1
1
空は晴天で、風は穏やか。
朝の澄んだ空気はとても心地よく、鮮やかに咲き誇るブーゲンビリアの花が、今日一日の始まりを告げるようでもあった。
テュッティの案内で、ルカとアテネは島の反対側で発見したという難破船へ向かう。
真っすぐ山を越えるのが最短ではあるが、女は山に入る事を許されないため、ぐるりと島の周囲を迂回しながら向かう事になった。
朝露の森を抜け、マンゴーが生る海岸を通り、硫黄の臭いが立ち込める岩肌を登って、道なき道を行く。
途中で何度か休憩しながら、三時間あまりが経った頃。
「見て下さい、ルカ! あれはキュテレイアモルフォですよ!」
アテネは興奮した様子で、花の蜜を吸う青い蝶を指さした。
「青い羽根が綺麗な蝶だな」
「《美の女神アフロディーテ》の使いとされるとても珍しい蝶で、実物を見るのは私も初めてです」
アテネにとっては見るもの全てが発見なのだろう。
珍しい動植物の発見に目をキラキラさせて、色んな説明をしてくれた。
テュッティはそういう事には興味がないのか、
「ほら、ぐずぐずしてないで早く行くわよ」
マンゴーを皮ごと齧りながら、先を促す。
こうして、早朝に出発して昼前には、岸壁に囲まれた入り江が見えてきた。
「あれよ」
前を行くテュッティが、眼下に広がる入り江に横たわる船を指さす。
後期型のキャラベル船で全長は二〇メートルほど、武装はなく、典型的な貿易船であった。
マストもヤードも無事だが、帆が大きく破れており、最上部には『クリサリス聖王国』の国旗がはためいていた。
クリサリス聖王国とは、ルカの故郷である大和の国よりも、さらに遥か北に位置する大国である。
その歴史は古く、創生の頃にまで遡る。
世界再生を記した『創世記』の神話に登場する《炎の御子》とは、クリサリス聖王国の初代国王の事である。
と、
「クリサリスの船だなんて、カリブ海では珍しいですね」
アテネが船を見上げながら言う。
「確かに珍しいわね。でも、全く見ないというほどではないわ」
歩き疲れたのか、テュッティは近くの岩場に腰掛ける。
「痛んではいるが、確かに外殻に大きな損傷は見当たらないな」
と、ルカ。
「でしょ。この規模の船なら三人もいれば動かせるわ。問題はどうやって海に運ぶかね」
嵐かなにかで入り江に乗り上げたのだろう。
船首は浜辺に大きく乗り上げ、船尾だけが僅かに波に晒されていた。
「艦首船底がすっかり砂に埋まっているから、掘り起こして海に引っ張るには、相当な労力が必要だな」
ルカは膝をついて、砂を掴む。
様々な問題をクリアしなければならないが、ともあれ船があるというのは大きい。修理出来れば、この島から脱出してコロンビアに戻れるだろう。
と、
「私の聖霊術なら、一日あれば船を海に運ぶことが出来ますよ」
アテネが両手を腰に当て、えっへんと胸を張る。
重そうな胸がゆさんと揺れた。
「本当か!」
ルカは驚いた表情で尋ねた。
「入り江の構造と、船の大きさを見て確信しました。この入り江の出入口は一箇所だけで、しかも岸壁に囲まれとても狭くなっています。そこで、入り江の出入口を氷壁で堰き止め、次に水の聖霊術でこの一帯を水没させます。あとは、船の浮力さえ生きていれば――」
「なるほど、掘り起こさなくても自然と浮かび上がるというわけだな」
「はい!」
アテネが元気よく頷いた。
「いいわね。その作戦で行きましょう」
テュッティは膝を打って立ち上がった。
「最後の問題は、中の損傷具合と竜骨が無事かどうかだな。ここから上へ登ろう」
ルカは外殻のとっかかりに手をかけ登ろうとする。
だが、アテネとテュッティの二人は、何故か登ろうとはせずに後ろで待っていた。
