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食事の準備が整ったとの迎えが来たが、テュッティは体調が優れないとベッドで横になり、ルカはアテネと二人で食堂に案内された。
先を行くのは、何度か刃を交えた事のあるオーガと呼ばれる巨漢の女戦士だ。
初めて部屋の外に出たルカは、絢爛な部屋と同じように、この建物がまるで城のように、とても大きな屋敷である事を知る。
明るい日差しが入り込む窓から見えるのは、雲一つない青空と、穏やかな海と、見渡す限りのサトウキビ畑だ。
畑では、沢山の女性達が汗を垂らして働いている。
注目すべきは、彼女達の人種の多様性だ。
ルカが働いていた奴隷商船と同じように、様々な国の、様々な民族の女達が働いていた。
だが、奴隷商船と異なるのは、女達の誰もが、輝くような表情で楽しげに働いている事だろう。
さらに、女達の近くでは、まだ幼い子供達が元気に遊び回っていた。
「明るく元気な村だな」
ルカは感心したように呟く。
サトウキビは、ラム酒に欠かせない材料だ。
そして、ラム酒は船乗りにとって、なくてはならないものだ。
これだけ大きなサトウキビ畑を持つ村なら、生活に困窮する事はないだろう。
「ここは……ハイランド王国の北部にあるモンテゴ・ベイという港町から、東に向かった場所にある『ローズホール』と呼ばれる村だそうです」
窓から見える景色に視線を注いでいたルカに、アテネが言った。
「アテネには随分と心配をかけてしまったな。すまないと思っている」
「いいえ、ルカが目覚めて本当に良かったです」
微笑むアテネの表情には、小さな痛みが隠されていた。
「大丈夫か、アテネ?」
「私は大丈夫です。大丈夫……です」
元気のないアテネに、ルカは続けて声をかけようとしたが、
「着いたよ、お客人」
オーガは食堂に続く大きな扉を開けて、こちらを振り向いた。
「ありがとう」
ルカが礼を告げると、オーガは顔をしかめて頭をかく。
「《冥府の魔物》あんたに礼を言われると、肝が冷えるね」
「オルキヌス……確か、鯱という意味か」
鯱とは、海洋における最強の生物だ。
凶悪で獰猛で知られる鮫などよりも遥かに強く、群れで海獣をも喰い殺すのに、人懐っこい性格をしているため、とある海洋国家では守護神として崇められているほどである。
「海の悪魔を討ち取ったあんたは、今や《冥府の魔物》と呼ばれ畏れられているのさ」
「大仰な名だ」
一体どれだけ二つ名を増やせば気がすむのだろう。
「ま、ゆっくり食べな。食べ終わった頃にまた来るよ」
オーガそう言って去っていく。
広い食堂では三人の給仕がおり、深々とお辞儀されたのち、ルカとアテネは席に案内された。
出されたのは、カリブの薬膳料理だ。
長時間煮込んだ牛テールのシチューに、海老のフリッターに、ハーブ風味のトマトミルクスープ。
飲み物は、トロピカルドリンクや、ジャマイカコーヒーなどがあった。
どれも胃に優しく消化のよい料理ばかりだが、いつもは見ているこちらが幸せを感じるほど、美味しそうに食べるアテネの食が、全然進んでいなかった。
「どうしたんだ、アテネ?」
「ごめんなさい。あまり食欲がないようです」
結局、アテネは半分ほど残して、食事を終えた。
と、
「食事は済んだようだね」
丁度いいタイミングで、オーガがやって来た。
「ああ、うまかったよ」
「料理長に伝えておくよ。お嬢からあんた達を風呂に案内するよう仰せつかっている。今からで構わないかい?」
「俺は構わない。アテネはどうだ?」
「私も行きます。案内してください」
アテネはそう言って、立ち上がった。
食堂から出るところで、シルフィと呼ばれる長身細身の女戦士と出くわした。
彼女は、空の器が乗ったトレーを手に持っていた。おそらく、テュッティの元へ食事を運んでいたのだろう。
シルフィはルカの顔を見て驚いた表情をしたあと、その顔に怒気を孕ませ、
「ティファニア様を救ってくれた事には感謝している。だが、お前の存在は我が主の心を惑わせる。おかしな真似をすれば、例え恩人でも容赦はしな――」
