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   5


 誰もが麻痺したかのように、天を見上げた。

 地獄の底が抜け、その先に待つのが奈落であったかのように、女達は茫然と、『それ』を見上げるしかなかった。


 人が持つ根源的な恐怖を具現化したかのような、八つの頭を持つ巨大な大蛇を――


 大自然の驚異を人は『神』に例えるが、眼前にそびえ立つその存在は、まさしく人が決して抗う事の出来ない超常の具現化であった。


 だが、その神を前にしても、心が折れぬ者が、ただ一人存在した。

 漆黒の髪に、漆黒の瞳。そして、漆黒の刀を携える少年が、一歩また一歩と神に向かって歩み行く。


 彼の名は、橘琉風。

 大江の山にて《夜叉の姫》こと酒呑童子を討ち果たした《雷公》源頼光の末裔であり、千年ものあいだひたすらに鬼を狩り続け、『人』よりも『鬼』に近い存在になり果てた、『ひとでなし』の一族に生まれ落ちた『麒麟』である。


「逆の立場だったら、俺も……あんたのように狂っていたかもしれない。父のように鬼に堕ちたかもしれない。だが、あんたには同情はしない。あんたは人の道を外れた外道だ。己が欲望のために数多の命を貪る悪鬼羅刹だ。だからこそ、俺は――――俺の持てる全ての力であんたを滅ぼす」


 バチリと、凄絶な雷光がルカの周囲に炸裂。

 ルカは己の命を対価に雷神を招来し、この場で神を討ち果たすつもりだった。

 愛するアテネを、テュッテを、多くの仲間を守るために――


 だが、その時。


 カッと夜空が真紅に染まり、闇が暁の如き光に払われる。

 分厚い暗雲の向こうから現れたのは、『太陽』のように巨大で、眩い、紅蓮の大火球であった。

 

「――――私抜きでパーティーを始めるなんて、随分とつれないじゃない?」


 挑発的で、不遜で、快活な声が響き渡る。

 振り向いたルカが見たのは、腰に手を当て、自信に満ちた笑みを浮かべる絶世の美少女だ。


「テュッティ!?」

 と、叫んだのは、目を赤く潤ませるアテネ。

 テュッティが目覚めた途端、恐怖に凍り付いていた世界が溶けるような熱気が、周囲に満ちていくのがわかる。


「…………戦えるのか?」

 ルカは歓喜を堪え、鋭く尋ねた。

 鬼は嘘を吐かない――その言葉が真実であったかわかならい。

 だが、テュッティ身を苛む呪いは、確かに消え果ていた。

 

「ふん、誰にものをいっているのかしら?」

 燃えるような真紅の髪をかき上げ散らし、テュッティは言う。

 その表情には呪いによる影響は欠片も見えず、生気に満ち溢れていた。


あれは(、、、)、お前の仕業か」

 ルカは太陽のように燦然と輝く、紅蓮の大火球を見上げる。

 火球は相対的にはゆっくりと見えるが、実際には凄まじい速度で落下していた。


「お前にも見せた事のない私のとっておきよ。もしも私が死んだら、あれがこの地を焼き払い、煉獄に変えていたわ」

 テュッティは妖艶に笑うと、天に手を掲げ、ギュッと掌を握りしめる。


 次の瞬間。


 閃光が走り、紅蓮の大火球が花火のように盛大に爆ぜたではないか。

 遅れて、腹に響く爆裂音が轟く。


 闇夜に花開いた紅蓮の大輪は、場違いなほど美しく鮮やかで――

 

「さあ、逃げるわよ! お前達も巻き添えを喰らいたくなければ、海に飛び込みなさい!!」

 と、叫び、ルカの手を掴んで走り出すテュッティに、全員がギョッとした顔をする。


「まさかお前!?」

「こ、こっちに降ってきますよ!?」


 爆散して紅蓮の尾を引く無数の火球は、消滅すること無く、そのまま降り注いでくる。


「ぜ、全員退避しろ!!」

 ルカが血相を変えて命じると、アテネを含めた女達が悲鳴を上げて海へ走る。


「い、一体、何を考えているんですか!?」

 アテネが走りながら、テュッティに叫ぶ。


「威力を分散させたのよ。大火球のまま落としたんじゃ、この辺り一帯が消滅しちゃうでしょう? でも、私にはお前ほどのエーテル制御力はないわ。有り余る力でただ押し潰すだけ。当然、細かい制御なんて出来るわけがないじゃない!」

 バチリと、ウィンクするテュッティ。

 アテネはさらに文句を言おうと口を開くが、身体が浮くような爆発がそれを掻き消した。


 絨毯爆撃の如く、凄まじい爆裂の嵐が大地に吹き荒れ、紅蓮の雨が多頭の大蛇に降り注ぐ。


「――――アテネ!」

 ルカはもう片方の手でアテネを掴むと、テュッティと一緒に腕の中に抱き締め、海に飛び込んだ。


 夜の海中は暗く冷たく、急な静寂の中で、抱き締めた二人の少女の鼓動だけが伝わって来る。

 どこまでも沈み行くかと思った直後。

 海中に凄まじい衝撃が伝播し、海面を舐めるように紅蓮の炎が頭上を駆け抜ける。


 大蛇の雄叫びがビリビリと海底を震わせた。


      ◇


「む、滅茶苦茶ですよテュッティ! 危うく皆でローストにところです!」

 海から上がったアテネが、スカートを絞りながら抗議する。


「ふふ、お前は煮ても焼いても食べられそうにないわね。どの道あのままだと、仲良く化け物の腹の中よ」

 悪びれたようすは欠片もなく、テュッティは濡れた髪をかき上げる。


 眼前に広がるのは無数のクレーターで地形を変えた大地で、森が消し飛び、山が崩れ去り、まるで隕石群が降り注いだかのような惨状だ。

 灼熱した大地は、今も赤々と燃え上がり黒煙を立ち昇らせる。

 さらに、攻撃の余波は、入り江沖で座礁した、ブリテン海軍の戦列艦にも及んでおり、燃え上がる船体が海を明るく照らしていた。


「皆……無事のようだな」

 ルカは海から上がって来る女達を見渡し、胸を撫で下ろす。

 咄嗟の状況だったが、誰一人欠ける事無く全員無事のようだ。


 多頭の大蛇の姿はどこにもなく、浜辺に残る氷漬けになった屍鬼だけが、時が止まったかのように立ち並ぶ。


「奴は……どこに消えたんだ?」

 ルカは大地に点々と残る、焼け焦げたヘドロのような闇を見やる。

 それは北の方向へと続いていた。


 と、


「より多くの怨念を求めて……城塞に向かっているわ」

 何かを感知するように目を閉じるルテシャ。


「わかるのか?」

 と、ルカが尋ねると、ルテシャ目を開いてコクリとうなづいた。


「あの城塞では百年の間に……何千という海賊が、拷問され、処刑されてきた。その血と嘆きは大地に深く染みつき、怨念の渦を成しているわ。もし、あの魔性の徒がそれを取り込めば――」

