ジンバブエの花
ちょこっと雑学
ジンバブエの花
2017.06
* 今回、文中に「黒人」や「白人」が出てきますがどうぞご容赦願います。
ジンバブエ(ジンバブエ共和国)
「ジンバブエ」はアフリカ大陸の南部に位置し、首都はハラレ、共和制の国家です。
19世紀後半にイギリスの南アフリカ社会に統治され、第一次世界大戦後はイギリスの植民地に組み込まれてイギリス領の南ローデシアとなりました。
ふ
人種差別がまかり通った時代であり、国土のほとんどは白人農場主の所有地とされて現地住民達は先祖の墓参りすら自由には出来ない時代が長く続き、第二次世界大戦が終結した後も植民地のまま1965年には世界中から非難される中で白人を中心にしたローデシア共和国の独立を宣言して人種差別政策を進めていきますがこの時、国際的には「国」としては承認されずイギリスに属する自治領のようでした。
しかし黒人が選挙権を獲得した1980年の総選挙によって議席の20%が白人固定枠という厳しい制約下ではありましたが、黒人が過半数の議席を獲得してジンバブエ共和国が成立して独立を宣言、この土地の古い名前「ジンバブエ」が国名として復活しました。
長年の白人支配によってヨーロッパの穀物庫と言われれるほどの収穫量を生み出していたジンバブエ(ローデシア)でしたが、奪われていた国土から白人を追い出した結果として農作物の管理や農園の経営のノウハウも失う事になり収穫量が激減していき、また政治的にも外交経験がほとんどない政府でしたので国家としての運営が著しく悪化していくことになり、その混乱は現在まで収まることなく続いてしまっています。
悲しいことですがジンバブエも含めてアフリカの歴史は、気の遠くなるような時間と白人の略取によって、まるで消しゴムでゴシゴシと消されたように古代には「何も無かった」とされて封印されています。
16世紀のヨーロッパが中世と呼ばれていた頃に白人の入植者たちがこの地へとやって来ます。
この時アフリカの黒人社会には歴史を示すものが無く、文字も無かったので古い歴史は口で伝える物語しかありません。
これを知った白人達はアフリカの黒人が高度な技術を使って巨大な建造物や都市国家を「作れるはずはない」と思い込んでいきました。
そのため入植者たちは文明的に未開と決めつけたアフリカの黒人達を労働力として使っていき、各地に巨大な農園が作られていきました。
19世紀になり本格的に白人の入植が始まると酷い差別意識を持つものも流れ込むことになり、それまでの白人と黒人の関わり方を一変させていくことになります。
そのうちに現地の人達に伝わる物語に「王」や「宮殿」「墓」などの話があるのに感心を持つ者が出てきて、聞いた話を確かめようとにわか探検家が増えて現地の人に案内をさせるのですが、それらの物語ができてから時間が経ち過ぎて古い伝承を確認することが出来ないでいました。
しかし、かつて南アフリカ東海岸でアラブ商人やインド商人と金などが取引されていたことは知られていたので、それら古い伝承地には財宝が眠っていると考える者も出てきて、さらには物語に出てくる「王」や「宮殿」はアフリカに黒人が来る以前に白人が作った失われている白人文明なのだと信じる者まで出てくるのです。
そんな中で、1860年代後半にドイツ人宣教師のA・メレンスキーが地元に伝わる伝説でショナ族の居住地にあるという巨大な遺跡群はキリスト教に伝わるソロモン王に貢物を届けた「シバの女王」の宮殿跡に違いないと思い込み、それを同じドイツ人の若い探検家カール・マウフに伝えます。
しかし現地の黒人達は古い伝承とともに呪術的な祟りを恐れていて、先祖の霊などを侵すと恐ろしい祟りがあると強く信じていたので肝心な場所などはハッキリとしていません。
そしてマウフは祟りを恐れて嫌がる現地案内人を説得して砂漠の中に入り、とうとう1871年に石造りの遺跡を発見しました。
巨大な石の壁で囲まれた遺跡には黄金はもちろん、大規模な文明の痕跡を見ることができたのです。
マウフは遺跡の中で梁として使われていた木材に杉の香りがするとして木材をレバノン杉だと信じ込み、この場所までレバノン杉を運べるのはフェニキア人しかいないと考えます。
