3
3
模擬戦と自己紹介を経て、妙に張り切り出したアテネに連れられ、ルカはメインマストの下にやって来た。そこでは帆船の動力源であり、帆船の象徴でもある純白の『帆』を水兵達が手入れしていた。
アテネは束ねてあるロープを手に取る。
「ロープは様々な用途に使う船の必需品で、特に『索』には沢山のロープが必要になります」
帆船には『索』と呼ばれるロープを組み合わせた船具が存在する。
索は、主に二種類に分けられる。
一つ目は『静索』で、帆柱や帆桁などをを固定するためのロープだ。
巨大な塔の如くそびえ立つマストは四五メートルを越える高さを持ち、帆を全開に開けば風によって何百トンという過重を受けるため、あらゆる方向から風を受けてもマストやヤードがへし折れないように静索によって固定、補強する。
風雨によって劣化しないよう、黒いタールを塗ってあるのが特徴だ。
二つ目は『動索』で、帆を操作するために滑車などを組み合わせたロープをさす。
風を自在に掴み取る操帆術をマスターするには、長い経験と知識を必要とした。
動索は他にも、船の荷積みには欠かせないクレーンの役割も果たし、滑車などと常に擦れ合うためメンテナンスには細心の注意が払われた。
と、
「結び方は特に重要で、大勢の命に関わりますから、よく覚えておいて下さいね」
「了解した」
「で……では、今から手本を示しますッ!」
アテネは緊張した面持ちで、ロープを結び始めるのだが、その手つきは先程の戦闘訓練に比べて明らかに覚束ない。
「あ、あれ? おかしいな、確かこうだったはずなんだけど……」
五分経っても、十分経っても、アテネは必死にロープと格闘していた。
出来上がるのはお団子のような、どう見ても危険な結びばかり。
「違う、そこじゃない。これはここに通すんだ」
流石に見ておれず、ルカは助け船を出した。
「えっと、こう?」
アテネはルカの指示通り、ロープの先端を輪に通していく。
「うん、上手に出来ているぞ。次はそこに通して」
「よいしょっと……」
「最後に両端を絞るんだ」
「わ、わかりました」
アテネはロープをギュッと絞った。
「えっと……これでいいの?」
完成した結びを持って、不安げにルカを見るアテネ。
「よし、立派な八字結びだ」
ルカが太鼓判を押すと、アテネはパァと嬉しそうに顔を輝かせ、
「やった! ありがとう、ルカ!」
飛び跳ねる勢いで喜びを表現するのだが、はたと自分の立場を思い出したのだろう。
みるみる顔を真っ赤に染めると、
「わ、私はルカの上官で、教育係りなんですから、け……敬意を持って接するように!」
胸元で腕を組み、むくっと頬を膨らませた。
そんなアテネの様子があまりに可愛くて、ルカは思わず吹き出してしまう。
「ああっ!? わ、笑いましたね!」
「すまなかった。馬鹿にしたつもりじゃないんだ」
怒るアテネに、ルカは素直に謝罪する。
この短い間に、アテネに対する印象ががらりと変わった。
もちろん、良い方にだ。
《マーメイド》――人魚の名を冠するコロンビア海軍が誇る最強の海兵隊の名声は、奴隷であるルカの耳にも届いていた。
海賊や、海獣など、海の安全を脅かすあらゆる敵と戦う人魚達。
その強さは一騎当千と歌われ。
曰く、カリブ海を恐怖に貶めた伝説の海竜を討ち取った。
曰く、海底火山の噴火で取り残された島の住人を救うため、燃え盛る海を船で渡った。
曰く、たった一人のマーメイドが海賊の大艦隊を殲滅した。
などなど、嘘かまことか凄まじい武勇が轟いている。
ルカはその話を聞いて、マーメイドとは一体どんな猛者達かと思っていた。
なのに、その部隊に所属する士官候補生が、
「む~~ッ!」
と、目の前で頬を膨らませている少女なのだから、ルカは自分が奴隷として以下に狭い世界で生きてきたかを思い知る。
そして、世界はこれからもどんどん広がっていくのだろう。
「ありがとう、アテネ」
