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太陽が西の水平線に沈み行き、空は鮮やかな茜色に染まる。
ステラ・マリス号の周囲には沢山の海鳥達が舞い、遠目にサザングレイス大要塞が見えて来た。
丁度その頃。
ルカはアテネを探し、一人で船内を彷徨っていた。
だが、何処を見てもアテネは見つからず、夕食時になってもその姿を見せようとしない。
「腹ペコマーメイドが晩飯をすっぽかすなんて、いよいよ一大事だな……」
仲間達に頼ればすぐに見つかるかもしれないが、ルカはそうはしなかった。
アテネは自分が見つけ出す。
そうでなければ意味がないのだ。
と、その時。
「にゃーん」
猫の鳴き声に視線を向けると、メインマストの真下でくつろぐ大きな体の猫が、ジッとこちらを見つめていた。
黒い毛並みに白い足がまるで靴下のようにみえる事から、『ソックス』と名付けられた彼は、この船で唯一の雄猫である。
あまり人には懐かないらしいが、ルカはどうしてかソックスから気に入られていた。
女ばかりの船で、唯一の『男』という『共通点』があるからかもしれない。
「ご機嫌だな王様。美味いものでも食べたって顔してるぞ」
「にゃん」
こちらの言葉がわかっているかのように鳴いたソックスは、ゆっくり立ち上がると、場所を譲るようにメインマストの下から離れた。
直感的にルカは確信した。
メインマストの上に、アテネがいると――
「なるほど、俺のプリンセスを守ってくれていたのか」
「にゃー!」
世話が焼けるぜとでも言うようにソックスは鳴くと、振り返らずに颯爽と去っていった。
その威風堂々とした後ろ姿に王者の風格を感じつつ、ルカは顔を上げてマストを見上げる。
「……行くか」
ルカは意を決して、シュラウドに足をかけた。
気配を殺し息を潜めて登っていき、ほどなくして、ルカは頂上の『見張り台』にたどり着いた。
ソッと中を覗き込んだルカは、見張り台で膝を抱えて座り込むアテネを見つける。
飛び出していきたい感情をグッと押さえ、ルカは慎重に慎重に距離を詰めていく。
これは狩りだ。
相手は警戒心の強いマーメイドで、気付かれたら海の奥深くへと逃げられてしまう。
だから、音を立てずに忍び寄り、一気に捕まえてしまうのだ。
あと、三歩――
あと、一歩――
そして、
「――――捕まえたぞ、アテネ!」
ルカは両手を伸ばすと、決して逃がさないようアテネを背後から抱き締めた。
「ひゃあああ!? る、るるる、ルカっ!?」
アテネは突然の事に取り乱し、顔を真っ赤にして、腕の中から逃れようと必死でもがく。
「鬼ごっこはもう終わりだ。これ以上抵抗するなら退治してしまうぞ」
強く抱き締めながら、耳元でそう囁く。
アテネは小さく息を呑み、観念したのか身体の力を抜いた。
否、これは――
「……アテネ?」
返事のないアテネに、ルカは様子を伺うと、
「んきゅ~~」
美しい少女は耳まで真っ赤に染めて『気絶』していた。
◇
「ん…………」
船の外殻を叩く波の音が心地よく耳に響き、アテネはまどろみから目覚めた。
辺りはすっかり暗くなり、少し冷たい夜風が頬を撫でる。
いつの間にかステラ・マリス号は、サザングレイス大要塞に帰港しており、錨が下ろされ、帆は全て畳まれ、船の各所には星々のようにランタンの灯りが灯る。
右を見ても左を見ても、ルカの姿はなく――
(夢……でしたか……)
あまりに夢の内容が甘美すぎて、アテネは「ハァ」とため息を吐く。
どうやら膝を抱えたまま眠ってしまったようだ。
ただ、ずっと夜風に当たっていたにしては、身体がポカポカと暖かいのは何故だろう。
「ぐすっ……」
急に寂しさが襲って来て、アテネは思わず涙ぐむ。
と、
「……目が覚めたようだな?」
耳元でルカの声がして、心臓がドキンと高鳴る。
そこでアテネはようやく、自分がルカの膝の間にすっぽりと収まっている事に気が付いた。
ルカは後ろから包み込むように、抱き締めてくれていたのだ。
右でも左でもなく、後ろにいたのだ。
