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ルカの指示に従い、アテネとテュッティは作業を進めた。
アテネは浜辺に幾つもの聖霊陣を描き、テュッティは森の中で瞑想しながらエーテルを練る。
こうして、一時間あまりが経過した頃。
「こちらの準備は完了しました。そちらの方は――聞くまでもないようですね」
アテネは浜辺から、森で瞑想するテュッティの元へやって来た。
背筋を伸ばして座法を組む炎髪緋眼の少女は、ゆっくりと目を開くと、
「今なら太陽だって落とせるわよ?」
絶大なエーテルをまき散らし、凄みのある笑みを浮かべる。
「信じられないエーテル量です。よく身体が持ちますね?」
アテネは敬服するように言った。
テュッティの身体から放たれるエーテルの奔流は、人の器の限界を遥かに越えているのだ。
「そういうお前こそ、そんな馬鹿げた数の聖霊陣を並列起動してよく脳が焼き切れないわね」
テュッティもまた、感心するように言った。
真紅の瞳には、アテネの周囲に煌めく、無数の青い光跡が映っていた。それらは『聖鎖』と呼ばれ、浜辺に描かれたおびただしい数の聖霊陣と繋がっている。
「エーテルの許容量では一歩及びませんが、エーテルの制御力には自信がありますよ!」
アテネは、腰に手を当て胸を張る。
重そうな胸がゆさんと揺れた。
だが、
「男は小賢しい女より、包容力のある女を好むと聞くわ。私のように、ね?」
テュッティは意味ありげに目を細めると、包容力の象徴のように豊かな胸を揺らす。
「る、ルカは絶対に、しっかりした女性が好きに決まってます!」
アテネは対抗心を燃やして言う。
「あら、私は一般論をいっただけよ。それにあいつは女でしょう。何をムキになっているのかしら?」
「むむ~~~~っ!」
頬を膨らませていたアテネだが、「はぁ」とため息を吐いて頬をしぼめると、
「緊張しているんですか、テュッティ?」
テュッティの横に腰を下ろした。
「そうね。お前をからかうと……少しは気が紛れるわ」
そう呟くテュッティは、いつになく覇気がなかった。
「大丈夫です。必ず勝てますよ」
「根拠のない自信ね。相手は千の船を沈め、万の人を喰らう真正の化け物よ。この数百年で海の悪魔を打ち倒したのは、ブリテン王国の大英雄ただ一人だけ。それも最強の火力を誇る臼砲艦が何隻も必要だった」
「正確には、臼砲艦七隻。戦列艦三隻。フリゲート艦五隻。計、十五隻の大艦隊ですね」
アテネは情報を補足するように言った。
「なのに、ここにいるのは、奴隷と、メイドと、落ちぶれた海賊のたった三人よ? 絶望的な戦力差だわ」
「勝てる根拠ならあります」
「ふん、聞かせて貰おうじゃない」
「まず私です。自慢じゃありませんが私はとっても強いです」
アテネはえっへんと胸を張ると、今度はテュッティに目を向けた。
「次は、私の横に座る意地悪な女性です。彼女は世界最高の艦長が乗る、世界最強の軍艦に挑み、奪い去る寸前まで行きました。念のために教えておきますが、ステラ・マリス号は元々クラーケンを討伐する予定だったのですよ」
「この私が、海の悪魔に匹敵する驚異だとでも?」
「ええ、少なくとも私はそう思っています。そして、最後は――言うまでもありませんよね」
アテネは胸に手を当て、一人の少女を想う。
テュッティもまた、黒髪の少女を思い浮かべたのだろう。
入り江の方向へ目を向けた。
