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メシ友

作者: 香南

 駅の改札を出て、五分ほど歩くとその店に着く。チェーン店ではないが、全国どこにでもありそうな雰囲気の居酒屋だ。弥生は入口の前で一度止まり、シャツの襟をあおいだ。夕方とはいえまだ昼間の熱が残っていて、少し歩いただけでもじんわり暑い。職場は冷房が効いていて寒いくらいの時もあるというのに。

 道行く背広姿の一人が弥生に目をとめ、ついで店の看板を見た。けれど興味を惹かれなかったのか、すぐに歩いて行ってしまった。弥生は息を整えると、店内へ入った。

 彼はもう来ていた。店のカウンター席、中央くらいの位置に座り、スマホを眺めている。シンプルな薄い眼鏡、ポロシャツにジーンズ。店内では若い方に入るだろうが、それほど違和感なく溶け込んでいた。

 弥生が近づくと、顔をあげ、小さく会釈をしてきた。隣のいすに乗っていた小さなリュックをどけて、テーブル下に置いた。弥生は「どうも」と会釈を返し、いすに座る。大きめのバッグは足下に置いた。

 すぐにお冷やが運ばれてきて、半分ほどを一気に飲んだ。のどが渇いていたことをその時に気付いた。

「けっこう前から来てた?」

「いえ、そんなに前でもないです」

 彼はスマホを何度かタップし操作を終えると、弥生のいる側と反対の机上に置いた。目の前のメニューを取り、二人の中間に広げた。

「何にしますか」

「そうだね……。田中君は何にするの」

「僕は……これにします」

 指差したのは、生姜焼き定食。唐揚げもついているセットだ。

(やっぱり、若い男の子は食欲が違うか)

 弥生は苦笑して、自分はさばの味噌煮定食にすることにした。

 料理を待つ間、二人は特に何を話すこともなく過ごした。弥生はスマホのスケジュール帳を確認したり、店内にある掲示物を何となく眺めた。ふと隣を見ると、彼はスマホをおいて前方を見ていた。

「何を見てるの?」

「いえ、特に何も。目新しいものは」

 そっけないが、つっけんどんでもない。これが彼にとって自然なのだろうと思わせた。

 料理が運ばれてきた。彼の生姜焼き定食は、生姜焼き四枚に唐揚げ三つ、キャベツとご飯が大盛りだ。それを静かに素早く食べてしまう。ガツガツした感じはない。弥生はさばの味噌煮とご飯を味わう。普段は一人なので、帰ってから作る気にはなかなかなれず、インスタントや総菜ですませることも多い。作りたては久しぶりだった。濃い味付けに誘発され、ビールを頼む。彼がこっちを見たが、特に何も言わない。けれど弥生は、彼はあまり酒が好きではないのだろうと感じていた。彼が酒を注文するのを見たことがない。

 弥生がビールを空にし、彼がウーロン茶をちびちび飲み終わる頃、店を出た。会計は個別にしている。まるで、たまたま同じ時間に退出する他人のように。そして店を出て、「じゃあまた」と、それぞれ反対方向へ歩き出した。


 弥生と彼が出会ったのは半年ほど前になる。たまたまネット上で「メシ友募集」という投稿を見つけ、「十九時に○○駅前『△△』にて」という簡潔な内容に興味を持った。場所が近く、こちらの詳しい情報を要求してこない所が良かった。そしてその時弥生は少し気持ちが下がっていた。普段なら気にならない、ささいな失敗を引きずる。不安定な時だったから、ネット上の誰とも分からない人の誘いに乗ったのだろう。

 実際に会った彼は、弥生の想像より若かった。お互い年を聞いたことはないが、弥生より五つくらいは年下だろうと推測できた。寒い時期で、弥生はコートを着ていた。彼はセーターにジーンズだけだった。ネット上での文面のように、彼は余計なことは話さなかった。名前とメールアドレスを交換した。気温のことなどたわいもない言葉をかわすと、あとはご飯をほぼ無言で食べていた。そして会計はきっちり別々。次の約束も交わさず、あっさり別れた。

 不思議な気分だった。こういう誘いで男女の場合、大抵下心があるものだと思うが、彼にはそういう部分が感じられなかった。会話を盛り上げようという気もない。弥生の方が当初気を遣って話しかけていたが、徐々にその必要性を感じなくなった。会話の楽しさはないかわりに、沈黙の苦痛がない。自分の思考をしながら、料理のおいしさを感じることができた。しばらくの間、彼との不思議な出会いについて考えることで、気を紛らわすことができた。そのうちに現実の忙しさに追われ、気分は安定してきたのだった。

 それきりになると思っていた縁は、意外にも続いた。彼から連絡があり、月に一・二度夕食を一緒にとるようになった。店は毎回、初めて訪れた所と同じだった。時間もだいたい同じ、席もいつの間にか固定された。そして別々に会計をし、帰る。趣味や、仕事や、プライベートの話をすることはなく、飲みに行くこともなかった。


