3
3
恋の女神の祝福であるかのように、《星天祭》の夜は澄み渡り、満点の星々が煌めく。
天の川を挟んで一際輝くのは、こと座のベガと、わし座のアルタイルだ。
今宵は沢山の人々が様々な想いで、この星空を眺めているだろう。
だが、現代に蘇った背徳の都こと、眠らない魔都ポートロイヤルで、ロマンチックに星を見上げる者は稀だ。
多くの者が欲望に目をぎらつかせて、夜の街を行く。
そこには確かな自由があり、それ以上の危険と、誘惑と、なにより――『悪』が満ちていた。
「………………」
魔都の中心に座す大きな城のテラスから、混沌の坩堝と化した夜の街を愛しげに見つめるのは、真紅の髪と、燃えるような瞳と、見るもの全ての胸を締め付けるような美貌を誇る少女。
彼女の名は、《黒髭》エドワード・テュッティ。
黒髭海賊団の頭領者として、カリブ海でその名を知らぬものはいない大海賊である。
「何か見えますか、お嬢様」
と、尋ねたのは、テュッティの右腕であり、側守を務めるシルフィと呼ばれる女剣士だ。
「ありとあらゆる人の道にそむく行い。そう、悪徳の極みが見えるわ」
肌を大胆にさらす海賊衣装を纏うテュッティは、妖艶に微笑む。
「どうぞ」
シルフィはグラスに注いだラム酒を差し出した。
「私はね、シルフィ。この馬鹿げた光景が嫌いじゃない。ブリテンの大司教どもが泡を食って背徳と叫ぶこの街の喧騒は、私にとって存在を感じた事もない神の言葉より、余程心を洗われるものだわ」
テュッティはそう呟きながら、夜空の星々を見上げた。
天の川を挟んで見える、ことさら輝く二つの星を――
「あいつと出会わなければ、私はこの海で散り果てるその時まで……この背徳の都に君臨する愚者の王でいられたでしょう。でも、あいつは……あの馬鹿は、私に過去と向き合えという」
「後悔されているのですか?」
「そうね。悪い男に引っかかってしまったわ。黒髭たるこの私に、悪徳の権化に、正道を説くあの馬鹿のせいで、私は……これまでの全てを捨てる事になるのだから」
テュッティはそこで言葉を切ると、グラスのラム酒をあおり飲み、どこか儚げで、切なそうな微笑みを浮かべた。
それは復讐の炎に身を焦がしていたあの頃では考えられないほど、柔らかな表情であった。
「お嬢様……」
シルフィは気遣わしげに、テュッティを見やる。
すると、
「――――恩赦の許しが出たわ」
テュッティは懐から一通の書簡を取り出し、シルフィに放り投げた。
「ッッ! それは、良かったではありませんか!」
慌ててそれを受け止めたシルフィは、顔を喜びに輝かせる。
「額面通りに受け取るならね。中を読んでみなさい」
シルフィは書簡を読み開く。
ほどなくして、その手が怒りで震えだした。
「恩赦の許しを得たくば神への誓約のため、武装を解いて一人でナッソーに来られたし。バハマ提督――――ウッズ・ロジャース!?」
「海賊上がりの海賊殺し……ウッズ・ロジャーズ。バハマの提督におさまっていたなんて驚きね」
「こんな、どうみても罠ではありませんか! まさか、お一人で行かれるつもりなのですか!?」
「だとしたら?」
「例え御不況を買うことになったとしても、絶対について参ります!」
「ふふ、安心なさい。一人で行くなんて愚はおかさないわ。私が海賊を辞める時は、お前達も一緒よ」
「ティファニア様……」
「この際だから全員で乗り込んでやろうじゃない」
「ぜ、全員で、ですか?」
「ええ、そう。海賊として最後の船出だもの。派手に行きましょう。水兵一八〇〇人。戦列艦を含む大型艦が八隻。中型艦が一二隻、小型艦が三四隻。計五四隻の大艦隊よ」
テュッティは不敵に笑う。
思い出すのは、別れ際にルカが放ったあのセリフだ。
