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「俺だけでも構いません。ハイランドへ行かせて下さい!」
ステラ・マリス号の艦長室に、ルカの声が響いた。
オクタヴィアとの死闘から十日あまりが経ち、神降ろしによる消耗と、腹を貫かれた傷はすっかり癒えていたが、ルカの心には焦りばかりが募っていた。
魔剣を砕かれたオクタヴィアは、依代を失い消滅した。
アテネに大きな怪我はなく、エミリーも無事で、テオも軽傷で済んだ。
だが、セラフィナは瀕死の重傷で、今も死の淵を彷徨っている。
仮に一命を取り止めても、このまま意識が回復しない可能性もあるという。
さらに、
(こうしている間にも……アイツの身に危険が……)
オクタヴィアが今わの際に放った言葉が、耳に残って離れない。
奴は――テュッティとエミリーの関係を知っていた。
エミリーを襲ったのも、指輪を欲したのも、その『魔女』とやらが裏で暗躍しているのだろう。
と、
「私からもお願いします。どうか、私達を行かせて下さい!」
ルカの隣に立つアテネがそう言って、頭を下げる。
無人島での生活を経て、強い絆で結ばれたルカとアテネにとって、テュッティは新たな家族のようにかけがえのない存在となっていた。
そのテュッティに危機が迫っている。
それは予感ではなく確信であり、二人は言いようのない不安に駆られていた。
だが、
「――――駄目よ。許可できないわ」
メルティナは首を縦に振る事はなかった。
「何故ですか!? 今日という今日は理由を聞かせて貰わないと納得出来ません!」
ルカの嘆願はこれで三度目になり、焦りは苛立ちへと変わっていた。
「その理由がわからない時点で、あなた達を行かせる事は出来ないわ」
メルティナは眼光鋭く言い放つ。
「ッ!」
「落ち着いて視野を広く持ちなさい。ルカ、あなたには将としての才能がある。でも、今のあなたは冷静さを失い……目が曇っているのではなくて?」
二の句を告げられないルカに対し、メルティナは言葉を続けた。
「…………」
ルカは何も言い返す事が出来ず、手が白くなるほど拳を握りしめた。
と、その時。
震えるルカの拳を、暖かな手が優しく包み込む。
ハッと顔を上げれば、蒼い瞳に強い決意を燃え上がらせるアテネと視線が交わった。
「大丈夫です、ルカ」
「アテネ……?」
「テュッティは私の大切な友です。助けたいと思う気持ちはルカと変わりありません。ナダルガル商会と話を付けておきました。明日早朝に出港するハイランド行きの貨物船に乗せて貰えます」
許可が出ないなら、無許可でも出撃すると、アテネは重なる手に力を籠めた。
「……まるで一人でも行くって顔をしているぞ」
テュッティのために罰を受けたとしても行動に移そうとするアテネの姿と、その手から伝わる深い愛情に、ルカは己が如何に焦っていたかを思い知る。
「一人でなんていきません。行くときはルカも一緒です。どうか一人で抱え込まないで下さい。喜びは倍に、悲しみは半分に、そして力は何倍にも高めましょう。私達が揃えば、乗り越えられない試練なんてありません」
「ありがとう、アテネ……」
「いついかなる時でも、私はルカの側に居ますから」
「……少しは冷静になったかしら?」
メルティナが問う。
「――――はい」
ルカは澄んだ漆黒の瞳で、コクリとうなづいた。
「よろしい。では、本題に入りましょう。エドワード・テュッティが恩赦を求めている。あなたがもたらした情報は、我がコロンビアにとっても重大な意味を持つわ。もし、彼女が恩赦を受けてハイランド王家を復活させたなら、カリブの海はこれまでよりずっと平和になる。海賊の被害は大きく減り、数えきれない女の命が救われるでしょう」
