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「食事です。どうぞ」
見張り台で待機するルカたちに、エミリーが食事の入ったバスケットを届けてくれた。
「ありがとう、エミリー」
「いえ、おかわりもあるので沢山食べて下さい」
戦闘を控えて緊張しているのか、エミリーの表情は硬い。
「大丈夫か?」
「少し……怖いです。でも、頑張ります」
「そうか。お互い無事でまた会おう」
「はいっ!」
ルカがバスケットを受けてると、エミリーはお辞儀してシュラウドを降りていった。
「んー……あれかな? ううん、あれは無人島だわ。なら、あれかしら?」
唸りながら目を凝らして海を見つめていたアテネに、ルカは『飯』だと声をかけた。
「ごはん!?」
アテネは目をキラキラさせて戻ってきた。
バスケットを開くと中には焼きたてのパンが四つに、太いソーセージが四本。チーズに、キャベツの酢漬け、レモン水が入った水筒などがあった。
「わぁ、美味しそう! こ、こほん。戦いの前ですし急いで食べますよ、ルカ!」
「慌てて喉につめるなよ」
早速パンにかじりつくアテネに、ルカは真鍮のコップに水筒の水を注いで差し出す。
結局、アテネは四つあったパンを、なんと三つも食べた。
だが、キャベツの酢漬けを残そうとするので、残さず食べなさいと注意したら、鼻を摘まみながら涙目で食べたいた。
マーメイドにも好き嫌いがあるのかと、ルカは感慨深げに思う。
ほっこりした時間はあっという間に経ち、三時を告げる点鐘が鳴り響く。
西の空が青みを増し、夜の帳がゆっくりと取り払われていく。
そして――
「――――ルカッ!」
と、アテネが叫んだ。
マーメイドの青い瞳は、薄れていく闇の中に、夜霧に紛れるよう迫る巨大な戦列艦を捕らえていた。
船団は間違いなく、こちらへ直進して来ていた。
「ああ、海賊で間違いないな……」
ルカの声は堅い。
予想が当たってくれるなと、そう願っていた。
海賊ではなく、ただの輸送船団であってくれ、と。
だが、風にたなびく漆黒の旗には、禍々しい『ドクロの紋章』が刻まれていた。
と、
「見えたわ、船よ!」「本当に海賊船だわ!」「あのドクロのマークは黒髭じゃない!?」
帆桁で待機する水兵や、帆柱の中央にある戦闘楼で待機する海兵隊の目にも、南から迫る海賊船が見えたのだろう。少女たちは口々に叫んだ。
海賊発見の第二報に、甲板はにわかに慌ただしくなる。
カリブ海で、最も悪名を轟かせる黒髭海賊団の襲来に、海賊との戦闘を幾度と経験した熟練水兵たちですら緊張を隠せず。若い水兵たちの中には恐怖で浮足立つ者も出始めた。
士官であったても、それは例外ではない。
副長のテミスは望遠鏡を伸ばして、船影を確認すると、
「夜間一八〇〇〇メートル先の船を、本当に見つけていたなんて、あの子一体何者なの……」
信じられないといった様子で呟いた。
そんな中で、一切の動揺を見せず、ただ静かに命令を待つ精鋭部隊があった。
彼女たちこそ、コロンビアが誇る最強の海兵隊である。
その数、八〇名。
海兵隊の中には、アテネと同室のクロエとマリナの姿があった。
と、その時。
「告げる。こちら艦長」
伝声管を通して、艦内全域に涼やかな声が響き渡る。
それは、艦長のメルティナであった。
「さあ、戦いの刻がやってきたわ。誇り高きコロンビア海軍の水兵たちよ。相手は名にし負う黒髭の一味。カリブの海を震撼させる大海賊よ。でも、例えどんなに強大な敵でもあなたたちのやる事は変わらないわ。己の務めを果たし、隣の仲間を守り、私の指揮を信じて、 訓練の成果を見せなさい!」
メルティナの言葉を受け、浮足立っていた水兵たちの表情がハッと引き締まる。
まるで、それらが見えているかのように、メルティナは満足げに微笑むと、
「――――勝利は、我と共にありッ!!」
と、声高に叫んだ。
凄まじい歓声が、甲板中に響き渡る。
その様子を見張り台から見ていたルカは、
「凄いな、あの人は……」