 ルテシャは言葉を濁す。

 その先は言わずとも、誰もがわかっていた。


 禍々しく輝く二対の十六の瞳孔に、多頭の巨大な大蛇に、この場にいる女達は皆が死を覚悟し、抵抗する気力すら奪われたのだ。

 あの化け物がさらに強大になれば、あの海の悪魔を凌駕する、カリブ全体の脅威となるだろう。

 女達に重たい沈黙が広がる。 


「俺達には『二つ』の選択肢がある。一つ目は、見て見ぬふりをしてこのまま脱出するか。二つ目は、奴を滅ぼすために再び城塞に戻るかだ」

 沈黙を破るようにルカは言った。


「引けば、魔の跳梁を許し、この海に大きな災禍をもたらす事になるのですね……」

 アテネが真剣な表情で言う。


「進めば、城塞を守る千人の精鋭と、あの化け物を同時に相手する事になるのでしょう」

 と、言ったのはマリナだ。


「引くも地獄、進むも地獄ってわけね」

 最後にテュッティが締めくくる。


 ルカは女達の視線を感じた。


 アテネも、テュッティも、他の多くの女達も、ルカの決断を待っていた。

 彼女達は怯えた子羊ではなく、訓練された猟犬だ。

 例え今は恐怖に脚が竦もうとも、戦えと命じられれば剣を手に突撃できる猛者達だ。


(引くか、進むか――――)


 桔梗の姫が約束を守ったのか、それとも単なる偶然なのか、テュッティは呪から解放され、屍鬼の中で氷漬けとなったアデラだけが残っていた。


 これ以上ない望外の成果だ。

 ここで撤退しても、称賛されこそすれ、誰からも責められたりはしないだろう。


 だが、


「俺は……奴を倒しに行く」

 ルカが戦うと決めたのは、正義のためでも、このカリブの未来のためでもなく、一重に、『桔梗の姫』が赤の他人ではないからだ。

 この世に『もし』があるとするなら、母になっていたかもしれない女であるからだ。


「ここから先は俺の私的な戦いだ。勝てるかどうかもわからない無謀な戦いだ。当然、命の保証はどこにもない。抜けたい奴は遠慮なく抜けてくれ。だが――」

 ルカはそこで言葉を切ると、


「俺と一緒に死んでくれる奴は……頼む。力を貸してくれ!」

 と、言って、深く頭を下げた。


 女達の瞳に闘志が燃え上がったのはその瞬間だった。


「アタシはやるよ。アンタには借りを作り過ぎたからねぇ。ここらで返さておくれ」

 真っ先に言ったのは、アマゾネスの女戦士オーガだ。


「私も戦おう。ティファニア様を誑かしたあの者を、許しておく事は出来ん」

 シルフィが前に出る。


「あたしも手伝うよ、ルカっち! 海賊ばかりにいいかっこさせられないからね」

 クロエはオーガに対抗するように言った。


「ふふ、わたくしも加えて頂きますわ。邪神が相手とあらば……黙っているわけにはいきませんもの」

 マリナは蒼い瞳にゾッとするほどの殺意を浮かべ微笑む。


「……私も行く」

 口数少なくルテシャが言った。


「わ、私も……何かお手伝いさせて下さい!」

 勇気を振り絞るのは、水兵のエミリアーナだ。

 

「気を回し過ぎるのはお前の悪癖よ。ここはただ『死ね』と命じればいいの。俺のために死ねと、お前達の命をよこせとね。そして、生き残った奴には最高級のラム酒をくれてやりなさい。それで全員よろこんで命を懸けるわ」

 テュッティはそこで言葉を切ると、真紅の髪を振り払い、


「――――そうでしょお前達!?」


 と、叫んだ。

 その言葉に海賊達だけではなく、海兵隊の少女達までが、「やー!」と鬨の声を上げた。


 最後に、蒼い髪から水をしたたらせるアテネが、ルカの前に立つ。


「もしルカが一人で戦うと言ったなら、私達にだけに帰れと命じたのなら、私は――ルカの手足を縛ってでも連れ帰るところでした」

「アテネ……」


「ですが、ルカは私達を頼ってくました。必要としてくれました。いつも誰かのために命を懸けて戦うルカが、初めて自分のために戦うというのです。ならば、私は――万難を排する盾となってあなたを守ります」

 アテネは胸に手当て誓うように、ルカに寄り添う。


 ルカは胸に熱い感情を燃え上がらせながら、アテネを、テュッティを、周囲に集まる女達を順番に見やり――


「揃いも揃って命知らずのマーメイドばかりだ。なら俺からの命令はただ一つ。誰も死ぬな! 必ず生きて帰れ! そしたら、死ぬほど酒を飲ませてやる! 俺のおごりだ!!」


 爆発するかのように大歓声が、黒煙が立ち昇る夜空に響き渡った。


   ◇


「まずは補給と、怪我の治療だ」

 ルカを含む八〇人を越える女達は、早朝から、今まで、ずっと飲まず食わずで戦って来たのだ。

 腹が減っては戦は出来ぬと、女達はあらかじめ用意されていた戦闘糧食を食べ、水筒の水を飲む。


「エミリーらは、ここに残って負傷者の救護を頼む」

 命を落とした者はいないが、怪我を負っている者は多く、中には酷い怪我や火傷を負った者もいた。彼女達に無理をさせれば命にかかわるだろう。


「はい! わかりました!」

 医術の心得を学んでいるエミリーは、祈るように両手を組む。


「あと、すまないが……彼女を頼む」

 氷の彫像となったアデラだけは、大蛇に取り込まれなかった。

 だが、氷漬けとなったその身体からは闇の気配を感じないが、生気もまた感じられなかった。


「あとで……きちんと弔ってやりたいんだ」

「お任せ下さい」

「テオには伝令を頼む。俺達が先行偵察で使った小型ヨットは入り江の奥に隠していて無事だ。それでステラ・マリス号に戻り、艦長に状況を知らせてくれ」


「ええ! 私が伝令役を!? わ、私なんて下っ端の水兵ですよ!?」

 部隊全体の命運を左右する伝令役は、優秀な者にしか務まらず、テオは突然の大役に目を白黒させる。


「テオが誰よりも優秀な水兵であり、優れた操船技術を持っている事は、俺達が一番知っている。頼んだぞ!」


「わ……わかった! 私、頑張る!」

 テオは頬を紅潮させうなづいた。


「頑張って、テオ!」

「エミリーも私が居ないからって、ドジ踏まないでよ!」


 同じ孤児院で暮らしたエミリーとテオは、姉妹のように仲が良く強い絆で結ばれている。 

 二人はハイタッチして、それぞれの役目を果たさんと別の道を行く。


 と、


「――――待ちなさい、そこの女(、、、、)