「ん、どうかしたのか?」
「ルカがどうしてもというなら、先に登りますけど……」
「どうかしたのかですって? す……少しは察しなさいよね」
アテネもテュッティも、短いスカート裾を掴んでモジモジしていた。
その仕草に、ルカは『あ』っと気が付く。
彼女達を先に登らせたら、スカートの中が丸見えになってしまう事に――
「す、すまない。俺が先に登ろう」
この時、アテネもテュッティも、そしてルカも自分の発言を理解していなかった。
同性同士なら、下着姿や、裸を見られても、さほど気にはしない。
だが、二人の少女は強い羞恥心を持って、ルカにスカートの中を見られてしまうのを避けた。
それは、ルカを同性とは違う存在。そう――『異性』として意識している何よりの証であった。
◇
「いいぞ、上がってこい」
甲板にたどり着いたルカは、浜辺に向け叫んだ。
ほどなくして、アテネとテュッティが上がってくる。
甲板は予想以上に荒れていた。
船も、家も、土地も、人の手が入らなくなった瞬間から自然へと帰っていく。
一年近く入り江に放置された甲板には、緑の苔だけではなく、様々な雑草が生え、花まで咲いていた。
「随分と酷いな。これを掃除するには一週間はかかるぞ」
「まるで、幽霊船です……」
アテネが周囲を見渡しながら呟く。
「ふん、外面が綺麗な女ってのは、たいてい中がドロドロしているものよ」
テュッティは真紅の髪をかき上げ散らすが――
その発言にアテネは目を細めて、綺麗な外見のテュッティに視線を向ける。
「…………なによ。なに見てるのよ。燃やすわよ?」
視線の意味を察したテュッティが、ドロドロした声を放つ。
アテネは慌てて、ルカの後ろに隠れた。
「ところで、なんで船内を見ずに帰ってきたんだ?」
テュッティの気性を鑑みれば、真っ先に一人で船内を探索しそうなものだ。
「そうね……しいていうなら直感かしら」
「直感?」
「私のような生粋の悪党にもなると、『内』も『外』も敵だらけで誰も信用出来ないのよ。生き残るには強さだけではなくセンスも必要になるわ。その直感が囁くの。この先は……ヤバイとね」
腰に手を当てたテュッティは、真剣な表情で船の真下を見やる。
すると、
「悪ぶってますけど、絶対一人で入るのが恐かっただけです」
「そうなのか?」
「間違いありません」
ルカとアテネはヒソヒソ会話した。
「聞こえてるわよ、マーメイド!」
テュッティの怒声が響き渡り、アテネは『べ』っと舌を出して再びルカの背後に隠れる。
その様子は、いつも意地悪をしてくる姉に反撃する妹というところだろう。
テュッティもそれがわかっているのか、その怒りに本気の色は見えない。
「二人とも、俺が知らない間に随分と打ち解けたようだな」
ルカは嬉しそうに言う。
このような軽口が叩ける関係など、つい数日前まで想像だにしなかった。
なにより、明らかに昨日よりも、二人の間にあった壁が取り払われている感じがするのだ。
と、
「う、打ち解けたなんて、そんな事ありません、よね、テュッティ?」
「あ、当たり前でしょ。私は泣く子も黙る……その、《黒髭》なんだから」
アテネとテュッティは、何かを隠すようにしどろもどろになる。
何を隠しているかは知らないが、どう見ても打ち解けている二人の少女に、ルカは笑みを深めるのであった。
その後も、甲板の探索は続けられた。
「……舵が動かないわ」
船尾楼に立つテュッティが操舵輪を回すが、舵はビクリとも動かなかった。
「砂で埋まっているか、舵紐が絡まっているのかもしれないな」と、ルカ。
「そうね」
「甲板の上は随分と荒れていたが、やはり大きな損傷はなかったな。残すは船内の探索か」