一瞬で兵の士気を上げてみせた艦長へ、畏怖と尊敬を籠めて呟いた。
だが、
「ええ、艦長は凄いんです。凄すぎて、眩しすぎて、私では到底至れない高みにいるんです……」
そう呟くアテネの表情には、劣等感が焦りとなって刻まれていた。
「だから、私も……やらなくちゃ駄目なんです」
アテネは腰の白銀銃を握りしめながら、鬼気とした表情で迫り来る海賊船を睨む。
「一体どうしたんだ? らしくないぞ、アテネ」
常は穏やかな海のように輝く青い瞳が、危うさを秘めて荒立つのを見てとり、ルカは一抹の不安を覚えた。
「ごめんなさい。あとで必ず話します。ですが、今は……」
会話を拒絶するアテネは、まるで出会った頃の戻ってしまったようだ。
このままではいけないと、ルカはアテネに詰め寄ろうとするが――声をかける間もなく、状況は戦闘へ向けて加速する。
「戦闘鐘を鳴らしなさい!」
「戦闘鐘を鳴らせ!」
メルティナの命令に海尉の一人が命令を復唱し、船首と船尾にある二つの点鐘が鳴らされ、船全体に戦闘開始を知らせる鐘の音が響く。
「一斉展帆! 全ての帆を広げて、風を受けなさい!」
「帆を広げるんだ! 一斉展帆!」
メルティナの命を掌帆長が復唱。
ヤードに待機する帆手水兵が、見事に訓練された操帆術で、一斉に帆を締めるロープを解き、甲板で待機する水兵たちが動索を引いた。
次の瞬間。
ステラ・マリス号にそびえ立つ巨大な三本の帆柱と、帆を支える支柱である十三本の帆桁に、純白の帆がまるで天使の羽のように広がった。
総帆展帆とも呼ばれる帆船にとってもっとも勇ましき姿は、まさに圧巻の一言で、風を捉えた帆が数千トンの船体を徐々に加速させていく。
「針路南へ、面舵一杯!」
と、メルティナは腰の指揮棒を抜き放ち、南へさす。
「ヨーソロー! 針路南へ、面舵一杯!」
針路を示された航海長ミラルダは、メルティナの意図を瞬時に理解し口元に笑みを浮かべた。
巨大で長大な船体が信じられないほど軽やかに波を切り裂き、船首が南へと、黒髭海賊団が向かってくる方角に、まるで剣の切っ先を突きつけるように動く。
「お、お待ち下さい艦長! 針路を南に向けるだなんて、まさかたった一隻で艦隊戦をしかけるおつもりですか!? 相手は戦列艦が一隻に、ブリッグ級が二隻、スクーナー級が四隻の、計七隻もいるのですよ!」
「それがどうしたというの?」
「撤退を具申します、艦長! ここからなら、セイル岬まで半日の距離です。その後にフリョーダの海軍本部に応援を要請すれば――」
「心得違いをしているようね、テミス」
メルティナの声には静かな怒りがあり、テミスはハッと息を呑む。
「やつらをここで捨て置けば、必ずこの海路を通る貿易船を襲うでしょう。罪なき女性たちの命がまた失われてしまうでしょう。なればこそ、我々が戦わずしてどうします? 我らが流す血の分だけ、救える命があると心得なさい」
「で、ですが、相手は七隻もの艦隊を組む黒髭なのですよ!? 万に一つの勝ち目もありません!」
「いいえ、違うわ。七隻も……ではなく、七隻しかいないのよ。この船を沈めたければあと十倍は必要だという事を、あなたと、海賊たちに教えてあげましょう」
メルティナはそう言って指揮棒を、姿をはっきりと表した海賊船団に向ける。
「針路そのまま、速度を上げなさい!」
メルティナの命令に、純白の帆に一斉に水が掛けられた。
水を吸って重くなった帆は、さらに強く風を掴み、船脚が一層速くなる。
と、
「スクーナー四隻が艦隊から離脱。散開しつつこちらに向かってくるぞ!」
ルカが叫んだ。
奇襲が成功したと思っていたら、突然翼を広げた天使が、鋭利な矛先を向けて突撃してくるのだ。敵方の驚きようは尋常ではないだろう。
「流石は黒髭海賊団。動揺から立ち直るのが早いわ。小型艦でこちらを包囲するつもりね」
メルティナの言うとおり、艦隊から離脱したスクーナーはその小型で快速な船脚を生かし、扇のように広がってこちらを包囲しようと突き進んでくる。