 エミリーに後ろから声をかけたのは、所在なさげに髪を弄るテュッティだ。

 いつも自信に満ち溢れるテュッティには珍しく、その表情には緊張が浮かんでいた。


「…………なにか、御用でしょうか?」

 振り返ったエミリーは目を合わせようとはせず、その声も硬い。


 テュッティもエミリーも既に互いの『存在』を、自分達が血の繋がった実の『姉妹』であると理解していた。

 一目見た瞬間に、そうだとわかったのだ。


 だが、生き別れた姉妹の間には、分厚い『壁』がそびえ立っていた。


 海賊パイレーツ海軍マーメイド


 互いにカリブの海で生きながら、正反対の人生を歩んできた姉妹は、感動的な対面を許されずに沈黙を続ける。


「名を……あんたの名を教えなさい」

 テュッティは挑むように尋ねた。

 エミリーは顔を上げると、同じ鮮やかな真紅の瞳を見つめ返し、


「――――エミリアーナ。親しいものはエミリーと呼びます!」

 と、胸に手を当て屹然と言った。


「そう。わかったわ」

 もう用はないよばかりに踵を返し、テュッティはこの場を去ろうとする。


「待って!」


「なにかしら?」

 テュッティは振り返らずに問う。


「私が名乗ったのですから、あなたも名乗るのが礼儀ではありませんか!?」

 もどかしさを怒りに籠めてエミリーは言いつのる。

 テュッティは驚きに目を見開き、すぐに口元に笑みを浮かべる。


 そして、


「よく覚えておきなさい! 私の名は、エドワード・テュッティ! 泣く子も黙る黒髭海賊団の首領よ!!」

 颯爽と振り返ったテュッティは、威風堂々を名乗りを上げた。


 二人はしばらくの間、互いを見つめ合う。


「私、海賊が嫌いです……!」

 勇気を振り絞るようにエミリーは言った。


「そのようね」

「それでも、今の……あたなは私達の味方です。怪我人が居ればいって下さい。私が出来る限りの治療をします」

「わかったわ」


「あ、あなたも! け、怪我には気を付けて下さい!」


「――――ッ」

 言葉を失うテュッティにエミリーは頭を下げると、その場を走り去った。 


 テュッティは黙ったまま立ち尽くす。


「大丈夫か、テュッティ?」

 ルカが後ろから優しく声をかけた


「神の存在なんて信じていないけれど……困ったわね。こんな奇跡が起きるなんて……」

 顔をうつむけたテュッティは、その声を湿らせる。


「泣きたかったら泣いてもいいんだぞ?」

「今はいいわ。大事の前だもの。でも、戦いが終わってまだ私が生きていたら……その時は、お前の胸を借りるわ」

「ああ」


「胸なら私のも借りていいですよ、テュッティ!」

 アテネはテュッティを慰めるように、「えへん」と胸を張る。

 たわわな果実がゆさんと揺れた。


「生憎、女と抱き合う趣味はないの」

 テュッティはそう言って、アテネのおでこを指で弾いた。


「い、痛いです」


「それより『あれ』を見なさい。勝機が向こうから(、、、、、、、、)転がり込んで来たわ(、、、、、、、、、)

 テュッティは獲物を狙う獰猛な獣のように、浜辺を指差した。


 見れば、海から次々とブリテン海軍の兵士達が打ち揚げられてくるのだ。

 彼女達は沖で座礁し、炎上した戦列艦の乗組員で、命からがらここまで泳いできたのだ。


 その中には当然、指揮官の姿もあり――


「いいところに来たわね、ウッズ・ロジャーズ!」 

 テュッティが指揮官であるウッズ・ロジャーズの前に立つ。

 ルカ達は部隊を率いて、上陸してくるブリテン海軍を取り囲んだ。


「貴様、テュッティ! やはり脱獄していたか!!」

 ロジャーズは荒々しく息を繰り返しながら、砂浜に膝をついて、憎々しげな表情を浮かべる。


 だが、テュッティは飄々とした態度で、


「脱獄ですって? 私は捕らえらていた記憶なんて欠片もないわ。私は恩赦を受けるべくこのナッソーに訪れたのよ。それに始末をつけるべきはお前の方でしょう? あれは(、、、)――お前が招き入れた魔性じゃない。このまま捨て置けばナッソーに朝は来ないわ」

「くっ」

「取り引きよ、ウッズ・ロジャーズ。私達なら奴を殺せる。手を貸しなさい」

「馬鹿な! 海賊と取り引きなど! 城塞を破壊したのは貴様達ではないか!?」


「あんな真似が人に出来るわけないでしょう。全てはあの化け物の仕業よ。それに選べる状況かしら?」

 ずらりと銃口を向けられ、ロジャーズ決断を迫られる。


「決断しろ。英国の将よ。俺達と敵対してここで死ぬか。己の間違いを正して共に闇を祓うかを」

 ルカは前に出てそう言った。


「…………本当に『あれ』を倒せるのだな?」 

「倒せるわ。事情により出自は言えないけれど、この黒髪は(、、、、、)、やんごとなき身分の『聖騎士』よ。お前の耳にも入っているでしょう? 海の悪魔を斬ったというコロンビアの新たな英雄を」

「まさか!? 貴殿が《黒衣の剣士》なのか!?」


「…………そうだ」

 テュッティに肘で小突かれ、ルカはうなづいた。


「何故、私が恩赦を受けるのかお前は納得いかない様子だったけれど、全てはこいつのせいよ。私はこいつに敗れて、業腹だけど海賊を辞める事を誓わされたのよ」

「な、なんと! 黒髭海賊団がコロンビア海軍と事を構えたのは知っていたが、そのような裏があったとは……」

「テュッティの恩赦を認めろ。そうすればあの鬼を狩るために全力で助力しよう」

「………………」

「迷う状況かしら? 私の恩赦は既にブリテンの女王が認めているのでしょう?」


「気付いていたか……」

 ロジャーズは渋面をしかめる。


「お前は奴の甘言に乗せられただけ。今ならまだ失点を取り返せるわ」


 と、その時。

 