「えー、一つ報告です。山本さんが結婚するということで、近々退職することになりました」

 朝礼で、課長から紹介された女性社員は、くすぐったそうな笑顔であいさつをした。彼女は弥生とはチームが違い、あまり接点がない。それでも、弥生よりは年下だということは知っていた。皆と一緒に拍手をしながら、早い結婚だな、という感想を持った。自分が同じ年の時は、仕事に必死でそんなことを考えたこともなく、相手もいなかった。今も相手がいないのは同じだけれど。

 席に戻り、いつもの作業を開始する。パソコンを打ち込みながら、彼女の代わりの職員はいつ来るのだろうと考えた。まだ正式な退職日は決まっていないようなので、今調整中なのかもしれない。それとも、今いる職員に振り分けるのだろうか。入社して一年ほどの彼女がそんなに重要な仕事を任されていたとは考えにくい。

 ふと手が止まる。ディスプレイには昨日の売上データ表。入力して更新してグラフにする。共有フォルダに記録する。入社した頃は、どこに何のデータがあるのかわからなかった。慣れた今は、自分がよく使うデータが取り出しやすいように、工夫することも覚えた。パソコンの隣には書類が置かれている。ラックで分類し、処理済・未処理が誰にでもわかるようにした。自分が不在でも、誰かが対応できるように。自分がいなくても、滞りがないように。弥生は一つため息をつくと、再び作業を開始した。

 仕事を終え、電車に三十分ほど揺られて帰宅する。冷蔵庫から昨日の残りの豆腐と総菜のコロッケを取り出した。冷凍ご飯を電子レンジで温める。待っている間に土産でもらったチョコレートをつまんだ。ご飯の次にコロッケを温め、安物のテーブルで夕食にした。テレビをつけてニュースを眺めた。殺人事件、雇用対策、地元で人気のラーメン店。

(今月は、まだ連絡ないな)

 田中とは先月末に会い、二週間ほど経っていた。これまでのメール日付を見返すと、だいたい二週間おきくらいのペースで連絡が入っている。弥生から連絡したことはない。そこまでの必要性を感じないからだ。

(たまにはこっちから誘ってみるか)

 弥生は画面を呼び出し、メッセージを送った。


「弥生ちゃん! 久しぶり!」

 やわらかい素材のワンピースを着た彼女が、車を降りて手を振ってきた。運転席にいる男性が弥生に小さく会釈する。男性は彼女と言葉をかわすと、去って行った。

「今日は旦那さんと来たんだね」

「あ、うん。送ってくれるっていうから」

 二人で連れ立って店に入る。昼間の店内は家族連れが多く、子どもの声がちらほら聞こえる。

「ほんとひさしぶり~。今日はありがとうね」

 学生時代と変わらない笑顔に、弥生は安らいだ気持ちで笑った。

 彼女は昨年結婚し、近県へ引っ越していた。夫婦共働きで忙しく、結婚式以来会えていなかった。今回実家に用があるということで、会おうということになったのだ。

 弥生は結局田中には連絡をしなかった。それよりも、付き合いの長い彼女と会うことを選んだ。

「こちらこそ、忙しい中ありがと。どう? そちらでの生活は」

 やっと慣れてきた、と話す彼女は、大変ながらも充実している様子が見て取れた。

「弥生ちゃんはどう? お仕事とか」

 弥生は聞かれるまま、職場の話をする。寿退社の人がいて、そのかわりの職員がまだ来ていなくて。そんなことを。それから、最近湿っぽくて洗濯物が乾かない。そんなたわいないことを。時々ご飯を食べる男のことは、言わなかった。


 月末はいつもより慌ただしい。締めや月初の準備があり、残業も多くなる。

(よりによって今日当たるか……)

 腹を軽くさすりながら、手洗いを出る。重苦しさはあるが、薬を飲むほどの症状ではない。席に戻り、作業を続ける。周りの職員も自分の仕事で忙しく、手伝いを頼める状況ではなかった。なんとか今日までの処理は終え、職場を出た。

 アパートのドアを開け、中に入る。玄関でしばらくへたり込んでしまった。このまま眠ってしまいたい衝動に抗い、フラフラと部屋へ向かった。机を端によけ、布団をしく。ご飯を食べるのも億劫だった。せめて、とねまきに着替えながら、実家のことを思い出した。実家にいる時は、こんなとき、あったかいおかゆが用意されていた。だるい体を布団へ横たえ、スマホを近くに引き寄せて、目を閉じた。

 目を覚ますと、深い暗闇だった。外からの光はない。スマホの画面に目がくらむ。時計は一時十二分。再び眠ろうとした時、急に腹が痛みだした。痛みの種類は一緒だが、強い。胃がムカムカしてきた。痛みが少し引いたところで手洗いに行ったが、何も出ない。布団の中で寝返りを打って楽な姿勢を探す。一時引いてもまた痛みは襲ってきた。

(誰かー。痛いよー)