「お、おお、おはようございます……ッ!」
気が動転して、そんな言葉しか出てこない。
「おはよう、アテネ」
ルカはさらにギュッと抱きしめてくれた。
久しく感じるルカの体温に、アテネは蕩けそうになる。
もしかして、これはまだ夢の中なのだろうか――と、埒のない事を考えてしまう。
「どうして俺を避けるんだ? 俺が嫌いになったのか?」
「ち、違います!」
ルカの問いに、アテネは慌てて叫んだ。
嫌いになんてならない。なるはずがない。
ただ――
「ルカの秘密を受け入れると……そう約束したはずなのに、ルカが『男性』だとわかってからというもの……どうしても、その……意識してしまうのです……」
アテネは正直に胸の内を答えた。
「意識する?」
「ルカの声を聞くだけで好きという感情が溢れだし、魅了されたように目が奪われ、視線が交われば最後……胸が張り裂けそうにドキドキしてしまう。本来なら私が一番にルカをサポートしなければいけないのに、今まで出来ていた事がまったく出来なくなってしまったのです」
「そうか。嫌われた訳ではないんだな」
ルカは嬉しそうに頬をかき、頬を赤くした。
「だ、大好きに決まっています! 嫌いになるなんて絶対にありえません! 本当は毎日こんな風に……一杯甘えたかったんです。でも、ルカの近くに居るだけで胸が苦しくて……私、怖くなってしまったんです」
「怖くなった?」
「今の私は失敗ばかりで、いつかルカの秘密に関わる大きな失敗をしてしまうのではないかと……」
もし自分のミスでルカの秘密が漏れるような事になれば、アテネはどうやって詫びたらいいのかわからなかった。
「そうだったのか」
「…………ごめんなさい、ルカ」
アテネは沈痛な面持ちで、身を固くした。
すると、
「謝る必要なんてない。アテネは俺の秘密を守るために俺を避けていたのだろう。それに――」
ルカはそこで言葉を切ると、ギュッとアテネを抱き締め、
「胸を高鳴らせているのがアテネだけだと思ったか? 聞こえるだろう。俺の心臓の鼓動が」
「――――あ」
言われて初めて、背中越しにルカの心音が響いている事に気が付いた。
ドキドキしている自分の胸の鼓動にも負けない勢いで、強く早く鼓動を刻んでいる。
「愛する女を前にして平静でいられるわけがないだろう? ましてや、こんなにも触れ合っているんだ」
「あ、ぅ……」
飾り気のないストレートな好意をぶつけられ、アテネの顔から火が吹きだす。
嬉しい――と、心の底から思う。
「ルカも……同じだったんですね」
アテネは身体を預けるように、ルカにもたれ掛かった。
久々に感じるルカの匂いが、アテネの心を熱くさせた。
「当たり前だろう」
「ふふ、それを聞いて安心しました」
「アテネ、一ついいか?」
「なんでしょう?」
「俺と接することで胸がドキドキして身体が動かなくなるなら、もっと沢山ドキドキするような経験積むのはどうだ?」
「ドキドキの経験を積む?」
きょとんした表情で、アテネはルカを振り向き見やる。
ルカは真剣な表情をしていた。
「体力作りには走り込みをするだろう? それと同じで、ドキドキするような事を沢山すれば耐性がつくんじゃないか?」
「――――ッ! それは名案ですよ、ルカ!」
目から鱗とはこの事だとアテネは目を輝かせる。
これまでもロープ結びや、見張り勝負に、芋の皮むきなど、多岐にわたりルカと二人三脚で苦手を克服して来た。
今直面している『胸のドキドキ』も、ルカと一緒なら絶対に乗り越えられに違いない。
「早速でなんだが、その……明日から特訓しないか?」
「ぜひお願いします! 特訓なら任せて下さい!」
アテネは頑張りますのポーズを取る。
重そうな胸がゆさんと揺れた。
「なら、明日の午前直の四点鍾に上甲板で待ち合わせだ。一緒に《星天祭》を回ってデートをしよう」
「わかりました! えっと、上甲板に午前直の四点鍾で待ち合わせ――――」
アテネは元気よく返事するが、遅れて頭に入って来た内容に途中で言葉を止める。
今、ルカは何と言った?