「ルカは、あなたに打ち勝ちました。あの絶望的な状況で、限られた戦力で、犠牲を最小限に抑えてあなたを退けたのです。そのルカと、あなたと、この私がいれば、十五隻の大艦隊にも劣らぬ大戦力です。十分な根拠ではありませんか?」
アテネは「どや」という自信満々の表情で胸を張る。
だが、テュッティは黙り込み、なんの反応も示さない。
「……緊張は解れましたか?」
アテネはそんなテュッティの顔を、横から覗き込もうとするが――
次の瞬間。
「生意気な子ね!」
テュッティはアテネの頭をくしゃくしゃに撫でた。
「や、止めて下さい! せっかく綺麗にセットしたのに!」
アテネは逃げるように、テュッティから身体を離した。
「ねぇ、マーメイド。この戦いで生き残れたら……一杯おごってあげるわ」
「私、お酒飲めませんよ?」
「ほんとつまらない女ね! こういう時は粋に返すものでしょうが!」
「粋……ですか」
アテネはきょとんとした顔で首を傾げる。
「はぁ、なんだか緊張している自分が馬鹿らしくなったわ。それにしても、お前……最初に会った時とは随分と雰囲気が変わったわね」
「そうですか?」
「この世の不幸を全て背負っていますって感じの、陰惨な顔をしていたわ」
「そういうテュッティだって随分と丸くなりました。以前なら、こんな風に話すなんて絶対に無理だったでしょう?」
「あの男女のせいよ。奴隷の癖に、海軍の犬の癖に、海賊の私を助けるあのバカのせいで、すっかりほだされてしまったわ」
「私もです。ルカと出会い、ルカの生き方に触れ、ルカの熱い心を感じる事で、凍てついた心がいつの間にか溶けてしまいました」
「気を付けなさい。あいつは生粋の女たらし……いえ、人たらしよ」
「ふふ、そうですね」
アテネは口元に手を当て、クスクス笑う。
「それにしても、よくもまぁ……あんなとんでもない作戦を思い付くわね。一撃で致命傷を与えられるって本当かしら?」
テュッティは手を広げて、エーテルを循環させる。
バチリと雷光が散った。
「ルカなら絶対にやってくれます。なら、私はルカのために死力を尽くすまです」
「ねぇ、あいつは何者なの? 本当に奴隷なの?」
「ルカは大和の国では『侍』と呼ばれ、王に仕える騎士のような身分だったそうです。中でも、ルカの一族はあしきもとの戦いを専門にしていたと聞きました」
「へぇ……魔を狩る騎士なんて、聖騎士の家系じゃない。奴隷に堕ちたパラディンなんて、嗜虐心をそそられるわね。ますますあいつを欲しくなったわ」
妖しい表情で、唇を撫でるテュッティ。
「だ、駄目ですよ! ルカは私と一緒に、最強のマーメイドになるんですから!」
アテネは慌てて叫んだ。
と、その時。
海と繋がる岸壁の割れ目に立ち、外海を見張っていたルカが戻ってきた。
アテネは急いで身だしなみを整える。
「テュッティの情報通りだ。卵の異変を感知して、クラーケンが戻ってきたぞ!」
「――――ッ!?」
その言葉に、場の緊張が一気に高まる。
ついにこれから戦いが始まるのだ。
たった三人で、海の悪魔である大海獣クラーケンに挑むのだ。
「最後にもう一度だけ確認するわ。本当に……やるのね?」
テュッティが立ち上がり尋ねた。
ルカは力強く頷いた。
「奴を逃せばこの先、数え切れない女達が犠牲になるだろう。その中には俺や、お前がいるかもしれない。俺達の大切な人がいるかもしれない。なにより、この機を逃せば奴は殺せない。今この場だけが、この瞬間だけが、奴を滅ぼせる千載一遇のチャンスなんだ」
「…………わかったわ。今日だけはお前の指示通り戦ってあげる」
「ありがとう、テュッティ」
「ふん」
テュッティはもう話はないとばかりに、背を向けた。