人を威圧するような口調でまくしたようとして、その頭にオーガからの拳骨を落とされた。
「い、痛ッ!? なにをするオーガ!!」
「それはこっちの台詞だよ。お嬢から客人には手出しするなと厳命されているだろう」
「だが、ティファニア様がお心を荒ぶらせたのも、元を正せばこやつが原因ではないか! このまま好きにさせておけば、再びティファニア様のお心に暗い影を落とす事になるやもしれぬのだぞ!」
「わかってないねぇ」
「何がだ!」
「気付かないのかい? お嬢が、まるで生まれ変わったように穏やかな顔をするようになったのを」
「そ、それは……」
「お嬢の中でずっと燃え盛っていた炎が、自分自身をも焼き尽くしてしまう狂気の焔が、綺麗さっぱりと消えちまったんだよ。なのに、お嬢は以前より一回りも二回りも強くなった。女としても、戦士としてもね。それが一体誰のおかげか理解出来ないようじゃ、側回り失格だよ」
「くっ…………!」
シルフィは悔しげにルカを睨みつけると、トレーを持ったまま食堂とは反対の方向へ足早に去っていく。
「ったく、空の器持って何処へ行くんだが。許してやってくれ、お客人。あいつは腕はピカイチだが、女としてはまだまだ未熟なんだ」
オーガは大きなの身体を折って頭を下げる。
「なにも気にしてないから頭を上げてくれ。彼女は彼女なりに主を案じているのだろう」
「そう言ってくれると助かるよ。ここにいてる間は一切不自由はさせない。欲しいものがあるなら何でもいいな」
「十分して貰っている。しかし、本当に風呂を貸してもらえるのか?」
大量のお湯を沸かせなければならない風呂は、非常に贅沢なものだ。
武士の家に生まれたルカは、庶民よりも豊かな暮らしをしていたが、風呂といえば基本は水風呂で、湯を沸かして風呂にはいるのは週に一度あるかないかの贅沢であった。
「近くに温泉が湧いていてね。この屋敷まで湯を引いているのさ」
「それはありがたい」
湯につかれるのは個人的にも嬉しいが、アテネがは特に喜ぶだろうとルカは期待した。
こうしてルカとアテネは、屋敷の一階にある湯場に案内された。
「さ、ここだよ。湯女もいるから垢擦りでもして貰い――」
オーガの台詞が途中で止まる。
何故なら、湯場の扉の向こうからは、女達の楽しげな笑い声が響いて来たからだ。
「誰か入っているなら、俺達は後で構わないぞ」
と、ルカは言う。
「お客人に入って貰うために用意させたんだ。先に入る馬鹿者なんていやしないよ。ただ……ちょいと待っておくれ」
こめかみをヒクヒクさせながら、オーガは湯場の扉を叩くように開いた。
中では、召使の服を着た女達の他に、先ほど畑で見た農婦が一緒になって談笑していた。
彼女達の手には木で削った盃があり、ほんのりとラム酒の香りが漂う。
「こら、お前達! またさぼってるね!!」
オーガの怒声が響き渡る。
「きゃあ!? お、オーガ姉様よ!?」「お尻叩かれちゃう逃げないと!」「待って、おいてかないで!!」
女達は窓から蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「全くあの子達は、ほんとしょうがないねぇ。湯女まで逃げたら誰がお客人の世話をするんだい……」
オーガは嘆息するが、ルカはそれ以上に気になる事があった。
彼女達の手足や首に刻まれていた、腕輪や首輪の痕である。
「彼女らは……奴隷なのか?」
「さずがに目ざといねぇ。でも、正確には元奴隷さ」
「……なるほど、そういう事か」
元奴隷という言葉と、先ほど見たサトウキビ畑と、テュッティが背負う女達の命――それらのピースがルカの中でカチリと一つにはまった。
「この屋敷の者だけじゃない。あたしらのアジトにいる女達はみな元奴隷か、陸に居場所のない弱い女達さ。お嬢はそういった女達を見つけては、私財を払って買い取り、奴隷身分から解放してやってるんだ」
オーガの声には、主に対する誇らしさが籠められていた。
だが、
「ですが、その金は、海賊行為で得たものでしょう!」