「え? 急になんです?」
怒ってますよと腰に両手を当て仁王立ちしていたアテネは、ルカの言葉にきょとんとした顔になる。
「ちゃんと礼を言えてなかっただろ? 暗い海の底から助けてくれて、本当にありがとう。あと、これを拾ってくれた事にも」
ルカは首に下げた黒水晶の首飾りを持ちあげ、精一杯の感謝の気持ちを伝えた。
その真っ直ぐな心が届いたのだろう。
アテネは嬉しそうに微笑む。
「海で困っている人を助けたい。それがマーメイドを目指す私の願いです。先ほどは格好悪いところを見せてしまいました。幻滅したのではありませんか?」
「そんな事はない。誰にだって得手不得手がある」
「ルカが射撃が苦手なように?」
「お、言ったな?」
「ふふ、冗談です。先ほどはロープ結びを教えてくれて、ありがとうございます」
アテネはそう言って、右手をさしだした。
それが西洋の挨拶であると知るルカは、アテネの手を取り握手を交わす。
「代わりに水兵の事をもっと色々と教えてくれ。俺は早く一人前になりたい」
「ええ、共に励みましょう」
アテネは力強く頷くと、ルカの手をギュッと握り――驚いたように目を丸くした。
「驚きました。なんてゴツゴツした手でしょう。ルカは長年船乗りとして働いてきたと聞きましたが、とても厳しい修練を積んだのですね」
「あ、いや、これは……」
手がゴツゴツしているのは『男』だからなのだが、真実を話せるわけもなく、アテネのキラキラした眼差しにルカは顔を逸らす。
「ふふ、謙遜ですか? 隠さなくてもこの手を見れば、ルカが熟練した船乗りであるのは一目瞭然です」
「まいったな……」
確かにアテネの言う通り、ルカは幼い頃から船乗りとして、奴隷仲間から厳しく育てられた。
船乗りとしての基礎的な作業は一通りマスターしているが、それは奴隷として生きていくためであり、アテネの視線は今のルカには眩しかった。
「実は私、皆には隠していました事があるんです」
「ほう?」
「誰にでも得手不得手があると言ってくれましたよね?」
「そうだな」
「ここだけの話にしてくれますか?」
「口は堅いから、安心してくれ」
「私、その……ロープ結びが苦手みたいなんです!」
「そ、そうか……」
秘密も何もないだろうとルカは思ったが、口に出すのは差し控えた。
「そこで、ルカに提案です!」
「ロープ結びを教えればいいのか?」
「いいえ、ルカには私と『勝負』して欲しいのです」
「勝負?」
「はい、勝負です。どちらが一番上手くロープ結びが出来か、勝負をしましょう」
「結果は見えているぞ」
「今はそれで構いません。勝負に勝ったものが、ロープ結びの『教育係り』です! そして私は、ルカに勝つまで勝負を挑み続けます!」
「なるほどそうくるか。なら、手加減はしないからな」
未熟な己を良しとせず、奴隷であり、見習いである相手にでも、教えを乞い、徹底的に己を鍛えようとするアテネの姿勢に、ルカは強い共感と好感を抱いた。
「望むところです!」
アテネはその青い瞳に、ルカへのライバル心を燃え上がらせる。
マーメイドの士官候補生と、奴隷の見習い水兵との、奇妙で、甘くて、おかしな関係は、この瞬間から始まる事となる。
◇
アテネとロープ結び勝負を始めてから一週間。
二人の勝負は、あらゆる仕事に及んだ。
戦闘訓練での勝負。
甲板の掃除勝負。
芋の皮剥き勝負。
帆の手入れ勝負。
などなど、数えたしたらキリがないほどで、今のところ勝負の結果は拮抗しており、アテネに諦めの文字はない。
そして、現在。
ルカはアテネと二人で、メインマストの見張り台にいた。
潮風に揺れる髪を手で押さえながら、真っすぐに海を見つめるアテネの姿は、凛々しくも可憐で、ルカの心を波立たせる。
この一週間で、アテネを見つめる時間が増えた気がする。
と、
「何か見えますか?」
アテネがそう尋ねた。
「北風が少し湿ってきてる。きっと今晩は雨だ」