「小型艦の動きに惑わされては駄目よ! 本丸はあくまで敵戦列艦! 針路このまま砲撃戦用意! 見張り兵は敵との距離を二〇〇メートル刻みで報告なさい!」
メルティナが伝声管を使って各部署に指示を飛ばす。
「敵との距離、二四〇〇メートル!」
と、ルカ。
メルティナは航海長に歩み寄ると、彼女の肩に手を起き、
「一六〇〇で、相手の後ろを取りに行くわよ。相手の動きに注意して」
「任せて下さい艦長」
と、航海長は真剣な面持ちで答えた。
「敵との距離、一八〇〇!」
今度はアテネが叫び、その直後――
「戦列艦に動きあり! 砲撃するため『西』へ転舵するぞ!!」
烈火の如くルカが叫んだ。
ルカの目には、戦列艦の甲板で行われている人の『作業』までが見えていた。
「――――ッ! 針路東へ、取り舵九〇度!!」
メルティナはルカの報告に、電流を受けたかのように素早く指示を飛ばす。
敵の転舵のタイミング、それはメルティナが最も知りたかった情報であった。
こちらが東へ転舵した頃になって、ようやく戦列艦の艦首が西へ向き始める。
ステラ・マリス号は、相手の射界をするりと回避した。
百をこえる大砲で重武装した戦列艦は、まさに海の覇者であり、砲撃戦に置いては無敵の力を誇る。
だが、弱点が無いわけではない。
巨大な船体と、三層もの砲列甲板と、無数の大砲は、さながら陸に上がった海亀のように船脚を致命的に遅くした。
「す、凄い……ルカは預言者だったのですか!?」
敵の針路を的中させたルカに対して、アテネは信じられないという表情を浮かべる。
「西に舵を切るのが見えただけだ」
ルカは簡単に言うが、どれ程の目があれば、一八〇〇メートルも離れた船上の様子が見えるというのだろう。
と、
「針路反転! 戦列艦の後ろを取るわ!!」
ステラ・マリス号の純白の船体が、海に白い波を立てて回頭していく。
敵、戦列艦も慌てて転舵しようとするが、時既に遅く、純白の天使は、漆黒の悪魔の背中にピタリと切っ先を突きつけた。
「し、信じられない。たった二度の操舵で、戦列艦の後ろを取っただなんて…」
テミスは驚愕に呻いた。
幾ら相手の動きが鈍いとはいえ、波立つ海上で、風向きによって動きが大きく左右される帆船で、相手の後ろを取るのは並外れた操船技術がなければ不可能だろう。
ましてや、ステラ・マリス号の大きさは、戦列艦に匹敵するのだ。
そして、
「付かず離れずこのまま距離を維持して、戦列艦の後ろを取り続けなさい」
その不可能を可能にした艦長メルティナと、航海長ミラルダの二人だ。
「了解、艦長。ですが……聞きしに勝る凄まじい『目』ですな。七年間、一度も嵐に会ったことがないのも頷ける眼力だ。こうも簡単に敵の後ろを取れたのは、間違いなく彼の功績ですな」
三十年近く水兵をしてきた航海長のミラルダからして、ルカの目には戦慄を禁じ得なかった。
ルカは七年間、外洋を航行する商船に乗っていて、たったの一度も嵐に会わなかった。
それは単なる『幸運』ではなく、ルカの『力』を示すものに他ならない。
「昨夜の雨を読み取ったように、あの子の目にはあらゆる気象の変化すら見えているのでしょう」
メルティナは見張り台を一瞥すると、表情を引き締める。
「戦列艦をの後ろは取れたが、スクーナーには後ろを取られたわね」
敵戦列艦に対しては有利な位置を掴んだが、他の敵艦から包囲されつつある。
と、その時。
「艦尾、砲撃が来るぞ!!」
ルカが叫んだ。
立て続けに砲撃音が轟き、四隻のスクーナー船に搭載された紋章砲から、無数の水流弾が放たれた。
「ほ、砲撃が来ます、艦長!」
テミスが緊張した顔で、メルティナを守らんする。
直後、船尾に幾つもの水流弾が着弾した。
ドドドンッ! と凄まじい音がして、水飛沫が大きく散るが、外殻には傷一つなく、船は全くの無傷であった。
見れば、水流弾は明後日の方向に跳ね返っていくではないか。
これにはテミスだけではなく、他の水兵たちや、ルカも驚いた。
「まるで鉄の腹だな……」