当然、多くの仲間を殺されたアテネにとって、黒髭海賊団の行いは許せるものではなかった。
「おためごかしを言うつもりはないよ。あたいらは悪党さ。奴隷となった女達を救うために、同じ海の女を殺す極悪人の一味さ。でもね、綺麗事じゃ腹は膨れないんだよ。幸い金に色はついてないからねぇ。黒髪のお客人……あんたも奴隷ならわかるだろう?」
「理解は出来る。だが、肯定は出来ない。だからこそあんたのボスは、先代の黒髪ことエドワード・ティーチは、このハイランドで国取りを始めたんじゃないのか?」
「驚いたね。今のやりとりでそこまで推察したのかい……?」
「言っただろう。理解は出来ると。あのサトウキビ畑は、誰かから奪わずに生きていけるようにするためのものなのだろう」
「はははっ! こいつは役者が違うようだねぇ。お嬢が惚れ込むわけだ。なら……あたいの正体も明かしておくよ」
オーガはそう言って、ルカの瞳をじっと覗き込む。
身長二メートルを超えるオーガを真っすぐに見つめ返すルカは、その茶色の瞳の奥に隠されたものを見抜いた。
「驚いたな。最初にあった時から鬼の気配を感じていたが、あんた……『生成り』だったのか?」
生成りとは、鬼に孕まされた女が産んだ子の中でも、極めて珍しい鬼の女児を指す言葉だ。
頭には鬼を示す小さな角が生えており、これが成長して魔性が熟すと『般若』と呼ばれる強大な鬼になると云われていた。
「心配しなくても、角は幼い頃に自分で折ってやったさ」
「……先の、シルフィと呼ばれている女戦士もそうなのか?」
彼女からは、微かに獣の気配を感じた。
「そうだよ。あの子は、赤子の頃に獣の魂に憑かれて親に捨てられちまった獣憑きさ。あたいらのような存在は人とは思われていないからね。奴隷よりも一等酷い扱いを受ける。何処に行っても疎まれ、蔑まされ、殺されるか慰みものにされる運命だった。けど、ここだけは違った。ここでは誰もが平等で自由に生きられるんだ」
オーガの声には外の世界に対する深い諦めと、この場所に対する強い思い入れが籠められていた。「それでも……あなた達が海賊である限り、この地に真の平和が訪れることはありません。ブリテン王国も、イスパニア帝国も、セイントアーク王国も、そして、我々コロンビアも、あなた達を赦しはしません。地の果てまで、海の果てまで追いかけ、罪を贖わせるでしょう!」
奪われた者、殺され者、そして、残された者の怨みは深い。
悪事を元に行われた正義は、どれだけ正当性を主張しても罪は罪なのだ。
大和の国でも『鼠小僧』と呼ばれる賊がおり、あくどい金持ちから金を奪っては貧しい者に配っていた義賊がいたが、彼の最後は――妻も子供も一緒に煮えだった釜で茹でられるという凄惨なものであった。
「覚悟のうえさ!」
と、オーガは吠えるが、
「その覚悟を、この村の女性達にも強いるつもりですか?」
鋭く斬り込むようなアテネの言葉に、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「……痛いところを突いてくるねぇ。なら、あたいらは何処で生きていけばいいんだい?」
「それは……」
「ま、議論はこれくらいにしようや、お客人。今はあんたらと敵対する気はないんだ」
オーガはそう言って、背を向け去ってった。
その姿が廊下の向こうに消えるのを見届けてから、風呂場に向かう。
アテネは後ろから着いて来た。
風呂場の構造は、最初の部屋である脱衣場と、湯がある浴場となっている。
脱衣場に入り二人きりになったルカは、アテネへと振り返る。
「らしくないぞ、アテネ」
「……わかっています。ここは敵地で、発言にはもっと気を払うべきでした」
「そういう事をいってるんじゃない」
「なら、どうだというのです? はっきりと言葉にしてくれないとわかりません!」
「俺に苛立ちを覚えているなら、俺にぶつけろ。他の誰かを捌け口にするな」
ルカは冷静に、優しく言った。
アテネは恥じ入るように顔をそむける。
「ルカに、苛立っている訳ではありません……」
「本当か?」