と、
「ルカ、ここから船内に入りましょう!」
アテネは甲板中央で、雑草に覆われた船内への出入口を指さす。
二か所ある船の出入口はどちらも念入りに塞がれており、その中でも一番マシな中央の出入口を塞ぐ流木などを撤去していく。
ほどなくして、人が通れるスペースが確保された。
「でも、誰が出入口を塞いだのでしょう? 自然に塞がったにしては様子がおかしいですし」
アテネは流木を放り投げて、不思議そうに首を傾げる。
「この船は難破船ではなく、海賊が残した財宝船かもしれないわね」
と、テュッティは言った。
財宝船とは、海賊が略奪した金銀財宝などを隠しておく船の事だ。
「なるほど財宝船ですか。それなら、出入口が封じられていたのも、人の気配がないのも頷けますね」
「一人で見に来た時は、甲板まで登らなかったから気付かなかったわ」
「直接海賊に尋ねる機会も早々ないと思うので、テュッティに一つ質問があるんですが」
と、アテネが切り出した。
「なによ?」
「『宝の地図』は実在しないとは本当ですか?」
「本当よ」
テュッティはあっさりと答えた。
「そうなのか?」
これにはルカも驚いて食いついた。
「正確な測量技術もない者が描いた地図なんて、落書きも同然よ。なんの当てにもなりはしないわ。自分で隠した宝が見つからないって笑い話があるくらいだもの」
「では、何によって隠した財宝の在り処を記録しておくのです?」
アテネはさらに質問する。
テュッティは、自らのこめかみを指でトントンすると、
「そんなの頭の中に決まってるじゃない。正確な緯度と経度さえ覚えておけば、自分だけの宝島にたどり着ける。あとはこの船のように宝を満載した船ごと隠すのよ」
「砂の中に埋めたりしないのか?」
と、今度はルカが尋ねた。
「古典的な方法だけど普通はしないわ。隠すってのは、捨てるには惜しいけど置き場がないって事でもあるの。そもそも高価でかさ張らない金や宝石なんかは、手元に置けばいいでしょ? でも、武具に、家具に、美術品の類は、売りさばくのも手間だし扱いに困るのよ。そういった品を死蔵しておくのに、わざわざ地面に穴を掘ってたんじゃきりがないわ」
テュッティは常識でしょという風に肩をすくめた。
「凄く現実的で、夢も希望もありませんね」
「だな」
ルカとアテネの中で、海賊に対するイメージがガラガラと崩れていく。
「浪漫じゃ腹は膨れないのよ」
テュッティはそう締めくくった。
「結論も出た事だし、そろそろ中を探索するか」
ルカは腰に帯びた紋章式カンテラにエーテルを注ぐと、白い輝きが溢れ出す。
「こちらの準備も万端です!」
アテネは双銃を構えて、ワクワクした表情で船内の入り口を見やる。
「ふん、さっさと行きなさいよ……し、しんがりは、私が務めてあげるわ」
龍鞭を両手で握りしめたテュッティが先を促す。
恐れるものは何もない少女は、少しへっぴり腰になっていた。
ルカは敢えてその点には触れず、アテネも生やさしい表情でルカに続いて船内に入る。
最後にテュッティが着いて来た。
軋む階段を降りて、船内を進むルカ達。
船内は真っ暗で、空気が淀み、妙な臭気が立ち込める。
ルカはカンテラで先を照らす。
「こういった船には、不浄のものが出ると聞く。全員気を抜くな」
「お化けですね。わかります!」
弾むような声でアテネは言うが、
「はぁ!? そ、そんなのいるわけないでしょ!」
テュッティは動揺した声で叫ぶ。
ルカとアテネは振り返って、テュッティに視線を注ぐ。
「な、なによ?」
「怖いなら、手を繋いであげましょうか?」
と、アテネは優しい、慈母に満ちた表情で手を差し伸べる。