午前直の四点鍾というのは、午前一〇時の事だ。
だが、その後――『デート』と言わなかっただろうか?
(き、聞き間違いでしょうか……?)
心臓がバクバクバクと暴れるように激しい鼓動を刻む中、アテネは一縷の望みをかけてルカを見上げる。
だが、
「約束……したからな」
ルカは決して目を逸らさず、その瞳に強い意志を宿らせる。
その頬が赤く染まっているのは、見間違いではないだろう。
ボッと、アテネの顔から火が吹き出す。
「は、はい……や、約束しました……」
アテネはときめく胸を押さえて、顔も、耳も、全身も真っ赤に染めて、何度も何度もコクコクと頷くのであった。
◇
デートと聞いてすぐに行きたい場所や、やりたい事が思い浮かぶ者と、そうでない者がこの世界には存在する。
前者は総じて社交性が高く、経験が豊かといえるかもしれない。
後者はそもそもデートをしたことがなく、恋を知らない可能性もある。
世界最強の超大型フリゲート艦ステラ・マリス号の自室で、落ち着かない所作で青い髪を梳く青い瞳の少女は、美の女神すら嫉妬するほどの美貌を持ちながらも『後者』に分類された。
彼女の名は、アテネ。
コロンビア海軍の海尉見習いであり、人生で初めてのデートを控える恋する乙女である。
「お……おかしな所はないでしょうか?」
小さな化粧鏡で、アテネは自分の姿を念入りにチェックする。
整った顔には薄く化粧が施され、唇に塗られた薄紅のルージュが、その可憐さを何倍にも引き立てていた。
纏うのは、久々に袖を通す『あの服』だ。
胸を強調した作りの漆黒のミニドレスに、純白のエプロン。
非常に短い丈のスカートからは、白いパニエがふわりと広がる。
頭にはホワイトプリム、首にはチョーカー、手首にはリストカフス。しなやかな脚を包む純白のニーソックス。
最後に黒いメイドシューズに見える《聖盾アイギス》を装着すれば、どこへ出しても恥ずかしくない『メイドさん』の完成である。
「いつまでやっているのお嬢様。そろそろ時間になっちゃうよ」
と、呆れた口調ながら優しい表情で言うのは、士官候補生であり、親友であるクロエだ。
クロエはフォーサイス家に仕える従士の一族であったが、今ではアテネの一番の親友として、共に戦う大切な仲間である。
「で、ですが、髪の結び目がコンマ一ミリほどずれている気がするのです」
初めて恋を知り、初めて誰かを愛したアテネは、昨日の夜に初めてのデートに誘われた。
星天祭を一緒に回ろうと、ルカに言われたのだ。
例えそれがドキドキを克服するための特訓だとしても、アテネの胸はいやがうえにも高鳴った
「はいはい。どうみても左右対称の完璧なツインテールだって」
「で、では、改めて忘れ物がないかチェックしましょう」
「だーかーらー! 今朝から何度も何度もチェックしたじゃん! アタシが何回付き合わされたと思ってんの! 大体あの大量の荷物はなに? また無人島に漂流するつもりなの?」
「だって不安なんです! デートとは何をどうすればいいのか全然わからないんです!」
「アタシが貸してあげた本は? あと、とっておきの『秘策』も伝授して上げたじゃん」
「一ページ目から女性同士が裸で抱き合う本で、何を学べというのですか!?」
「えー、でもルカっちとお嬢様ってそういう関係なんでしょ? 参考になると思ったんだけどな」
頭の後ろで腕を組みながら、クロエは「にひひ」と笑う。
「わ、私とルカは、えっと、その……クロエが想像しているような関係ではありません!」
ルカの秘密を知るアテネは、そういって誤魔化すのだが――
「昨日の夜、見張り台で何時間も抱き合っていたのはどこの誰かな~?」
クロエが目を細めて突っ込む。
