プロローグ 若獅子の誓い
お待たせしました。
本編再開です。
どうぞお付き合いください。
それは懐かしくも、ほろ苦い――父に叱られた思い出の記憶。
最低限の茶道具が置かれた四畳半の茶室は、とても簡素で、湯の沸く音が静かに響く。
普段は入る事を許されないその場所で、居心地悪げに正座する幼い少年の前には、鷹のように鋭い目を持つ男が座禅を組んでいた。
男は柄杓で、茶釜に水を足すと、
「――――琉風よ。術の修行はつまらぬか?」
と、こちらを見ずにそう言った。
「…………そんな事は、ありません」
下を向き、琉風と呼ばれた幼い少年は答える。
「ここには私とそなたしかおらぬ。正直にもうせ」
「僕には『術理』の才はありません。何度やっても……何をやっても、お爺様のように上手くいかないのです」
「だから修行を投げ出し、蘭学小屋へ行ったのか?」
柄杓を置いた父は、身体ごとこちらへ向きなおる。
「…………はい」
父に叱られると、琉風は身を硬くし目をギュッと閉じた。
だが、
「西洋の学問は楽しいか?」
その声はあまりに優しくて、琉風はパッと顔を輝かせて、
「楽しいです!」
と、答えてから、厳格な父の顔に慌ててうつむいた。
「琉風よ。そなたが世間では何と呼ばれているか知っておるか?」
「いいえ……」
きっと良い評判ではないだろうと、琉風は小さい身体をさらに小さくした。
「そなたはな、橘の『麒麟児』と呼ばれておるのだ」
「麒麟児?」
「天賦の才を持つという意味だ」
「僕が!?」
予想外の父の言葉に、ルカは驚きに顔を上げた。
「そなたにその自覚はないやもしれぬ。だが、我が父――橘道雪が、才なき者に橘の『秘奥』を伝授するはずがなかろう?」
「で、ですが、僕はもう七つです。兄様達は七つには槍を振るっていたと聞きます。でも、僕はまだ……刀を握る事すら許されていません」
少女のように細い手足の琉風は、背が高く逞しい兄達に強い憧れを抱いていた。
「兄達にそなたほどの才はない。一つを極めなければ生き残れぬのだ」
「あ、兄様は強いです!」
「当然だ。あれは橘の次代を担う男達ぞ。強いに決まっておろう」
「はい!」
力強い父の言葉に、ルカは嬉しそうに返事をした。
「私はな琉風よ。そなたは橘の家には納まらぬ器と思うておる。いずれは広い世界に羽ばたくであろうとな」
「――――世界に?」
「だからこそ、そなたには出来る限りをしてやりたいのだ。後悔せぬようにな」
「とと様……」
「一つ昔話をしよう。私の若かりし頃の話だ」
父はそう言うと、茶室の連子窓から外を見やる。
今まで見た事のないほど悲しげな表情で。
「私と、そなたらの母とは俗にいう許嫁でな。千郷の家は神代から続く剣巫の大家で、あしきを祓う聖なる一族であった。鬼狩りの橘とは古くからの付き合いで、歳も近い私達は二人で修行し、知らぬ間に惹かれ会うようになっておった」
初めて聞く父の過去に、琉風は静かに耳を傾ける。
「あれは――――私が十五になった夏の日だ。千郷と二人であやかし退治をしていた私達の前に、陰陽師の少女が挑んできたのだ。少女は、私が斬ろうとしていたあやかしを守ろうとしておった」
「あやかしを守る?」
「そうだ。あやかしにも心があるという不思議な少女でな。あやかしに魅入られておるのかと思うたが、曇りなき澄んだ眼をしておった」
「どのような人だったのですか?」
「そなたらの母は、清楚でありながらも強く美しい女性だ。逆にあやつは……男勝りで勝ち気であった。この私を投げ飛ばしたのは、後にも先にもあやつだけであろう」
そう言って、父、宗重は苦笑した。
七つの琉風に大人の恋が理解出来るはずもないが、それでも父にとってその女性が、母と同じくらいに大切な人なのだというのはわかった。
「その方はいま?」
「生きてこの世にはおらぬ。この私が、首を斬り落とした故に、な……」
父はこちらを真っすぐに見つめ、そう言い放つ。
「!!」
琉風は驚愕に声を失った。
「覚えておくのだ琉風よ。人は愛を知る事で無限に強くなれる。だが、愛を知るからこそ――どこまでも深い闇に堕ちてしまうのだ」
「と、とと様……」
「私は失敗した。愛ゆえに業を背負うあの者を、止めることも、救うことも、共に死ぬことも出来なかった卑怯者よ。この身はいずれ……相応の酬いを受けるであろう」
父はそこで言葉を切ると、こちらの頭に手を乗せ。
「強くなるのだ、琉風。何者にも屈せぬほど強くなれ。そして、真に愛する者と出逢ったなら決して手離してはならん」
「ですが、とと様」
「なんでも申してみよ」
「あ、愛する者がとと様のように二人になった時は、どうすればいいのでしょう?」
「迷うことなどない。選ぶ必要などないのだ。そなたが愛する者を全て愛せばよい。何人でも、何十人でもな」
「そ、それはあまりに不埒では……」
厳格な父の言葉とは思えない台詞に、琉風は目を白黒とさせた。
「ははははははッ! そう。不埒だ。大和男児の風上にもおけぬ不埒者よ。だが、私に不埒者の汚名を被る勇気があれば、あの者を夜叉に落とさずにすんだであろう。千郷を今も苦しめる事もなかったであろう。全ては……我が身の不徳よな」
「とと様。僕は決めました!」
琉風は胸に手を当て、すくっと立ち上がる。
「なんだね。橘の若獅子よ」
「――――僕は、日ノ本一の不埒者になります!」
「よくぞ言い切った。ならば、強くならねばな!」
「はい!」
それはまだ、ルカが己の運命も、己の身に課せられた試練も知らぬ頃の優しい記憶。
覚えているのは父の笑顔と、淹れられた茶の苦さ。
そして、日ノ本一の不埒者になると誓った、父との約束であった。
エピローグまで毎日更新の…予定。




