春風過ぎて。
俺は、精神から生まれる怪物などというものは、空想の一種としか考えていなかった。……少し、言いすぎたかもしれない。訂正、そういうものは、自分には全く縁のないもの――ある種の都市伝説――だと思っていた。なにせ帝都、この頃物騒な話を多く聞く。役所勤めの都合上、あくまで冷酷で、物理的な悪事に少し近かった俺は、そんな話に耳を傾ける気はなかった。
だから、今この状況は少し、自分の身には余る気がしてならないのだ。
「芦矢くん、この荷物はこっちで良いのかな?」
「あっ、はい。……すみません、引越しの手伝いだなんて、」
「気にしないで。一応業務時間内だから。」
穏やかで春風が吹くようだ。この人は、きっとものすごく、それはもう、夢のようにいい人なんだと思う。群青と名乗ったその人は、先日、館での「猟奇殺人事件」で俺を助けてくれた人だ。…およそ、あれは人の起こした事件ではなかったけれども、世間様ではそうなっている。事件の後、気を失った俺は帝都の直営の病院に担ぎ込まれ、一夜を其処で過ごした。その後、まるで親か兄弟が迎えに来たかのようにスムーズに、俺の手を引いて、彼はこの部屋までやって来た。…引越しを。あそこにそのまま一人で住んでいたのでは危ないから、と彼は俺に言った。
「そばをふるまえ。」
「わたし、おすしがたべたいなぁ。」
二人の少女は鏡合わせのように俺の部屋でくつろぎながら、要求を飛ばしてくる。浅黄と縹の双子の姉妹は、どうやら群青さんと共に行動しているようで。隊員には多くいる――「怪物と共に行動するタイプ」だと説明を受けた。見た目に似合わぬませた態度は、もしかしたらそういう事かと邪推をしつつも、俺は未だ彼らについて聞けないでいる。
「さて、一応君は今保護処分って事になっているんだ。」
片付も一段落終えたところで、群青さんは俺に向き直った。
「要は、化物に巻き込まれた子は二度目、三度目があるという事だね。だから、一人で食い殺されるようなことがないように、僕や……僕みたいにああいう化物を<殺せる>奴がしばらく護衛として着くことになってる。」
「だから、引越しまで?」
「……君の場合は、少し特殊になるんだけど。」
少し目を伏せた群青さんに、俺は訝しげに……そして、少しの不安を込めて……視線を向ける。
「あの館、普通は中に入れない筈なんだ。あそこには、僕がいたからね。」
「……というと、要するにどういう事でしょう?」
「ああいう化物の巣窟にはある一定の規定――束縛と言ってもいいね、其れが存在しているんだ。あの化物は館に招いた者を膨らして死なせてしまう、そういう化物だ。館を出れば、あの化物の鼓の音は空気に溶けて消えてしまうんだけど、それは良いとして……。要は、僕はあの化物を殺すために招かれて、それであの場に居たんだ。今いる客を放り出して、新しく客を招いたりするなんて、そんな事はしないだろう?」
長く喋って少しの休憩、というように彼は少し微笑んで、傍に来た少女たちを撫でる。……要は俺は泥棒みたいなものなのですか、と俺は問いかける。
「泥棒というのは卑屈すぎる。君は、そうだな……。どんな扉でも開けられる鍵、かな。化物たちにとってはたまったものではないよ。だって、最後に逃げ込んで誰にも通れなくした扉を、君は易々と開けてくるんだから。」
なるほど、理解した。要は自分は安全地帯を壊す、化物たちにとっての最高の厄ネタってことだ。でも、それがここに引越す理由と何の関わりがあるのだろう。
「うん、言いにくいことなんだけど、化物殺しの僕たちの組織も慢性的な人手不足で。特に、君みたいな化物の領域……異界というのだけど、そこまで無条件に辿りつける人間は、稀、なんだよね。」
「つまりきしょうかち。」
「にがすわけにはいかない……。」
気づけば両手を浅黄と縹にがっちりと掴まれていた。少女二人を払うくらいなら俺の筋力でも叶うだろうが、その場合彼女たちは転ぶなりなんなりしてしまう訳で……。そこまでの大人げない真似をすることは不可能だ。これを理解して行動しているのであれば、この少女たちは本当にませている。
「うん、つまり僕らに協力して、これから化物退治をしてもらうことになります。僕らの組織……、国の密命を受けた裏の省庁――護法庁の一員として。此処はその宿舎です。説明、後になってごめんね。」
予告なく、辞令なく、……否定の、暇もなく。
……だが不思議と、それを理不尽だとも、嫌なことだとも思わない。俺と言う人間は、もしかしたらこの群青に恩を返せるかもしれないという心で、実のところ安堵すら覚えていた。
「さて、今日はこのまま休んで。絶対につかれている筈だから。また明日に、護法庁の案内とか、君の護衛役と先生役の話とか……そういうの、しよう。」
「あばよ。」
「またねー!」
俺は思う。春風って、そういえばとても強くて有無を言わせぬモノだな、と。
真新しくて、白い壁の部屋に夕陽が差し込む。あの日、あの夕焼けと同じ光。なんだか、酷く懐かしくそれを思い出して……それから、少し、いいや、眩暈がするほどに眠い事に気が付いた。
今日はもう寝てしまおう。何せ、明日も明後日も、その先も。俺の人生というのは賑やかに続いていく事が証明されつつあるわけだから。