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濡れた青い髪をアップで纏める少女が、薔薇が香る泡風呂に浸かりながら脚を伸ばす。
髪も、肌も、いつもより艶やかさが増し、清らかな少女の美貌には、これまでにない女の魅了が花開いていた。
少女の名は、アテネ。
コロンビア海軍の海尉見習いであり、恋に生きる一人の少女である。
「はふぅ~」
気持ちよさそうに目を細めて浴槽で手足を伸ばすアテネは、後ろの少年にもたれ掛かる。
少年の名は、ルカ。
コロンビア海軍の士官候補生であり、愛を知る一人の男である。
「身体は……その、大丈夫か?」
濡れ烏となった黒髪を降ろしたルカは、腕の中にいる少女に問う。
アテネはうっとりと頬を染めて、身を預けた。
「身体が芯まで蕩けて……しばらく立てそうにありません」
「す、すまない」
「ふふ、大丈夫ですよ。女の子の身体は思っている以上に頑丈なんですから」
「そうか……」
ルカは頬を染めて頬をかく。
アテネはそんなルカの反応を、面白そうに、嬉しそうに、そして、幸せそうに微笑むと、
「――――愛しています、ルカ」
と、愛しい想いを全て籠めて囁いた。
「俺も……愛している」
ルカもそう言って、アテネをギュッと抱きしめる。
「こうしていると安心します」
「風呂を上がったら何か食べようか。お腹が空いただろう」
「私は……あまりお腹は空いていません」
「腹ペコマーメイドにしては珍しいな」
「だって、ルカの愛を一杯貰って、胸が一杯なんですもの」
甘えるように、ルカの首筋に頬を擦り付ける。
「あ、アテネ……」
言葉の意味を理解し、ルカの心臓がドクンと跳ねる。
「………キス、して下さい」
身体だけ振り向いたアテネが、ルカが口付けしようとするが――
「ひゃん!?」
突然、可愛い悲鳴を上げて、顔を真っ赤に染めた。
「ん、どうした?」
「ルカは元気すぎます……❤」
アテネはモジモジと泡風呂の中でお尻を動かす。
ルカは気まずそうにするが、すぐに気を取り直すと、
「いいや、魅力的すぎるアテネが悪い」
「……わ、私のせいにするなんて、酷いです」
「だが、事実だろう?」
「も、もう……ルカのエッチ……」
アテネはそういいながらも、ルカに身を任せようとする。
と、その時。
「――――ッ」
ルカは突然、鋭い表情で顔を上げた。
「どうかしたのですか?」
「待て……誰かこの部屋に近付いてくる気配がする」
「!」
アテネはすぐに表情を引き締める。
そこにあるのは、ルカに対する全幅の信頼であった。
「先に出るぞ」
ルカは立ち上がると、壁に立て掛けてある刀を掴む。
「わかりました。私もすぐに行きます」
アテネは胸を隠してコクリと頷いた。
ルカは音を立てずに浴室を出ると、玄関扉へと向かう。
息を潜めて扉越しに気配を張り巡らせると、微かに足音が響いて来た。
(数は一人。妙に急いでいる……だが、この気配は――)
ほどなくして、ドンドンと扉を叩く音がして、
「――――ルカッち! お嬢様! 居るなら返事して!!」
必死な声の主は、アテネの親友であり、同じ士官候補生仲間のクロエであった。
尋常ではないその様子に、ルカは扉のロックを外すと、バンッと音を立てて戸を開く。
「どうした、クロエ!」
「ルカッち! ――って、なんで裸なのさ!?」
「気にするな」
「き、気にするよ!」
クロエは顔を真っ赤にして、視線を下げる。
「ま、待って待って! えええ!? そ、そそ、それって!?」
こちらの下半身を見て、目が飛び出るぐらいに驚愕するクロエ。
と、
「――――クロエ!」