『力なき正義は無力かもしれない。だが、お前には圧倒的な力があるだろう。世界最強の軍艦を相手に喧嘩を売れるだけの力が』
銃や大砲で脅してでも恩赦を認めさせろ――と、でもいうかのようなルカの豪胆な考えに、心を動かされなかったかといえば嘘になるだろう。
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、でも、どうにも胸の興奮が抑えられない。
(私は必ず恩赦を得てカタギに戻るわ。そしたら……正々堂々とお前を奪いに行く。首を洗って待ってなさい)
テュッティはラム酒が注がれたグラスを手に、夜空を見上げる。
漆黒の海に瞬く星々の向こうに、黒髪の東洋人の姿を想うかのように――
◇
海賊の楽園ポート・ロイヤル。
背徳の都の中心に立つ巨大な城――アンシュタット城では、朝から慌ただしく海賊達が集まっていた。
テュッティから召集の号令が下されたのだ。
黒髭海賊団は、他では類を見ない大所帯であるが故に、拠点を幾つも持ち、交代制で海に出る決まりとなっていた。
今も『三番隊』と呼ばれる軍団が、縄張りである海域で稼ぎに勤しんでいる。
軍艦以外を襲わない黒髭海賊団は、支配海域を通過する商船団の護衛を、主な収入源としていた。
海賊が、略奪対象を護衛する。
一見すれば歪な関係に見えるが、海賊黄金時代の昨今では、海域を支配する強大な海賊から一定の『みかじめ料』を払うことで、海の安全を買うのは決して珍しくない事であった。
「待たせたね、お嬢。手すきの者は全員集めたよ」
テュッティの母であり、先代の《黒髭》の代から仕える筋骨隆々のアマゾネス戦士・オーガが言った。
城の中庭には、黒髭海賊団の半数にあたる一〇〇〇人近い海賊達が集められていた。
「――――皆、集まったわね」
城のテラスにテュッティが立つと、「ヤー!」と、割れんばかりの歓声が巻き起こる。
「今度はどこを襲おうってんですか、テュッティ様!」「何処へでも着いて行きます!」「次の一番槍はアタイらに任せてよ!」
奴隷を始めとする様々な弱い身分の女達は、その全員がテュッティに救われた過去を持つ。
「次の針路は、バハマの『ナッソー』よ」
女達の声がひとしきり落ち着いたあと、テュッティのその声を響かせた。
「バハマのナッソー?」「ナッソーって……ブリテン海軍の艦隊駐屯地じゃなかった?」「ついにブリテンと一戦構えようってんですか!?」
「いいえ、その逆よ。これより私は『恩赦』を受けるために、《黒髭》の名を捨てるために、不倶戴天の敵の元へ乗り込むわ」
「お、恩赦だって!?」「テュッティ様が海賊をお辞めに!?」「そんな、私達捨てるんですか!?」
女達から口々に悲鳴が上がる。
だが、テュッティは不敵と笑うと、テラスの欄干にドンと片足を乗せ――
「お前達を捨てるですって? 勘違いしているなら教えて上げるわ! お前達は血の一滴まで、命の一欠けらまで全て私のものよ! お前達はただ私に従えばいい! どこであろうと、例え地獄であろうとも――――黙ってついて来なッ!!」
と、吼えるように言い放つ。
一〇〇〇人の女達はテュッティの怒声を受け、怯えるどころか、その顔に歓喜を爆発させる。
大地が振るえるほどの大歓声を上がった。
冷めやらない興奮の中、一人の少女が手を上げた。
テュッティはその少女を質問を許した。
「はい、テュッティ様! 海賊を辞めたら、私達は何をして生きていけばいいんですか!」
「海の女は海でしか生きられないわ。恩赦を受けたのち、私はこのハイランド王国を拠点とし、海軍を起こす。お前達は荒くれの海賊から、海を守る海兵になるのよ」
ざわめく女達に、テュッティは言葉を続けた。
