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リンダは医務室に向かうフリをしながら、城塞内の構造を記憶していく。
ほどなく歩いたところ、リネン室の扉が僅かに開かれ、中から――
「こっちだ」
と、囁き声が聞こえた。
周囲を確認して人目が途切れた瞬間に、リンダはリネン室の扉を開け中に入った。
部屋の中には、大量の寝具やシーツなどがうず高く積まれており、医務室に向かったはずの騎兵仲間の三人がそこにいた。
すると、
「どう、名演技だったでしょ?」
リンダと呼ばれた少女は、ニヤリと笑って帽子ごとウッグを脱ぎ捨てる。
中から現れたのは、鮮やかな緑の髪の少女、クロエであった。
「見事な変装だ。まるで別人だったぞ」
と、言って帽子を取ったのは、闇を溶かしたような黒髪に黒瞳を持つ少年ルカである。
「クロエにこんな特技があるなんて、知りませんでした!」
怪我をしたジュリア役をしていたアテネが、血糊のついた軍服姿で言う。
「……信じられん。難攻不落のシャーロット城塞にこれほど簡単に潜入出来るとは」
最後に帽子を取ったのは、テュッティの側近であるシルフィだ。
彼女は畏怖と感嘆の眼差しで、全ての計画を立てたルカを見やる。
「ルカは凄いんですから!」
アテネは自分の事のように誇らしげに胸を張る。
「お嬢様は馬にも乗れないから、怪我人の役しか出来なかったけどね」
「そ、それは言わないで下さい!」
アテネは顔を赤くして言った。
「でもさ、変装道具を持ってくるようにいわれた時は、何事かと思ったけれど、まさか……こんな潜入方法を思いつくなんてね」
クロエは手放しで、ルカを称賛した。
ルカは城塞から定期巡回にでる『偵察部隊』こそが、城塞に入る最高の手段だと考えた。
偵察部隊を生きたまま捕らえて、個別に尋問。
全員の名前と経歴に齟齬がないかを確認したのち、現場指揮官のリンダにクロエが変装したのだ。
最後に必要なのは、張り子の虎。
偵察部隊が襲われ、敵から逃走しているという緊迫した状況を作り出す舞台装置であった。
そのために用意したのが、五門の大砲であり、四十人の精鋭アマゾネスである。
砲弾が降り注ぐ中で、冷静で要られる者は少ない。
ましてや、死にかけた仲間が目の前にいるのだ。
仲間を助けたいという思いが、僅かな違和感を消し去り、砲撃の恐怖が視野を狭くする。
結果、リンダに変装したクロエ以外が帽子で顔を隠した状態だというのに、ルカ達は誰にも怪しまれる事なく城塞への侵入に成功した。
中に入ったあとは、シルフィの出番だ。
外部からの偵察では、城塞内部の構造まではわからない。
だが、鼻の効くシルフィは微かな薬品の臭いから、医務室の場所を特定。皆を誘導した。
あとは、医務室に向かう途中で、人目が途切れた頃を見計らい、人気のないリネン室に隠れたのだ。
「じきに作戦は第二段階に移行する。動くのはそれからだ」
潜入には成功したが、自由に行動するには城塞内が混乱する必要があった。
そのための布石は、既に打ってある。
ルカの言葉に、全員がコクリと頷いた。
「今のうちに準備をすませるぞ」
ルカはアテネをみやる。
「はい! ようやくこの軍服ともおさらばですね!」
アテネはおもむろに、赤が基調のブリテン海軍の制服を脱ぎ捨てて行く。
中から現れたのは、胸元を強調した作りの漆黒のメイド服だ。
「やっぱり、この格好が一番動きやすいです」
あっという間に着替え終えたアテネが短いスカートをふわりと揺らす。
「えへへ、実は一度着てみたかったんだよね」
クロエもまた、軍服の下にメイド服を着ており、嬉しげにスカートを抓んで見せる。
さらに、
「くっ、こ、このような破廉恥な格好を、しなければならないとは……」
シルフィは頬を赤くして、嫌そうな顔でメイド姿となった自分を嘆く。
「今回の任務では、俺達は所属を明らかにする事は許されない。俺達は『正体不明』のままテュッティを救出し、一切の証拠を残さずに消えるんだ。『仮装』するのもそのためさ」