「俺がテュッティに求めるのもそれです。あいつが海軍を立ち上げれば、強大極まる海賊団が、そのまま強大な海の守護者に変わる。そうなれば、この先カリブで海賊行為を働くのはどんどん厳しくなっていく。なにより……あいつが正式な国軍となったなら、『俺達』とも共同歩調を歩める」
「ええ、その通りよ。かつてハイランドとコロンビアは同盟国だった。彼の国が復活するならば、我々は支援する用意があるわ。その要であるエドワード・テュッティに危機が迫っているのなら、それはコロンビアの安全保障に関わる重大な危機でもある。我々海軍は全力で彼女を救う為に動く。いいえ――既に動いている最中よ」
「……既に、動いている?」
ルカはハッとした表情でメルティナを見やる。
「私がこの十日の間、無為に過ごしていたと思って?」
メルティナはテーブルの上に地図を広げると、ブリテン本国の上に船の模型を置いた。
「二週間前の事よ。東方艦隊のシェダー提督から、一つの知らせが届いたわ。セントジョンズ沖二〇〇海里を航行するブリテン王国の大規模艦隊を目撃したと。彼らの針路は、南南西のバミューダ諸島に向いていたそうよ」
船の模型がブリテン本国から、バミューダ諸島に進められる。
バミューダ諸島とは、コロンビアの海軍本部があるサザングレイス大要塞から、遥か北東に一七〇〇キロメートルも離れた北大西洋に浮かぶ島々で、ブリテン王国の領土の一つであった。
「バミューダ諸島に向かう、ブリテンの大艦隊……?」
何が目的なのかわからず、アテネは首を傾げる。
「…………」
ルカは黙したまま真剣な表情で、海図を凝視した。
「そして、今し方昔の『旧友』から……知らせが届いたわ。海賊の楽園ポート・ロイヤルから《黒髭》の船団が出港したと、ね」
メルティナは海図に描かれたハイランド王国に、もう一つ船の模型を置く。
「――――テュッティが!?」
ルカとアテネは声を揃えて叫んだ。
「私は、この情報をずっと待っていた。船は針路が定まらなければ動けないもの。エドワード・テュッティ……彼女の向かう先がわかるかしら?」
「テュッティの目的地は、『ここ』――ですね」
ルカは迷いなく、海図のある一点を指差した。
「そこは……バハマ諸島のナッソーですよね?」
バハマ諸島は、かつては海賊の一大支配地であり、先代の黒髭の拠点でもあった。
だが、先代の黒髭がブリテン王国と決別。
ナッソーを放棄し、海賊の楽園ポート・ロイヤルがあるハイランドに新たな拠点を移した。
現在ナッソーは、ブリテン王国によって徹底的に浄化され、巨大な城塞が築かれている。
「――――あ!?」
アテネもようやく気が付いたのだろう。
海図を見て声を上げた。
「ナッソーはブリテン海軍の艦隊基地となっている。でも、ナッソーは他にも『特別』な役割を果たしているわ」
「ブリテン本国付きの大司教が駐在していて、海賊達に恩赦を与えている……ですよね?」
と、ルカは言う。
テュッティの恩赦を実現させるために、ルカはこの一ヵ月で多くを勉強した。テミスに教わった読み書きの修得が、大いに役立ったのは言うまでもない。
「ええ、そうよ。ブリテン人の海賊が恩赦を得るには、大司教の前で神への『誓約』をしなければならない。そして、エドワード・テュッティの母はブリテン王国の貴族。彼女が恩赦を受けるにはナッソーに赴かなければならないのよ」
「だが、その場所に……ブリテンの大艦隊が集結している」
ルカは、メルティナがバミューダ諸島に置いた船の模型を、そのままさらに南西へ進める。
そこには、バハマ諸島のナッソーがあった。
「これは……待ち伏せッ!?」
アテネはギュッと拳を握りしめて呟く。
考えられる答えは一つしかない。
恩赦の為にナッソーに向かうテュッティ達は、そこで、ブリテンの大艦隊と出会う事になるの
だ。