『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――――ッ!!』


 城塞のある北の方角から、身の毛もよだつ雄叫びが轟いた。

 遅れて散発的な砲撃音が響いてくる。


 あの多頭の大蛇が、ついに城塞にたどり着いたのだろう。


「……………わかった。恩赦を認めよう」

 ロジャーズは懐から女王陛下のサインが入った書状を取り出した。


「私の指輪と龍鞭も返してもらいましょうか。お前の事だもの、万が一に備えて肌身離さず持っているのでしょう?」


「おい」

 ロジャーズは後ろの部下に言う。

 部下の一人が背嚢から木箱を取り出すと、その中には龍鞭と、指輪が収められていた。


「取引は成立した! これよりコロンビア海軍とブリテン海軍、及び黒髭海賊団は、共同戦線を組む!」

 ルカは皆にそう宣言し、銃を引かせた。


「向こうで怪我の治療と補給を行っている。怪我人がいれば遠慮せずにいってくれ」


「…………感謝する」

 ロジャーズはそう言うと、怪我をした部下に肩を貸して、そちらへ向かった。


    ◇


「狐と狸の化かしあいだな」

「よくあることよ。それにお前もノリノリだったじゃない」


「ルカはやんごとなき身分なのですか?」

 アテネが目をキラキラさせる。


「心配しなくてもただの奴隷さ」

「お前がただの奴隷なものですか」

「きっと奴隷の王様ですね」

「マフラジャーン『王の奴隷』ね」

「はい! 剣奴隷から砂漠の王に登り詰めた王奴の物語です!」


 何かの物語なのだろうか、アテネとテュッティは顔を合わせて笑い合う。


「なら、私は王の愛娼にして、熱砂の都の主かしら」

「では、私は王の妃にして、オアシスの巫女で」

「随分と盛ってくるじゃない」

「テュッティの方こそ」


「話はそれくらいにして集中しろ。作戦会議を開くぞ」

 ルカはこちらに戻って来るロジャーズを見て、二人に言った。


「はい! ごめんなさい!」


「ふん、仕方ないわね」

 アテネが元気よく返事をし、テュッティが肩をすくめる。

 戻って来たロジャーズは、テュッティの変わりように信じられないという表情をしていた。


「で、作戦は?」

 ルカの周りには、士官や、海賊幹部に、ブリテンの将校が集まる。


「鬼を狩るには首をはねるか、角を砕くしかない。だから、まずはあの分厚い死者の鎧をはぐ」

「クラーケンの時のように一発デカいの食らわせてガチンコするわけ?」

「いや、あの巨体だ。接近戦は危険だろう。巻き込まれただけでひとたまりもない。それに、今回の俺達には『文明の利器』がついている」


「文明の利器…………あ、大砲ですね!」

 アテネは顔を輝かせて言った。


「ああ、そうだ。沖に停泊する軍艦の大砲で奴を撃つ!」


「いや、待て。城塞は沖から砲撃が届かない距離に建設されている」

 ロジャーズがそう言った。


「確かに、足りないわね」

 と、テュッティ。


「砲の射程に釣り出すさ。そのために、皆には一働きしてもらいたい」

 ルカが地図を広げると、皆一斉に地図を覗き込んだ。


    ◇



「ほら、急ぎな! グズクズしてると火だるまになるよ!」

 全身に汗を浮かべ、オーガは激を飛ばす。


 オーガ率いるアマゾネス部隊は、クロエ率いる海兵隊と共に、避難が終わった城塞に油をまいて火を放つ。


「城塞を丸ごとオーブンにしちゃうなんて、ルカっちはほんとグレイジーだよね」

 ルカに任された作戦を遂行するクロエは、周囲を警戒しながらそう言った。


「違いない! だが、味方ならあれほど頼もしい武人はいないね!」

 オーガは肩に担いだ油壷を、壁に向かって投げ捨てる。

 屈強なアマゾネスが油壺を運び、海兵隊が火を放つ。


 そして、


「――――風の聖霊よ」

 シルフィが風を操り火と煙の方向を制御。


 部隊が火に巻かれないようにしつつ、燃焼を促進させる。

 城塞は炎に包まれ、その炎に照らされ浮かび上がるのは、闇と、死者の血肉と、怨念で肥え太る醜い醜い化け物であった。


「怪物の腹の中にいるみたいで、ゾッとしないね……」

「ここで最後だよ。オッケー、脱出しよう」

「引き上げだよお前達! 残った油は全部捨てちまいな!」


「やー!」

 油壺を次々に投げ捨てる。

 炎が生き物のように膨れ上がり、城塞の天井を焦がした。

 

 城塞に放たれた火は徐々に広がり、燃え盛る炎が夜空を赤く照らし、黒煙が星々を覆う。


     ◇


「神樹との古の盟約により、土塊よ、魔を防ぐ障壁となれ」

 浪々と古い言葉を紡ぐのは、マスケットライフルではなく、一振りの錫杖を持つルテシャだ。


 ルテシャは外で、分厚い城壁に魔封じの聖霊陣を描いていく。

 城塞の中に大蛇を封じるルカの作戦であった。


 だが、


『――――グルゥウウウウウウウウウウウ!』

 絶大な魔性に呼び寄せられた妖どもが、術の詠唱に無防備を晒すルテシャに襲い掛かった。


 闇の中に紫電が炸裂したのは、その瞬間だった。

 巨大な馬上槍を軽々と操る白銀の戦乙女が、妖どもを一瞬で粉砕、消し飛した。


「ご無事ですか、ルテシャさん」

 コツリと槍の石突で地面を叩き、マリナは言う。


「ありがとう……」

「ふふ、どういたしましてですわ」

「これで命令通り、四方のうち三方に魔封じを施した。でも、どうして四方全てを封じないのかわからない……」

 最先端の紋章学にも、古の魔術にも精通するルテシャは、不思議そうに首を傾げる。


「逃げ道を失った兵は、『死兵』となって牙を剥きますわ。ですが、敢えて逃げ道を作る事で敵を『誘導』する兵法がありますの。おそらくルカ様をそれを成そうとしているのでしょう」

「なるほど……兵法も奥が深い」


「では、私達も合流地点に向かいましょう。後ろを離れず着いて来て下さい」

 マリナはそう言って、またぞろと湧きだした妖に向け槍を構える。


     ◇


 テオがもたらしたルカの作戦を、メルティナは瞬時に理解。

 すぐさまブリテン海軍との交渉に入った。。

 つい先ほどまで睨み合いを続けていたコロンビア海軍、及び黒髭海賊団と、ナッソーを防衛するブリテン海軍は、今は共通の敵を叩くべく沖合で艦隊を再編成していた。


 そして、


 城塞が燃え上がる炎は、沖で停泊するステラ・マリス号からも確認出来た。

 同時にそれは、作戦開始の『狼煙』でもあった。


「いやはや、若い連中は無茶をしますなぁ。停戦国の城塞を燃やすとは、下手をしなくても戦争になりますぞ」

 航海長ミラルダはパイプから煙を揺らめかせながら、楽しげに言う。


「私達も若い頃は無茶ばかりして、上官に散々尻拭いさせたじゃない。今度は私達があの子らを守る番よ。それに――戦場では功罪なんて言葉は存在しない。咎められるべき過ちは、勝利によって洗い流せる。勝つか負けるか。生きるか死ぬかだけよ」


「久々に……血が騒ぎますな」

 ミラルダの言葉に、メルティナは美しい唇に笑みを浮かべ、伝声管を開いた。


「――――告げる。こちら艦長」

 艦内に響き渡る声に、誰もが手を止め耳を傾ける。


「我々の役目は単純にして明快よ。あれが休戦国の城塞だとか、そこに蠢いている物の正体など、一切気にする必要はないわ。我々のすべき事は、狙い、そして撃つだけ! ありったけのエーテルを籠めてぶち込んでやりなさい!!」