バスタオルを身体に巻いたアテネがそう叫ぶ。
「お嬢様! ああ、よかった……無事だったんだね」
安堵したのか、腰が抜けたのか、クロエはその場にへたり込んだ。
「一体何があったんですか!? クロエがこんなに慌てるなんて、ただ事ではありません!」
アテネがこちらへ駆け寄る。
「そっちもただ事じゃない気がするけど、とにかくこっちも大変なの! 鮮血が、《鮮血のオクタヴィア》が現れたんだ!!」
「馬鹿な! ここは海軍本部のお膝元だぞ!?」
指名手配されている賞金首がサンシャインロードを訪れるなんて、敵陣にたった一人で乗り込むようなものだ。
「セラフィナ隊長によれば『鮮血』はこの街の出身だそうだよ。当直の部隊に緊急配備がかかって、私は二人の安否を確認しに来たんだ」
「セラフィナ隊長は?」
「心当たりがあるのか、一人で飛び出して行ったんだ!」
「心当たり――?」
と、聞いて、ルカの中で引っかかるものがあった。
三年前に軍を出奔したオクタヴィアが、この街の出身だった。その符号と、今日知った情報とが、ピタリと重なるのだ。
「まさか!?」
ルカはホテルの最上階から夜の街を見る。
その漆黒の瞳に映るのは、遥か遠くに見える――子供達の『最後の拠り所』であった。
◇
子供達が寝静まった教会では、一人の少女が神へ祈りを捧げていた。
節約のために灯りを消してある聖堂は、深い闇に包まれているが、《灰の聖女》の神話を描いたステンドグラスからは月の光が差し、祈る少女を優しく照らす。
彼女の名は、エミリアーナ。
教会で暮らす多くの兄妹の幸せを祈る、ステラ・マリス号の帆手水兵である。
「神よ、今日の恵みに感謝を――」
エイミーは床に跪き、両手を組んで神に祈る。
アイスクリーム屋の売り上げと、チャリティーコンサートで得た寄付金を数え帳簿につけていたら、この時間になってしまったのだ。
シスター・エルマには先に休んでもらっている。
テオは――いうまでもないだろう。子供達の団子になって寝ている。
「今日のコンサートでは予想を大きく上回る寄付金を頂けました。これなら子供達に新しい靴や、勉強道具を買ってあげられます。残ったお金は怪我や病気をした時の蓄えに回せるでしょう」
エミリーは神へ報告するように、そう呟く。
「そしてなにより嬉しいのが、僅かだけど子供達を星天祭で遊ばせてあげられる事です。きっと明日は……最良の一日になるでしょう。これも全て、ルカ様とアテネ様のおかげです」
神に祈ると同時にエイミーは、ルカとアテネの二人に感謝を捧げた。
しばらくして、祈りを済ませて十字をきったエイミーは、立ち上がって膝を払うと、自分がまだシスター服のままである事に気が付いた。
「いけない。早く着替えないと……」
早く身を清めて、自分も寝よう。
明日は子供達とお祭りに行くのだから、寝坊したら大変だ。
と、その時。
聖堂に夜風に入り込み、シスターケープがふわりと揺れる。
戸締りはしたはずなのにと振り返ったエミリーは、開かれた扉に黒い『人影』を見る。
「――――誰!?」
身を硬くして、エイミーは問う。
こんな夜更けに聖堂を訪ねて来る者が、ましてや施錠したはずの扉を開けられる者が、まともな相手であるはずがない。
すると、闇に溶け込むような人影は、ゆっくりとこちらへ歩み寄って来たではないか。
不思議と足音はなく、ステンドグラスからさす光のカーテンをくぐり、姿を現したのは――――
ゾッとするほど美しい、一人の女であった。
だが、その美しさは、おとぎ話に出て来る《吸血鬼》のように、妖しく、恐ろしく、怖気の走る美しさだ。
月光を浴びて煌めく銀色の髪と、銀色の瞳。