明らかに、恩赦を餌に『罠』へ嵌めようとしている。
「ようやく、調子が出てきたようね。これがあなた達をハイランドに赴くのを許可出来ない理由よ。私達には他に、行かなければならない所があるでしょう?」
メルティナはそう言って僅かに微笑む。
「考え違いをしていました、艦長……」
ルカは頭を下げて謝罪する。
焦るばかりで、ルカは肝心な事を見落としていた。
この世界で情報は、何日も遅れて届くのが当たり前だ。手紙に書かれてある内容が、何ヵ月も、何年も前の事だったりする。
だが、メルティナは僅かな情報を見落とさず、先の先を見据えて動いていたのだ。
「将が冷静さを失えば、多くの命が失われるわ。大切な者を守りたいと欲するなら、全ての感情を飲みこみ、あなたが真になすべきを事なしなさい」
「――――わかりました」
ルカは誓うように胸に手を当てた。
メルティナは満足げにうなづくと、席を立ち、ルカとアテネを順番に見やる。
そして、
「カリブ海の安定は、これからのコロンビアの繁栄になくてはならないわ。そのためにも、ハイランドには国として纏まって貰う。これよりコロンビア海軍南方艦隊は、総力を結集してバハマ海域へ侵攻。新生ハイランド海軍の支援に向かうわ!」
メルティナはそこで言葉を切ると、不敵な笑みを浮かべて、
「ルカ、アテネ――あなた達の責任は重大よ。次代のハイランド王女を助け、たっぷりと恩を売って来なさい!」
「了解しました!」
ルカとアテネは、弾むような声で敬礼した。
◇
サザングレイス大要塞の軍港には、白銀の装甲を持つ超大型フリゲートが六隻も停泊していた。
一隻はステラ・マリス号であり、残りの五隻はステラ・マリス号と同時期に建設が開始され、先月にロールアウトした『ステラ・マリス級超大型フリゲート』、その量産型であった。
ステラ・マリス級超大型フリゲート、六隻。
ネビラ級フリゲート、一八隻。
計二四隻の出港準備は急ピッチで進められた。
「食糧はきっちり三ヵ月分だ! 水を入れ替えるのを忘れるな!」
甲板では副長テミスが補給の指揮を執る。
バハマのナッソーまでは、およそ二〇〇キロ。
順風で二日。海が荒れれば三、四日はかかるだろう。
だが、海では何が起きるかわからない。
特に戦闘ともなれば、敵の出方を伺うために、何日も何週間も睨み合いを続ける事がある。
腹が減っては戦にはならないと、何百人という少女達の胃袋を満たすための大量の食糧が次々に積み込まれていく。
船出の準備は常に大掛かりで、どこかお祭りのような雰囲気さえあった。
「新しいロープの積み込み完了しました!」「古いロープは捨てたら駄目よ!」「タールも忘れないで!」「補修用建材のチェックが終わりました!」「予備の帆は第二船倉に運んで!」「石鹸が在庫が足りてないよ!」「至急確保して!」
「もう、今日の猫当番は誰! ソックスが大砲の上からどいてくれないんだけど!」
あちらこちらで少女達の声が響き渡る。
人魚にとって、陸の上はほんのひと時の羽休めに過ぎない。
大海原こそが彼女達の住処であり、戦場であり、還るべき場所なのだ。
だからこそ、どれだけ大切な人が居ても、愛する人が居ても、マーメイド達は海を舞う。
明日を生きるために――
◇
ルカはステラ・マリス号の医務室に向かっていた。
目的はまだ意識が戻らないセラフィナ隊長の見舞だ。
コンコンと、医務室の扉をノックすると――
「――――入りなさい」
軍医であり、従軍司祭マリーンの声が聞こえて来る。
ルカが中に入ると医務室には先客がいた。
一人は、真紅の瞳が特徴的な少女エミリーだ。
彼女は帆手水兵であるが、先日のオクタヴィアとの戦いで傷付き、意識の戻らないセラフィナの世話のため、一日の半分をマリーンの助手をしていた。
マリーン曰く、医術の才能があるらしく、現在そちらの勉強もしているらしい。