 メルティナが叫ぶと、艦内全体で「やー!」と歓声が上がる。

 ステラ・マリス号の白銀の外殻から、次々に砲門を開いていき、黒鉄の大砲がずらりと並ぶ。


 と、その時。


 船尾楼甲板で指揮棒に握るメルティナが、ハッとした表情で天を見上げた。

 雲と雲の切れ間から見える月に、漆黒の影が横切ったのだ。


「――――あれは、黒龍アイドネウス?」


 それはかつて、メルティナと先代の黒髭とで、死闘の果てに討伐した『龍』の名であった。

 龍は不滅であり死後は卵に戻り、再びこの世に蘇る。  


「ふっ、娘を案じて龍を駆るとは、親馬鹿はそちらだぞ友よ」

 メルティナは笑みを浮かべてそう呟くと、戦場に意識を戻した。


     ◇


「………二人とも、準備はいいか?」

 ルカとアテネとテュッティの三人は、城塞が見える岬の灯台にいた。


「こっちは万端よ」

 龍鞭を片手にテュッテは言った。

 その左手の指に輝くのは、ロジャーズから取り戻した聖霊器《ヘスティアの竈》だ。


「私の方も大丈夫です!」

 アテネは両手に新調した双銃グラウクスを握り、足には聖霊器《聖盾アイギス》を履いていた。


「ルカの方は大丈夫ですか?」


「ああ、問題ない」

 こちらの身を案じるアテネに、ルカはその頭を優しく撫でて答えた。

 アテネは嬉しそうに目を閉じる。


「この三人が揃うと、嫌でもクラーケンとの戦いを思い出すわね」

「あの時は私達しか居ませんでしたが、今回は頼もしい仲間が揃っています」


「そうね……」

 テュッティは遠い目で、炎に包まれた城塞を見やる。


 通常の炎では闇を祓う事すらできないのだろう。

 多頭の大蛇は地下を打ち破り、地に染みついた怨念を貪るように蠢いていた。


「どうした。何か作戦に不安があるのか?」


「お前と共に戦うのよ。不安は欠片もないわ。ただ……こんな時でないと素直に言えないだろうから、今のうちに伝えておくわ」

 テュッティはそこで言葉を切ると、ルカとアテネを振り返り、


「助けに来てくれて…………ありがとう」

 と、言って、頭を下げたではないか。

 ルカとアテネは目を丸くして驚き、すぐに優しい笑みを浮かべる。


「顔を上げろテュッティ、俺達の間に貸し借りはない」

「ルカの言うとおりですよ。それに駄目な『姉』の面倒を見るのも、出来た『妹』の務めですから」


「お前にも感謝してるわ、アテネ」


「え、あの……そこはいつものように突っ込んでくれないと、調子が狂います……」

 常にないテュッティの反応に、アテネはおろおろするしかなく。


「今日ほど仲間の有り難みを感じた日はないわ。バグさせてアテネ」


「テュッティ…………」

 アテネは目を潤ませて両手を広げる。


 テュッティはそんなアテネに両手を伸ばすと、その柔らかな頬っぺたを抓み『むぎゅー』と引っ張った。


「だ・れ・が、不出来な姉ですって!? お前のように可愛くない子を妹にした覚えはないわ!!」

「い、痛い、痛いですッ!」

「ったく、私にこんな舐めた口を聞くのはお前くらいよ」


「えへへ」

 アテネは頬を押さえて、嬉しそうに笑う。

 テュッティの態度に、多分の照れ隠しが含まれている事は明白であった。


「私も……随分と丸くなったわ。海賊を辞めるには丁度いい潮時だったのかもね」

「変わらない奴なんていないさ。その変化をどう受け止め、どうよくしていくかだ。少なくとも今のお前は、俺の目に好ましく映る」


「ふ、ふん」

 テュッティは頬を赤く染めて、そっぽを向いた。


「後の話は奴とのけりを着けてからだ。始めるぞ、アテネ! テュッティ!」


「――――はい!」

「――――ええッ!!」

 ルカの号令に、二人の少女は声を揃えて返事をする。


     ◇

 

(怨めしい、怨めしい、私を捨てたあの人が怨めしい――――)


 桔梗の姫は死者の血肉に包まれながら、怨嗟の言霊を呪文のように唱え続ける。

 その穢れた魂に、僅かなりとも残っていた正常な思考は完全に闇に呑まれ、巨大な呪の核と成り果てていた。


(宗重様にお会いしたい、ああ、宗重様…………)


 肥え太る醜悪な八岐大蛇が、闇夜に雄叫びを上げる。

 八つに分かれたそのアギトからは、この地で死んでいった女の怨念が貪り食われていく。

 巨大な身体が、さらに巨大に成長していく姿は、無限に広がる伝染病のようであった。


 と、その時。


 城塞が紅蓮の業火に包まれた。


 いや、炎は先程から上がっていた。

 足元を蟻のように這い回る生者の気配は、常に感じていた。


 だが、普通の炎では、鬼となったこの身も、呪い集合体となったこの大蛇も、燃えることはない。


 なのに――


(熱い……身体が燃えていく……)


 凄まじい紅蓮の業火が、火炎竜巻となって渦を巻いていた。

 それは、城塞に燃え盛る大火を『触媒』として召喚された、森羅万象のあらゆるものを焼き尽くす『炎神の焔』であった。


 聖霊術は、エーテルを対価に無から有を生み出す秘術。

 その法則には当然、『無』から生み出すよりも『有』となる触媒がある方が効率は何倍にも、何十倍にも増す。

 水の聖霊術なら『水場』というように、火の聖霊術を増幅させるには、『火』こそがもっとも効果的だ。


 城塞に放たれ燃え広がった大火は、テュッティの聖霊術により、あらゆるものを灰塵に帰する火炎竜巻へと転じる。

 轟、轟と炎が唸りを上げて、分厚い城壁をも飴のように融かす熱量は、さながら熔鉱炉であった。


『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン』


 火炎地獄の中心に閉じ込められた八岐大蛇は、その核と成り果てた桔梗の姫は、その巨体を振り乱して暴れに暴れる。

 このまま火炎竜巻に晒されていれば、魂すら灰になるだろう。


 だが、四方は城壁に囲まれている。


 否、一ヶ所だけ、開けている場所があった。

 それは、テュッティ救出の際に、マリナが穿ち貫いた城塞の西側。

 広大な入江に作られた『軍港』がある場所であった。


 大蛇は動いた。


 その巨体からは信じられない俊敏さで。

 燃え盛る火炎竜巻を突き破り、城塞の外に飛び出した大蛇は、その全身を灼熱させながら海へと向かう。

 巨大な蛇が海に雪崩れ込むと、灼熱した溶岩に触れたかのように凄まじい水蒸気が吹き上がり、海水が津波のように湾口に打ち付け、白い飛沫となって散った。


 天空に――稲光が走る。


 直後、耳を劈く豪音と共に、天を貫く金色の大雷が、八つのわかれた蛇の頭蓋を直撃。頭部が爆ぜるように吹き飛ぶ。

 