ルカは次にアテネへ向き直る。
二人の強い信頼の間には、いまさら謝罪も、礼も必要ではなかった。
「――――勝つぞ、アテネ」
ルカはただ一言そう言って、拳を突き出した。
「はい! 必ず勝ちましょう!」
アテネは拳を打ち合わせて、青い瞳に輝くような闘志を宿す。
◇
入り江の海水が大きく盛り上がり、岸壁にぶつかり泡となって弾ける。
大樹のように太く無数の吸盤が並ぶ触手で海水を掻き分けながら、それは姿を現した。
その巨体たるや山の如しで、触手に至っては長いものでは一〇〇〇メートルをゆうに超えていた。
大海獣クラーケン。
悪魔の名にふさわしい人類の敵が、キャラベル船がまるで小舟にみえるほどの化け物がそこにいた。
クラーケンは入り江にとぐろをまいて、巨大な触手は卵を産み付けた船を守るように蠢く。
鋼のように硬い鱗に覆われた姿は、醜悪で、不気味で、まるでこの世の悪意を凝縮したかのような――『異形』そのものであった。
そんな真正の怪物に、《大地神エノシガイオス》が生み出した神の徒に、一人の少年が歩み寄っていく。
彼我の大きさを簡単に比較すれば、『鯨』と『鯵』だろう。
無数にある触手の一本を軽く払うだけで潰せる、ちっぽけで、矮小で、脆弱なる人間。
だが、クラーケンは警戒心をむき出しにして、巨大な二つの眼を見開いた。
何故なら――その少年は、ただの『人』ではなかった。
京は長岡、平安の頃より、千年もの間。
寝ても覚めても鬼を狩り続けてきたひとでなしの一族が、鬼を狩るための鬼が――そこにいた。
「海の悪魔よ! 異国の海に住まう悪鬼羅刹よ! 我が名は橘琉風! 《角の討ち手》と称された稀代の鬼狩り橘宗重が三男にして、大江の山にて《夜叉姫》の首を獲った『雷公』の末裔である! この身に宿る血に掛けて、そして、散っていった女達の無念を晴らすべく! その御首――頂戴つかまつる!!」
入り江に響き渡る大和の国の言葉を、クラーケンが理解できるはずもなかった。
だが、眼前に立つ人の形をした『鬼』は、この世界の頂点に立つ自分達にとって、本来なら有り得ないはずの『天敵』であると知る。
直後にクラーケンのとった行動は単純だった。
赤子を守るために、一本一本が大樹のような触手で、キャラベル船を隙間なく何重にも覆い尽くし己の懐に隠した。
親なら誰しも、どんな生物でも、子を守ろうとする。
海の悪魔であってもそれは例外ではなく、かの種にとっては十年ぶりの産卵期であるならなおさらである。
故に、奪われた卵を追って、住み慣れた北の楽園を離れ、熱帯の海にまでやって来た。
故に、卵を人質に捕られ、その怒りを吐き出すように海を荒らした。
と、
「貴様は奪われた子を救うために故郷を離れ、こんな異国の地まで追って来るほど情に厚い化け物だ。だから、こちらが姿を見せれば、子を守るために動くと思っていた。その鋼の触手で子を包み込むと確信していた。子を盾にとって罠に嵌めるは鬼畜の所業だが、鬼畜は――お互いさまだろう?」
漆黒の髪と瞳の鬼が、何事かを言い放つ。
クラーケンはその言葉を理解出来なかったが、敵意が迫っていることは理解できた。
だからこそ、
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――!!』
威嚇するように身体を持ち上げ、もうこれ以上卵は渡さないとばかりに咆哮する。
◇
魂を砕くと云われる龍の咆哮にも匹敵するクラーケンの雄叫びを、ルカは正面から受け止めた。
恐怖はなかった。
あるのは氷のように冷たい怒りだけ。
敵は、既に『罠』にかかっていた。