肌は病的に白いのに、唇は血塗られたような紅で、赤黒いフロックコートに、腰に一振りの長剣を帯びていた。
「久しいな。エミリアーナ」
女は凍えるように冷たい声を響かせた。
「―――――オクタヴィア、姉さん」
エイミーは声を震わせ、一歩、二歩と後ろに下がる。
夜更けの教会に訪れたのは、鮮血のオクタヴィアの名で知られる、最悪最凶の賞金首であった。
「ほう。まだ私を……姉と呼んでくれるか」
「こ、ここへ何をしに来たの姉さん! あなたは――」
「あまり大きな声を出すと、可愛い兄妹達が起きてしまうのではないか?」
「ッ」
「心配せずとも忘れ物を取りに帰っただけだ。用さえすませばすぐに退散しよう」
忘れ物と聞いてエミリーが真っ先に思い当たったのは、オクタヴィアが溺愛していた実の弟であるクリュスの竪琴だ。
「クリュス兄さんの竪琴なら……すぐに持ってきます」
「竪琴だと? クククッ……あんなガラクタをまだ後生大事になおしていたのか?」
「姉さん!」
「そう睨むなエミリアーナ。今の私にはもはや不要な代物だ」
「あれほど愛していたクリュス兄さんの形見を不要と切り捨てるなんて、姉さん……あなたに一体何があったの?」
「思い出話に興じたいところだが、邪魔が入る前に本題に入らせて貰おう」
「本題……?」
「―――――指輪を渡せ、エミリアーナ」
「!?」
エイミーは右手の指輪を隠すように、両手を握りしめる。
「むろん、ただでとはいわん」
ガシャと金属の音がして、床に金貨が詰まった袋が投げ捨てられた。
「ダイタニス時代の黄金貨幣だ。これだけあれば兄妹達が一生苦労なく暮らせるぞ」
「駄目……です! これは私の身の証! 家族と繋がる唯一の品です! お金と引き換えに渡せるものではありません!」
「誰からその話を聞いた? いや、一人しかおらんか。やはりあの黒髪もお前の正体に気付いていたようだな」
「…………ッ」
エミリーは指輪が嵌められた右手を庇うように、かき抱いた。
だが、
「仕方ない。金が対価にならないというのであれば、命を対価にしよう。エミリアーナ……お前がその首を縦に振るまで、私は、可愛い兄妹達の首を一人づつ刎ねていく事にするよ。一体何人死ねば……その指輪の対価となるかな?」
「なッ!?」
エミリーは青ざめた顔で、口元を押さえる。
オクタヴィアは剣を引き抜いたまま、エミリーの側を通り過ぎていった。
「――――待って!」
「決心が固まったようだな」
「子供達には……子供達には手を出さないで……」
「約束しよう」
「…………ごめんなさい、ルカ様」
エミリーは涙を流しながら、指輪を差し出した。
オクタヴィアは指輪を受け取ると、月光にかざし――凄惨な美貌に、怖気が走る笑みを浮かべた。
「間違いない。ハイランド王家に伝わる二つの秘法の片割れだ」
「もう、帰って……下さい……」
両手で顔を覆って、エミリーは嗚咽を漏らす。
だが、オクタヴィアはそんなエミリーを、冷徹な瞳で見下ろした。
次の瞬間。パァンと、一発の銃声が鳴り響いた。
驚いて顔を上げたエミリーが見たのは、両手で短銃を構えるテオの姿だ。
「え、エミリーから離れろ!!」
ガタガタと銃を握る手を震わせながら、テオは叫んだ。
オクタヴィアの頬をかすめたエーテル弾は、側の柱に弾痕を穿つ。
「少し見ない間に大きくなったな、テオ。躊躇せずに撃ったのはいい判断だが、撃つなら威嚇ではなく……ちゃんと仕留めるべきだったな」
オクタヴィアは抜き身の剣を片手に、テオへ向け歩を進める。
その身から――吐き気を催すほど凄絶な殺気をまき散らしながら。
「は、早く逃げて、エミリー!」