そしてもう一人は、マリナ三等海尉であった。
彼女は眠るセラフィナの横で椅子に腰かけていた。
「隊長さんのお見舞いかしら?」
と、マリーンが問う。
「はい。構いませんか?」
「歓迎するわ。私は往診があるから席を外すけれど、何かあれば呼んで頂戴」
マリーンはそう言って、伝令管を指先でトントンと叩いた。
「了解した」
「あなたも着いて来なさい、エミリー。学ぶことは沢山あるわ」
「はい、マリーン先生! それでは失礼しますね、ルカ様」
分厚い医術書を抱えたエミリーは、ぺこりとお辞儀したあとマリーンに続いて医務室を後にした。
「隣、いいか?」
ルカはマリナに問う。
「ええ、どうぞ」
マリナは豊かなピンクゴールドの髪を、耳元でかき上げ言った。
隣の椅子に腰掛けたルカは、意識の戻らないメルティナを見やる。
峠は越えたと聞いたが、その顔は死人のように土気色で、体内のエーテルは今にも止まりそうに弱々しい。
(セラフィナ隊長。あたなが命懸けで時を繋いでくれたから、俺も、アテネも、エミリーも、孤児院の皆が生き残れた。どうか……早くよくなってくれ……)
ルカが目を閉じ、祈るように心の中で呟く。
再び顔を上げると、時を見計らったようにマリナが口を開いた。
「ルカさんの怪我は、もうよろしいのですか?」
「ああ、俺の方はなんともない」
海の悪魔クラーケンを斬ったあの時から、以前に比べて怪我の治りが明らかに速くなっていた。
身体のエーテル総量も増し、神降ろしによる消耗もかなり軽減されている。
「それはなによりですわ。ルカ様に何かあれば、アテネ様が悲しまれます。あまり無茶はなさらないで下さい」
「……気を付けるよ」
ルカは困ったように頬をかく。
オクタヴィアとの死闘のあと、血を吐いて倒れたルカに、取り乱したアテネの様子を思い出す。
マリナはクスクスと、柔らかに微笑んだ。
「それより、マリナには改めて礼を言わせて欲しい。あの時、マリナの援護がなければ、俺も、アテネも、セラフィナ隊長もこの場にはいなかっただろう。本当に感謝している。ありがとう」
ルカはマリナに向き直り、深々と頭を下げた。
「顔を上げて下さい、ルカさん。私は仲間として……当然の事をしたまでですわ」
そう言って微笑むマリナの顔には、何故か、深い悲しみと後悔が刻まれた。
不思議な人だ――と、ルカは思う。
アテネにも勝るとも劣らない美貌に加え、まるで王侯貴族のように洗練された立ち振る舞いからは、隠しきれない高貴さが滲み出ていた。
高位の武家の娘か、やんごとなき血筋の者なのか。
ルカには詮索のしようがないが、ただ一つだけはっきりしているのは、マリナが誇る『武威』の高さだ。訓練で何度も手合わせしているが、ルカは、これまで一度も勝てた事がない。
否、勝てないどころか、明らかに手加減されているのがわかるのだ。
ただ者ではないのは、一目見た時からわかっていた。悲しみを宿すサファイアの瞳も、気にはなっていた。
だが、マリナは己の周囲に、高い高い壁を張り巡らせていた。
決して人を寄せ付けない壁を――
だからこそ、マリナの顔色がいつもと優れない事に、ルカはすぐに気が付いた。
顔は上気し、必死に隠そうとしているようだが、息も上がっている。
そして、その身体は、無数の『茨』に覆われていた。
「…………随分と辛そうだが、マリナこそ大丈夫なのか?」
「ええ、心配には及びませんわ。これは……持病のようなものですから」
優しい微笑みにあるのは、これ以上は踏み込むなという明確な拒絶であった。
「私は先に行きますね。ルカさんは……ゆっくりとしていって下さい」
マリナは話は終わりだというように、椅子から立ち上がった。
ルカは引き留めようとせず、マリナに道を譲る。