 いざとなったら誰かに助けを、とスマホを握りしめる。実家や友人、さまざまな人の顔を思い浮かべ、打ち消す。

(こんな夜中に、呼べる人なんていない)

 彼の顔が浮かんだ。電話番号も、住む所も知らない眼鏡の人。

 弥生の目に涙が浮かんだ。痛みに耐えながら、いつのまにか眠っていた。


 田中から連絡が来たのは、翌月一週目のことだった。メールの宛名を見た時、少し動揺した。内容はいつも通りで、弥生は了承の返事を送った。

 店に入ると、彼はすでに席にいた。思い返せば毎回そうだった。弥生より後に来たことがない。

「お仕事、何時頃に終わるの?」

「え?」

 彼はスマホから顔を上げた。驚くというより、もう知っているでしょ、という風な表情だった。弥生は手と首を振り、質問を打ち消した。

 田中の隣に座り、バッグを足下に置いた。今日の弥生はワンピースだった。いつもはシャツにタイト目なスカートという通勤着だ。暑くなってきたのでワンピースに、というのはいいわけだと自分でもわかっている。

 弥生は隣に目を向けた。こちらには目を向けず、メニューを眺めている。

「どれにしますか」

 メニューを机上に広げ、弥生の方へずらした。弥生は少しだけ田中の方へ体を寄せ、メニューをのぞきこんだ。田中は無反応で水を一口飲んだ。弥生は姿勢を戻しメニューを手元に置くと、ハンバーグ定食を頼んだ。

 つけあわせのサラダを食べながら、言葉を探した。

(別に、質問を拒否られたわけじゃないし。話したくないとか言われたこともないし)

 それでもお互いプライベートを話さないことが暗黙のルールになっていた。弥生はそれを不満に思ったことはなかった。話さなくてもわかることもあった。調味料はソース派らしいこと。暑がりではないこと。スマホは食べ始めてからはいじらないこと。

「今日はワンピースなんですね」

 思考を急に遮られ、一瞬反応が遅れる。

「あ、うん。そう。暑いからね……。楽だし」

 弥生は田中を直視せずに答えた。動揺を隠せる自信がなかった。田中はそれ以上何も言わず、弥生はほっとし、少し落胆した。

 気付くと、田中はすでに食べ終わり、お冷やの水は半分ほどになっていた。弥生はハンバーグを食べる速度を上げた。考え事をしながら食べたせいか、普段より遅くなっていた。今日はビールも飲んでいない。田中が弥生をちらりと見て、何も言わずにまた正面へ目線を戻した。

 いつものように会計をして店を出た。去りかける彼に弥生は声をかけた。

「あのっ……。良ければ、電話番号交換しない?」

 歩みを止めた田中の表情が変化した。いぶかしむように。弥生はひるむ気持ちをこらえ、なんてことない風に話をつないだ。

「ほら、急に待ち合わせに遅れるとか、ちょっと連絡する時に便利かなって」

「……いえ、やめときます。家族にばれると面倒くさいんで」

 今度は弥生がきょとんとした。

「……一人暮らしじゃなかったの?」

「一人ではないです」

 確かに一人暮らしと言われたことはなかった。けれどネット上でご飯友達を探すくらいだから、そうなのだろうと思っていた。実際に会ったら、上京した青年というイメージが弥生の中で定着した。

「あー、そうなんだー……。私、てっきり一人だとばっかり……」

「家族と暮らしてます。結婚してるので」

「えっ?」

 弥生は聞き間違いかと思い、問い返す。彼は聞こえなかったかのように「それじゃあ」と弥生に背を向けた。ほどなく、人の中にまぎれて見えなくなった。弥生は呆然と立ち尽くす。

 ふいに人とぶつかり、すみません、という声を聞いた。店から出てきた人物と接触してしまったらしい。相手は酔っており、もう一人に支えられていた。弥生は店の入り口から移動し、二人に道をあける。それを見送りながら、今日はビールを飲んでいないことを思い出した。歩き出す。人の中をすり抜けて、徐々に早足になった。ワンピースは楽だ。多少乱暴な歩き方をしても崩れない。

(そういうことか)

 職場の仲間、女子会、カップル、若いグループ。色々な人達が通り過ぎ、にぎわっている。

(そういうことか!)

 その中で、店外のテーブル席に一人座る女性がいた。グラスのビールをゆっくりと飲み、穏やかに息をついた。まっすぐな黒髪のボブに、整った顔。薄ピンクのすっきりとしたシャツを身に着けていた。

 ふっと顔を上げた彼女と目が合った。吸い寄せられるようにそちらに向かい、彼女の傍に立つ。

「ご一緒しても、いいですか」

 くっきりとした目が、驚きにまたたいた。弥生は近くに来て気付いた。彼女は何のアクセサリーもつけていなかった。

 返事を待たずに向かいに座り、店員の方をむいてビールを頼んだ。

「ねぇ、そのワンピース」

 彼女が話しかけてきた。

「甘過ぎなくて、いいね」

 そう言って、小さく笑った。

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