 さらに、白く波打つ波が次々に凍り付き、氷の大地に変わって行くではないか。


 下半身を完全に『氷獄』に閉じ込められた大蛇が、頭部を失ってなお、暴れ回る。

 否、吹き飛んだ頭部が、死肉が盛り上がり再生を始めていた。


 だが、蘇った大蛇の瞳が捉えたのは、沖に咲き乱れる砲火の花であった。


 バババアアアアアアアアアアアンッ! と、まるで万の雷鳴を束ねたかのような、重砲撃音が湾に響き渡る。


 コロンビア海軍と、ブリテン海軍と、黒髭海賊団改め――新生ハイランド海軍による連合艦隊。


 総数、一二二隻。


 砲数、四八八〇門による一斉射撃が夜空に鳴り響いた。


 無数の砲弾が、鮮やかな流星群のように夜空を駆け、次々に大蛇に着弾していく。

 凄まじい爆発と閃光が夜の闇に照らし、化け物のおぞましい咆哮が木霊した。


     ◇


「撃てー! 砲が焼けるまで撃ち続けろ!」

 ロジャーズの声が、砲列甲板に響き渡る。


 凍てつく海面から巨大な身体を晒す多頭の大蛇は、豪雨のように降り注ぐ砲弾にのたうち、暴れ、腐った血肉を撒き散らす。


(恐ろしい光景だ。だが、真に恐ろしいのは、あの黒衣の剣士か……)


 敵を海まで誘き寄せ、包囲陣を組んだ艦隊での重砲撃。

 言葉にすれば簡単だが、実行がどれだけ困難であるか、数多くの海賊を狩りナッソーの提督となったロジャーズにはわからないはずがない。


 しかも、相手は『人』ではなく超常の『化け物』だ。


 この世の理から外れた魔界の住人だ。

 どうやって戦えばいいのか。

 どうやったら倒せるのか。

 そもそも――普通の者であるなら、立ち向かうという感情すら沸きはしないだろう。


 だが、


(あの黒髪の東洋人は、ブリテン王国では黒衣の剣士と噂されるあの者は、僅か六点鐘の時間で、我々の仲間を城塞から救出し、火を放ち、連合艦隊を編成させ、そして――あの化け物を、砲の射程に釣り出して見せた!)


 ロジャーズの心は恐怖と畏怖と、歓喜に震えていた。

 こんな真似が出来る者が、我がブリテン海軍が誇る最大の英雄『ネルソン』以外にも存在するとは。

 これからあの者は、我がブリテン王国にとって厄介な敵となるだろう。


 なのに、


(胸に沸き立つこの感情はなんだ?)


 人は夜の闇を恐れる。

 だが、その闇すら切り裂かんとする英雄と共に戦える高揚感が、ロジャーズの全身を駆け巡っていた。


「さぁ、もっと装填を急げ! 我々は誇り高き英国海軍である! 他国の海軍に、ましてや海賊どもに負けてなるものか! 連度の違いを見せてやれ!」


 ロジャーズの鼓舞が轟く。

 戦列艦の砲列甲板から次々に大砲が発射され、その凄まじい衝撃に波しぶきがあがった。


    ◇


「――――崩れます!」

 灯台の縁に手を乗せ、アテネが叫んだ。


 如何に強大な魔であろうとも、邪神であろうとも、毎分数百にも及ぶ重砲撃には半刻と耐えられなかった。

 多頭の大蛇はついにその外形を維持できなくなり、氷った海面に倒れるように崩れていく。


 ズンッ! と、凍り付いた海面に地響きが鳴った。


 ヘドロのような闇と、おびただしい数の死体が散乱し、炎に巻かれて異臭を放つ。

 

 そして――

 

 腐肉地獄の中心に立つのは、おぞましき血肉から産声を上げたのは、髪も、肌も、雪のような純白へと生まれ変わった、哀れで悲しい一匹の『白皙の鬼』であった。


 一見すると、神の化身とも、天使とも見まごうほど美しい鬼に向け、無数の砲火が降り注ぐ。


 だが、白皙の鬼がついと右手を持ち上げると、数百を越える砲弾の全てが、鬼に直撃する寸前で、時が止まったかのように空中に縫い付けられたではないか。


 さらに鬼が右手を振るうと、空中で停止していた砲弾が一斉にはぜて大爆発を起こした。


「きゃっ!?」

 凄まじい衝撃波が駆け抜け、離れた灯台のいるアテネとテュッティが吹き飛ばされるように倒れ込む。


 ルカは二人の少女を両手で抱き留め、


「――――これからは俺がやる」

 と、有無をいわさぬ声で言った。


 漆黒の瞳は金色に輝き、漆黒の髪は雷光を放つ。

 その身には既に、『雷神』が宿っていた。


 氷と、炎と、死で作られた大地を、ルカは歩む。


 砲撃は止まり、艦隊は遠巻きに状況を見守る。

 白皙の鬼は歩み寄るルカに、静かに顔を上げた。


 そして、


「私は……宗重様を想っていただけ。愛して欲しいとまで願ってはいなかった」

 鬼の真紅の瞳から、涙がこぼれ落ちる。


 そう。桔梗の姫は正気を取り戻していた。

 数多の命と、無数の怨念を貪り――真正の鬼へと、鬼神へと転生した果てに、桔梗の姫は正気を取り戻した。


 取り戻してし(、、、、、、)まったのだ(、、、、、)


 狂ったままであったなら、己のしてきた外道魔道を知らずに済んだだろう。


 だが、運命の神はどこまでも残酷だ。


 神はこの哀れな鬼に、最後の刻まで一片の慈悲すらくれてやる事はなかった。

 完全なる鬼神となった桔梗の姫は、女神の呪いにより海を渡る事を封じられ、もはやこの地から離れる事は出来ないのだ。


 だからこそ、



「父は真実……あんたを愛していた」

 ルカは桔梗の姫の眼前に立ち、そう言った。


 姫は、その瞳から涙を溢れさせながら答える。


「私は……宗重様の御心をわかっておりました。言葉に示されずとも、態度に表されずとも、愛されているとわかっておりました。なのに……どうしてこのような真似を……」


 生前の桔梗の姫は、妖であっても救おうとする心優しき少女であったという。

 しかし、妖は心の弱い部分を(、、、、、、、)狙って潜み寄る(、、、、、、、)

 強大な術者の命は、心は、妖にとって最高の馳走であるからだ。


 桔梗の姫は恋に患うその乙女心を、おぞましい化け物どもに食い物にされ、人から鬼へと堕ちたのだ。


「私の心は……まもなく、この身に巣食う鬼神に飲み込まれるでしょう。お願いです。どうか……私がこれ以上の罪を犯す前に、災禍を振りまく前に、この首を刎ねて下さいまし……」