「この船の外殻は九〇〇ミリのアイアンオーク材に、二〇ミリの真銀の装甲板を張り巡らしてあるのです。生半可な紋章砲ではかすり傷もつけらませんよ!」
感嘆するルカに、アテネはさもありなんという表情で言った。
スクーナー船は諦めずに次々と砲弾を放つが、ステラ・マリス号の装甲はびくともしない。
と、
「艦尾迎撃砲、四門一斉射! 敵、スクーナー船を蹴散らしなさいっ!!」
メルティナが艦尾に指揮棒を振りかざす。
砲列甲板に搭載された艦尾砲から、鼓膜をビリビリと震わせる爆音と共に水流弾が放たれた。
水流弾が鮮やかな青い弾道を描き、スクーナー船の一隻に突き刺さる。
甲板のど真ん中を貫かれ、船の上部構造が吹き飛び大破。
他スクーナー船は辛うじて砲撃を回避したものの、近くに着弾した水流弾が巨大な水柱となって船を下から突き上げる。
直撃はしなかったものの相当のダメージを負った三隻のスクーナーは、こちらの艦尾砲から距離を取るように離れていく。
「戦列艦が左へ転舵! さらに、左舷一〇時の方角から、ブリッグ級一隻が突撃してくるぞ!」
ルカが叫んだ。
こちらがスクーナー船の相手をしている間に、ブリッグ級の一隻がこちらへ真っすぐに突撃してくるのを、ルカの漆黒の瞳は逃さず捉えていた。
ブリッグ級とは二本のマストと、十門前後の砲を持つ二〇〇~三〇〇トンの軍艦だ。
最大の特徴は『衝角』と呼ばれる船首水線下にある、矛のように鋭利に尖った固定武装だろう。質量と速度が合わさったラムアタックは、大型艦にすら致命傷を与え、『格上殺し』のあだ名を持つ。
「捨て身のラムで、こちらを足止めする気ね」
と、メルティナ。
「ブリッグ級に手間取れば、転舵した戦列艦から側面砲撃を喰らってしまいますな。流石に、一〇〇門砲を受ければタダではすみますまい」
舵を握り、パイプから煙を揺らすミラルダが言った。
「ええ、そうね。逆にブリッグ級を捨て置けば、衝角によって側壁に大穴を開けられてしまう」
「い、いかがします艦長!?」
テミスは青ざめた表情で言った。
「殺られる前に、殺るしかないわ。航海長、舵はそのまま直進なさい」
「アイ、サー」
メルティナは続いて、伝声管の蓋を開け、
「左舷、第一、第二甲板! 敵ブリッグ級を一撃で沈める。こちらの合図を待ちなさい」
ブリッグ級との距離は五〇〇メートルと、砲の有効射程からは開いた。
紋章砲の最大射程は三〇〇〇メートルほどあるのだが、それは砲の上下角度、つまり仰角や俯角が自由に取れる地上での話だ。
波に揺れる海上で、船の限られた仰俯角に加え、常に互いが動く行進間射撃では、砲の有効射程はせいぜい五〇~二〇〇メートルと驚くほど短くなる。
舷舷相摩す超近距離での砲撃戦が繰り広げられるのは、決して珍しくない光景であった。
「まだよ。まだ待ちなさい!」
メルティナは突撃してくるブリッグ級との距離とタイミングを計る。
チャンスは一度。紋章砲は再装填には二分はかかるのだ。
ブリッグ級はその鋭い衝角をこちらへ向け、槍を構える騎兵の如く突き進んで来る。
ひりつくような時間が流れ――
「敵ブリッグ級! 距離二五〇メートル!!」
ルカはメルティナが最も欲する情報を、最高のタイミングで伝えた。
メルティナは指揮棒を振り上げ叫んだ。
「面舵二〇度! 舵を右に切りなさい! 砲撃後、すぐに反転して戦列艦を追う!!」
船の大砲は両側舷に集中しているため、最適な射界を作るには船を動かすしかない。
ステラ・マリス号の艦首が右へ回頭していき――
「――――左舷一斉射!! 撃てぇッ!!」
直後、百の雷鳴を束ねたかのような砲撃音が海を震わせ。
上甲板に備え付けられた、三六ポンド紋章カロネード砲一〇門から、紅蓮の爆炎弾が。
砲列甲板に備え付けられた、二四ポンド紋章カノン砲十五門からは、蒼氷たる水流弾が。
突撃してくるブリッグ級に放たれた。
砲弾は次々に突き刺さり、同時に海面に水柱と火柱が踊り立つ。凄まじい水飛沫が、高熱に煽られ水蒸気となって辺りを覆う。
砲弾は確かにブリッグ級に直撃した。
だが、果たして本当に仕留められたのか?