「苛立っているのは、不甲斐ない自分自身に対してです。勇気を出せない弱い心に対してです。あと、緊張していたのも大きいでしょう。彼女には……悪い事をしました」
「緊張?」
「ルカがこの場所に一緒に入ってくれるかどうか。それだが気掛かりでした。勇気のない私は……直接お願いする事なんて出来なかったでしょうから。でも――運は私に味方しました」
アテネは後ろ手に、脱衣場の扉に鍵をかけた。
カチリという音が響き渡る。
「私は……いつも見えない格子があるように、誰と接するときでも距離を置いてしまうのです。ルカと出会うまでは、他の士官候補生の子達とだってほとんど話す事はありませんでした。お母様と再会しても甘え方すら忘れてしまったんです。クロエの事だってそう。彼女を友達だと思っているのに、悩みを抱えている事もわかっていたのに、相手の領域に踏み込む事を恐れて何も出来ずにいた。いいえ、何もしてこなかったんです」
幼少期から牢獄に囚われていたアテネは、多くの人と接する機会を得られず、誰もが子供の頃に当たり前のように身に着ける『能力』を習得出来なかった。
それは、人との『適切』な距離を知る能力である。
例えば、無人島での暮らしの時、テュッティがアテネを散々からかって何度も怒らせた事があった。
あれはワザとぶつかり合う事で、互いが傷付け合わない絶妙な距離を、テュッティが見出していたのだ。
「自分を悪く捉えすぎだ、アテネ。奴隷だった俺がステラ・マリス号で働き出した時、常に疎外感と、孤独感を覚えていた。仲間を失ったばかりの俺は、誰かと深い関係を築く事から逃げ……孤立していた。そんな俺の側にずっと居てくれたアテネの存在に、どれだけ救われたか。毎日行われたアテネとの勝負がどれだけ待ち遠しかったか」
アテネと出会ったばかりの頃。
ことあるごとに勝負を挑まれたのを思い出す。
「……勝つか、負けるか。ルカと出会う前の私にはそれしかなかった。でも、ルカだけは違いました。初めてだったんです。勝っても負けても心地よいと感じたのは。だから、ルカには何度も些細なことを見つけては勝負を挑みました。教育係りという立場は私にとって格好の口実だった。ルカと競い合い、切磋琢磨している内に、知らない間に側に居るのが当たり前になっていて、気が付けば……誰よりも好きになっていた。ルカが女性とわかっていても、気持ちを抑えられないほど。なのに――」
アテネはそこで言葉を切ると、顔を悲しそうに歪めた。
「ルカが何か大きな秘密を抱えていると知っても、私はそれを知りたいとは思いませんでした。むしろ怖かったんです。秘密を知ればルカが離れていってしまうんじゃないかと。だから、ルカから打ち明けてくれる日を待とうと、いつか話してくれるだろうと。ここでも私は……自分から一歩を踏み出す事が出来なかった。ただ受け身になって時の流れに任せる事しか出来なかった」
「………アテネ」
「私は、こんな臆病な自分が大っ嫌いです。でも、今なら――臆病な私でも勇気を振り絞る事が出来ます。ルカは『ここ』にいて、他には『誰』もいませんから」
アテネはそこで言葉を切ると、海兵の制服であるミニ丈のプリーツスカートのホックを外す。
そして、
「私を、私を……見て下さい……」
手を離すと、スカートは重力に従いストンと床に滑り落ちる。
露になるのはしなやかで美しい芸術的なラインを描く脚線美に、その付け根を覆うパープルピンクの魅惑的な下着が目に飛び込んでくる。
ルカはアテネの行動に驚きつつも、決して目を逸らさずに真っ直ぐ見つめる。
今、目を逸らせば、アテネの心をさらに傷付けてしまうとわかった。
アテネは頬を真っ赤に染めたまま、スカーフを解くと、ゆっくりとセーラー服を脱ぎ、最後に背中へ手を回してブラジャーのホックを外した。
たゆんと、大きな二つの果実がまろびでる。
腰は両手で掴めそうに細いのに、胸は両手で掴みきれないほど大きい。
だが、ただ大きいだけではなく、形といい、張といい、溢れんばかりの母性の象徴が、芸術的な美しさでもって、少女の魅力にこれ以上ないほどの華を添えていた。