「海軍となれば、これまでのような自由は失われ、贅沢も出来なくなるでしょう。昨日の友が敵となり、殺し合う日々が始まるわ。なにより、お前達の嫌がる規律と義務が、これからは重くのしかかって来る。考えられる限り『最低』の未来が待っているわ」
ざわめきは小さくなり、誰もが真剣な表情のテュッティを魅入る。
「でもね。たった『一つ』だけ、いい事があるのよ」
テュッティはそこで言葉を切ると、優しい表情で女達を見渡し――
「これから生まれてくる『子供達』に、正々堂々と胸を張れるわ! 戦いの果てに海で散っても、あんたの母親は立派な奴だったと誇りを持って貰えるわ! どうお前達? 命を懸けるに値する『最低』で、『最高』の未来でしょう!?」
テュッティは胸を張り、頬を紅潮させ、まだ見ぬ未来を夢見るように集まった女達を見やる。
「どこまで着いていくぜ、お嬢!!」「私も着いていきます!」「連れて行って下さい、テュッティ様!」「子供のためならどんな労苦も惜しまないわ!!」
女達の目に涙を浮かべ、そう叫んだ。
虐げられ、まともな幸せを諦めていた女達の胸に、希望の光が灯った瞬間であった。
テュッティは満足げにうなづくと、右手を振り払い叫んだ。
「――――さあ、出航準備よ! 水と食糧と、ありったけのラム酒をかき集めなさい!!」
◇
アンシュタット城から次々に武器や、食糧に酒や財宝が運び出されていく。
そしてに混じるように、非戦闘員の女達を城を後にする。
黒髭が持つ八つの拠点でも同様の作業が行われた。
戦闘員だけでも一八〇〇人を越えるが、非戦闘員の女達の数はその十倍にも膨れ上がる。
非戦闘員は安全な拠点へ移動し、戦闘員はそれぞれの拠点で船の準備を急ぐ。
こうして、十日が過ぎ――
「この城とも今日で最後かと思うと……少し、名残惜しいわね」
テュッティは長く拠点として過ごしたアンシュタット城を、一人で歩く。
城に掲げられた海賊旗が下ろされ、絢爛だった城内は、略奪後のように伽藍としていた。
この光景を見て真っ先に思い浮かぶのは、父と妹が暗殺されてからの地獄の日々だ。
国民を守るために敢えてブリテンの支配を受け入れ、植民地となったハイランド王国は、父の死と共に全ての自治権を奪われ、城は踏み荒らされ、全てが略奪され、最後に――『火』が放たれた。
テュッティが母――アナスタシアに抱き締められて見たのは、炎の中に燃え落ちる城の姿だ。
幼い少女の胸に、復讐の業火が灯ったのもまた……あの時であった。
父と妹の仇を討ち、ブリテン王国を火の海に沈めてやると誓ったのだ。
当時、『炎の聖霊』に憑かれて余命幾ばくもなかったテュッティは、魂を焦がす怒りに、炎の聖霊すら屈服させ、十年に亘り母と共に復讐の牙を研ぎ澄ませてきた。
あらゆる軍艦を集め、優秀な兵を鍛え、戦う準備を整えて来たのだ。
だが、
「…………昔の私って、こんなに背が低かったかしら?」
大理石の柱には幼い頃に刻んだ背丈傷があり、テュッティは思わず笑ってしまった。
と、同時に、自分がこんな風に笑う女だった事がおかしくて、再び笑みが込み上げる。
ブリテンへの恨みを、忘れたわけではない。
殺せるなら、滅ぼせるものなら、今からでも皆殺しにしてやりたいと思っている。
ただ、これまでのような、己も、周囲も、眼前の全てを焼き尽くしてしまいたいという『狂気の炎』は消えていた。
「この私が、男目当てに生き方を変える日が来るとはね」
テュッティは苦笑しながら、どこか清々しい気分で柱の背丈傷を撫でる。
と、その時。
「ここにいたのかい。探したよ、お嬢」
アマゾネス戦士のオーガが姿を見せた。
「どうかした?」
「出航準備が整ったから、呼びに来たのさ」
「わかった。すぐ行くわ」
テュッティはそう言うと、踵を返してオーガとは反対側に歩き出す。
「いいや、一緒に行くよ。今のお嬢を一人にしていたら、何処かへ消えちまいそうだ」