だが、マリナがルカの側を通り抜けようとした時、微かに肩が触れ合った。
次の瞬間。
「…………あッ、く」
マリナが苦悶を押し殺して、足元から崩れるように倒れかけたではないか。
「――――マリナ!?」
ルカは咄嗟に手を伸ばしてマリナを抱き留めるが、触れてはじめて、その身体が高熱を発している事を知る。
「酷い熱じゃないか!? すぐに先生を――」
「は……な、して……」
「マリナ?」
「…………お願い……は……なして……」
苦しげに顔を歪めながら、絞り出すようにマリナは言う。
「わかった。言う通りにしよう」
ルカはマリナを隣のベッドに座らせると、二歩、三歩と距離を取った。
「はぁ、はぁ……」
尋常ではない苦しみ様であったが、ルカが身体を離すと、マリナは幾分落ち着きを取り戻した。
まだ苦しげに胸を押さえているが、荒かった息が徐々に収まっていく。
しばらくして、
「不快な思いをさせて申し訳ありません、ルカさん。いつもなら、もう少し大丈夫なのだけれど……」
「一体どうしたというんだ?」
「心を……乱しているのかもしれませんわ。オクタヴィア――『魔』に堕ちた彼女を見て、『昔』の事を思い出していました」
「奴と面識が?」
「いいえ、彼女についてはなにも。ですが、大切な人が『人外』となった苦しみは、よく知っていますから……」
「そう……だったのか」
大切な人が人外に堕ちる。
それはルカが最も辛く経験した痛みであった。
「鬼や、悪魔など様々な呼び方がありますが、私の国では、魔に憑りつかれ堕ちた人を、『魔人』と呼んでいました」
「デーモン……」
「こんな事を言ったら、ルカさんは軽蔑されかもしれません。でも……私はセラフィナ隊長が羨ましいのです。人外に堕ちた友を止めるために、迷いなく真っすぐに剣を振るえる彼女が……」
マリナはそう言って、ベッドで眠るセラフィナに羨望の眼差しを送った。
マリナが初めて見せる弱々しい横顔に、ルカは驚きを隠せなかった。
人を拒絶する高い壁の向こうで、彼女はずっと――助けを求めていたのかもしれない。
だから、
「――――俺の父は……俺が九つの時に鬼に堕ちた。父を殺すために、祖父と長兄を始めとする、多くの身内が犠牲となり、俺は――家族を養うために『奴隷』となったんだ」
ルカは己の過去を明かした。
同じ痛みを知る者として、言わなければならないと思った。
「ッ!? ルカさんも…………」
マリナは驚いた表情でこちらを見やる。
「月並みな台詞だが、誰かに話す事で楽になる事もある。俺は……アテネにそれを教えられた」
「………………」
ベッドに腰かけるマリナは、胸を押さえたまましばらく考え、
「昔話を、聞いて貰えますか?」
と、意を決して口を開いた。
「ああ、聞かせてくれ」
マリナは心と身体を落ち着けるよう深呼吸し、ゆっくりと語り始めた。
「その昔……北の国にとても傲慢な姫がいました。彼女は《武神ファリナス》の化身とも、《青の戦乙女》の生まれ変わりだとも云われるほど、それは武の才に恵まれていました。実際、高名な戦士の誰もが姫には勝てなかった。姫は十二歳で西の山を荒らす『巨人』を殺し、十四歳で東の海を支配する『龍』を殺しました」
「凄まじいな……」
「傲慢な姫は増長を続けました。ですが、誰も彼女に意見は出来なかった。彼女にはそれだけの力があり王の血族だった。十五歳の誕生日を迎えた姫は、国で最強と呼ばれる騎士団を率いる長となっていました。ですが――」
マリナはそこで言葉を切ると、後悔と絶望が入り交じった痛々しい笑みを浮かべ、
「姫はどこまでも傲慢だったのです。あまりに強すぎた彼女は、武の頂に立った姫は、敵のいない退屈な生に倦み、やがて……『禁忌』に手を染めるようになりました」
「禁忌に?」
「創世記に登場する七柱の邪神はご存知ですか?」