甲板にいる者たちには、水蒸気が視界を遮り、敵の被害を確認出来ない。
もしかしたら、今にも水蒸気を斬り裂き、ブリッグ級が突撃してくるかもしれない。
だからこそ、誰もが固唾を飲んで『ある人物』の声を待った。
その者は、船に乗船してまだ一週間の見習い水兵であり、雨を予報し、海賊の襲来を察知し、この戦闘でも船の目として比類なき活躍を見せた黒髪黒眼の東洋人である。
そして、
「――――敵ブリッグ級、完全に沈黙! 右に傾斜していくぞ!!」
敵の大破を知らせるルカの声が、甲板に響き渡った。
船全体に「やーっ!」と、歓声がこだまする。
「よくやったわよ、あなたたち! このまま敵戦列艦に攻勢をしかける! もう一隻のブリッグ級から目を離すな!!」
笑みを浮かべたメルティナが叫んだ。
誰もが己の務めを懸命に果たし、一丸となって船を動かす。
天下に名を轟かす黒髭率いる七隻の艦隊相手に、たった一隻の船が、互角以上に戦っている。
いや、互角どころか、全てがこちらの優勢に進んでいるではないか。
勝てる――そんな高陽感が船に広がった。
だが、次の瞬間。
ターンッ!と、一発の乾いた銃声が甲板に鳴り響いた。
火線が走り、船尾楼甲板に立つメルティナの前でバンッと炎が舞った。
ぐらり、とメルティナが膝から崩れ――
「――――お母様ッ!?」
見張り台のアテネが血相を変えて、メルティナを『母』と呼んで叫んだ。
◇
この船の頭脳であり、心臓でもあるメルティナが、突然銃で撃たれた。
甲板は蒼然となり、近くにいたテミスは茫然となり、航海長はナックルダスターを嵌めた拳を構えてメルティナを庇うように立つ。
取り乱したアテネは、見張り台から飛び出していった。
だが、この時。
ルカだけは、血が出るほど唇を噛みしめ、その漆黒の瞳で『敵』の姿を探していた。
何故なら、ルカはメルティナの無事を知っていた。
彼女は信じられない速さで腰のサーベルを抜き放ち、驚くべき事に炎弾を真っ二つに斬り裂いたのだ。
ルカは銃の弾道から、メルティナを撃った人物を探す。
そして、
「海賊に乗り込まれたぞ! 中央甲板、右舷船縁を見ろッ!!」
ルカは悔やむように叫んだ。
見張り台からは死角となるメインマストの真下、中央甲板の右舷の船縁に、いつの間にか『真紅』の髪の女が、優雅に腰掛けていたのだ。
ブリッグ級への砲撃の隙を突くように、後方に散っていたスクーナーの一隻がこちらに接舷したのだ。
いや、もしかしたらあの戦列艦も、突撃して来たブリッグ船も、この船に乗り込むための囮だったのかもしれない。
「か、艦長を守れ! 海兵隊ッ!!」
ルカの声に我に返ったテミスが、副官としての役目を果たさんと声を張り上げる。
アテネは信じられない身体能力で、帆桁を繋ぐ静索の上を綱渡りの如く駆け抜けると、ヤードからヤードへ飛び移り、最後はミズンマストから船尾楼甲板に向け飛び降りた。
「お母様ッ! しっかりして下さいお母様ッ!?」
アテネは血相を変えて、母と呼ぶメルティナに駆け寄るが――
「持ち場を離れる許しを与えた覚えはないわよ、アテネ士官候補生。あと、船内では『艦長』と呼びなさいと言っているでしょう?」
メルティナは何事もなく立ち上がって、白銀のサーベルを鞘へと収める。
そう。メルティナとアテネは実の『親子』であった。
「け、怪我はないのですか? お母さ、い、いえ、艦長……」
アテネは不安げに尋ねる。その表情は母を案ずる娘の顔であった。
「敵ながら見事な奇襲ね。完全にしてやられたわ。でも、大事ない。航海長も操舵に戻りなさい」
「やれやれ、胆が冷えましたぞ、艦長。腕が鈍ったのでは?」
構えた拳を戻して航海長が安堵の息を吐いた。
「あら、言うじゃない? でも、大切な次代の艦長をこんなところで失うわけにはいかないでしょ」
メルティナは肩をすくめると、副長のテミスを見やる。