「――――綺麗だ」
ルカの言葉に、アテネは心底嬉しそうに頬を染めてはにかむ。
「私……怖かったんです。クラーケンを倒して、なのにルカは目覚めなくて。ルカを失うかと思ったら、目の前が真っ暗になって食事も喉を通りませんでした。なのに私は暢気に寝てしまった。ルカの目覚めに立ち会う事も出来なかった。ルカを一番大切に思っているはずなのに、意識の戻らないルカの隣で眠りこけてしまったんです!」
「二日も寝ずの看病をしてくれたのだろう? ふとした気の緩みに眠りに落ちてしまうのは、当然の事だ。感謝こそすれ悪く思うはずがないだろう!?」
「私の事を、嫌いになったのではありませんか?」
「例え、天地がひっくり返ろうとも、アテネへの想いが揺らぐ事はない!」
「それならどうして、どうして……私を選んでくれなかったのですか?」
アテネは今にも泣きそうな表情で、青い瞳を不安に陰らせた。
「……聞いていたのか」
「ルカの声をはっきりと聞き取る事は、出来ませんでした。でも、ルカが……私には教えてくれない秘密を……テュッティにだけ打ち明けた事は……わかり、ました……」
想いが決壊するように、アテネの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「なんで、なんでこんなに……胸が痛くなるのでしょう? ルカが大好きなのに、ルカを想うだけで胸が苦しくて、辛くて、息が……詰まるんです」
苦しみに喘ぐように、アテネは胸を押さえる。
リスクを背負う――その意味を、ルカは痛感していた。
ルカは、テュッティに海賊を辞めるよう頼んだ。
それはアテネのためであり、テュッティのためであり、ルカの願いでもあった。
願い成就のためなら、ルカはどんなリスクでも背負う覚悟があった。
だが、よかれと思い、それが最善だと選んだ選択肢が、常に最良の結果を生むとは限らない。
将来に置ける最善の選択は、今この時に置いて、一人の少女の心を酷く傷付けてしまっていた。
「ここが……俺の分水嶺か」
選ばなければならない。
メルティナ艦長との誓いを守り秘密を隠し通すか。それとも、真実を話して誓いを反古にするかを。
これもまた、最善か最良かの選択であった。
アテネは聡明な少女だ。
今は感情的になっていても、気持ちが落ち着けば、ルカの真意に気が付いてくれるに違いない。
ここで真実を伝えなくても、二人の関係は壊れる事はないだろう。
だが、
「――――俺を見ろ、アテネ」
ルカは常に最善の、最良の選択を選んできた訳ではない。
家族を救うため奴隷となると決めたときも。
奴隷仲間を守るためたった一人で海賊と戦ったときも。
ステラ・マリス号で働くと決めたときも。
クラーケンに挑んだときも。
テュッティに海賊を辞めるように頼んだときも。
そして、今も――
ルカは常に、己が魂に恥ない生き方をして来ただけである。
「…………ルカ?」
アテネの視線を真っ向から受け止めながら、ルカはベルトの金具を外し、刀を壁に立て掛ける。
「真実を伝えるのは簡単だ。だが、それでは駄目だ。答えは与えられるのではなく、自分で見つけるものだ」
ルカはそう言って、上着を脱ぎ捨てる。
鍛え上げられた逆三角形の肉体が、少女の眼前につまびらかに晒された。
「!?」
アテネは口元を両手で覆い、目を丸くしてルカの上半身を見つめる。
「どうだ?」
「綺麗、です」
頬を染めながら、その瞳から熱い涙をあふれさせた。
ルカは歩み寄ると、アテネの手を掴む。
ビクッと少女の身体が震えるが、ルカは構わず、アテネの綺麗で華奢な手を自分の胸板に触れさせた。
「何を感じる?」
「ルカの……胸の鼓動です」
涙が止まり、アテネは陶然とした様子でルカ胸に手を添える。
ルカはアテネの好きにさせた。
最初はおっかなびっくり触っていたアテネだが、徐々にあちらこちらに手を伸ばしていく。
首を触り、鎖骨を撫で、再び胸に戻ってくる。
「か、硬いです。カチカチです」
胸板をツンツンしながら、アテネは呟いた。
好奇心の強い少女は、すっかり瞳に輝きを取り戻していた。