 桔梗の姫はそう言って、白い首を晒す。


 ルカはコクリとうなずくと、鞘から漆黒の刀を抜き放った。


「その首……貰い受ける」


「感謝します。宗重様の子よ」

「言い残す事があれば聞こう」

「なにも、なにもありはしません……」


「ならば、俺から言葉を贈ろう。俺はこの異郷の地で、真実の愛を知った。愛しい者さえ側にいれば、どのような場所であっても楽園出来ると」


「ええ、その通りです。私は……宗重様の側にさえ居られれば、それだけでよかったのです。妻でなくとも、側女でもなんでもよかった。あの方の近くにさえいられれば――」

 氷の大地に膝をついた桔梗の姫は、悲しげに胸を押さえて言う。


「なら今度は離れるな」

「え?」


父が(、、)地獄で待っているぞ(、、、、、、、、、)


「ッ!」

 ルカの言葉に、桔梗の姫は真紅の瞳を大きく見開くと、


「――――――――はい」

 と、嬉しそうに頬を染めてうなづいた。

 桔梗の姫は、最後の最後で人の心を取り戻したのだ。


 次の瞬間。


 最も美しい姿で黄泉に送るかのように、ルカは一切の躊躇いなく刃を振り抜いた。

 肉と骨が断ち切られ、鬼の首が宙を舞う。


 ごとり、と氷の大地へ落ちた首に、ルカは上着をかぶせて袖口で縛る。


「…………ルカ」


 と、声をかけたのは、心配げな表情のアテネだ。

 万が一の時は、すぐに飛び出せるように側で控えていたのだろう。


「すまない、アテネ。しばらくこの首を預かっていてくれ」


「ルカは……どうされるのですか?」

 アテネは両手で首が包まれた上着を受け取る。


「最後の始末をつけてくる」

 ルカはそう言って踵を返すと、首をはねた鬼神の身体と対峙する。


 首の切断面からはとめどなく真っ赤な血が溢れだし、氷った大地を朱に染め、ゆっくりと血の池を広げていく。

 鬼神となった桔梗の姫は死んだ。

 それは間違いない。


 だが、神に至るほどの呪は、一つに寄り集まった怨念は、強大な穢れてなってこの世に残ったままであった。


 誰かがその穢れを祓わなければならない。


 と、


「隠れてないで出てきたらどうだ、オクタヴィア?」

 ルカは首のない鬼の身体から目を逸らさずに、そう言った。


 すると、ルカの隣で闇が揺らめき――


「律儀な奴だ。穢れの後始末なぞ……この私にまかせておけばよいものを」

 魔剣ヘラヴィーサを携えたオクタヴィアが、その姿を現した。


 ルカとオクタヴィア。

 二人の剣士は共に、邪悪な意思が満ちる白皙の神体に剣を向けた。


「身内の不始末だ。最後まで付き合うさ」

 と、ルカが言うと、にわかに血の池がボコボコと煮え立ち、首から溢れる血がさらに勢いを増す。


 直後、血の池から巨大な手が、無数に生え出て来たではなか。


「首を失った鬼神の肉体が、無くした首を求めて彷徨っている。捕まったら終わりだぞ」

 バチリと、ルカは周囲に雷光が炸裂させた。


「僅かでも剣閃を鈍らせれば、神もろとも斬り捨てる。足手まといは不要だからな」

 オクタヴィアの周囲にも、禍々しい紫電が散った。


「――――行くぞ!」


 ルカとオクタヴィアの二人は同時に踏み込んだ。


 巨大な白皙の腕が頭上から降り下ろされるが、二人は左右から挟み込むように、それぞれの刃を走らせる。

 空間に走る剣閃そのままに、巨大な指が、手が、形容しがたい体の一部が、線を引いたかのように斬り落とされていく。


 ルカは血の池を一足で駆け抜け、雷を束ねた黄金の太刀で、鬼神の胸を斬り裂いた。

 同時に、鬼神の背後から現れたオクタヴィアが、闇を凝縮したかのような暗黒剣で鬼神の背を袈裟斬りに落とす。


 ルカとオクタヴィアの刃が、鬼神を斬り裂きその体内で激突する。


 光と闇の衝突に眩い閃光が走り、鬼の身体が内側から風船のように破裂。

 凄まじい衝撃波が血の池を散らし、ルカとオクタヴィアは同時に飛び退いた。


 何故なら、四散したと思われた上半身から、さらには残された下半身からも、爆発的に腕が生え出たのだ。

 それは四方八方に手を伸ばし、凄まじい速度で生者を取り込もうとする。


 当然、鬼の首を抱えるアテネにも腕が迫るが――


「行って下さい、ルカ!」

 アテネの叫びに、ルカは振り向きもせず、ただ前へ斬り込んだ。

 それは何があっても大丈夫だという、絶対的な信頼であった。


 アテネに向け無数の手が襲い掛かる。


 だが、


「――――水の聖霊よ!」

 アテネが右回し蹴りを放つと、中空に白銀の軌跡が描かれ、直後にそれは巨大な氷壁となってそびえ立つ。

 無数の手が氷壁に殺到。


 アテネは「やっ!」と鋭く息を吐いて、氷壁を裏から蹴り上げる。


 次の瞬間。


 まっ平らな氷壁が鋭利な槍衾に形状変化し、怒濤に押し寄せる白皙の手が一斉に串刺しとなった。


「攻防を同時にこなすなんてやるじゃない。でもね――」

 アテネの横に並び立ったテュッティがパチンと指を鳴らす。

 おぞましいエーテルが収束し、紅蓮の業火が眼前一切を焼き尽くす。


「攻撃は最大の防御ってね」

 塵も残さず鬼の手を焼き払ったテュッティは、左手の人差し指を拳銃に見立てて「ふぅ」と息を吐く。


「大丈夫です。ルカは必ず戻ってきます」

「ええ、これはあいつの戦い。私達は信じて待つだけよ」


 アテネとテュッティ。

 二人の少女の視線は、ルカの背中に注がれていた。


    ◇


 オクタヴィアは剣閃が、幾重に重なって見えるほどの高速で剣を振るう。

 その正確無比な動きは精密機械のようで、彼女の周囲には斬り捨てられた無数の腕が転がる。


 と、その時。


 突然、オクタヴィアの膝が落ちた。


「くッ…………」

 オクタヴィアは再び立ち上がろうとするが、全く力が入らない。


 見れば、その身体がうっすらと透けているではないか。


 死したのちに『式神』として蘇ったオクタヴィアだが、術者である桔梗の姫亡き今、その存在は急速に消滅へと向かっていた。


 膝をついたオクタヴィアに、無数の手が押し寄せる。


 直後、『神』が鳴り響き、凄まじい金色の稲妻が真横に走り抜け、無数の鬼の手が消し飛んだ。


「立て、オクタヴィア。貴様の執念はその程度か?」

 雷を束ねた太刀を振り払い、ルカは言う。


「…………」

 オクタヴィアは無言のまま、剣を引き抜き立ち上がる。

 その姿は幽鬼のようで、今にも消滅しそうに朧げになっていた。


 だが、


「――――その瞳で、よく見ておけ」

 と、言って、剣を下段に構えるオクタヴィアの声に、微塵の陰りも見られない。