あの炎弾を避ける事は出来たが、避ければ後ろに立つテミスは死んでいただろう。
だから、メルティナは一瞬の判断で弾丸を斬り捨て、爆炎を喰らってでもテミスを守ったのだ。
と、
「やはり、こんな玩具では、海軍の英雄を取ることは出来ないか」
真紅の髪の少女は不敵に笑って、煙が立ち上る短銃を投げ捨てた。
「私の名は、メルティナ。この船の艦長よ。名があるなら名乗りなさい若き海賊よ」
メルティナは殺気立つ海兵隊に囲まれた、真紅の髪の少女に目を向ける。
「コロンビアの守護神にして、偉大なる大提督メルティナ。会えて光栄よ。私の名は、エドワード・テュッティ。黒髪海賊団の船長を務めているわ」
テュッティと名乗った少女は腰に手を腰に当て、真紅の髪を悠然とかきあげ散らす。
彼女の容姿を一言で表すなら、まさに海賊だろう。
スラッとした長身で、抜群のプロポーション。
歳は十七か十八。
燃えるような真紅の髪と瞳に、唇には真っ赤なルージュ。
百人とすれ違えば、百人全員が虜になるほど整った美貌は、輝きと自信に満ち溢れていた。
トライコーンと呼ばれるふちが三つに折られた帽子には、金のドクロマーク。
黒と赤のキャプテンコートに袖を通すがボタンは一つとして留められてはおらず、ビキニに包まれ大きな胸の谷間を惜し気もなく晒していた。
腰には太いベルトと超ミニ丈のローライズスカート。
すらりと伸びる美脚の先には、高いヒールのロングブーツ。
他にも、指輪やネックレス、へそには金のピアスなど、様々な装飾品で着飾っている。
「海賊団の船長が、海軍の船に乗り込んで来るなんて、一体どんな用向きかしら? あいにく我が船には、海賊を喜ばせる財宝なんて一つも積んでいないわ。あるのは鋼の大砲と、鍛え抜かれた水兵と、ほんの少しのラム酒だけよ」
「ふふ、ラム酒はいいわね。でも、金銀財宝にはこれっぽっちも興味はないの。私が欲しいのはただ一つ――」
テュッティはそこで言葉を切ると、愛しいげに指先で船縁を撫で、
「――――この船よ」
と、言い放った。
次の瞬間。
地鳴りのような雄叫びと共に、テュッティの背後からどんどん海賊たちが登ってくる。
その人数は二百人は下らないだろう。
「さあ、どうする? 大人しく船を引き渡すなら、誰も死なずに済むわ」
「この船はコロンビアの未来を照らすために作られた希望の光。残念だけど、母のおさがりに乗っているような小娘には文不相応というものよ」
メルティナの痛烈な皮肉に対して、テュッティは表情を全く変えなかった。
だが、その体から溢れ出す凄まじい怒気と殺気が、彼女の心情を雄弁に物語る。
「交渉は決裂ね。では、海賊の習いに従い力ずくで奪い取る事にするわ。者共、逆らうものは皆殺しにしなさい。あの女は――私が殺るわ」
テュッティの命令に、海賊たちが喊声を上げて突撃してくる。
マーメイドたちも負けずに声を張り上げ刃を振るう。
ここに、海戦における最終段階である『船上』での戦いが始まった。
「アテネ士官候補生。一時的にマーメイドへの復帰を許します。この船に土足で乗り込んできた愚か者を叩き出しなさい」
「はい、わかりました!」
アテネは蒼い瞳を輝かせて頷く。
メルティナは次に、見張り台に立つルカを見上げた。
「ルカ見習い水兵。持ち場を離れる許可を与える。戦い、そして己の力で未来を切り開きなさい!」
「了解したッ!」
伝声管を通して伝わるメルティナの命令に、ルカは動索の滑車ロープを使って一気に甲板に降り立った。
コロンビアが誇る海兵隊の精鋭さは広く知られているが、相手もまた、カリブ海に悪名を轟かせる黒髭海賊団。
甲板のあちらこちらで、激しい戦闘が繰り広げられた。
(アテネは、船尾の方だな……)
ルカはまず、アテネと合流するべく動いた。
現在の武装は腰に差す作業用のナイフのみで、カトラスも、サーベルも、銃もない。
「銃はあっても当たらないか。悪いが少し貸りるぞ」
