを感じた。
今までの優越感を全て塗りつぶすようなそれは、生物としての本能の部分が発する警告。
――あの人間は危険だ。今すぐ消さなければならないものだ。そう警鐘を鳴らしていた。
「よせっ!相手は何百体いると思ってやがるんだ!!いくらてめえでもこんな数相手に――」
「――関係ない」
大男の言葉を遮る、耳にした者が身震いするほどの黒い感情を孕んだ冷たい声。
ゴブリン・ロードの心臓がバクンと跳ねる。ざわめきを通り越し、破裂するのではないかと思うほどの動悸に苛まれる。
小さな人間から発せられる禍々しい気に肌が粟立ち、口の中が渇き、指先がチリチリする。
それはもはや敵意や殺意といったものを超越した、死の気配そのもののようだった。
――何だあれは?本当に人間なのか?
決して触れてはいけない逆鱗に触れてしまったことを、ゴブリン・ロードは瞬時に後悔する。
そして――
「アルを傷つける奴は、ボクが一匹残らず潰してやる……!」
――ゴブリン・ロードは、自分もまた弱者の一種であることを自覚した。
***
――あれから、どれくらいの時が経ったのだろう。
意識を取り戻したアルスはゆっくり目を開く。
体を起こし、頭部に激しい痛みを感じて額を押さえる。ぬるっとした感触を感じて手を離すと、その手は血で赤く染まっていた。
ぼんやりしていた視界が徐々に焦点が合っていき、アルスは自分がまだ洞窟の中にいることを認識した。
「よかった……!目が覚めたのね」
側で屈んでいたストラが安堵の息を漏らす。
目が覚めたら全滅していた、などという最悪の事態にはなっていないようだった。
「……あぁ、悪い。俺にも〈下級治癒魔法〉してくれたんだな」
「派手に血が出てたから心配したけど、エトールに比べたらそれほど手間じゃ無かったわ……」
「そうか……ありがとな。俺、どのくらい気絶してた?」
「……五分くらいね」
「そんなにか!」
気絶していたにしては短い時間だが、気絶する前の状況が状況なだけに、五分という時間はとてつもなく長い時間に感じた。
「あれからどうなったんだ!?ゴブリン・ロードは!?」
「…………」
ストラは何も言わず、顔を別の方向に向ける。
その先にいたのはヴォルグだった。何をするでもなく呆けるようにその場に立ち尽くし、正面を眺めていた。
「なんだよ、一体どうしたんだ……?」
アルスは立ち上がる。頭の瞬間的な痛みに一度ふらつきながらも、ヴォルグの横に並んで同じ方向を見た。
「……っ!」
そこに広がっていたのは、まさに地獄だった。
死屍累々と重なる大量のゴブリンたちの死体。その血が水溜まりのように広がり、濃厚な血の匂いが充満していた。
その奥にはまだ生きているゴブリンたちが残っている。しきりにキョロキョロと周囲を見る様は、何かに怯えているように見えた。
「ギョブァ!!」
その内の一体の首が飛ぶ。連鎖するようにその隣の首も飛ぶ。
ゴブリンたちの間をすり抜けていく影が、まるで豆腐を切るかのようにその首を落としていく。
アルスは目で追うのもやっとのその影に目を凝らすと、見馴れた姿が見馴れた太刀筋で剣を振るっているのを何とか目視する。
それは、氷のような表情をしたレンだった。
殺意が顕在したかのような“黒い力”が彼女を中心に渦巻き、嵐のような力が剣に集約する。それを振るった軌道が黒い線を描く。
それだけで数多のゴブリンの命が散っていく。
触れるだけで魂を持っていかれそうな黒い力の余波がこちらまで届き、アルスは背筋に氷を押し付けられたような感覚を覚える。
「……オイ、小僧」
呆然と立ち尽くし、冷や汗を滲ませたヴォルグが口を開く。
包囲網を展開していたゴブリンたちもレンの迫力に戦慄いてパニックになり、もはや陣形は破綻していた。混乱するゴブリンは次々と無慈悲に命を絶たれていく。
その悲惨な光景を作り出しているレンを見たヴォルグの声は、驚愕と戦慄にまみれていた。
「あいつは、一体何なんだ……?」
その質問にどう答えるべきか、アルスには判断できない。
レンが五英雄の生まれ変わりであると言うべきだろうか。言ったとしても信じてもらえるのだろうか。
例え信じてもらえるのだとしても、本当に言ってしまっていいのだろうか。
アルス自身がどう思うかは別として、五英雄はその呼称の通り英雄である。日曜学校でも救世の英雄として取り上げられ、多くの冒険者の目標であり、人々の憧れでもある。
その中の一人――慈悲と慈愛に満ちた英雄と呼ばれ大勢から憧憬される【聖女】が、あんな血塗れの地獄絵図を作り出している張本人だと言ってしまっていいのだろうか。
現代に伝わる【聖女】の人物像は、そのままアルスの記憶の中にある彼女の人物像と同じと言ってもいい。
そんなイメージとかけ離れた目の前の光景は、アルスですら衝撃を覚えざるを得ない。
だが、仲間の知られざる一面を見たのと、五百年も語り継がれる憧れの英雄のイメージが崩壊するのでは、受ける側のショックの度合いが全く違う。
憧れは失望へと変わり、大きな力は恐れの対象となる。それはきっと、レンにとって生きづらい世界を生み出す要因になるだろう。
「……その話は後にしよう。それよりも、やるべきことはまだある」
アルスが打ったのは逃げの一手。考えが纏まらず、回答を先送りにする。
逃げと言っても、今はそんな話をしている場合ではないのも事実である。
アルスの瞳が、混乱するゴブリンたちの波の奥でゴブリン・ロードが絵に描いたような忍び足で移動している姿を捉えたのだ。
その向かっている方向を目で追うと、その先にはアルスたちが入ってきた出入口があった。
「……確かにてめえの言う通りだ。今はとにかくこっから出るのが先だな」
パニックになりながらもゴブリンたちが洞窟から逃げ出さないのは、ゴブリン・ロードの命令がまだ生きているからだ。ゴブリン社会において、上位の存在の命令というのは絶対なのだろう。
数百匹を数えるゴブリンを統率できていたのは、その強い影響力があるからだ。統率の取れた軍団というのは非常に厄介で強力であり、だからこそゴブリン・ロードは勝利を確信していた。アルスもゴブリン・ロードを倒すことは一旦諦め、とにかく全員生きて逃げることを考えていた。
ゴブリン・ロードにとってもアルスにとっても誤算だったのは、レンという存在の持つ力が想像を越えていたことだった。
軍団が瞬く間に瓦解し、歯が立たないと分かったゴブリン・ロードは軍団を囮に逃げることを選択した。
ならばアルスが取るべき選択は、レンが軍団を掻き乱している間にゴブリン・ロードを討つこと。
エトールのことも心配だが、ここでゴブリン・ロードを逃がしてしまえばまた別の場所で被害が出るかもしれない。より多くの軍団を率いて、今度は町を襲うかもしれない。
それだけは絶対に避けなければならなかった。
「せっかくレンが作ってくれたチャンスだ。あいつを逃がすわけにはいかない。絶対にここで仕留めてやる!」