ルカもまた、軍服を脱ぎ捨てながら説明する。
ブリテン王国の重要拠点を攻撃する。
自分達がコロンビア海軍に属すると知れたら国際問題は必死で、ひいては戦争にまで発展するかもしれない。
だからこそ、正体を隠すために仮装する必要があった。
勿論、それ以外にも大切な理由があるのだが――
「む、どこか変か?」
アテネを始め、クロエや、シルフィまでもが、着替え終えたルカの姿を見て固まっていた。
ルカは両手に白手袋をはめながら、改めて自分の格好をみやる。
白のワイシャツに黒ネクタイ。黒で統一されたウェストコートに燕尾服。
磨きあげられた革靴をはき、腰のベルトからはサーベルのように刀が穿かれ、背には黒マント。
最後に、顔の半分を隠す黒いドミノマスクをつければ変装完了だ。
「素敵です、ルカ! 本物の『マスク・オブ・ゾロ』では有りませんか!」
アテネは両手を組んで、うっとりとした表情。
「はええ、怪傑ゾロだよ。アタシ、あの物語大好きなんだ」
クロエは感心した様子で、何度も目をまたたかせた。
「……驚いたな。ここまで男装が似合うとは」
シルフィもしげしげと言う。
「一〇〇年ほど昔の英雄らしいな」
「はい、イスパニアの王位継承戦争で活躍した大英雄です」
「童話にもなっているんだよ。強きをくじき弱きを助ける正体不明の仮面剣士さ!」
アテネとクロエが交互に言った。
と、
「皆にもこの『マスク』を渡しておこう。好きなのを選んでくれ」
これらのマスクは、士官候補生であり、ガンスミスであり、魔女でもあるルテシャが、今回の城塞攻略に際し用意してくれたものだ。
「あ、これにします!」
アテネは黒い猫のマスクを選び、
「どう? 女王様気分って感じ?」
クロエは緑の蝶のマスクを、
「……こんな姿、ティファニア様には見せられん」
シルフィは青い鳥のドミノマスクを顔に装着する。
「すまないが我慢してくれ。敵はブリテン王国だけじゃない。テュッティを攫った奴こそ、《暁の魔女》ウェルフリートこそが『真の敵』だと考えるべきだ」
「ルカが説明してくれた、邪悪な呪いを使う者ですね?」
「ああ、そうだ」
ルカの鬼狩りの血は、この地に渦巻く脅威を感じ取っていた。
ブリテン兵士や、アテネ達には見えてはいないが、ルカの目には、城塞内に蜘蛛の巣の如く張り巡らされた『糸』が見えていた。
「呪は相手を知ることから始まる。だから高位の術者ほど、自分を隠し、偽るんだ。このマスクは正体を隠すのと同時に、魔除けの護符が籠めてられてある」
「なるほどです」
アテネは真剣な表情でうなづいた。
クロエとシルフィも緊張した面持ちで、マスクの位置を調整する。
「……そろそろ時間だな」
銀の懐中時計を開き、ルカは言う。
「ねぇ、ルカっち、マリナを疑うわけじゃないけど本当に大丈夫なの?」
クロエが心配するのも無理はない。
マリナは先日から調子を落としており、訓練の成績はかなり悪かった。
不調の原因はわからないが、呪いによる影響かもしれない。
だが、それでも――
「心配いらない。マリナは必ずやってくれ――――ッ!?」
台詞の途中で、ルカは驚愕に息を呑む。
「こ、これは……ルカッ!?」
アテネの声には、恐怖が刻まれていた。
何故なら、全身の毛が総毛立つほどのエーテルが、これまで感じた事のないおぞましいまでの力が、大気をビリビリ震わせるのだ。
それはまるで、青空に突如としてわき上がる積乱雲のように、大地から噴出するマグマのように、城塞の近くで巨大な力が渦巻く。
以前にクラーケンとの決戦の際に見た、本気のテュッティにも勝るとも劣らないエーテルの奔流に、ルカは叫んだ。
「――――全員伏せろ!」
直後、大地に激震が走った。
鼓膜が破れそうな音と共に、目も眩むような閃光が窓を突き破る。
眼前のあらゆるものを薙ぎ払うのは、燦然と輝く光の奔流であった。
光は、西側の城門が周囲の城壁ごと一瞬で蒸発させると、それだけでは収まらず、城塞を中央から真っ二つに裂断して東側まで貫通すると、そのまま遥か彼方の山向こうまで飛来。