「な、なななっ――――!?」
アテネは顔を真っ赤にして、口をパクパクさせた。
「いい雰囲気だったから、アタシがさりげなく人払いしてたんだよ」
「うう……」
アテネは羞恥のあまり両手で顔を覆う。
これにはクロエもやり過ぎたという顔で、慌ててフォローに回る。
「気を取り直してお嬢様! これから楽しいデートなんだからさ!」
「もう、からかうなんて酷いです!」
「心配しなくても今のお嬢様なら誰だってイチコロだよ。女のアタシだって『くら』ってきちゃうもん」
「むぅ、またからかってますね」
アテネはプクッと頬を膨らませる。
「嘘じゃないんだけどな。じゃあ、恋愛初心者のお嬢様にアタシからとっておきのアドバイスをしてあげる」
「アドバイス……ですか?」
「そ。デートにおける最大最強の極意よ」
「教えてください!」
アテネは身を乗り出して言った。
「小難しい事考えずに、頭を空っぽにして全力で楽しむの! 楽しいって感情は伝播するんだよ。好きな人の幸せな顔は見ているだけで嬉しいものだもん!」
笑顔で答えるクロエに、アテネは目を大きく見開くと、
「…………わかりました。その言葉を胸に刻みます」
と、胸に手を当て頷いた。
「ならそろそろ出ないと。初デートで遅刻なんて印象悪いぞ」
クロエが言った直後、『午前直の四点鍾』を知らせる鍾が鳴り響く。
「いけない! もうこんな時間なんですか!? いってきます!!」
「艦内で走ったらテミス副長に叱られちゃうよ!」
慌てた様子で部屋から飛び出していったアテネに、クロエは苦笑する。
と、その時。
「色々とありがとう、クロエ!」
飛び出して行ったはずのアテネが、わざわざ礼を言うため戻って来たではないか。
クロエは目を丸くして驚くと、すぐに優しい顔で、
「楽しんできてね、お嬢様!」
「はい!」
アテネは笑顔で頷くと、今度こそ部屋を後にした。
◇
「恋を知れば女は変わるっていうけど、本当にもうすっかり可愛くなってさ。見ているこっちが幸せになっちゃうよ」
クロエは嬉しそうな笑顔でアテネを見送ると、部屋に戻ってソッと鍵をかける。
そして、
「さて、と……アタシも準備しますか」
ベッドの底からトランクケースを取り出したクロエは、鍵を開けてケースを開いた。
中には数種類のウィッグに、様々な薬品に、専門的な化粧道具がところ狭しと並んでいた。
クロエはウィッグネットを被って髪を纏めると、手早く化粧をして、茶色髪のウィッグを被る。
ブラシで解いて馴染ませたあとは、薬品の中から目薬を取り出し、一滴づつ両目にさす。
すると、緑色だった瞳が、茶色に変わったではないか。
「うん。これでよし」
鏡に映るのは、クロエとは全く違う顔立ちの少女。
フォーサイス家に仕える従者の一族として幼少より訓練を受けて来たクロエは、《百面相》の異名を持つが、アテネにも誰にも――その事を伝えていない。
秘密は知るものが少なければ少ないほど、発覚するリスクを抑えられるからだ。
それは敬愛し、一生をかけて仕えると決めたアテネであっても例外ではない。
何処にも居そうで、でも、誰にも似ていない。
そんな不思議な印象の少女は、音もなく静かに部屋を後にした。
道中ですれ違う水兵や海兵の誰もが、少女を気にも留めない。
クロエの目的はただ一つ。
アテネの護衛だ。
ただ――護衛の過程で、初めてのデートを楽しむ二人の姿を覗き見るのは、不可抗力だろう。
神に誓ってそちらが目的ではない。
「デートの邪魔をするつもりはないけれど、お嬢様を守るのは従士の務めだし仕方ないよね♪」
クロエはスキップしたい衝動を堪えながら、ルカとアテネを追跡するのであった。