「――――やれ」
ルカは腕を組み仁王立ちしたまま、冷厳な声を響かせた。
ルカの後ろには、アテネとテュッティの姿があった。
テュッティが《ヘスティアの竈》の嵌められた左手を掲げ、同時にアテネが《聖盾アイギス》で地面を蹴る。
直後、赤い閃光と、青い煌めきが天と地の両方に走った。
砂浜が隆起し巨大な氷が盛り上がり、ルカ達の周りを覆い隠していく。
そして、クラーケンが何重にも抱き締めていたキャラベル船が、内部から――紅蓮の炎核へと縮退を開始した。
「あらゆる炎の中で最も尊き、七星天炎よ! 太陽よりも眩きその輝きをもって、万象一切を焼き尽くせッッ!」
鋼の大樹で隙間なく覆われた空間で起爆したのは、テュッティがエーテルを練りに練って放った極大聖霊術であった。
爆発の威力は、エネルギーの量と、空間の密閉強度によって何乗にも増加する。
紅蓮の大爆発によって発生した膨大なエネルギーは、強固な外壁に阻まれ中心へと反射、熱と圧力を増幅させて再び外へ向かう。
コンマゼロ秒の間に反射と爆発が何度も繰り返され、加速的に増幅する熱と圧力は、やがて鋼の大樹の限界を迎え――『爆轟』した。
閃光が走り、世界が紅蓮に染まる。
だが、この光の中でも、ルカの瞳は全てを捉えていた。
紅蓮の爆炎はクラーケンを肉体を吹き飛ばしながら、音速を越える速度で放射状に破壊の奔流をまき散らす。
入り江どころか森の木々を薙ぎ払い、一瞬で島の半分が紅蓮の炎に包まれる。さらに炎は、天をも焼き尽くさんと空へと昇っていき、最後は巨大なキノコ雲を作り出した。
この時に発生したキノコ雲は、遠く離れたフリョーダの海軍本部でも観測された。
爆発は当然、入り江に立つルカ達をも飲み込むが――
「あははははっ! 本当に、本当に一撃じゃない! しかも、私の術をあんな風に使うなんて、お前は本当にクレイジーよ!!」
氷の球体の中で、逆さまになったテュッティが楽しげに笑う。
クラーケンは、その体積の半分近くを失っていた。
触手の半数以上が根本から消し飛び、胴体にも大穴が開き、今も炎が吹き上がっていた。
全身が溶解した鉄のように真っ赤に灼熱し、片方の眼球がどろりと溶け落ちる。
入り江の海水は完全に蒸発し、灼熱した塩の大地には、クラーケンの緑の血が雨のように降り注いだ。
聖霊術をただ当てただけでは、あそこまでの威力出なかった。
たった一撃で致命傷を与えられたのは、爆竹を手の中へ握りしめるように、クラーケンが聖霊起爆の中心となっていたキャラベル船を触手で強固に包み込んだからである。
そして、ルカは自身が身を晒す事で、命を懸ける事で、クラーケンを罠に嵌めてみせたのだ。
と、
「お、重いです……早く退いて下さぁい。あと、密閉空間なんですから、あまり興奮すると酸素が無くなりますっ!」
テュッティの下敷きになったアテネが苦しげにいう。
「大丈夫かアテネ?」
ルカはアテネに手を差し伸べた。
「あ、頭がくらくらします……。ですが、強度の計算は完璧だったようですね」
「俺達の命があるのは、アテネのおかげだ」
ルカ達を守ったのは、何百という氷の盾が組合わさった巨大な『真珠貝』であった。
さらに、貝の中心には真珠に見立てた『氷の球体』があり、その中にルカ達はいた。
これらは全てアテネが作り出したものだ。
アテネが一度に内包出来るエーテル量では、あれだけの規模の爆発を防ぐのは不可能だった。
だが、アテネの聖霊術は非常に安定性が高い。
一度作り出したものは、半日から数日は持つ。
盾一枚で防げないなら、何十枚でも、何百枚でも用意すればいい。