オーガは真剣な表情で言った。
その強い意志に隠された、深い悲しみの『過去』を知るテュッティは、
「好きになさい」
と、言って歩き出す。
オーガは黙って後ろを着いて来た。
階段を下り、大広間を抜け、正面玄関に続く大階段まで来たところで、テュッティは口を開いた。
「――――アナスタシアお母様と、今後について話したわ」
「姐さんは、なんと?」
「好きに生きろといわれたわ。父の血を継いでハイランド王家を復活させてもいいし、全てのしがらみを捨てて、愛する男と添い遂げる人生もあるだろう……とね」
「どんな道を選んでも、お母様は、私を応援して下さるそうよ」
照れくさそうにそう語るテュッティに、
「そうですかい」
オーガは自分の事のように嬉しげに、相互を崩した。
「私は……ハイランド王家を復活させるわ。王女なんて柄じゃないけれど、父と妹の生きた証を消したくはないの」
「…………お嬢」
「守るべき国を持てば、ブリテンの脅威と支配は、根無し草の海賊だった頃とは比べものにならないでしょう。それでも私はやる。この国からブリテンどもを追い払い奴隷なき国を作るわ。だから――――これからも力を貸しなさい、オーガ」
「断られたって一生着いていきますぜ、お嬢」
胸をドンッと叩き、オーガは言った。
「あらそう? 黙って消えてしまいそうなのは、お前の方だと思ったのだけれど……それを聞いて安心したわ」
テュッティは僅かに口角を釣り上げ笑う。
と、そこへ。
「――――た、大変です! ティファニア様!!」
血相を変えたシルフィが飛び込んできた。
「そんなに慌ててどうしたんだい?」
オーガが驚いた表情で問う。
すると、
「海賊どもが、出港の邪魔をしているでしょう?」
テュッティが予想していたように言う。
シルフィは何度もうなづき、
「そうです! 奴ら港を封鎖して、ティファニア様を出せと大挙して押し寄せて来たんです!!」
「これだけ大掛かりに動いているのよ。何をしているのか悟られようというものだわ。逆にこれで感が働かないようでは、この先カリブの海で生き残れないでしょう」
テュッティはそこで言葉を切ると、髪をかき上げ散らし、
「――――同業のよしみよ。最後に遊んであげましょう」
と、不敵に笑う。
その真紅の瞳には、今までにない無邪気な光が宿っていた。
◇
港に到着したテュッティを待ち受けていたのは、海を埋め尽くす海賊船と、港を封鎖する海賊達だ。
それも十把一絡げの烏合の衆ではなく、高額の賞金をかけられた名うての大海賊達が、『聖霊器』級の武器を手に殺気だった視線を向けて来る。
だが、
「壮観ね。随分と派手な見送りじゃない?」
テュッティはそんな凶悪な殺気の嵐を、まるでそよ風のように受け止めながら、妖艶な笑みを浮かべた。
「チッ、噂は本当だったようだな」
と、苛立った声で言ったのは、《獅子姫》サーリャの異名を持つ小柄の女海賊。
鮮やかな緋色の髪に、緑色の瞳を持つが、左目は髑髏マークの眼帯に覆われていた。
まるで、子供のような背丈だが、身の丈を越える巨大な戦斧を短剣のように操る一騎当千の『狂戦士』である。
「…………噂とはなんのことかしら?」
「とぼけるんじゃねぇ! てめぇが、ケツを捲って逃げ出すって噂だよ!!」
サーリャが怒声を上げた。
「ふふ」
「なにがおかしい!?」
「おかしいに決まっているじゃない。そんなつまらない事を確認するために、カリブにその名を轟かせる大海賊どもがこうして雁首揃えたなんて……お前達も暇なのね」
「事実だって認めるんだな……?」
今にも手に持つ戦斧で、斬りかかってきそうな雰囲気でサーリャは呟く。
テュッティは楽しげにそれを見下ろしながら、優雅に腰に手を当てて言った。