だが、その口元がヒクヒク笑っているのを、テュッティは見逃さなかった。
「お前の子憎たらしい顔を見ていたら、無性に腹が立って来たわ」
と、
「アテネは平気なのか?」
テュッティが幽霊の類を苦手とするのは意外だったが、アテネが全く恐れた様子がないのも意外だった。
「少し怖いです。でも、それ以上にお化けや幽霊には興味がありました。もし本当に幽霊がいるのなら、あの世と繋がりが持てるなら、お父様にも会えるかもしれない……幼い頃は、本気でそう思っていました」
「今は違うんだろ」
「死者の魂は天に帰ります。この世に残るのは肉体だけ。だから、お化けや幽霊の正体はルカがいうように不浄のものです。生者がかかわってよい存在ではありません」
アテネはきっぱりと言い切った。
「それを聞いて安心した。命にやり直しは効かない。失われたら最後だ。だからこそ重く、尊いんだ」
「はい!」
「ちなみに、どんな幽霊が好きなんだ?」
「それはもう、伝説の幽霊船で知られる《エル・カルーチェの魔女》でしょう! 死してなお、海を守らんとする英霊の物語です。全巻揃っていますよ!」
エルカルーチェの魔女と聞いて思い出すのは、黒髭海賊団との戦いで臼砲艦に乗り込んだ際、敵の注意を引くためにアテネが行った幽霊の演技だ。
「あの演技は正直ゾッとしたぞ」
「えへへ」
「し、信じられない……あんな恐ろしい物語が好きなんて、頭おかしいんじゃない?」
「テュッティは海賊だから彼女達が怖いんです。善良な海の女にはとても優しい幽霊なんですよ」
と、その時。
船の内壁に黒い影が走ったではないか。
「で、出たわ幽霊よ!」
テュッティが悲鳴をあげ――
「どこですか!?」
アテネは目を輝かせ――
「今のはまさか……!」
ルカは険しい表情でカンテラの明かりを向ける。
内壁に蠢くのは、丸々太った『油虫』の大群であった。
「なんだコックローチじゃない。驚かせるんじゃないわよ」
幽霊の類いは苦手だが、虫の類いは平気なのか、テュッティは安心した様子で蠢く油虫を見やる。
そして、アテネはというと――
「ねぇ、この子、立ったまま気絶してるわよ……」
「しっかりしろ、アテネ!」
ルカが肩を揺らすと、ハッと気が付いたアテネが、
「ルカぁ~~~~~~~~ッ!!」
ばふっと抱きついて来た。
ルカはアテネを安心させるように頭を撫でる。
「よしよし、もう大丈夫だ」
「ふふん、偉そうなこと言ってたわりに油虫が怖いだなんて、随分とお子様ねぇ」
先ほどの仕返しのとばかりに、テュッティは攻め立てる。
だが、アテネはルカの胸元に頭を擦り付けると、すがるような声で語りだした。
「あの牢獄で……たった一枚の毛布にくるまって寝ていた夜のことです。どこからか、カサカサカサと音が聞こえて来ました。私は音の出所を探し、自分がくるまっている毛布をめくってみたんです。そしたらそこには――」
「そこには?」
「無数の油虫がひしめき合っていたんです! しかも、私の悲鳴に反応したのか一斉に飛び立って、その内の数匹が顔に飛んできて!」
「そ、それは……辛かったな」
ルカはアテネを優しく抱き締める。
テュッティもまた、自分のことのように顔をしかめた。
「さ……流石に同情するわね。でも、お前……牢獄なんかに囚われていたの?」
「色々あるんだ」
と、ルカが答えた。
「ふぅん……」
「あの時ほど、牢獄から出してと泣き叫んだ事はありません」
「辛いなら、外で待っててもいいんだぞ」
ルカがそう言うと、アテネは顔を上げて身体を離した。
「さっきはいきなりだった上に、大量にいたんで取り乱しましたが、もう……大丈夫です」