数秒後、遠い空に天を十字に貫く光の柱が立ち上った。
◇
「――――げほっ、げほっ、皆、無事……か?」
リネン室の天井が崩落し、大量の瓦礫に土煙が舞う。
「わ、私は……大丈夫です」
ルカが咄嗟に押し倒したアテネは、腕の中で無事を伝えてきた。
「アタシも、ごほっ、大丈夫だよ」
「私も大事ない……耳が、まだキーンとするが……」
シーツの下敷きになったシルフィが、シーツを押し退け現れた。
「ッ、マリナには……後で言いたいことが山ほどあるが、今は作戦通りに動く。全員用意は?」
「いつでも!」
と、アテネ達は声を揃えた。
「テュッティの匂いは?」
「感じる。すぐにでも案内出来るぞ!」
「よし、行くぞ!」
半壊して用をなさなくなったたドアを蹴破り、廊下に飛び出たルカが見たのは、混乱の坩堝と化した城塞の惨状だ。
光が通った跡は、まるで抉られたように綺麗に消滅。
遥か先に、『青い海』が覗いていた。
現実感を損失するかのような光景に――誰もが唖然とした。
「先導しろ、シルフィ!!」
皆を、叱咤するようにルカは叫んだ。
「あ、ああ! こっちだ!」
あちらこちらで兵士が呻き声を上げ、倒れ伏す。
それを掻き分けるように、ルカ達は駆けた。
北にある建物に向かうルカ達は、その道中で敵の集団と遭遇。
彼らはいち早く混乱から立ち直ったものの、仰々しい格好のルカ達を見て、咄嗟に反応できなかった。
その隙をルカは貫く。
「このまま突っ込む!」
「はい!」
ルカとアテネは、石畳が砕けるほどの踏み込みで跳ぶ。
ルカは一刀で三人を斬り伏せ、返す刀でさらに三人を斬り払う。
同時にアテネの蹴りが銀閃を描き、五人が吹き飛んだ。
クロエとシルフィもそれぞれ敵を仕留め、十五人近くいた敵が一瞬で殲滅された。
「打ち合わせ通りだ。やるぞ皆!」
刀の血糊を払い散らして、ルカは言う。
アテネ達はうなづくと、大きく息を吸み――
「大軍が雪崩れ込んできたぞ! 応援に来てくれ!!」
と、まずはルカが大声で叫んだ。
すると、
「動けるものは西側に集結しろ! 侵入者を皆殺しにするんだ!」
クロエがロジャーズ提督の声を真似て叫んだ。
「西へ! 西へ向かって下さい!」
そこへアテネが追従し、
「行くぞ、お前達! 敵は西側だ!」
と、被せるようにシルフィも叫んだ。
ルカが行おうとしているのは、情報の流布による『混乱』の拡大だ。
敵地での隠密行動には限界がある。
どれだけ兵の目を掻い潜っても、いずれ誰かの目に留まるだろう。
ましてや、城塞中に張り巡らされた術者の糸を掻い潜るのは、至難の業だ。
多勢に無勢となれば、必ず磨り潰されてしまう。
故に、ルカは西の城門を破壊させた。強大な敵が襲ってきたと思わせ、敵の目を一時的に西と東に釘付けにさせたのだ。
(流石にこれは予想以上だったが……)
マリナの攻撃は、想定していたより遥かに大規模の攻撃で、城門どころか城壁までもが消滅しているが、結果として城塞の機能は完全に麻痺していた。
さらにルカは詰みの一手として、浮き足立ち混乱の極みにある兵士達に、『偽』の情報を流布していく。
脅威を目前にした時、多くの人は自分の生命を守るために、脅威から逃れようとする。
だが、訓練されたブリテン兵の精鋭は、混乱しながらも、恐怖しながらも、眼前の脅威から逃げる事はなかった。
彼女らは精鋭であるからこそ、現状を回復させるべく、混乱を終息させるべく、最も有効な手段を選ぶ。
即ち――『脅威の排除』である。
そして偽りの情報は、遅効性の猛毒のように、静かに、だが、確実に城塞の隅々に伝播していった。
と、
「――――敵の気配だ。隠れろ」
物陰に隠れたルカ達の横を、百人単位の兵士達が駆け抜けていく。
彼女達は北の建物から西へ向かっていた。
(……上手くいっているようですね)
(ああ、マリナのおかげだな)
先ほどから断続する爆発音が城塞を揺らすが、まさか、まだマリナは戦っているのだろうか?