「炎の御子と光の聖女達が封じた……終末の魔獣の眷属達か」
ルカの答えに、マリナはうなづく。
「傲慢な姫が住まう王城の地下深くに、その邪神の一柱が封印されていたのです……」
「まさか!?」
「ふふ、そのまさかですよ。傲慢な姫は敵を渇望していました。この退屈な日々を吹き飛ばし、血沸き肉躍る闘争をもたらしてくれる敵を。こうして、傲慢な姫は封じられた邪神を目覚めさせるという……愚かな選択をしました」
「…………邪神は、倒せたのか?」
「いいえ、目覚めた邪神に傲慢な姫は手も足も出なかったのです。仲間の戦乙女達が目の前で犯され、喰われていくのを……ただ見ている事しか出来なかった」
様々な感情が籠った重々しい声で、マリナは己の罪を告白する。
「それで……どうなったんだ?」
「傲慢で愚かな姫は城の宝物庫から、《青の戦乙女》が使ったとされる神槍を持ちだし、己の命を燃やして邪神を討ちました。ですが、邪神は死に際に姫に呪いをかけたのです」
マリナはそう言うと、おもむろにスカートを持ち上げ、己の下腹部を晒したではないか。
「!?」
引き締まったふとももに、くびれた腰と黒いレースの下着が艶めかしいが、ルカの視線はある一点に釘付けとなる。
へその丁度下あたりに、『禍々しい呪印』が刻まれているのだ。
「――――汝の血筋に災厄あれ。私にではなく、生まれて来る子に降りかかる呪いだそうです」
マリナは罪を証を隠すように、スカートを降ろして呪印を隠す。
そこに居たのは、かつて未来を嘱望され、神々に愛された神姫の成れの果てであった。
「話はこれで終わりですわ。愚かで傲慢な姫は、咎人として裁かれる事すら許されず、《忌姫》と蔑まれて国を追放され――こうして『ここ』にいるのですから」
「呪いを解く事は?」
「どんな高名な聖術師に診せても、駄目でしたわ」
「その苦しみに……ずっと耐えて来たのか……」
マリナの身体の覆う『茨』の正体は、邪神の強力な呪いであったのだ。
「普段は問題ありません。ただ――」
マリナは甘く息を吐くと、意味ありげにルカを見つめる。
青い瞳の奥に輝くのは、『情欲』の炎であった。
「殿方が近くにいると……呪印が活性化するのです。私に子を成させて呪いを発動しようとしているのでしょう。ルカさんなら見えるのではありませんか? 今も私の身体に広がる無数の茨を……」
「知っていたのか……俺が、男であると」
「この呪いが教えてくれましたわ。ルカさんが隣に居るだけで……んっ、私の身体はどうしようもなく反応してしまいますから。ですが、安心して下さい。誰にもいうつもりはありませんし……襲ったりなんて致しませんわ」
儚げに、だが、熱を帯びた表情で微笑むマリナ。
その色香は目が眩むほど蠱惑的で、危険なほど毒々しかった。
「どうにかして、呪を侵食を止めなければ……いずれその茨は全身に広がるぞ」
胸の真下まで広がる茨に、マリナに残された時は、もう僅かしかないとルカは知る。
「ええ……三年でここまで侵食されました。近いうちに心臓が侵されるでしょう。そうなれば槍が握れなくなり、いずれは理性を失い……呪いのままに夜の街を彷徨う存在となるのです」
「……マリナ」
「ですが、私は腐っても王家の血を継ぐ者。行きずりの男に身を任せるつもりはありませんわ。もし呪いに負けるような事があれば――――これで胸を一突きにして終わりに致します」
マリナが懐から取り出したのは、自決用の短剣であった。
あまりに凄絶な覚悟に、ルカは言葉を失う。
と、その時。
「――――ッ」
突然、マリナがビクリと身体を震わせ、苦しそうに胸を押さえる。
カランと音を立てて、短剣が転がり落ちた。
「どうした、マリナ!?」
「あく――――ッ」
マリナは言葉を発することも出来ずに、悲鳴に近い苦悶を上げ、ベッドに倒れ込んだ。