「気を付けなさい、マーメイド。お前の足元にコックローチが這いまわっているわよ」
「ひぃ!?」
アテネは涙目で、再びルカに抱きついた。
「あははははっ!」
腹を抱えて笑うテュッティに、ルカは呆れたような表情で、
「気を抜くなと言ったばかりだぞ」
「あら、なぁに? 大切なマーメイドを虐められておかんむりかしら?」
「テュッティ――――」
ルカは漆黒の瞳は鋭くして、テュッティを睨む。
「なによ、急にそんな顔して。冗談に決まってるじゃない」
テュッティは肩をすくめて言うが、
「動くな! 絶対に振り返るな!!」
ルカは真剣な表情で叫ぶと、刀の柄に手を掛ける。
「――――ッ!」
アテネもまた、驚きに目を見開いてテュッティの『背後』に目を向けた。
「ふふん、仕返しのつもり? そんな演技で騙されないわよ。後ろになんて、誰もいな――」
振り返ったテュッティが見たのは、蒼白く光る苦悶の顔をした『怨霊』であった。
直後、ルカの鞘から闇よりも暗い漆黒の刃が抜き放たれ、怨霊を真っ二つに斬り祓う。
耳を覆いたくなるような絶叫を響かせ、怨霊は消滅した。
「今のは……この船の乗組員ですよね……?」
アテネは血の気の引いた顔で問う。
「ああ、斬ったときに、尋常ではない絶望と苦痛が伝わってきた。どうやら、この船には何かありそうだぞ」
ルカは重い息を吐くと、刀を鞘に納め、固まったまま動かないテュッティに歩み寄る。
真紅の髪の少女は、立ったまま気絶していた。
◇
「何があっても私が盾になります。ルカは私を武具のように使って下さい」
アテネはそう言って、ルカの右腕をギュッと掴む。
「お前が目になって指示を出しなさい。私の龍鞭は銃弾よりも早いわ」
テュッティはそう言って、ルカの左腕にしがみついた。
「あ、歩きにくいんだが……」
ルカは困った様子で呟いた。
言ってることは勇ましいが、二人の少女は目を固く閉じて、ルカの腕を頼りに歩く。
ルカはアテネという名の盾と、テュッティという名の武器を手に、暗い船内を探索する。
判明したことが幾つかあった。
この船はどうやら財宝船ではなく、通常の商船のようで、船内には乗組員の生活痕が至る所に残っていた。
テュッティいわく財宝船は金庫と同じで、目的地に運び、隠したあとは、船内には財宝以外は何も残さないのが普通だという。
(確かに、金庫の中に食べかけのパンは残さないか)
ルカは足元に転がる、カビで黒くなったパンを見下ろす。
(やはり、難破船なのか? だとしたら、乗組員達は皆どこへ行ったのだ? それにあの怨霊の苦しみ様は尋常ではなかった)
真っ先に思いつくのは、海賊の襲撃だ。
乗組員はことごとく殺され、積み荷は奪われ、操船する者のいなくなった船がこの島に流れ着いたのか――
「結論を出すには、まだ情報が不足しているな」
ルカは左右に少女を連れて、さらなる手掛かり探すべく船内を回る。
あれから怨霊は現れず、一層目を全て見て回ったが、何処にも争いの形跡はなかった。
船内で闘えば、そこかしこに刃傷がつくものだ。
(海賊に襲われた訳ではない。だが、何かを恐れて逃げ出したのは間違いない)
足跡や、床に散乱する食器、食べかけの食事の痕跡を見るに、相当慌てて逃げたのだろう。
「だが、甲板への出口は塞がれ、下へ逃げるしかなかった」
ルカは最後となる船倉へ続く階段の前に立つ。
そこからは腐敗臭が漂い、その中に混じるすえた臭いが鼻をつく。
「アテネ、テュッティ……」
ルカは硬い声で、アテネとテュッティに声をかける。
二人は既に目を開いており、先にある階段を見つめていた。
「わかっています。悲しいほどの……負のエーテルを感じました」
アテネは苦しげに胸を押さえた。