テオは真っ青な顔で、それでも銃口をオクタヴィアに定めて叫んだ。
このままでは、テオが殺される。
そう確信したエミリーは、オクタヴィアの進路に立ち塞がった。
「やめて姉さん! 指輪なら渡したじゃない! お願いだから出て行って!」
エミリーは涙を流して懇願する。
だが、
「…………この魔剣ユーベルブラットは貪欲でな。一度抜けば最後、血を吸うまで鞘には収まらぬのだ。どの道一人は殺すつもりだった。生贄になるのはテオか、それともエミリアーナ。お前か?」
と、言って、禍々しいオーラを放つ魔剣を振り払う。
「――――ッ」
身が凍るような殺気に顔を強張らせながらも、エミリーは両手を広げてテオを守る。
「よい覚悟だ」
オクタヴィアはゆっくりと頭上に剣を掲げると、躊躇いなくエミリーに向け振り降ろした。
次の瞬間。
ガキィンッ! と、聖堂に鋼がぶつかる激しい音と、眩い火花が散り、闇を一瞬だけ払う。
横合いから突き出された『黄金の剣』が、邪悪な剣からエミリーらを守ったのだ。
「もう誰一人として私の仲間をやらせはしない! やらせはしないぞ、オクタヴィア!!」
と、叫ぶのは、黄金色の髪に、金色の瞳の女剣士。
彼女こそ、ステラ・マリス号の海兵隊長であるセラフィナ一等海尉であった。
「まだ………私の前に立ち塞がるか、セラフィナ」
「お前を止めるまで、何度だって立ち塞がるさ!!」
セラフィナの身体から凄まじいエーテルがあふれ出し、闇を切り裂くように雷光が散った。
◇
ルカはアテネとクロエを連れて、教会へ向けひた走る。
深夜になっても祭りの喧騒は続いており、祭り客の間を縫うように大通りを駆け抜け、途中から裏路地に入って進む。
やがて、通りの先に教会が見えて来た。
教会の外には震える子供達を抱き締めるシスター・エルマの姿があり、ルカは嫌な予感が的中してしまった事に歯噛みする。
「シスター・エルマ!」
「ああ、ルカさんに、アテネさん!」
こちらの姿を見たシスター・エルマは、
「中にはまだセラフィナ様に、エミリーとテオが残っているのです! どうか、どうかあの子達を!」
いつもは柔和な顔を悲しみに歪めて叫んだ。
「あとは俺達に任せろ。シスターは子供達を連れて安全な場所に避難してくれ! クロエは避難誘導を頼む!」
「任せて! 応援を連れてすぐに戻るから!」
ルカの指示に、クロエはうなづく。
「行くぞ、アテネ!」
「はい!」
教会の中からは、激しい剣戟の音が響いてくる。
ルカとアテネの二人は全力で駆けると、そのまま速度を落とさず教会の扉を蹴破るように中に突入した。
次の瞬間。
髪を揺らすほどの凄まじい剣圧が吹き抜け、そこに混じる血臭が鼻を突く。
聖堂の祭壇下には、倒れ伏すテオを抱きかかえるエミリーの姿があり、彼女達を守るように立つセラフィナが、無数の火花を散らしながらオクタヴィアと剣戟を繰り広げる。
見たところエミリーに怪我はない。
だが、テオの頭部からは僅かに血が流れ出ていた。
「俺はセラフィナ隊長の援護をする。アテネは二人を頼む!」
「了解!」
ルカとアテネは同時に、別方向へ駆ける。
アテネは入口から右に向かって走ると、壁沿いを通って真っすぐ祭壇へ向かう。
ルカは一直線にセラフィナの元へ向かった。
そこへ。
「――――邪魔だ!」
壁沿いを走るアテネに向け、オクタヴィアが剣を振り降ろした。
剣圧が鋭い真空の刃となり、チャーチベンチを切り裂きながらアテネを襲う。
ルカはアテネに視線を送る。
問題ありませんと、その瞳が物語っていた。
「やぁあああああッ!」
アテネが放つ右蹴りが白銀の残光を描き、真空の刃を蹴り砕いた。
さらに、