眩い少女から目を逸らし、ルカは北の空を見ながら言った。
「雨……ですか? こんなに晴れているのに?」
アテネは北の空を見るため、ルカに持たれかかるように身を乗り出す。
狭い見習い台では、どうしても身体が密着する事となり、
「お、おそらくな……」
驚くほど柔らかで、ずっしりとした胸の重みを二の腕に感じながら、ルカは極力平静を装い返事を返す。
ルカを男装した女子だと信じているアテネは、当然の如く同性として接してくる。
つまり、距離感が近いのだ。
あまりに無防備なのだ。
さらにルカ自身も、同年代の異性と接した経験がないだけに、対応にぎこちなさが出るのは無理からぬ事だろう。
「どうかしたんですか、ルカ?」
様子のおかしなルカを心配したアテネが、顔を覗きこんでくる。
長いまつげが並ぶ神秘的な青い瞳は、空と海の両方を足したように綺麗に透き通っていた。
「だ、大丈夫だ。問題ない……」
「体調管理も水兵の勤め。調子が悪ければ早めに言って下さいね。ルカの『教育係り』は私なんですから」
えっへんと胸を張るアテネ。
重そうな胸がゆさんと揺れる。
「確かに射撃に関しては、アテネが教育係りだな」
気恥ずかしさから、ルカは少し意地悪な言い方をしてしまう。
「あ、いいましたね! なら、今から見張り勝負をしましょう! 先に海賊船を見つけたものが勝ちです!」
案の定、アテネは「むぅ」とほっぺを脹らませて勝負を挑んできた。
ルカは内心、ほっと息を吐く。
熱くなりやすい性格なのだろう。
いざ勝負となるとアテネは真剣で、一切手を抜かない。
今も早速、見張り台から身を乗り出す勢いで海を見据えている。
どうしてアテネをこうも意識してしまうのか、ルカ自身見当もつかない。
だが、ルカもまた、勝負となればアテネの性別や容姿などを気にせず仕事に打ち込むことが出来た。
ルカとアテネの二人は、それぞれ一言も喋らず見張りを続け――
カーン、カーン、カーン、と船の時刻を知らせる点鐘が鳴り響いた。
見張り交代の時間となったが結局、異常はなく。
「異常なし!(オールズ・ウェル・サー)」
ルカとアテネは見張り台から甲板に向け声を張り上げた。
「了解!」から「はーい!」など、甲板のの各部署から声が返ってくる。
見張りの任務が終われば、夕食の手伝いが待っている。
「う~、引き分けですか。消化不良です」
と、アテネは不満げに唇を尖らせる。
「異常がないにこした事はないだろ」
「確かにそうですが……。あ、良いことを思い付きました! ルカ、調理場まで競争しませんか?」
最強の海兵隊の一員だけあって、アテネの身体能力はずば抜けていた。
つまり、単純な早さ比べでは、アテネに分がある。
だが、
「勝者におかず一品」
不利とわかっていても、ルカは引かない。
何故なら、目の前の少女が決してそうしないからだ。
アテネは苦手な分野で負けるとわかっていても、正々堂々と挑んでくる。
ならば、こちらもそうでなければ、対等のライバルとはいえないだろう。
「ええ、望むところです。手加減はしませんよ、ルカ!」
「上等」
ルカはそう言って、チラリと梯子に目を向ける。
「ふふ、甘いですよ! 道はそこだけではありません!」
闘争心を燃やすアテネは、なんと見張り台の上からロープも無しに甲板に飛び降りたではないか。四〇メートルもの高さからの自由落下。ただで済むはずがない。
「――――アテネ!?」
ルカは慌てて身を乗り出すが、
「聖霊よ」
アテネは腰のガンホルスターから、《双銃グラウクス》を引き抜き甲板に向け発砲。
発射された水弾は甲板で弾け、大きな水球へと変わった。
アテネは柔らかな水球のクッションへお尻から着地。ぽよん、と音をたて飛び跳ねたのち、空中で三回転捻りを披露しながら華麗に着地を決めた。
突然降ってきたアテネに、甲板で作業していた水兵達が唖然とする中、