「この下に、さっきの子の亡骸があるのね?」
テュッティは真紅の瞳に、怒りとも悲しみともつかない炎を燃やす。
「――――ここから先は俺一人でいい」
ルカは刀の鞘に手をかける。
見るに堪えない光景が、この下に広がっているのは間違いないだろう。
だが、
「いいえ、私も行きます」
「海に生きる女として、引くわけにはいかないわ」
二人はそれをわかっていて、着いてくる決断をした。
「わかった。行くぞ……」
まるで地獄の蓋を開くかのように、ルカ達は階段を降りていく。
そして――
船倉に広がるのは、予想を遥かに越えた、悪夢のようにおぞましき光景だった。
何かに追われ、船倉に逃げた女達に待ち受けていたのは悲惨な運命であった。
重なりあう遺体は全てがミイラのように干からび、絶望と苦悶の表情を浮かべている。
「こんな、酷い……」
アテネが青ざめた表情で口を押さえ、
「嫌な予感は当たっていたようね……」
テュッティは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「…………」
ルカは黙したまま、ミイラ化した遺体に歩み寄った。
遺体の数は、十八。
どれも最後まで苦しんだのだろう。床には爪で引っ掻いた跡が痛ましく残っていた。
跪いたルカは、女達の亡骸に両手を合わせる。
「あんた達の信じる神を俺は知らない。だから、俺に出来るのはこうして手を合わせるぐらいだ」
目を閉じ、御仏に祈る。
黙祷を捧げたルカは、静かに立ち上がると、女達の遺骸の上で脈動する巨大で醜悪な『こぶ』を見やる。
天井に血管のように不気味な触手でへばりつき、女たちを苗床にして、養分とする事で成長したこぶを――
そう。女達は海賊ではなく、『海獣』に襲われたのだ。
卵嚢、卵鞘、泡巣など様々に呼び名はあるが、この醜悪な『こぶ』こそが、海獣が残していった『卵』なのだ。
バチリと、ルカの周囲に雷光が炸裂した。
身体の奥底から沸きあがる怒りが、凄絶なエーテルとなって大気と干渉しているのだ。
「姿かたちは違えど、これもまた『鬼』か。人を喰らい、女を孕ませ、災禍を撒き散らす山之神の眷属か……」
風もないのに黒髪が浮かび上がり、漆黒の瞳が煌々と輝き出す。
その輝きは、青にも、赤にも、毒々しい紫炎にも見えた。
「なら、俺は――――貴様らに対する猛毒となろう。鬼を狩るための鬼となろう」
それは、大和の国から遠く離れた地で出会った『怨敵』であり、海に生きることを許された少年に課せられた『神命』であり、千年続く鬼狩りの血が『覚醒』した瞬間であった。
「今、解放してやる」
ルカは刀の柄に右手を添えた。
直後、ギンッと鋼の音がして、こぶが上下真っ二つに斬って落とされる。
ぞぶりと、はらわたのように、緑の体液と赤褐色の肉があふれて埃まみれの床を濡らす。
「!?」
アテネもテュッティも、同時に息を飲む。
ルカは刀を振り抜いた体勢で止まっていた。
なのに、二人の目には、ルカが抜刀する瞬間も、刀を振るう姿も見る事が出来なかった。
渦巻く怒りが、鬼狩りの血が、ルカに今までにない力を与えているのだ。
と、その時。
ルカが斬り捨てたこぶから、淡い光の玉が浮かび上がり、ふわふわとルカの周りを漂う。
人の魂魄のような光の玉は、女達の遺体の数と、ピタリと同じであった。
「これは、まさか魂なのですか……?」
「大地神が生み出した化け物は、女の魂まで喰らうというの?」
アテネとテュッティは、信じられないという表情で立ちすくむ。
光の玉はルカに感謝を告げるように何度か明滅すると、やがて世界に溶け込むように消え去る。
ミイラとなった遺骸もまた、灰のごとく崩れ去った。