並の術師では不可能な聖霊術の多重並列起動を、アテネはやってのけたのだ。
「これに関しては脱帽よ。お前、エーテル制御力は天凛の才を持っているわね!」
あの爆轟を受け巨大な真珠貝は半壊していたが、音も、熱も、衝撃も、完璧に防ぎきった。
今も緑の血に混じって降るのは、木っ端微塵に千切れ飛んだクラーケンの肉片で、真珠貝にガンガンとぶつかり落ちる。
「頑張って砂浜に聖霊陣を描いたかいがありました。ちなみに、ちゃんと貝が開閉するよう設計してあるんですよ」
「はいはい、わかったわ。でも、まだ絶対に開けちゃ駄目よ」
「ええ、わかっています」
アテネとテュッティは会話しながらも、その表情に一切の油断はない。
何故なら、この状況を作り出した黒髪の少女が、たった一手で海の悪魔に致命傷を与えた英雄が、今も凄まじいエーテルをたたえながら、その漆黒の瞳でクラーケンを睨み続けているのだ。
次の瞬間。
「アテネ、テュッティ! 俺の後ろに隠れろ!!」
刀を鞘から抜き放ち、ルカは叫んだ。
アテネとテュッティは、その指示に弾かれるように従う。
真っ赤に焼け爛れたクラーケンは、血を吐きながらも龍のごとき巨大なアギトを開く。
びっしりと牙が生え揃う口内には、クラーケンの『核』が、『第三の瞳』と呼ばれるエーテル器官があった。
まるで、金剛石のように輝くその瞳に、尋常ではないエーテルが収束していき――
直後にそれは来た。
海を一刀両断に断ち割り、海賊連合を消し飛ばし、護衛艦サン・マチスタ号を消滅させたあの光線が、ルカ目掛けて放たれたのだ。
凄まじい衝撃と振動。
アテネが作り出した氷の真珠貝が、あの爆轟を防ぎきった鉄壁の城塞が、ガラスを砕くように貫かれていく。
一瞬で貝の上部が砕け散り、中の真珠に光線が直撃。
球体にヒビ割れが広がっていき――
「ふ、防ぎきれません! 破られます!」
球体を維持しようと必死にエーテルを籠めるアテネが、叫んだ。
だが、
「――――心配するな」
ルカは刀を正眼に構えて、微動だにしない。
眩いと雷光が炸裂し、その身には既に『雷神』が宿っていた。
ガシャアアン――と、鼓膜が破れそうな音がして、球体が破砕して光線がルカを襲う。
目を開けていられない衝撃の嵐に、少女達は顔を覆った。
だが、いつまで経っても痛みは訪れず、恐る恐る顔を上げたアテネが見たのは、クラーケンが放つ光線が真っ二つに切り裂かれて、Yの字を描くように左右へ抜けていく光景だった。
顔にかかる水しぶきに、光線の正体が『超圧縮された水』であるとアテネは知る。
「す、凄い…………」
光線の正体を見抜いたルカの眼力にも、それを切り裂くルカの超絶的な技量にも、アテネは感嘆するしかなかった。
一ミリでも激突点がずれれば、超圧縮された水流の刃は、容易く人体を粉々にしただろう。
実際、Yの字に切り裂かれてなお、クラーケンのブレスは大地を両断にして、島の反対側にある拠点をも切り裂き、その先の海を数キロに渡って裂断させていた。
◇
クラーケンは理解出来なかった。
氷が浮かぶ北の海を何百年も支配してきた『王』に、恐れるものなど存在しなかった。
時折、思い出したように人が沢山乗った木魚が攻撃してきたが、クラーケンにとっては格好の馳走でしかなかった。
なのに、なのに、全身を苛むこの激痛はなんだ?
数多の敵を打ち砕き、絞め殺して来た自慢の足は、一体どこへ消えた?
なにより、クラーケンが理解できないのは、海龍ですら一刀両断にする必殺の攻撃が通じていないことだ。
あれはなんだ?
あれはなんだ?
あれはなんだ?