「どうです、ルカ! これで私の勝利は揺るぎません!」
見張り台にいるルカに向け、Vサインの勝利宣言をした。
と、その時。
「――――アテネ士官候補生ッ!!」
意気揚々と走り出すアテネに、文字通り雷が降り注いだ。
鋭い怒声を放つのは、紫の髪をアップで纏める、鋭い目付きの女性で、この艦の副長を務めるテミス一等海尉であった。
「ひゃあ!? て、テミス副長!?」
「アテネ貴様、一体幾つの安全基準を違反したと思っている!!」
「も、申し訳ありません!」
こんこんと叱られしょんぼりするアテネ。
「アテネ!!」
動索のロープを使って見張り台から降りたルカは、アテネを心配して側に走り寄るが、
「ルカと言ったか、貴様も油を売っている暇があったら、さっさと見習いの仕事に戻れ!」
テミスはルカを一瞥すると、有無を言わせぬ口調で一喝した。
ルカはなおも言いつのろうとしたが、叱られた犬のように眉を下げるアテネが首を左右にふった。
軍隊では、上官に逆らう事は許されないのだ。
ここでルカが食い下がれば、教育係りであるアテネに迷惑をかけてしまう。
「行って下さい、ルカ……」
「…………わかった」
しばらく躊躇ったあと、ルカはギュッと拳を握りしめ、アテネの横を通りすぎて行くのであった。
◇
「うう、今まで絞られちゃいました……」
ぐったりした表情のアテネが戻ってきたのは、日が暮れて、夕食が始まったころだ。
水兵の食事は、咄嗟の戦闘にも対応出来るよう砲列甲板で行われる。
甲板には幾つか種類があり、一番上の甲板を上甲板。
その下の甲板を第二甲板、もしくは砲列甲板といい、多くの大砲が並べられている。
砲列甲板の端で、大砲にもたれるように座るルカは、
「お疲れ。大丈夫だったか?」
「大丈夫じゃありません。お腹がペコペコです!」
「アテネの食事も貰ってあるから、一緒に食べよう」
ルカはアテネを労うように、肉団子がたっぷり入った美味しそうなシチューを差し出す。
本来、士官候補生であるアテネは、第三甲板にある士官用のサロンで、水兵よりも豪華な食事を取れるのだが、教育係りとなった彼女は、この一週間必ず三食ルカと一緒に食事をする。
同じ釜の飯を食べ、食事を共にすることで親睦を深めるというのは、奴隷の頃から経験してきた事だ。
一体感や連帯感は、一朝一夕に築く事は出来ない。
逆に言えば、途中から乗船してきた新参者のルカは、どうしても既存のコミュニティから浮いてしまう。この船は仲良しを作るための場所ではなく、命がけで海の脅威と戦う軍艦なのだ。
現に先ほどから、チラチラとこちらを遠巻きに伺う視線を感じていた。
「わぁ、美味しそう!」
湯気の上がるシチューを見て、アテネは瞳をキラキラと輝かせる。
アテネはお姫様のように麗しい見た目によらず、とても『食いしん坊』なのだ。
ルカは奴隷である自分に分け隔てなく接し、こうして食事を共にするアテネに密かな感謝を抱いていた。アテネのシチューの方が肉団子が多いのは、ルカなりの感謝のあらわれである。
ところが、
「いえ、やっぱりこれはルカが食べて下さい。勝負は勝負です」
アテネはそう言いながら、泣き出しそうな顔でシチューを諦めようとする。
その表情があまりに深刻で、あまりに可愛くて、ルカは苦笑しながらアテネのシチューにスプーンを伸ばす。
「ああッ!?」
と、アテネが悲痛な声を上げるが、
「うん、美味い」
ルカは肉団子を一つだけすくって口へ運び、残りはアテネに返す。
「え?」
「おかず一品って約束だろ。ほら、冷めないうちに食べよう」
肉団子一つで許したルカに、アテネは感激した様子で涙ぐむ。
「隣、いい?」
「もちろん」
ルカは黙々と食事を続け、アテネはその横でゆっくりと食べ始めた。
「ん~♪ 美味しいですね、ルカ!」
「ああ、美味しいな」
アテネと一緒に食べるだけで、食事の味は何倍にも美味しく感じられる。
もう、周囲の目は気にならなかった。