スカートがめくれ上がり呪印が赤黒く明滅し、そこから先ほどとは比べ物にならない無数の茨が湧きだしたではないか。
ルカは、意思を持つように蠢く『茨』を凝視する。
漆黒の瞳の奥に微かな雷光がまたたき――
次の瞬間。
茨が、『三つ目』を不気味な輝かせる、無数の『蛇』へと変わったではないか。
三つ目の蛇はマリナの肢体に絡みつき、その身をギリギリと締め付けていた。
以前のルカであったなら、このような超常の類は見ることが出来なかっただろう。
だが、海の悪魔を討滅したあの日から、囚われていた無数の魂を解放したあの時から、ルカの目にはこれまで見えなかったモノが映るようになっていた。
鬼狩りは、斬り祓った『鬼』を喰らって強くなる。
それが何百年も海を支配して来た、強大極まる鬼ならなおさらである。
今のルカは、『人』の理から一歩外れ、『鬼』に一歩近づいた状態であった。
そして鬼とは――――呪の類を自在に操ると云われていた。
「鬼が出るか蛇が出る……か」
ルカはベットに倒れるマリナを抱きかかえると、呪いの中心である呪印に手を伸ばす。
ルカは特別呪に詳しいわけではない。
鬼狩りとしての修業も途中で、剣の腕も道半ばだ。
それでも、目の前で苦しむマリナをほっておく事は出来なかった。
蛇達は即座に反応した。
シャー! と、威嚇するように鋭い牙をむき出しにして、吠える。
ルカは構わず手を伸ばした。
直後、三つ目の蛇達が、一斉にルカの手に噛みつき、腕を這って締め付けてくる。
「くっ……!?」
想像を絶する激痛に、ルカは苦悶を漏らす。
手からは血が噴き出し、呪いの蛇に締め上げられた腕の骨がミシミシと嫌な音を立てた。
(この人は、こんな痛みに耐えて戦って来たのか……!)
ルカの中に燃え盛るのは、『怒り』であった。
許せないと思った。
女をいたぶり、苦しめ、今も呪いで縛ろうとする邪神の存在が。
邪神もまた上位の存在ではあるが、鬼の一種である事を、呪いを通してルカは知る。
そして、相手が鬼であるのなら、山の神の眷属ならば、ルカが戦うには十分すぎる理由であった。
「――――俺に、殺せない鬼はない!」
ルカは呪印から伸びる、蛇達をわしづかみにした。
蛇は暴れに暴れ、ルカの腕に喰らいつき、肉を千切って中に潜り込もうとする。
ルカは構わず拳に力を籠めていく。
イメージするのは、巨大なアギトだ。
鋭い牙で肉を噛みちぎり、奥歯で磨り潰すが如く、手の中で蠢く蛇達を圧殺していく。
周囲にバチリと雷光が散り、ルカの身体から凄まじいエーテルがあふれ出した。
漆黒の瞳の奥に、鮮やかな稲妻が走った。
次の瞬間。
ブツン――と、何かが千切れるような音がして、ルカが握りしめていた蛇達が拳の中で粉々に握りつぶされた。
直後、呪印から広がり、マリナの身体を這う無数の蛇が一斉に消滅する。
呪いを喰らったという確かな感覚があり、マリナの下腹部を見れば、禍々しい呪印は残っているものの、全身に広がる茨は消え去っていた。
「は、ぁ……嘘……はぁ、はぁ……こんな、こんな事が……」
マリナは信じられないという表情で己の下腹部に手を添えたあと、潤んだ瞳でルカを見上げた。
解呪出来たわけではない。
呪いはいまだ、マリナの身体を蝕んでいる。
だが、呪いを核として成長し、身を犯していた邪悪な蛇は、ルカが喰い殺した。
「この呪いは……今の俺の力ではどうにも出来ない。それでも邪悪な力を弱める事は出来たようだ」
血の滴る腕を押さえて、ルカは言う。
「――――」
マリナは何事かを言おうとするが、言葉に出来ないまま気を失った。
まだ少し熱はあるようだが、先ほどのような高熱はなく、呼吸も落ち着いている。
ルカは抱き抱えたままのマリナを、ベッドに横たえた。
「先生の治療が必要なのは、俺の方か」