 それはエミリー襲撃の際に、教会でオクタヴィアが見せた構えであった。


「神を怨み、神を呪った果てに、たどり着いた『神殺しの一撃』を――――」


 バチリと、紫電が炸裂。

 夜の闇がオクタヴィアの持つ魔剣に収束していく。


 そして――


 リンッと、涼やかな鈴のような音が響いた。


 それが振り抜かれた剣閃だとわかった時には、こちらに殺到する無数の手が微塵に斬り裂かれて桜花の如く散り、白い肉塊となっていた鬼神体が一刀両断に斬り裂かれた。


 両断された切断面からは、これまでと違い手が湧きだす事はなく、闇が無限に噴出し、その中心に『漆黒の渦』が垣間見えていた。


 オクタヴィアの一撃は、分厚い怨念と闇の向こうに秘されていた『神核』をつまびらかにしたのだ。


「後は……任せたぞ、小僧」

 文字通り神を断ち斬ったオクタヴィアは、消え行くような声で言った。

 その身体は既に半ばまでが消滅していたが、そこに浮かぶのは会心の笑みであった。


「御見事」

 同じ剣に生きるものとして、ルカは心からの称賛を送る。

 持ち主を失った魔剣が、冷たい音を立てて氷の大地に突き刺さった。


 ルカは振り返らずに進んだ。


 そして、オクタヴィアが斬り開いた先に渦巻く『穢れ』そのものと対峙する。


「――――雷乃収声」


 それは、『神祓い』の聖霊術。

 身体という器に降ろした神を、天に返すための儀式。

 鯉口から切られ、鞘から尋常ではない雷光があふれ出す。


「七星一刀流・奥義《紫電一閃・神凪》」


 氷の大地を踏み抜くかのような震脚と共に、鞘走りから放たれた刀身は、燦然と輝く『純白の刃』に変わっていた。


 それこそが、神を束ねた雷の太刀である。


 神を祓うための神域の抜刀術は、雷鳴を響かせながら、闇を祓い、穢れを祓い、怨念の渦を断ち斬っただけでは収まらず、氷の大地を裂断。最後は暗雲を断ち割って虚空に消え去った。


 一度だけ天に稲妻が走り、刀は元の漆黒を取り戻した。


  ◇


 セラフィナは夢を見ていた。

 親友であるオクタヴィアと共に、酒をのみ交わす夢だ。


 互いに会話はなく、穏やか空間に響くのは懐かしいハープの音色。


 セラフィナは空になったオクタヴィアのグラスに酒を注ぐ。

 簡単にはお目にかかれない、最高級のラム酒。


 それは、オクタヴィアの弟――クリュスが成人となる十五歳の誕生日にプレゼントしようと二人で買った品であった。


「こうしてお前と、クリュスと、酒を呑み交わすのが、私の夢だったんだ。結局……叶うことはなかったが」

 グラスを片手にセラフィナは呟く。


「叶わないからこそ夢だ」

 信じられないほど穏やかな表情のオクタヴィアは、そう言ってグラスを傾けた。


「お前の夢は……どうなった?」

「同じだよ。神を殺す。そんな途方もない夢の道半ばで……私は死んだ。皮肉にも弟と同じ病だった。だが、私の魂は死してなお神を呪う悪霊となった。あの女の手によって、な」

「オクタヴィア、お前は……」


「勘違いしてくれるな、セラフィナ。私は操られて悪逆を行ったのではなく、私の意思で修羅の道に進んだのだ。その選択に後悔はない。殺めてきた数多の命への罪の意識もな」


「何故だ。何故、それほどまでに神を憎む?」

「そうだな。誰にも言うつもりはなかったが、お前にならいいだろう。私が神を憎むのは――弟の最後の『願い』だからさ」


「…………願い?」


「一緒に船に乗って海の向こうに行きたかった。それが弟の願いだ。だが、神の呪いにより男は海に出れない。ならば、神の呪いを解くために、神を斬る他はないだろう?」

 グラスを掲げ、悪戯めいた笑みを浮かべるオクタヴィア。


 セラフィナはきょとんとした顔をしたのち、嘆息して笑う。


「狂人め。だが、そうか。弟のためか……」

 あまりに愚かで、狂気じみた答えだが、セラフィナは救われた気がしたのだ。


「可愛い弟の頼みだ。無下には出来ん」

 オクタヴィアは空になったグラスを置くと、席を立つ。


「行くのか?」

「ああ、行く。地獄行きの船が出港する時間だ」

「私は……友であるお前に、何もしてやる事が出来なかった……」

「生真面目なのはお前の美点だが、同時に欠点だぞセラフィナ。こんな私と酒を飲み交わす酔狂はお前だけだ」


「だが、これは夢だ。ただの幻だ……」


「これは現実だよ、セラフィナ。それにお前には最後に一つ頼みたい事があるんだ。聞いてくれるか?」

「何でも言ってくれ!」


「夢は叶わない。だが、誰かに託す事は出来れば、その夢はいつか夢ではなくなる。私は――私の夢を託すにたる男を見出した。奴にこれを渡してくれ。神を殺せる唯一の牙だ」

 オクタヴィアはそう言って、古ぼけた短剣をテーブルに置いた。


「ま、待ってくれ! 奴とは、男とは、誰の事だ?」

「なんだお前……知らなかったのか?」

「知らないから聞いている!」

「くくっ、これは冥土の土産が増えた。特別にヒントをやろう。奴は、お前のすぐ近くにいる 」

「近くに?」


「さらばだ、セラフィナ。剣の道を極め、子を成し、私よりも強くなってから会いに来い」

  

 オクタヴィアの周囲に光が溢れ出し、その姿を朧げにしていく。


「――――待て、待たぬか馬鹿!」


 セラフィナは必死に叫んで、光に向かって手を伸ばした。


 だが、


「…………こ、ここは?」


 目に映るのは見慣れたステラ・マリス号の医務室で、セラフィナはそのベッドで横たわっていた。

 

「そうか。やはり……夢だったか……」


 身体の痛みを堪えて身体を起こすが、医務室には誰の姿もなく――

 ぽた、ぽた、と純白のシーツに涙がこぼれ落ち、セラフィナは自分が泣いているのだと自覚した。

 胸に押し寄せる思いを処理できずに、ギュッとシーツを掴んで握りしめる。


 キンッと、金属音が響いたのはその時だった。


 ベッドから何かが滑り落ちたらしい。

 生真面目な性格のセラフィナは、涙をぬぐい、痛む身体を押して、落ちたモノを拾おうと身を乗り出す。


「――――ッ!」 

 セラフィナは驚きに息を詰まらせた。

 床板に真っすぐに突き刺さるのは、夢でオクタヴィアが手渡した、あの『古びた短剣』で――


 ぽた、ぽた、と再びあふれ出した涙が、シーツを濡らす。

 セラフィナは肩を震わせ、声を震わせ、幼子のように泣きじゃくる。

  

 だが、その涙には、悲しみは一欠けらも含まれてはいなかった。







エピローグまで続けて更新します。

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