ルカは甲板を走りながら、すれ違う海賊の一人の首筋を手刀で一撃。
昏倒した海賊が持っていたカトラスを奪う。
と、その時。
前方から、一人の海賊がカトラス振り上げ襲い掛かって来た。
ルカは奪ったカトラスで相手の斬撃を受け流すと同時に、つんのめった海賊のみぞおちに当身を喰らわせ気絶させる。
「これも借りていくぞ」
崩れ落ちる海賊の手から、流れるような動作でカトラスを奪い取った頃には、味方の視線も、敵の視線も、こちらを向いていた。
味方は頼もしげに、敵は厄介な相手が増えたという表情だ。
「へぇ、あんた結構やるじゃん」
「確か、ルカ――さんですわよね?」
感心した声で言ったのは、マーメイドの証である青いスカーフと、青いスカートが鮮やかな二人の少女。
「君らは確か――」
アテネと同室の士官候補生だと、ルカは記憶していた。
「あたしは、クロエだよ」
と、緑色の髪に、碧色の瞳の少女がそう名乗る。
「わたくしは、マリナと申します」
桃色が混じる黄金色の豊かな髪に、紫の瞳の少女が、丁寧な口調で言った。
「俺の名は、ルカ。見習い水兵だ」
ルカは会話の合間に、さらに一人海賊を倒す。
クロエと、マリナも、それぞれ一人ずつ海賊を打ち倒した。
戦況はまさに混戦。
ルカがいる中央甲板では、敵味方入り混じる激しい戦闘が繰り広げられていた。
奇襲により中央を占拠した海賊たちは、そこを拠点に、船全体に侵攻を開始。
対する海兵隊は、まずは船首方面を制圧。海賊たちが拠点を構える中央を解放せんと攻撃を続けていた。
中でも、血塗られたような赤黒いコートを纏う『銀髪の女海賊』が、海兵隊長のセラフィナと凄まじい剣戟を繰り広げる。
「で、ルカっちは、そんなに急いでどこいくわけ? 危ないからここから動かない方がいいと思うけど」
「アテネのところだ」
「ルカっちはただの見習いでしょ? 危険を冒してアテネお嬢様の所へ行く必要なんてないじゃん。心配しなくても、お嬢様はこの船でも一、二を争う強さだよ」
「どんなに強くたって、母親が撃たれて、平静を保てるやつなんていないだろ」
「……艦長と、お嬢様が母娘だって知ってるんだ」
「ああ」
ルカは最初に医務室で出会った時から、アテネとメルティナの二人が血縁関係にある事を察していた。
「これが最後に質問。ここから先は……本当に命懸けだよ。それでも行くの?」
先ほどから試すような物言いをするクロエ。
その表情は真剣で、アテネを憂う気持ちが現れていた。
だからこそ、
「俺の命はアテネに救われた。だから、アテネのためなら命だって捨てられる」
ルカは拳でドンッと胸を叩き、そう言いきった。
奴隷として、誰かに仕えるのが当たり前だったルカにとって、アテネは己の意思で側にいたいと、仕えるのではなく『対等』でありたいと、そう願うほどの相手なのだ。
だが、ルカが真摯に答えたのに対し、クロエとマリナは何故か頬を赤くして、
「あ~、うん……合格。百点満点だよ。お嬢様がやられちゃう訳だわ」
「ふふ、聞いているこちらが照れてしまいますわ」
と、口々に言った。
「悪いが急いでいる。用がないなら俺は行くぞ」
ルカはカトラスを構えて、海賊たちの包囲に斬り込もうとするが――
「お待ち下さい、ルカさん。アテネさんの所へ向かうのであれば、この場は、私たちが斬り開きましょう」
「そういうこと。本当は私たちが行きたいんだけど、この場の死守を命じられてさ。だから、お嬢様の事はルカっちに頼むよ」
二人はそう言ってルカの横に並び立ち、それぞれの武器を構えた。
「恩に着る」
「生きてたら、なんか奢ってよね!」
「参ります。離れず後ろを着いて来て下さい!」
クロエと、マリナは息の揃った見事な連携で、海賊に突撃した。
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