だが、その輝きには好奇心だけではなく、未成熟ながらも確かに女としての悦びがあった。
「ふわぁ、お、お腹もカチカチです……」
アテネは割れた腹筋に指を這わせ、感心したように呟く。
放っておけばいつまでもそうしていそうな少女に、ルカは優しく微笑むと、
「答えは見つかったか?」
と、尋ねる。
二の腕を触っていたアテネは、「ひゃあ」と小さな悲鳴を上げて、慌てて手を引っ込める。
「ご、ごめんなさい、ぼんやりしてました!」
「答えは見つかったか?」
ルカはもう一度、尋ねた。
その問いに、アテネはしばらく黙り込んで考えると――
「る、ルカは……ルカは、お、女の子ではありませんでした」
計算してみた結果、想定していたのと全く事なる数字が出てしまったという表情で、アテネはルカを見上げる。
「そうか」
「もしかして、その……あり得ない妄想かもしれませんが、ルカは……お、男の子なのですか?」
今さら恥ずかしくなってきたのか、アテネは両手で胸を隠す。
「答えは自分でと、言っただろう?」
「難題です。身体の構造は本で読んだ男性のそれですが、男性が海に出れないのはこれまでの歴史が証明しています。なら、ルカは一体――くちゅん!」
アテネがくしゃみをした。
長いあいだ肌を晒し身体が冷えたのかもしれない。
「先に、風呂へ入ろう」
「え!?」
「慌てて答えを出す必要はない。俺はもう、何も隠しはしない」
ルカはそう言って、ベルトを外すとズボンも下着も一緒に一気に『男脱ぎ』する。
アテネは何気なく視線を下げ、ルカの下半身を見た。
次の瞬間。
「――――――――ッ!?」
血が沸騰したかのように全身を真っ赤に染め、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
「う、ウルバンの巨砲……ッ」
アテネは畏怖と驚愕、そして、僅かな甘さを含んだ声で呟く。
ウルバンの巨砲とは、今より三百年以上も昔にオスマン帝国が作り出した、史上最大の大砲だ。
「愛する女に触られたら、こうもなるさ」
最早、隠すものは存在しないルカは、身体の一部に視線が突き刺さるのを感じながら、雄々しく、男らしく、見せつけるかのように仁王立ちする。
そして、
「先に入っている。風邪を引かないうちに早く来るんだぞ」
完全に固まってしまったアテネに背を向け、ルカは浴室へ向かう。
◇
脱衣場の扉を開けた先に広がるのは、海を一望出来る露天風呂であった。
岩で組まれたひょうたん型の風呂には、乳白色の湯が揺蕩う。
外からの視線を遮るために背の高い木柵に囲まれ、海側だけの景色だけが開かれている。
洗い場で座椅子に座るルカは、景色を見ながらアテネを待つ。
十分ほど経ってから、アテネは来た。
タオルで身体を隠しながら、ルカの後ろまでやってくると、
「背中を流させて下さい」
と、言って、その場に両膝をついた。
「頼む」
ルカは振り返らずに言った。
アテネは、海綿と呼ばれる天然のスポンジをクルム油の石鹸で泡立てる。
真っ白な泡をたっぷり作り出すと、ルカの背中を優しく擦り始めた。
「私が見出だした答えを、聞いて貰えますか?」
「ああ」
「ルカは……男の人です」
アテネは静かに、だが、確信を籠めて言った。
ルカは黙したまま、その言葉に耳を傾ける。
「ですが、男性が海に出る事を女神アンフィトリテ様はお許しになりません。それはこれまでの歴史が証明しています。だから、私は……ルカは、女神様が遣わした『御使い』ではないかという仮説を立てました」
「それがアテネの答えなんだな」
「いいえ、これはあくまで仮設です。証明には長い時間が必要でしょう。ですから、どうしてルカが海に出れるかの答えは今は棚上げにして、私が見出した『事実』だけを言います」
アテネはそこで言葉を切ると、頬を赤く染め、ルカの背中に手を当てる。
そして、
「ルカは――遠い異国からやって来た、強くて、優しくて、何度も私を救ってくれた光の王子様のように素敵な……男の人です。これが私の答えです」
と、愛を告白するように囁いた。