この時、クラーケンの第三の瞳は、切り裂かれていく水流の刃の先に、鬼を狩る鬼の『瞳』を、その漆黒に宿る『存在』を見てしまう。
その瞬間、クラーケンの四つある心臓が怯えるように跳ね上がった。
「――――恐れを抱いたな。異国の鬼よ」
まるで、悪魔のように、漆黒の瞳の鬼が言い放つ。
驚くべき事にその鬼は、超圧縮された水流の刃を真っ二つに切り裂きながら、一歩、また一歩と進んでくるではないか。
直後、
「ぬんッ!!」
超圧縮された水流の刃が、神の御業が、真っ二つに斬り祓われた。
そう。祓われたのだ。
術を強制的に潰されたクラーケンは、第三の瞳である核を守るように口を閉じると、全身の突起物から霧を吐き出した。
バシュッと音がして、視界を埋め尽くす真っ白の霧が瞬く間に広がっていく。
クラーケンは重い体を動かし、海へ向かって逃げる。
巨体が跳ねるたびに大地が揺れ、その身体からは、血が、臓物が、はらわたが、噴き出す。
戦いに飽きたから、腹が満ちたから、狩り場から自由気ままに去ることは何度もあった。
だが、恐怖から逃げた事など、これまで一度もなかった。
そのクラーケンが、怯えた子羊のように算を乱して潰走した。
逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ――
クラーケンは千切れかけの触手を必死に動かし、海へ急ぐ。
冷たい海の底へ、暗い海の底へ。
こんな遠い海に来たのは間違いだったのだ。
早くあの場所に、氷が浮かぶ極寒の海へ帰らなければ――
逃げるクラーケンに向け、ルカは刀を構える。
バチリと凄絶な雷光が炸裂し、エーテルの収束は既に完了していた。
ルカは、聖霊器を持たないが故に、聖霊術を行使出来ない。
だが、聖霊術を使えない訳ではない。
肉体を器として雷神を宿し、疑似的な聖霊器となっている今のルカならば、一族に伝わる最強の聖霊術をも行使出来た。
それは、父――橘宗重が最も得意した『雷公』が秘術。
その名も、
「――――雷霆招来ッ!」
稲光と共に、天から黄金に輝く極大の雷が落ちた。
耳をつんざく雷鳴に、霧は跡形もなく吹き飛び、雷撃を受けたクラーケンの肉体が内部から次々に破裂。
四つある心臓のうち、二つが永久に鼓動を止めた。
それでもクラーケンは、海に向かって逃げた。
もうそうする他に、助かるすべはないとわかっていた。
◇
勝敗は既に決していた。
あの海の悪魔に、三人は勝ったのだ。
だが、逃げるクラーケンを仕留めない限り、彼の化け物は、いつか再び海を荒らすだろう。
追撃をかけるルカ達であったが、彼我の大きさの違いがここで現れた。
同じ一歩にも、こちらの足と、クラーケンの足では、何百倍もの差があるのだ。
徐々に距離が開いていくが、クラーケンの前方には崩れ落ちて海を堰き止める岸壁があった。
「やりました! 行き止まりです!」
アテネはそう叫ぶが、
「いや、駄目だ。突破する気だぞ!」
ルカは大地を蹴るように、クラーケンを追う。
その言葉通り、崩れた岸壁にクラーケンは猛然と突進。己の身体が傷付くのも構わず体当たりで突き崩してみせた。
砕けた岩石が流星のように辺りに四散し、塞き止められていた海水が一気に流れ込んでくる。
海水に足を取られ、三人は思うように動けない。
逆に、クラーケンは水を得たことで、さらに速度を増して逃げていく。
「ここままじゃ、逃げられるわ!」
テュッティが炎弾を飛ばしながら叫ぶ。
アテネも双銃で追撃をかけるが、クラーケンの足は止まらない。
「テュッティ、龍鞭はどれだけ伸ばせる!?」
濁流を膝に受けながら、ルカは叫ぶ。
「長さだけなら、エーテルを注げば五〇〇メートルは延びるわ! でも、威力を保証出来るのはせいぜい二〇メートルまでよ!」
「それだけあれば十分だ。アテネ、龍撃砲を頼む!」