「俺達も急ごう」
頼もしい仲間の援護に感謝しつつ、ルカは先を行く。
「お嬢様の匂いは近いぞ!」
と、シルフィは叫んだ。
◇
地下牢に続く入り口を守る衛兵を倒したルカ達は、暗い螺旋階段を下りていく。
淀んだ空気に混じるのは、腐った血ののような鉄錆びの臭い。
ここは捕らえた海賊を収監し、拷問し、罪の元に処刑台に送り込むための施設である。
行われている事は正義でも、その為に成されるのは闇に属する所業の数々で、中世の魔女裁判から近年に至るまで、ブリテンの拷問技術は西欧で最も悪名高いものであった。
海賊はむろん、悪だ。
欲望のために命を奪って来た彼女らに、同情の余地は欠片もないが、ルカの瞳には、苦しみ抜いて死んだ魂の叫びが、吐き気を催すほどの怨念が、黒い染みとなって空間にこびりついているのが見えるのだ。
「どうか、無事でいて下さい……テュッティ」
アテネが祈るように、そう呟いた。
ルカ達は地下牢を奥へ奥へと進み、下層に下っていく。
やがて、
「あそこだ! 間違いない! あの牢獄にティファニアお嬢様が!」
シルフィが声を震わせ、『最下層』にある頑丈な鉄の扉の部屋に走りよろうとする。
だが、
「下がれ、シルフィ!」
ルカはシルフィの首根っこを掴むと、乱暴に後ろへ投げる。
直後、シルフィが先ほどまで立っていた場所に、横の通路から丸太のように太い棍棒が降り下ろされた。
石畳が爆発したかのようにはぜ、石の破片が散弾のように飛散する。
「やッ――――!」
アテネが右足を蹴り上げ、その銀閃は瞬く間に水の防壁となって、全ての破片を受け止めた。
「気を付けろ、アテネ」
「はい!」
ルカとアテネは油断なく武器を構える。
牢獄前の十字路からのっそりと姿を現したのは、通路を完全に塞ぎ、身を屈めても天井に頭がつきそうな『巨人』であった。
真っ青な肌に、鋭い爪の生えた手。
頭部には、禍々しい気を放つ角があり、真っ赤な瞳は暗闇の中で、不気味に輝く。
その姿はまさに――
「で、デーモン!?」
ルカに投げられ尻餅をついたシルフィは、恐怖に声を震わせた。
そう。ルカ達の目の前に突如として現れたのは、大地神の眷属であり、鬼とも、魔人とも呼ばれる正真正銘の化物であった。
「な、なによこれ……悪い夢でもみてるわけ?」
クロエも唖然とした表情でそれをみやる。
だが、
「番兵といったところか」
「素直に退いてくれそうは……ありませんね」
「力ずくで退いてもらうさ。クロエにシルフィは下がっていろ。こいつには並の武器じゃ歯が立たない。アテネ……いけるな?」
「攻撃は私が防ぎます。タイミングは合わせて下さい」