あまりにも大きい石造りの遺跡はエルサレムのソロモン王の宮殿と同じ作りだとし、この遺跡はソロモン王に謁見をしたことがある「シヴァの女王」がエルサレムで見たソロモン王の宮殿を模して作ったものだと断定しました。
そして現地の人達が石造りの大きな家と言う意味のジンバブエを英語になおし遺跡を「グレート・ジンバブエ」と呼ぶようにしました。
マウフの話はアフリカの白人社会で瞬く間に大歓迎を受けることになります。
なぜなら、無いと信じている黒人による古代文明を、聖書の時代の白人が作ったものだとするならば、文明を持たないアフリカの黒人達を遺跡となるほどの昔から支配をしてきたのだとして、白人によるアフリカでの搾取に正当性を持たせることができると考えたのでした。
遺跡から発見された黄金は溶かして運び出され、永久に戻らなくなり、人々の生活を知るために貴重な当時の生活用具などは無残にも土砂と一緒に破棄されていきました。
それらは金のような目先の価値は無いかもしれませんが、アフリカの歴史を知るためには貴重な、とても貴重な考古学的な物証だったのです。
短絡的な価値観で発掘と略奪が繰り返されていきます。
この頃、探検から考古学的な考えを持つものも現れます。
イギリス人の実業家 ジェームズ・ベントが1890〜1892年にかけて遺跡の詳細な調査をしました。
マウフの発見があっても注目は金鉱脈に集まっていたので、金を奪った後の遺跡はほとんど手つかずで放っておかれた状態だったのです。
ベントの調査は1892年にいくつかの本にまとめられて発表されましたが、その内容がソロモン王との関わりを否定的に捉えていたので、南アフリカの白人社会では受け入れられず、ベント自身もマラリア熱に感染してイギリスに戻り1897年にロンドンの自宅で亡くなります。
その後、実質上ベントの仕事を引き継いだのはローデシア在住のジャーナリスト、リチャード・ホールでした。
が、しかし。
彼の調査はアフリカ東沿岸にある遺跡は西アジア由来であるという先入観に固まってあて、それらを示す遺物を探すために遺跡内部まで徹底的に掘り返し、繁栄期から退廃期へと段階的な歴史的変化があるとする一定の成果は出したものの、これらの遺跡群がアフリカの黒人によるものだと分かる生活用具や土器などを価値が無いとして土砂と一緒に捨てられていきました。
またしても貴重な、とても貴重な資料とともにアフリカの歴史が消されていきます。
発掘と同時に金鉱脈があるということがあらためて知られるのと、ダイヤモンドの鉱脈が発見されたことで入植者は農園経営だけでなく、鉱脈を掘り当てようと手当たり次第に掘り返していきました。
そんな中で一人の男が圧倒的な支配力をつけていきます。
男の名前はセシル・ローズ。
彼は南アフリカのキンバリーでダイアモンドの鉱脈を掘り当てて作った資金で、他の採掘場へ排水ポンプの貸し出しなどの資本投資をして勢いに乗ると、イギリスはロンドンの財閥から融資を取り付けることにも成功して、1880年には世界のダイヤモンド産出量全体の9割を独占する「デ・ビアス鉱業」を設立します。
この会社を足がかりにして金鉱脈をも手に入れると、これも世界最大の産金量となり、それら潤沢な資金を使って南アフリカの鉄道、電信、さらに新聞社すらもその支配下へと入れていくようになりました。
彼は金鉱脈、ダイアモンド鉱脈だけでなく、掘り尽くされたかに見えたグレート・ジンバブエの遺跡群まで徹底的に掘り返し、出てきたもの全てを持ち出していきました。
遺跡の下に白人文明の証拠を探してもいたのでしょう。
それを見つけられれば白人社会の正当性は決定づけられるのですから。
その盗掘行為があまりにも酷いため、遺跡には人がいたという名残が全く残らないものになってしまいました。
セシル・ローズはその支配力を最大限に使い政治の舞台にも進出して、ついには首相にまで登りつめます。
政治と経済の両方を牛耳る頃、この土地の名前は彼の名前をとり「ローデシア」と呼ばれるようになり、彼自身も「アフリカのナポレオン」と呼ばれるようになっていました。