「俺は……いつまで海にいれるかわからない。それでもいいのか?」
ルカは背中越しに尋ねる。
「例えそうなったとしても、私の想いは変わりません」
「黙っていた事を許してくれるか?」
「許すも許さないもありません。最初から、ルカはルカだったというだけですもの」
「女ではない俺を、嫌いになったのではないか?」
「いいえ、今までよりずっとずっと好きになってしまいました」
「胸のイライラは収まったか?」
今度はルカが問い、アテネが答える。
積み重ねていく言葉が、心の扉を開く鍵であるかのように。
「今は胸がドキドキして、どうにかなってしまいそうです……」
アテネは熱い吐息を吐いて、胸を押さえた。
奇跡から始まった二人の関係は、今この瞬間から新たなステージへと移っていく。
「……続きしますね」
「頼む」
アテネはルカの背中を、スポンジで擦り始める。
優しい撫でるような洗い方は女性ならではの動きで、少しこそばゆいが心地よかった。
ルカは目を閉じ身を任せていると、
「こうやって、ルカの背中を流したいとずっと思っていたんです。夢が一つかなってしまいました」
アテネが嬉しそうに言う。
「今まですまなかった」
「謝らないで下さい。ルカの秘密を思えば当然の事です。それに、これからは毎日背中を流せるのですから何も問題はありません」
「いや、流石に毎日はして貰うわけには……」
「いいえ! これからはルカのお世話は全て私に任せて下さい! これもメイドとしての大切な修行なんです!」
アテネは真剣な表情で言い募る。
その際、たわわに実った胸が、むにゅんと背中に押し付けられた。
「わ、わかった」
ルカは思わず上擦った声を出す。
冷静を装っているが、その実、ルカは理性と本能との壮絶な戦いを繰り広げていた。
「嬉しい! では、一杯ご奉仕しますね!」
そんなルカの葛藤に気付かないアテネは、さらに身体を密着させてスリスリに専念する。
アテネは隅々まで洗おうと意気込むが、自分の胸の大きさを失念しているのだろう。
動くたびに、海綿スポンジよりも極上の柔らかさが背中をぷにょんと撫でる。
「く……っ」
ルカは苦悶を押し殺すように、歯を食いしばった。
「~~~~♪」
それに気付かぬアテネは、遂には鼻歌を歌いだす。
しばらくして、
「これでよしっと。次は前を洗いますね。こちらを向いて貰っていいですか?」
泡だらけのスポンジを手に、アテネはとんでもない爆弾を投下した。
「い、いや、前は必要ない。自分でやる」
「いまさら遠慮はなしですよ。私がルカの垢を全部こそぎ落としちゃいます!」
「……わかった」
ルカは気まずげに、座椅子を回転させて前を向く。
「では、洗いますね」
アテネは嬉しそうに、泡だらけのスポンジをルカの胸に近付ける。
だが、前には当然、前にはルカの主砲が最大仰角を上げているわけで――
ポトリと、アテネの手からスポンジが滑り落ちる。
その視線はルカの股座に、釘付けとなっていた。
しばらくの間、陶然と魅入っていたアテネだが、ハッと我に返ると慌てて顔を逸らし、落ちた眼鏡を探すようにしゃがんで床に落ちたスポンジを拾い上げる。
瑞々しい少女の肢体は泡と汗と湯気にしっとりと濡れ、たぷんたぷんと揺れる魅惑の巨果肉の先端には、白い泡がとろりと流れる落ちた。
「や、やっぱり……前は自分でお願いしますっ……」
アテネはのぼせたように真っ赤な顔で、片腕で胸を隠しながら、もう片方の手でスポンジを差し出す。
だが、
「駄目だ。言ったからには最後までして貰おう」
ここで引いては男がすたるとばかりに、ルカは言い放つ。
「さ、最後まで……?」
「そうだ」
「あ、うぅ……」
真っ赤な顔で恥じらうアテネの姿は、実に魅力的だった。
ルカはこれまでずっと我慢して来た。
美しい少女の無防備な姿に、無自覚な誘惑に、鋼の精神で持って耐えてきたのだ。
だが、事ここに居たり、全ての秘密をさらけ出したルカは、己の心にも素直になると決めた。
愛しい少女がこれ以上ないほど魅惑的な裸体を晒しているのだ。
なにを、遠慮する事があろうか――と。