「おおおおおおおおおッッ!!」
ルカは一切の速度を緩めずに、オクタヴィアの背後に肉薄。
放つは突進からの諸手突き。
同時に、オクタヴィアの正面に立つセラフィナが、上段から黄金の剣を振り降ろした。
前後ろから交差する斬撃。
だが、
「…………ふっ」
オクタヴィアは冷たい微笑を浮かべると、正面からのセラフィナの一撃を剣で絡め取り、そのまま振り返り、絡め取ったセラフィナの剣ごと、魔剣ユーベルブラッドをルカの諸手突きにぶつけたではないか。
ルカの黒刀と、セラフィナの聖剣と、オクタヴィアの魔剣。その三本が同時にぶつかり合い、火花を散らしながら交差する。
三人はそのまま激しい鍔迫り合う。
火花を散らす三つ巴。僅かでも力を緩めれば、超絶的な技量を持つオクタヴィアの剣が、ルカとセラフィナを斬り裂くだろう。
ルカはいつでもオクタヴィアに斬りかかれるよう、握りしめる己が剣に意思を籠める。
直後、
「――――聖剣アストレアよ、闇を払う力を!!」
セラフィナがそう叫ぶと、黄金の剣から眩い光がほとばしる。
目を焼くような突然の閃光の中でも、ルカの漆黒の瞳は全てを見通していた。
間隙を縫うように刀を真横に一閃。
オクタヴィアの首を狙って斬撃を放つ。
だが、オクタヴィアは目を閉じたまま右手を振るうと、後ろに飛んで距離を取った。
「くッ……」
追撃しようとした一歩踏み出したルカは、焼けつくような胸の痛みに呻いた。
見れば、胸部に横一線の太刀傷が刻まれており、パッと真っ赤な血が噴き出したではないか。
あの刹那に、反撃されていた。
オクタヴィアは目を閉じたまま、ルカの胸を斬り裂いたのだ。
「ククッ……今のは惜しかったな。後半歩でも踏み込んでいたら、この首を落とせていたぞ」
冷たい声で、だが、嬉しそうに、オクタヴィアは自分の首筋を撫でる。
ルカの一撃が僅かに届いていたのだろう。オクタヴィアの頸動脈すぐ下から、鮮血が溢れ出す。
「………………」
ルカは背中に冷たい汗をかきながら、正眼に刀を構える。
確かにあと数センチ踏み込めていれば、オクタヴィアを仕留められただろう。だが、それは同時に、ルカの命も失われていた事を意味していた。
「…………まだ戦えるか、ルカ」
横に並び立つセラフィナが、心配げに問う。
「かすり傷だ。隊長の方は?」
ルカ以上にセラフィナは怪我を負っていたが、その身から溢れだすエーテルに一片の陰りもない。
「問題ない。私の守りの堅さは、お前が一番知っているだろう」
「…………俺が奴の防御を切り崩す。隊長はその隙を突いて殺って下さい」
誰かが死を覚悟してでも、オクタヴィアの剣を止める必要があった。
ルカは先陣を切るため、四肢に力を籠めるが――
「いや、ルカは下がってくれ。私が倒れるまで手出しは無用だ」
セラフィナはそう言って、前に進み出る。
「隊長!?」
「身勝手を承知で頼む。これは私の戦いなのだ。いや……贖罪と言った方が正しいか。私は三年前にオクタヴィアを止める事が出来なかった。例え、友を斬る事になったとしても止めなければならなかったんだ」
「駄目だ! 考え直してくれ隊長! 俺達二人でかかってなお、勝てるかどうかの相手なんだぞ!?」
「わかっている。わかっているさ、ルカ」
セラフィナはそこで言葉を切ると、
「だからお前は、そこで――――全てを見ていてくれ」
と、言って、黄金の剣を構えて前だけを見据える。
「ッ!」
セラフィナの凄絶な覚悟に、ルカは息を呑む。
それは絶望的な戦いに挑むのではなく、勝利のために、その『布石』となるための覚悟であった。
ルカは刀の柄を手が白くなるほど握りしめると、黙って鞘へ納めた。