「…………アテネ、これがなんだかわかるか?」
ルカはこぶの切断面から、赤褐色の肉と一緒にまろびでた『卵』を蹴り転がす。
表面にびっしりと血管が浮かぶ、不気味な卵をアテネはしゃがみ込んで観察する。
「これは海獣の卵で間違いありません。ですが、何種までかは――」
「――――それは、海の悪魔の卵よ」
アテネの言葉に被せるように、テュッティが忌々しげに卵を睨む。
「見たことがあるのか?」
「ええ、それもつい最近にね」
テュッティは語る。
この島に流された事の顛末を。
キャプテン・キッドという海賊が、クラーケンを操り海を荒らし回っている事を。
「船に巻き付いた触手を焼き切ったまではよかったんだけど、酒浸りの生活が祟ったのね。急に目の前が真っ暗になって、気が付けば海に落ちていたわ。で、流れ流れてこの島に着いたというわけ」
「そうか……」
ルカは静かな怒りを秘めて、刀の柄をギリッと握りしめた。
と、
「これからどうしましょう?」
アテネが尋ねる。
「一度、外に出よう。彼女達を弔ってやらないと」
ルカは刀を鞘に収めて、灰になった女達の亡骸を見つめた。
◇
外に出たルカ達は、海が見える高台に小さな墓を作って弔いをすませた。
遺体はなく、埋められたのは一掴みの『灰』だけ。
それでも、彼女達の魂は天へと帰ったとルカは信じていた。
ルカは改めて、高台から入り江を見下ろす。
周囲を高い岸壁に囲まれ、海と繋がるのは、船一隻がギリギリ通れる岸壁の割れ目のみ。
「この入り江はクラーケンの巣で、あの船は卵を孵化するための揺り籠というわけか。いや、この島全体が奴の縄張りだったんだな」
商船隊を護衛するあの戦いで、海に落ちたアテネを助けてボートで救助を待っていたルカは、妙な潮の流れに乗った。
急いでオールを漕いだ矢先、ボートの真下をクラーケンが通過していった。
「あれこそが、逃走するクラーケンが生み出した潮の流れだったんだ」
「私達がこの島に流れ着いたのは……偶然ではなかったのですね」
アテネは墓に白い花を供える。
それはプルメリアと呼ばれる花で、コロンビアではよく使われる弔いの花であった。
「で、その潮の流れの中に私もいたと? まるで出来の悪い喜劇のようね」
テュッティは風になびく髪を押さえながら呟く。
真実はいつも残酷だ。
この島に楽園を作る――そう、思っていた。
だが、島の裏側では、数多の女を喰らい、魂を貪る海の悪魔が、真正の化け物が棲みついていたのだ。
三人はしばらくの間、沈黙したまま高台から入り江を見下ろす。
「――――テュッティ、キャラベル船を焼き払え」
ルカは有無を言わさぬ強い口調で、そう命じた。
「お前の性格ならそういうと思っていたわ。でも、いいいの? 唯一残された脱出の可能性よ」
「あの船がクラーケンの揺り籠であるなら、修復して脱出するのは不可能だ。どの道、奴を殺すまでここを離れる気はない」
「百歩譲ってあの忌々しい船を燃やすのはわかる。でも、たった三人でクラーケンに挑むだなんて、蛮勇を通り越して愚かよ。死ににいくようなものだわ」
「一人でいい。俺一人で奴を斬る。二人は安全な場所に避難しててくれ」
ルカは一人でも、クラーケンと戦うつもりだった。
すると、
「駄目です。許可出来ません!!」
アテネは怒った顔で、ルカに詰め寄った。
「これは俺の戦いだ。アテネを巻き込むわけにはいかない!」
「いいえ、これは私の戦いです! 私達の戦いです!!」
「命懸けの戦いになるんだぞ!?」
「逆の立場になって考えて下さい。もし……私が命懸けの戦いに赴こうとした時、ルカならどうします? 一人で逃げるのをよしとしますか?」