少し横道へ
8世紀頃から10世紀までにはアフリカの内陸部や東沿岸一帯で交易が始まり、地中海一帯から中央アジアだけでなくインドを越え、その先の東南アジア、さらに中国まで広大な交易網が作られていきます。
このような交易網はギリシャやローマの時代以降は無く、この時代にアラブ商人とインド商人によって広げられていきました。
この頃から宗教問題や奴隷問題も生まれましたが今回は割愛します。
14世紀には最盛期を迎え、アフリカの東沿岸では内陸部のジンバブエなどからの象牙、瑪瑙、そして黄金がスワヒリ商人を仲介として取引されていき、主要な港町であったキルワは船乗りたちの間で「世界で最も美しい街で、全てが整然として上品である」と言われていたそうです。
しかし15世紀にはこれらの遺跡や、あれだけ栄えた港街から人々はいなくなり19世紀の大入植の時にはほとんどが廃墟となっていたそうです。
さて、20世紀に入ってやっと正確な考古学的調査が始まります。
1905年イギリス科学アカデミーはエジプトの発掘調査で実績のある ディビッド・マッキーヴァー にアフリカの遺跡調査を依頼します。
彼はエジプトでのノウハウを活かして遺跡群を調査していき、リチャード・ホール が棄ててしまっていた土器類などを拾い集めて調べ直し、それらが第一級の資料であり遺跡の地層との関係を検証することを唱えていきます。
そして土器類は現在のアフリカ人、おもにショナ族の人達が使っているものとほぼ同じであることを突きとめ、石造りの遺跡群にはアラビア風(西アジア風)の影響は全く認められず遺跡群は現地住民の黒人達によって築かれたものだと主張しました。
さらに、これらの発掘品と地層、そこから出土するアラブやペルシャ由来のものや中国陶磁器などを分析すると、外来のものが紀元前のソロモン王やシバの女王の時代などではなく、早くても11世紀より前にはさかのぼらず遺跡の巨大化も14世紀から15世紀頃であるとも主張したのです。
これに対してカンカンに怒った前出の リチャード・ホール は激しく反論を展開して決着がつかなくなり、金とダイヤと差別が支配する中で、またもアフリカの歴史を消していくのです。
そして1928年
イギリス科学アカデミーは一人の女性考古学者をこの地に派遣します。
彼女の名前は
ガートルード・ケイトン・トンプソン
Gertrude Caton Thompson
1888年イギリスのロンドン生まれで、パリの学校やロンドンの私立学校で学び、大英博物館の サラ・パターソン に古代ギリシャを学びます。
1921年にロンドン大からエジプト発掘に参加し、次の1922年にはニューナム大学からケンブリッジ大へと移り、1924年にはケンブリッジ大からエジプト発掘に参加しました。
そこからエジプトを中心に活動をして、旧石器時代から古代エジプトまでの学術的発掘を見る最初の考古学者の一人となりました。
北アフリカでの作業は6インチ四方で正確に糸を張り、慎重で細心の注意を払って出土品と地層の年代とを正確に記録していきました。
このようなトレンチ調査方法は後の考古学において大きな影響を与えることになります。
1925年から1927年にかけて2つの知られていなかった新石器時代の文化を発見・発掘もしました。
そしてジンバブエ遺跡の南に入った ガートルード は調査隊に徹底したトレンチ調査を指示し、層位と出土品の正確な実測図とデータの作成に全力で取り組んでいきます。
この時の調査隊は全員が「女性」で編成されて、彼女はあえて女性としか働かなかったそうです。
彼女達が作った報告書は後の研究者がデータを検証するときのためでもありました。
しかし、何週間経っても目立った収穫は出ません。
それもそのはず、すでに遺跡は石の壁以外は全て掘り返された後で何も残っていなかったのです。
遺跡はあるのに⋯
金やダイヤ、それに宗教的理由や白人優位の証拠探しなどで掘り返しによる地層の破壊、工芸品の略奪で証拠が少なく、それまでの調査では地元に伝わる伝承などに頼る部分もありました。