「――――ッ! わかりました! テュッティ手を貸して下さい!!」
ルカの声に、アテネは瞬時に己の役割を理解した。
アテネは双銃を構えると、聖霊器《聖盾アイギス》を起動して凄まじいエーテルを収束させていく。
海水が隆起して、空中に氷が巨大な『銛』となって形を成していった。
巨大な銛を水圧で発射する龍撃砲。その機構を、アテネはエーテルで再現する。
銛を『氷』で作り出し、発射に使う水流弾は《双銃グラウクス》で代用する。
そして、
「ちょっと待ちなさい! まさか私の《龍鞭アイドネウス》をワイヤー代わりにする気なの!?」
「御名算だ!」
「ば、バカ! 私の体重で、クラーケンが支えられるわけないでしょ!!」
「少しでいい。踏ん張ってくれ」
「ああ、もう! どうなっても知らないから!」
テュッティは腰から左右の龍鞭を抜き放つと、空中に浮かぶ氷で作られた巨大な銛に巻き付けた。
「――――撃ちますっ!」
限界までエーテルを充填したアテネは、双銃グラウクスのトリガーを引き絞る。
銃身が爆発するように爆ぜ、特大の水流弾が螺旋を描きながら氷の銛を遥か彼方へ発射させた。
唸りをあげて飛翔する氷の銛は、狙いたがわずクラーケンの胴体に突き刺さる。
だが、それで終わりではない。
アテネの天才的なエーテル制御力は、実際の龍撃砲にある銛の先端に刻まれた機構まで再現していた。
クラーケンの体内に突き刺さった氷の銛の先端が、クラーケンの血を吸って巨大化。決して抜けることのない返し構造を作り出す。
当然、
「む、無理! もう、無理!!」
テュッティは叫びながら、両足を踏ん張る。
《龍鞭アイドネウス》がみるみる伸びていき、その長さは既に三百メートルを越えていた。
「いいえ、駄目ではありません!」
アテネは右足を天高く上げると、かかと落としで海面を叩き蹴る。
ズドンッと、凄まじい衝撃に五メートル近く吹き上がった海水は、ゆっくりと地上に向け落下していき、その途中で――時が止まったかのように凍り付いた。
一瞬で、《龍鞭アイドネウス》を取り込んだ強大な『氷柱』がそびえ立つ。
アテネは以前にも、テュッティの龍鞭を凍てつかせたことがある。
あの時は、互いに命を奪い合う敵同士で、今は互いに命を預けた頼もしい味方である。
「今のうちに龍鞭を氷柱に巻き付けて下さい!!」
「でかしたわ、マーメイド! って、お前また私のアイドネウスを凍らしたわね!?」
テュッティはそう叫びながらも、左右に持つ龍鞭を氷柱に巻き付け強固な八字結びで縛る。
さらに、
「たゆたいし水の聖霊達よ! 我が命に従い凍結せよ!!」
アテネは氷柱に《聖盾アイギス》による蹴りを叩きこんで、氷の強度を高めていく。
ほどなくして、アイドネウスが長さの限界を迎えて、氷柱に縛り付けられた龍鞭がビンっと音を立てて張る。
クラーケンの加重を受けて、巨大な氷柱が一瞬だけ軋むが――
「必ず、一分は持たせて見せます!」
アテネはルカに向け叫んだ。
ルカの姿は、《龍鞭アイドネウス》の『上』にあった。
「それだけあれば十分だ!」
まるで綱渡りのように龍鞭を足場にして、クラーケンへ向け稲妻の如く駆けて行く。
一度の踏み込みで百メートルを踏破し、二度の踏み込みで三百メートルを踏破した。
クラーケンは暴れまわるが、アテネが必死に支える氷柱も、それに繋がれたテュッティの龍鞭も、びくともしない。
そして、
「――――雷乃収声」
クラーケンの頭部に立つルカは、『神祓い』の聖霊術を発動。
身体に纏っていた黄金の雷光が、雷神の力が一瞬で消え去る。
否、それは消えたのではなく、移ったのだ。
肉体という器から、刀へと。
リンッと抜刀の音がして、鞘からは尋常ではない光があふれ出す。
それこそが、神を束ねた雷の太刀。
「――――七星一刀流・奥義《紫電一閃・神凪》!」