コツコツと白銀のソールレットで石畳を蹴り、引き絞られた弓のようにアテネは身構える。
「了解した」
ルカもまた、上体を屈めて四肢に力を籠めた。
「――――行きますッ!」
アテネが猛然と突撃し、ルカが後ろに続いた。
鬼は巨大な棍棒をただ力任せに、アテネ目掛けて振り降ろす。
かすっただけで肉が爆ぜ、骨が砕け散るであろう凄まじき一撃に――
「やああああああああああ! 」
アテネはれっぱくの気合いと共に、速度を乗せた右回し蹴りを放つ。
風が唸りを上げ、ズドンと腹に響く音が鳴り響き、白銀のソールレットが鬼の棍棒とぶつかり合う。
次に見たのは、信じられない光景だった。
まるで、大砲の砲弾が直撃したかのように、鬼の棍棒が砕け、さらに棍棒を握っていた鬼の右手までが、リンゴが爆ぜるように血をまき散らして砕け散る。
アテネは、鬼の怪力を真正面から蹴り潰したのだ。
そして、
「――――道を開けてもらおうか!」
一瞬で鬼の足元まで斬り込んだルカが、闇の中に闇を走らせる。
逆風と呼ばれる下からの斬り上げは、鬼の股ぐらを裂き、胸を通って、頭部を真っ二つに断ち割った。
斬り裂かれた股座が、血と臓物が雪崩のようにこぼれ落ちる。
醜い断末魔を上げて、鬼が後ろ向きに倒れていき、その途中で闇に溶けるように霧散した。
「クラーケンに比べれば、御しやすい相手でしたね」
周囲を警戒しながらアテネは言う。
「そうだな」
ルカは刀を振り払って同意した。
今の鬼は、強大な力を持つ強敵であった。
以前のルカとアテネであったなら、命をかけた死闘であっただろう。
だが、今の二人は、そんな鬼が相手にならないほど、強くなっていた。
「…………これは、現実なの、か?」
「す……凄すぎでしょ」
シルフィとクロエは呆然と呟いた。
「シルフィ、この部屋だな?」
番兵を始末したルカは、いよいよ頑丈な鉄の扉の前に立つ。
「ああ、そうだ! 間違いない!」
「よし、下がっていろ」
ルカは扉の間隙に刃を走らせると、ガキンッと鋼を断つ鈍い音が響く。
扉が重い音を響かせ、ゆっくり開かれていき――ムッとする熱気と共に闇の気配が溢れ出す。
「中に何が待ち受けているかわからない。まず俺が先に入る。皆は外で待っていてくれ」
ルカは息を殺して中に進み居る。
牢獄のなかは水底のように真っ暗で、陰の気が立ち込めている。
長い時間この中に居れば、体力だけでなく、精神も消耗していくだろう。
(何処だ、テュッティ…………?)
ルカの目は、この闇の中でもはっきりと先を見通していた。
様々な拷問器具が置かれているが、それほど広い部屋ではない。
だが、テュッティの姿がどこにも見当たらない。
(まさか、別の場所に連れて行かれたのか?)