「その問い方は、卑怯だ!」
「答えて下さい!」
「例えアテネが拒絶しても、俺は……君の側を離れることはないだろう」
ルカは拳を握りしめ、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「それこそが私の答えです」
アテネは胸に手を当て、そう言った。
「……………アテネ」
「ルカの敵は私の敵です。ルカの試練は私の試練です。ルカの怒りも、悲しみも、そして痛みも、全て――私が共に背負います! どうか一人で戦おうとしないで下さい! 私にルカの背中を守らせて下さい!」
切なくなるほどの愛が籠められた叫びが、ルカの胸に突き刺さる。
ルカは固く握りしめた拳を、解くしかなかった。
「……まいったな。アテネが俺の負の部分まで背負うというのなら、俺は……その何倍もの幸せで君を包み込まないと、釣り合いが取れないじゃないか」
「今なら特別に、美味しいディナーで手を打ちますよ! とっても安上がりでしょう?」
アテネは片目を閉じてウィンクする。
「わかった。とびっきりの料理を作ると約束するよ」
ルカはそう言って、愛しいマーメイドを見つめる。
アテネもまた、ルカを真っすぐに見つめ返す。
熱く視線を交わらせる二人。
やがて、アテネは頬を赤く染め、静かに目を閉じた。
ルカはその艶やかな唇に魅入られるように、唇を近づけ――
と、そこへ。
「胸やけがするから、女同士でイチャつくのは止めて貰えるかしら?」
ザッと砂を踏みしめる音がして、テュッティが二人の間に割って入る。
「むぅ、お邪魔虫です!」
アテネが頬を膨らませた。
「黒髪、お前は……もっと冷静な女だと思っていたわ。でも、どうやら違うようね」
指先でルカの胸を突きながら、テュッティは吐き捨てた。
「あんなものを見せられたら、どんなに冷めた頭でも煮え立つさ」
「わきまえなさい。多少腕が立ったところでお前はただの奴隷なのよ!」
「そうさ。俺はただの奴隷だ。一〇〇〇シリングの価値しかない存在だ。だから、その命を張るのになんの躊躇いがある」
「どうしても戦うと?」
「――――戦う」
ルカの揺るぎない答えに、テュッティはカッと真紅の瞳を見開くと、怒りの炎を爆発させた。
「なら、そこに跪いて乞いなさい! 助けて下さいと! 力を貸してくださいと! この私がいなければ、ただでさえ低い勝算がゼロになってしまうわよ!?」
「手を貸してくれるのか?」
ルカは驚いた顔で、テュッティを見やる。
「……お前を殺すのは私よ。あんな化け物にくれてやるわけにはいかないってだけ」
テュッティは真紅の髪を指先で弄りながら、不機嫌な顔でそっぽを向く。
素直でない言い回しで、それでも命を懸けてくれる少女に、ルカは深い感謝の念を覚えた。
「俺に力を貸してくれ、テュッティ」
頭を下げて助力を願う。
すると、
「し、仕方ないわね。そんなに頼むなら合力してあげるわ」
テュッティはそっぽを向いたまま答えた。
「ありがとう。感謝する」
「やるからには勝つわ。作戦があるなら教えなさい。《トリニティの奇跡》とやらの実力を拝見させて貰いましょうか?」
二度にわたる黒髭の襲撃を食い止め、大反攻作戦を立案したルカを称賛する二つ名だが、ルカはその大仰な名を気に入ってはいなかった。
「その二つ名は止めてくれ。あれは俺だけの成果ではない。アテネを始め、一緒に命を懸けた全員で成し得た奇跡だ。だが――とっておきの作戦ならあるぞ」
ルカはそこで言葉を切ると、アテネとテュッティを順番に見つめる。
そして、
「――――海の悪魔を、一撃で仕留める方法がな」
漆黒の瞳に、冷徹な殺意を押し込めて言った。