彼女はそれらの伝承も合わせて、確実な歴史を紐解くためにも物証が欲しいと考えていました。
そこで ガートルード は知合いに頼み込み飛行機に乗せてもらうことを思いつきます。
白人が手をつけていない場所を見つけなければならなかったからです。
空から広い範囲を探そうと考えたのですが、それが見事に的中します。
遺跡のある丘の上空を飛んでいるときに、樹々で隠れているもののまだ知られていない道を発見したのです。
すぐに戻って調査隊とともに丘へ上がると、そこにはまだ白人が入っていない手つかずの遺跡が残されていたのでした。
丘の上での発掘はグレート・ジンバブエで彼女が求める全てのものが揃ったということです。
これらの緻密な学術的調査の結果、ジンバブエ遺跡はソロモン王もシバの女王も一切関係が無いと結論付けたのです。
しかしここでも差別が歴史を消しにかかります。
そう、差別意識は黒人だけにではなく「女性」に対しても深く刺さっているものだったのです。
手つかずで残っていた遺跡を発見して科学の見地から出土品を詳しく解析し、地層年代と正確に合わせることが出来た ガートルード の調査には、想像や思い込みは一切無く、あくまで発掘によってわかった事実を重ねて導き出した、グレート・ジンバブエがアフリカの真の価値、すなわち遺跡が先住民の黒人によるものだいう証拠になる明確な結論だったので、彼女の、そして彼女達の作った報告書はいくつかのレポートとして発表され、学者や考古学会で大絶賛を受けることになりました。
しかし
アフリカの古代文明や遺跡群が現地の黒人によって作られたもので白人の古代文明との関係は一切無く、アフリカにおける白人の略取に正当性は無い。という彼女の主張や現地での講演は瞬く間に非難の業火に焼かれていきます。
火ぶたを切ったのはオーストラリア出身の人類学者 レイモンド・ダート でした。
ガートルードの講演を聞きにいったダートは話の途中で壇上にいるガートルードに近づき、アフリカの黒人に文明を作れるはずはなく、黒人がこの地に来る以前に白人が遺跡を作っていたのは明白だと激しい怒りをぶつけて会場を去りました。
ダートが去った後に鳴り響いた拍手喝采はガートルードに向けたものではなかったのです。
ガートルードの報告書はアフリカの白人社会の中で抹殺されていき、それはすなわちアフリカにおける黒人の歴史がまたも消されることとなりました。
誹謗中傷はどんどんエスカレートしていき、各分野の学者が批判するレポートを出し、新聞では彼女を嘲笑するような記事が紙面を大きく飾りました。
彼女は自身に否定的なレポートや新聞記事をまとめ、ファイルしました。
そのファイルのタイトルはこう書かれていたそうです。
insane
「狂気」と
彼女はこのファイルをどんな思いで作ったのでしょう。
どんな思いでイギリスへと帰っていったのでしょう。
ガートルードの調査から4年後
1932年
彼女のレポートに興味を持った探検家の ファン・フラーン は砂漠の山頂にあるという王家の墓の話を聞きます。
祟りを恐れて案内を嫌がるベンダ族を説きふせ、巨大な一枚岩の上にある王家の遺跡へと続く秘密の登り口を見つけ岩の上に登ると、そこには手つかずの宮殿跡と王族の墓が当時のままに残されていました。
頂上は何千トンという土砂を運び台地のように平らにされていたそうです。
そこからは黄金の杖や黄金で作られたサイの像、その他にも大量の金製品や祭祀道具、生活がわかる品が次々と出土していきます。
これらはエジプトで発見されたツタンカーメンの宝物に匹敵すると言われるほど。
この遺跡は現地の言葉でジャッカルの丘という意味の「マプングブヴェ」と呼ばれていて、祟りの伝説と秘密の登り口以外は上に上がれないため、墓が作られてからは誰も登っていなかったということでした。
南アフリカのプレトリア大学を卒業していたファン・フラーンは、発掘した貴重な遺物を大学へと寄贈することにします。
これで古代文明の証拠が守られ黒人による白人入植以前の文化がセンセーショナルに発表されることになる。
はずでした。