「――――事実よ」
次の瞬間。
「ざけんじゃねぇッ! 散々俺達のボス面して、この海賊共和国の王女として君臨した来たてめえが、一抜けたで納得すると思ってんのかッ!!」
爆発する怒りを吐き出すように、ズトン――と、戦斧を地面に叩きつけたサーリャが、集まった海賊達の胸の内を代弁するかのように、大音声で吼えた。
「私は、気に食わない奴を引き裂いて来ただけよ。お前達も私が気に食わないなら挑んでくればいい。今からでも……構わないわよ?」
テュッティの言葉に殺気だつ海賊達。
一瞬即発の空気が満ちる中。
「…………一つだけ聞かせろよ」
と、サーリャが言った。
「なにかしら?」
「なんで……なんで海賊を辞めるんだ? てめえなら、カリブ海どころか、七つの海だって支配出来るはずだ! なのになんで海賊を辞める!? もし、臆病風に吹かれたってなら――――」
「どうだというの?」
「海賊は舐められたら仕舞いの家業だ。俺達のボスだった女が、そんな糞みてぇな理由でケツを捲ろうってんなら――――殺すしかねぇだろ?」
サーリャは静かに、だが、明確な殺意を解き放つ。
小柄なその身体からは、凄まじいエーテルが溢れ出した。
それは他の海賊団の首領達も同じで、剣に、銃に、槍に、斧に、拳を打ちすえる者と、それぞれの身体から放たれる様々な色のエーテルが、大気に干渉してバチリ――と、鮮やかな雷光が炸裂する。
当然、船長であるテュッティに武器を向けられた黒髭海賊団の面々も、武器を抜いて殺気立つ。
だが、
「全員相手にしてあげてもいいけれど……まぁ、特別に一つだけ質問に答えて上げるわ」
テュッティはヒールを響かせながら前に進み出ると、険しい表情で答えを待つ海賊達に、胸を張り、腰に手を当て、優雅に髪をかき上げ散らす。
そして、
「――――男のためよ」
と、威風堂々と答えたではないか。
これには集まった凶悪な海賊達も、一斉に「は?」という表情で、口をポカンと開けた。
「惚れた男がこの私に海賊を辞めろというの。なら、辞めるしかないでしょう? 他に選択肢なんてないわ」
「ま、待てよ、黒髭の姉御! 冗談だよな?」
サーリャが先ほどまでの殺気だった表情とは一転、おろおろした顔で問う。
「質問は一つよ。道を開けるか、戦うか、今すぐ選びなさい」
テュッティは逆らう事は許さないという、冷たい声色で言った。
「ま、マジなのか……」
サーリャは茫然とした様子で呟く。
港に集まった海賊団を率いるの名うての首領達も、凪の海のように黙り込む。
次の瞬間。
ドカンッと、大砲が炸裂したかのような笑いが巻き起こり、集まった海賊達が手を叩いて、足を踏み鳴らして、笑いに笑って、大笑いする。
だが、その笑いは、テュッティの『愛』を祝福する笑いであった。
「くはははっ! 丘の男に恋したとありゃ、人魚は海では暮らせねぇよな!」
笑いながらカトラスを仕舞う壮年の女剣士は、《剣狼》ギミュレーの名で知られる凄腕の剣使いだ。 三十年以上も海賊を続ける古株で、かつては海賊女王に仕えていたという。
「悪党にだってルールはある。愛する男と添い遂げるためなら……海賊を抜けるのも仕方なし、か」
キャプテンハットを目深に被るのは、《神射手》ロビンで知られる百発百中の弓使いだ。
元はイスパニア海軍の将校だったが、今ではカリブ海にその名を轟かせる海賊団の頭領である。
「そういえば、アンタのところ斬り込み隊長も、こないだ結婚するって出て行ったよね?」
「あの馬鹿ってば、男と喧嘩別れして一週間で戻って来たわ」
そう言ったのは《蒼炎》《紫炎》の異名を持つレイナース姉妹だ。
互いに強大な聖術師で、姉妹で別々の海賊団を率いている。
「《彩炎の魔女》と畏れられた貴女のハートを射止めるなんて、その彼に興味が沸きましたわ。一度、味見させてくださらない?」