「…………頼んだぞ、ルカ」
セラフィナはその言葉を最後に、オクタヴィアに向け斬り込んでいった。
◇
「勝てますよね?」
テオとエイミーを安全な場所へ逃がしたアテネは、ルカの胸の傷に応急処置を施していく。
眼前では、セラフィナとオクタヴィアが、一進一退の激しい剣戟を繰り広げていた。
「………………………」
ルカは黙したまま、戦いの推移を欠片も逃すまいと凝視する。
今のセラフィナの技量では、オクタヴィアに遠く及ばないのが、ルカにはわかっていた。
だから、共に戦おうとしたのだ。
どちらかが致命傷を受けたとしても、二人であれば勝機はあったかもしれない。
だが、セラフィナは一人で戦う道を選んだ。
万に一つの勝ち目もない道を選んだのだ。
今のルカに出来る事は、ただ一つ。
セラフィナが命を賭して作り出したこの『瞬間』を、決して目を逸らさずに見続ける事だけであった。
◇
オクタヴィアの剣は、速さに特化した片手剣技だ。
長剣をまるで手足のように振るい、変幻自在に急所へ斬り込んで来る。
セラフィナは両手持ちの騎士剣でもって、オクタヴィアの攻撃を最小限の剣裁きで防いでいく。
オクタヴィアは長剣をまるで短剣の如く軽々と振るうが、その一撃は、片手とは信じられないほど重く、そして鋭い。
気を許せば、次の刹那には首と胴が泣き別れるだろう。
と、
「腕が鈍ったなセラフィナ」
オクタヴィアは黄金の太刀を避けながら、暗黒の剣を振るう。
防御の間隙を貫いたその一撃は、セラフィナの左肩をザックリと斬り裂き、真っ赤な血が吹き上がった。
「くっ……」
たたらを踏んで、セラフィナは後ろに下がる。
「三年前のお前であってなら、今の打ち合いで、二度か三度は斬られていただろう」
「はぁ、はぁ、お前は……腕を上げたなオクタヴィア……」
「お前が立ち止まり道に迷っている間に、私は多くの命を斬って、斬って、斬り続けてきた。今のお前では……修羅を行く私に遠く及ばん」
「及ばないのはわかってるさ。だが、それでも……私はお前を止める。もう、誰も殺させはしない!」
「哀れだな。力なき者の言葉が何の慰めになる? お前の剣は、この私に一度として届きすらしていないのだぞ?」
「届かせて見せるさ……この命に代えてな」
セラフィナは左足を前に出し、雄牛が角をむけるかのように切っ先をオクタヴィアへ向けると、剣を頬の高さで構える『オクスの構え』を取った。
それは、セラフィナが修めるアーデンベルグ流の奥義の構えである。
「――――《天洸剣》か。確かに三年生のお前が放つその技なら、この私にも届いただろう。だが、輝きを失った今のお前が放つ日輪の光では、私の闇は祓えぬさ」
オクタヴィアは失望の眼差しでセラフィナを見やると、同じようにオクスの構えを取った。
魔剣ユーベルブラッドから、禍々しいオーラが立ち上る。
対する、セラフィナの身体からもエーテル爆発的に放出され、バチリと、眩い雷光が散る。
二人から放たれる剣圧がどこまでも増していき――やがて、それは限界を迎えた。
セラフィナの身体が僅かに沈み込み、次の瞬間には神速となって床を蹴る。
同時に、オクタヴィアも闇から闇へ跳んだ。
迸るのは、雷撃の瀑布。
迎え撃つのは、紫電一閃。
日輪の如き光線が眼前の全てを薙ぎ払いながらオクタヴィアに迫り、毒々しい紫電の嵐がセラフィナを襲う。
空中でぶつかり合う互いの技。
衝撃波にステンドグラスが破砕し、チャーチベンチが薙ぎ払われる。
繰り出された互いの技が、空中で激しく鍔迫り合う。
だが、次の刹那には、眩い日輪の輝きが、紫電の嵐に食い破られ、セラフィナの身体から血風が舞う。