神を祓うための神域の抜刀術は、神を鳴り響きかせながら空間を真っ二つに断裂させると、邪を祓い、悪魔を祓い、貪り食われた女達の魂をも祓うと、最後は天空の雲を祓い――虚空へ消えた。
ルカが刀を振り払って鞘へ納めると、涼やかな音がして、クラーケンの巨大な頭部が下顎だけを残し、斜めにずれていくではないか。
切断された頭部が地面にめり込むと、遅れて山のような巨体がドオッと音を立てて沈み込む。
海水が盛大に巻き上げられ、雨のように周囲に降り注いだ。
◇
「嘘でしょ……アイツ、本当にクラーケンを倒しちゃったわ!!」
テュッティが歓喜の声を上げ、
「やった! やりましたよ、ルカ!!」
アテネも飛び跳ねて喜びを爆発させる。
だが、少女達が見たのは、全身から血を吐き出し、崩れ落ちるルカの姿であった。
「――――ルカッ!」
アテネは血相を変えて走り出していた。
気を失っているのか、ルカはクラーケンの巨体の上から滑り落ちるように落下していく。
海面に叩きつけられる寸前に、アテネが生み出した水球がクッションとなってその身体を受け止めた。
「ルカ! しっかりして下さい、ルカ!」
駆け寄ったアテネは、ルカの状態を見て青ざめた。
人ならざる力を宿す代償は、命そのものである。
雷神の力によって己の身体を焼き、命を削り、それでも神の眷属を斬ってみせたのだ。
「ねぇ、どうなっているの? 気を失っているだけよね?」
遅れて追いついたテュッテが、不安げにルカを見下ろす。
アテネはそれに答えず、必死でルカの胸を両手で押して心肺蘇生を繰り返す。
この時、ルカの心臓は完全に止まっていた。
「……冗談はよしてよ。お前は、こんなところで死ぬような玉じゃないでしょう!?」
テュッテはルカの側に跪くと、心臓マッサージをするアテネに合せて人工呼吸をする。
だが、一分経っても、二分経っても、ルカは戻ってこない。
「お願いです、ルカ! 死なないで! 戻って来て!!」
アテネの悲痛な叫びが木霊する。
と、その時。
目の前を、光が通り過ぎていく。
それは一つや、二つではなかった。
顔を上げたアテネとテュッテは、斬り捨てられた海の悪魔の身体から、無数の光の玉が沸き上がり、天へ還っていく姿を目撃した。
そして、光の一部が、天に帰るのではなくルカの元へやって来るではないか。
アテネは直感的にわかった。
この光は、クラーケンに囚われていた女達の魂である事に。
「助けて下さい! こんなお願いをするのは間違っているのかもしれない。でも、今の私達では、ルカを救うことが出来ないんです! どうか、お願いです! ルカを死なせないで!」
アテネは周囲を漂う無数の魂達に、懇願する。
すると、女達の魂は『わかっているわ』とでも言うかのように、優しくアテネの頬を撫でると、そのままルカの身体へと次々に入り込んでいく。
血塗れのルカの身体が、にわかに淡い光を放ち、その光は女達の魂が注がれるにつれ輝きを増していく。
やがて、目を開けていられないほどの光が溢れ――
『もう……大丈夫だから』
と、優しい声が聞こえ、アテネが目を開けると。
ルカの身体を包んでいた眩い光も、そこへ注がれていた魂も、まるで最初から存在しなかったように消えていた。
「――――ルカッ!」
愛しいその名を叫び、アテネはルカに飛びついた。
何か超常的な力が働いたのは確かだろう。
だが、ルカは一体どうなったのか?
不安に震える手でルカの胸に手を当てたアテネは――ドクン、と力強い心臓の鼓動を感じ、青い瞳から涙を溢れさせた。
穏やかな呼吸を感じ取ったテュッティもまた、真紅の瞳に涙を滲ませる。
死の淵の先へ赴こうとしていた少年は、少女の祈りと、魂の導きにより――
今ここに、生還を果たした。
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