褐色肌に白刻印を彫り、露出過多な衣装に身を包むのは、《蜜蜂》バトゥールだ。
男の精を吸い尽くす淫魔だと噂されるほどの男好きで、海賊をしながら、背徳の都で一番大きな娼館の経営している。
他にも様々な海賊団の頭領が、口々にテュッティの門出を祝う。
最後に前に出たのは、一番テュッティに食ってかかっていた《獅子姫》サーリャだ。
彼女は涙で濡れる目を擦りながら、鼻声で叫んだ。
「グスッ……男に捨てられたら、いつでも戻ってこいよ! 黒髭の姉――――痛ぁッ!?」
サーリャの言葉は途中で、掻き消された。
パァアアンと、鞭がしなる凄まじい音がして、サーシャの顔をテュッティの龍鞭が打ちすえたのだ。
「い、痛てぇじゃねーか!?」
龍鞭をもろに食らっても怪我は一つない頑丈なサーシャは、涙目で吼えるが――
「……男に……なんですって? もう一回言ってみなさい?」
真紅の瞳に凄絶な怒りを燃え上がらせるテュッティが、そこにはいた。
烈火の如きエーテルを撒き散らす彩炎の魔女に、港を占領していた海賊団の頭領達の顔が一斉に引きつる。
彼女達にすでに、テュッティと戦う理由はなくなっていた。
なのに、獅子姫の余計な一言が、龍の逆鱗に触れてしまったのだ。
このままでは怒りに荒れ狂う魔女の炎に焼かれるか、龍鞭で引き裂かれるかの二つに一つだろう。
真っ先に動いたのは――
「よし! 黒髭の大将の門出を祝って、宴会だ! 皆で飲み明かそうぜ!」
亀の甲より年の劫といわんばかりに《剣狼》ギミュレーが言った。
「んふ、だったらうちの娼館に来るといいわ。可愛い男の子が一杯よ」
すかさず《蜜蜂》ことバトゥールが乗っかる。
「も、もちろん、アタシらも参加するわ」「うんうん! 可愛い男の子大好き!」
そこへレイナース姉妹が加わり、
「くだらん、俺は弓の腕を磨くとする。あとの始末は頼んだぞ《獅子姫》よ」
最後に《神射手》ロビンがそう言って、サーリャの肩を叩いた。
「ちょ! ま、待てよ、てめぇら! ここに来てケツ捲る気か!?」
サーリャは左右をきょろきょろして叫ぶ。
その横を、ぞろぞろと海賊達が引き上げていく。
危機を察知し、引き際を心得るのも、一流の海賊の必須条件であった。
「で、どうするの……サーリャ?」
バシンッと、龍鞭で地面を打ちすえテュッティは問う。
蛇に睨まれた蛙のように、一歩、二歩と、後ずさりしたサーリャは、
「うう~っ! きょ、今日のところはこれぐらいで勘弁しといてやらぁ!」
口角泡を飛ばして叫ぶと、巨大な戦斧を抱えて走り去る。
だが、サーリャは途中で、クルリと振り返ると、
「姉御のバーカ! 絶対に幸せになれよ!! じゃなきゃ、俺がぶっとばしに行くからな!!」
と、叫んで、『べー!』と舌を出したではないか。
テュッティは去っていく彼女達を見やると、腰に手を当て、微かに笑みを浮かべる。
その笑みには喜怒哀楽、様々な感情が籠められていた。
「さようなら、我が愛しきポート・ロイヤル。さようなら……我が愛しき友よ」
テュッティはそう呟くと、左手を掲げ――パチンと指を鳴らした。
左手の薬指に嵌められた聖霊器《ヘスティアの竈》から、バチリと雷光が炸裂。
直後に、海賊達が去っていった方角から紅蓮の大爆炎が吹き上がる。
遅れて届いた熱風が、テュッティの髪を揺らした。
「お、お嬢……流石にやり過ぎだぜ……」
側に控えていたオーガが、唖然とした様子で呟く。
「安心なさい。ちゃんと手加減してあるわ。それより――とっとと逃げるわよ!」
クスクスと童女のように笑いながら、テュッティは駆けだした。
怒声と、罵声に、銃声が、後から後から追って来る。
テュッティの笑い声が、澄み渡る青空に響き渡った。