寄贈を受けた大学ではすぐさま年代測定を行い、それが12世紀前後のものだとわかりますが白人が入植する400年も前に黒人文明があったという事実を認められなかったのです。
そう、大学すらも黒人差別に染まっていて黒人文化を消していったのです。
驚くことに、この宝物は全て大学の倉庫にしまい込まれていて一部の考古学者にしか公開されていません。
現在でもこれらが一般に公開されるのは極めて稀です。
これでは発掘されず、土の中に埋まっているのと同じですよね。
その後1970年代に トーマス・ハフマン と ガーレイク による再調査が行われてガートルードの功績はあらためて高い評価を受けて、ようやく黒人による古代文明が認められました。
しかしこの時もローデシア政府によって、この2人は国外退去をさせられてしまいましたが、すでに情報伝達のスピードやメディアの動きが変わっていたために隠されることにはなりませんでしたが、ローデシア政府の公式見解には至りませんでした。
そうして長い長い黒人社会の正当性を求める歴史は1994年のネルソン・マンデラによるアパルトヘイト撤廃宣言とともにアフリカの歴史は公式見解として発表され、やっと一歩を踏み出していきます。
ガートルードが南アフリカへ来る少し前の時代。
同じ女性で砂漠を調査していた人物がいます。
1905〜1914年までアラブ地域で活躍し、イラク王国を建国する原動力になり「砂漠の女王」と呼ばれた女性考古学者の ガートルード・ベル です。
メソポタミアやシリアを調査していた彼女がシリアへ旅をした時に案内人をしていたのが「アラビアのロレンス」と呼ばれることになる T.Eロレンスで、この2人はその後イギリスの諜報機関から召集を受け、そこのアラブ方面局で再会もしています。
ほぼ同じ時代に砂漠へ入った2人のガートルードがその後の歴史に大きく関わっているのは興味深いですね。
また、グレート・ジンバブエの北側に住むレンバ族の人達が、ユダヤ人の中でも限られた祭祀一族しか持っていないDNAの型を全ユダヤ人の中で最も濃く残すグループであることも最近の調査でわかっています。
そのレンバ族がグレート・ジンバブエの遺跡を建設するのに重要な役であったとする説や伝承もありますので、白人起源説もあながち全く無かったことではない可能性が出てきています。
日本でも時代時代で発見される遺物や、新しく見つかる資料、それらを見る立場などによって歴史の解釈はめまぐるしく変化していますものね。
今現在でも新しい何かが見つかり、今まで信じてきた歴史が大きく変わる可能性はいくらでもあります。
ただ、その新しい何かを曇りのない目で見ることができるかどうかは難しいことなのでしょう。
ガートルードがいつジンバブエを離れたかはわかりませんでしたが1932年にはイギリスへと帰っています。
その後はケンブリッジ大学で考古学を教えながらフィールドワークをして若い世代を育てますが、第二次世界大戦後にフィールドワークから離れます。
1956年に引退。
その後は数々の名誉賞を受け、1961年に東アフリカの英国歴史文化考古学アカデミーの創設メンバーとなり10年間在籍しました。
1985年、97歳でイギリス、ブロードウェイの自宅で息をひきとります。
考え方が凝り固まったアフリカの白人社会に、それまでの価値観にとらわれない新しい空気を身にまとったガートルードは砂漠に咲く一輪の花のようであったことでしょう。
彼女の功績も暗闇に葬られていたアフリカの古代文明と、黒人の正当性を探し出して光を当て、それまで育つことがなかった歴史の樹を蕾がつく若木にまで育てて、あとは綺麗な花が咲いた姿をみんなに見てもらうだけでしたが、彼女の時代にそれは叶いませんでした。
現在も混乱するアフリカ社会に古代から続く歴史が養分となり大輪の花を咲かせることができたら、その後たわわに実る果実を黒人社会が味わえる時代が来るでしょう。
その時
ガートルードの育てた若木はジンバブエのみならずアフリカ中に広まって、美しく力強い花を人々の心の中に咲かせることになる。と信じます。
「ジンバブエの花」
2017.06