と、その時。
チャリ――と、背後から微かな音がして、風を貫くように鉄鎖が鞭のように襲い来る。
咄嗟に頭を下げたルカの頭上を、鉄鎖が猛スピードで通過。
壁に並ぶ拷問器具を薙ぎ払い、鮮やかな火花が散る。
闇に包まれた部屋に、星のように瞬く火花が一瞬だけ、二人の姿を浮かび上がる。
一人はルカで、もう一人は、燃えるような真紅の髪の女で――
「はぁっ!」
赤い髪の女は鋭く息を吐きながら、左右に持つ鉄鎖を振るう。
唸りを上げて鉄鎖の先端が、音速を越えて迫る。
ルカは前にこそ踏み込み、左右の鉄鎖が交差する刹那を狙いすまして叩き斬る。
断ち斬られた鎖は、そのまま壁にぶち当たり轟音が響いた。
ルカは刀を捨てて女に飛び付いた。
刀が床に転がり落ちると同時に、ルカも床に女を押し倒す。
女は猛る獣のように荒々しく暴れ、断ち斬られて短くなった鎖を素手に巻き付け重い打撃を打ち込んでくる。
ルカは攻撃をいなしながら叫んだ。
「落ち着け、テュッティ! 俺が分からないのか!?」
「――――ッ!?」
向こうからはこっちの姿が見えないのだろう。
テュッティは驚愕に、大きく目を見開くが――
「ふん、声まで似せるなんて良くできたまやかしだこと! でも、残念ね。アイツがこんな場所に居るはずがないわ!」
すぐに殺気の籠った眼差しに転じると、鎖をこちらの首に巻き付けてきた。
「がはッ!」
「このままくびり殺して上げるわ!」
「し、心配して来てみたが、随分と元気じゃないか!」
ルカは床に押し倒したテュッティを抱っこするように持ち上げると、そのまま壁に叩き付けるように押し付けた。
「くッぁ……」
したたかに背中を強打したテュッティ肺から、強制的に息が吐き出される。
鎖を持つ手が僅かに緩み、その隙をついてルカはテュッティの両手を掴んで壁に拘束した。
だが、
「――――私に触れていい男は、この世にただ一人だけよ!!」
手がダメなら足というように、テュッティは膝蹴りで、ルカの股間を叩き潰そうとする。
「足技には馴れているんでな」
迫る膝に、ルカもまた膝蹴りで応酬。
膝同士がぶつかる鈍い音がして、ルカは拘束するテュッティ股ぐらに膝を割り入れる。
女性として大切な部分を、男の太ももで押し上げられたテュッティは、頬を朱に染め、真紅の瞳に憎悪の炎を燃え上がらせた。
首筋に激痛が走ったのは、その時だ。
テュッティが噛み付いたのだ。
手も足も出なければ、口があるぞというように――
肉が裂け、鮮血があふれでる。
このままだと頸動脈を噛みちぎられて死ぬかもしれない。
だが、
「…………気がすむまで噛むといい」
ルカは優しく、だが、決して離さないというようにテュッティを抱き締めた。
激昂したテュッティは首筋に噛み付いたまま、「ふーっ」「ふーっ」と獣のように唸っていたが、口に広がる血の味に、徐々に瞳に理性の光が戻る。
「ちゃんと血肉の通った人間の身体だ。まやかしなんかじゃないだろう?」
「ッ」
その言葉に、テュッティがビクリ身体を震わせた。
首筋から口を離すと、信じられないといった顔をする。
ルカはもう大丈夫だろうと、手の拘束を解いた。
「本当に、本当に……ルカ、なの……?」
見えない闇の中で、迷子の幼子のように手を伸ばしたテュッティは、両手でルカの顔に触れる。
「約束しただろう。困った時は助けに行くと」
「――――ああ、ルカッ!」
声を震わせた、感極まった様子で抱き付いたテュッティは、そのまま熱烈に唇を押し付けてきた。
ルカは驚きに身を固くするが、テュッティの想いに答えるように、その唇を吸い返す。
「ちゅ、ルカ! はぁ、ルカ……、ちゅ、ちゅぱ!」
真紅の瞳から涙を流しながら、テュッティは何度も何度も口付けを繰り返した。
何度も、何度も、心が蕩けるまで――
しばらくして、
「…………私は、自分に嘘を吐いたわ」
唇を放したテュッティは、顔をくしゃりと歪めた。
「テュッティ……」
「海賊として生きると決めた時から、真っ当な死に方は出来ないと覚悟していたわ。だから、死ぬのは怖くない。やつらに何をされても、どれだけ汚されても、笑って死んでやろうと、そう……思っていた。なのに――」
テュッティは、ルカの胸に当てた手を悔しげに震わせる。