ルカは右手を見やる。解呪を試みようとして、呪いに攻撃された右手は酷く出血していた。
幸い上手くいったからよかったものの、下手をすれば大変な事になっていたかもしれない。
軽挙妄動は慎まなければな――と、ルカは反省する。
「ん……ッ」
マリナが僅かに身じろぎする気配に、ルカは顔を向け――
「ッ」
マリナの短いスカートはめくれ上がり、上着は胸まではだけ、非常に目に毒な光景になっている事に今さながら気が付いた。
赤く色づく肌に、汗に濡れて張り付く下着。
呪い影響か淫の気が強く溢れていて、魅了されたように目が離せなくなる。
だが、脳裡に頬を膨らませるアテネの姿が浮かび、ルカは目を逸らす事に成功した。
「やれやれ、アテネに助けられたな。それにしても凄い人だ……」
改めて、マリナの精神力の高さに感服させられる。
彼女はこんなものとは比べ物にならない呪いの強制力と、ずっと一人で戦って来たのだ。
「衣服の乱れだけでも、直しておかないとな」
このままにもしておけず、ルカは直接みないよう目を逸らしながら、めくれ上がったスカートに手を伸ばし――
「――――何をしているのですか、ルカ?」
凍えるように冷たいアテネの声に、ルカはビクリと肩を震わせる。
振り返れば扉の隙間から、アテネがこちらを見つめているではないか。
光彩の失われた、夜の海のように暗い瞳で――
「ち、違う! 誤解だ!」
ルカは思わず叫んだ。
何も後ろめたい事はしていないはずなのに、ルカは自分の言葉が妙に薄っぺらく感じた。
ギィと音を立て、扉が閉まっていく。
「ルカのエッチ……」
これまで何度か聞いたその台詞は、恥ずかしくも嬉しい響きがあった。
だが、今のセリフには、突き刺すようなトゲトゲしさしかなかった。
「待て、アテネ!」
ルカは呼び止めるが、返事の変わりのように扉が閉まる音が無常に響き渡る。
「くっ……これも呪いの影響なのか?」
馬鹿な事を言ってないで、早くアテネの後を追わなければ。
マリナの身体にシーツをかけ、ルカは急いで医務室を出ようとしたところ。
「きゃ!?」
入って来たマリーンとエミリーにぶつかりそうになった。
「ちょっと、どうしたのよその腕!?」
「ち、血が一杯出ているではありませんか!」
二人は交互に叫ぶ。
「事情は後で説明する。今は緊急事態なんだ!」
「いいえ、緊急事態はあなたよ、ルカ君! 医務室で怪我したなんて、医師としての私の誇りが許さないわ。この部屋を出るのは治療が済んでからよ!」
「先生の言う通りです!」
マリーンとエミリーに両脇を掴まれ、ルカは治療台へ引きずられていく。
「は、離してくれ! 頼む! 離してくれ――――ッ!」
ルカの叫び声が響いた。
◇
「……ところで、航海長」
船尾楼甲板に立つメルティナは、操舵輪を磨く航海長ミラルダに声をかけた。
「なんでしょうか、艦長」
「恋に浮ついた娘の心を落ち着かせる例の作戦だけど、あれは……上手くいったといえるのかしら?」
心配げな表情のメルティナの視線の先には――
「ルカのバカ! ルカのバカ……ッ!」
一心不乱に訓練用の木人に蹴りを叩き込むアテネの姿があった。
ドゴンッ! ドゴンッ! と、心胆を寒からしめるほどの、凄まじい蹴撃音が響き渡る。
どんな攻撃を受けてもビクともしなよう極めて頑丈に作られた木人は、アテネの蹴りを受けるたびにその形状を無残に変形させていく。
やがて、ドガァアンと、船が揺れるほどの蹴り放たれ、木端微塵に吹き飛んだ木人の成れの果てが、放物線を描いて海に落下していった。
「穏やかな凪の日もあれば、荒々しい嵐の日もある。恋とはまるで海そのものですなぁ」
ミラルダは操舵輪を磨きながら、笑みを浮かべてパイプから煙を曇らせる。
ルカがアテネの誤解が解いたのは、その日の夜遅くとなった。
淫紋は文化。