そう。血が、風となって舞い散ったのだ。
セラフィナが命を賭した光の剣は、オクタヴィアの暗黒剣の前に敗れ去った。
そして――
コプッと口から血を吐き出したのは、オクタヴィアの方であった。
見れば、オクタヴィアの胸にはセラフィナの剣が深々と突き刺さっているではないか。
コンマ一秒の出来事を、ルカの瞳は捉えていた。
セラフィナの《天洸剣》は破られたのではない。
敢えてオクタヴィアの技を喰らう事で、最速の突き放ったのだ。
鉄壁の防御を誇るセラフィナが放つ、防御を放棄した捨て身の一撃。
それは、ルカが一度だけ見た――
「ほう……メルティナの技を会得したか……」
紫の唇から真っ赤な血をしたたらせて、オクタヴィアは言う。
「お前を止めるには、失った三年を取り戻すには、これしかなかった……」
セラフィナはそう言うと、オクタヴィアの胸を刺す刃を渾身の力で捻る。
傷口が開き、滝のように鮮血が噴き出した。
「…………見事だ」
「一人で逝けとは言わない。私も、一緒に……地獄に逝ってやる」
ガハッとセラフィナの口から、血が吐き出された。
防御を捨てた一撃の代償は、あまりに大きかった。
セラフィナの胸には、魔剣ユーベルブラッドが深々と突き刺さっていたのだ。
「オク……タヴィア……わた、し……は――――」
セラフィナの剣を握る手が震えだし、やがて、その瞳から光が消え去る。
己の血と、友の血で作られた血だまりに、セラフィナは崩れるように倒れ伏した。
だが、
「未練だな、セラフィナ……」
胸に聖剣が突き刺さったままだというのに、オクタヴィアは平然とした様子で、倒れたセラフィナを見下ろす。
「お前がオクタヴィアと呼んだ女は、神を斬ると誓った狂人は、とうの昔に死んでいる。ここにいるのは地獄より蘇りし者。人理を超越した魔性の徒だよ」
オクタヴィアが胸に刺さる剣を引き抜くと、ドバッと血が噴き出すが、その傷口はみるみる修復されていくではないか。
「先に地獄で待っていろ、セラフィナ」
聖剣を投げ捨てたオクタヴィアは、魔剣ユーベルブラッドを逆手に持ち帰ると、倒れ伏すセラフィナにトドメを刺さんと振り降ろした。
雷鳴が轟いたのは、その瞬間であった。
暗い聖堂が雷光で白く染まり、耳を劈く雷が炸裂。
極大の稲妻が聖堂の天井を貫き、大地に激震を走らせる。
電光石火となってほとばしるのは、雷神をその身に降臨させたルカであった。
だが、真に恐るべきはオクタヴィアの技量であった。
神を宿したルカの超神速の斬撃に対し、オクタヴィアはそれ以上の速さで反応して見せたのだ。
酷薄な笑みを浮かべ、ルカの心臓を貫く突きを放つオクタヴィア。
肉と骨が断ち切られる音がして、鮮血と共に、禍々しい魔剣が宙を舞う。
「――――ッ」
オクタヴィアは唖然とした表情で、肘から先が無くなった右腕を見やる。
滑らかな切断面からは、斬られた事を思い出したかのように血が吹き出した。
斬り飛ばされた右腕と、魔剣ユーベルブラッドが、リンッと音を立てて床に突き刺さった。
「あんたの剣筋は見切った。もう俺には通用しない」
漆黒の髪は怒髪天の如く雷光を纏い、漆黒の瞳は金色に輝き、全身から稲妻を放つその恐ろしき姿は、まさに雷神そのものであった。
「セラフィナめ……己の命を布石にして、私を殺す刃を研いでいたか」
片腕を失ったオクタヴィアは、それでも楽しげに笑いながら、激変したルカを見やる。
「――――俺は持てる全ての力で、あんたを殺すッ!!」
金色に輝くルカの瞳には、今にも爆ぜそうな怒りが猛り、その意思に応えるように雷花が咲き乱れた。
ノクターンの方にておまけも更新中。
詳しくは活動報告にて。