そして、
「もう駄目だと思った時……私は、無様にもお前の名を叫んでいたわ。愚かな女だと、情けない女と笑いなさい」
と、言って、ルカから顔を逸らした。
どれだけ剛胆な精神を持っていても、不安や恐怖を感じないわけがない。
誇り高い彼女は、誰かに弱さを見せるのをよしとしないだけで、その心の奥底にはやわからで真っ白な部分がある事をルカは知っていた。
「もう黙れ――――」
ルカは細いテュッティの顎を掴んで上を向かせると、自分を卑下するその唇を、塞ぐように口付けをする。
「んふぁ、あ……ッ」
唇の隙間から、甘い声を漏れ出る。
「お前の弱い部分なぞ、あの島で何度も見た。今さら取り繕う必要も、強がる必要もない」
「あぁ……ん、ちゅ……」
「俺にとってのお前は――綺麗で、傲慢で、誇り高い、ただの女だ」
「ただの……んっ、女を助けるために、こんな馬鹿な真似を?」
「惚れた女を助けるのに、馬鹿をしない男なんていないさ」
ルカは唇を離すと、テュッティの真紅の髪をかき上げながら耳元に手を添える。
「惚れ、た……?」
熱を帯びた瞳を丸くして、テュッティは問う。
「俺はアテネを愛している。心底な。だが、テュッティ……お前の事も同様に愛していると気付いたんだ」
「な、なな、なによそれ、最低のすけこまし野郎の台詞ね!」
顔を真っ赤に赤面させ、テュッティは叫ぶ。
「嫌か?」
「い……嫌なら噛み付いて、突き飛ばしているわ! 察しなさいよ、バカ……」
テュッティは耳まで真っ赤に染め、拗ねるように唇を尖らせた。
「テュッティ……」
「もっと……もっとキスしなさい。これが現実だと、あの呪術師が見せるまやかしでないと、この身に刻みなさい」
ルカの首に抱き着くように、腕を回すテュッティ。
それに答えるように、ルカはテュッティの細い腰を抱き締めた。
そして――
「――――こほん、こっほん!」
突然、咳払いが聞こえ、ルカとテュッティはハッと顔を上げてそちらをみやる。
いつの間にか暗かった室内には灯りがともされており、真っ赤な顔のシルフィに、興味津々といったクロエ。
最後に――
「むぅ~! 何度呼んでも返事がないので心配して突入してみたら、とんでもない光景を目撃しました!」
仏頂面のアテネが、両手を腰に当て仁王立ちしているではないか。
「すまない、アテネ。暴れる山猫をしつけていたんだ」
「ええ、すっかり……しつられてしまったわ」
テュッティはワザとらしく頬を染め、見せつけるようにルカの首に抱き付いた。
「……いつまで私のルカを、独占するつもりですか?」
アテネは頬を膨らませて、テュッティを睨む。
「知らないなら教えて上げるけれど、もう、お前のではないわ」
「テュッティ……」
アテネは顔をうつむけ、両手を震わせる。
クロエとシルフィは、突然の修羅場に後ろでおろおろするしかなく。
「なによ? 言いたい事があるならいいなさい」
どこまでも傲慢な口調でテュッティは言う。
だが、
「うぅ……ぐす……ッ」
顔を上げたアテネは、ポロポロと大粒の涙を流しているではないか。
流石のテュッティもこれには焦り、慌てた様子でルカから離れると、
「ちょ!? な、なにもキスしたくらいで泣く事ないじゃない! 心配しなくても、お前からは一シリングだって取ったりしないわよ! ただ……その、たまに借り――」
「――――テュッティ!」
その言葉を遮るように、アテネはテュッティに抱き着いた。
「あ……アテネ?」
「ぐす、無事でよかったです! 本当に……心配したんですからッ!」
声を詰まらせながら、泣き顔を隠すように、額をテュッティに押し付ける。
アテネは怒っていたのではなく、泣くのを懸命に堪えていたのだ。
喜ぶのは尚早だと、まだ気を抜いてはならないと――
だが、テュッティのいつもの憎まれ口が、傲慢な立ち振る舞いが、ずっと胸につっかえていた不安を洗い流し、涙腺を崩壊させたのだ。
「まったくもう……ッ……張り合いがないわのね、この子は……」
テュッティはそう言いながらも、目を潤ませて、口元をほころばせてアテネと抱擁する。
ルカは優しい表情で二人を見やり、クロエは嬉しげに微笑む。
シルフィはおいおいと咽び泣き、鼻頭を赤くするのであった。




