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無人島生活十日目。
真紅の髪の少女テュッティと、蒼い髪の少女アテネが、共に森を歩く。
どちらも類い稀なる美貌を持つが、その美しさはコインの表裏のように、火と水のように、性質の異なるものであった。
「ねぇ、あれは食べられるのかしら?」
と、テュッティは尋ねる。
「はい、それはクコの実といって、食用可能な木の実ですよ」
木の実を見つめながら、メイド姿のアテネは答えたる。
怪我を治療してから一週間が経ち、口を開けば喧嘩ばかりしていた二人の関係も、幾分落ち着きを見せていた。
今ではこうやって、二人だけで森を散策するほどである。
だが、仲良くなったわけではない。
一度、互いに武器を抜く大喧嘩に発展した際に、ルカからこっぴどく怒られ、二人とも晩御飯を抜きにされたのだ。
それからは一時休戦といった状態だ。
喧嘩するのに飽きたというのあるが、ルカの手料理を食べられないのは非常に深刻な問題であった。
と、
「これが美味しそうね」
テュッティは沢山生っているクコの実を一つもいで、何気なくかじろうとするが――
「ま、待って下さい! クコの実は食べられますが生のままだと、とっても酸っぱいんです!」
アテネが慌てて止める。
だが、テュッティは静止を聞かずそのままクコの実をかじった。
「あら、以外といけるわよ」
「本当ですか?」
「嘘だと思うなら、お前も食べてみなさい。百聞は一見にしかずよ」
テュッティはもう一つクコの実をもいで、アテネに放り投げる。
「確かに、気候や風土の違いで植生に変化が生まれると、本に書いていましたね」
アテネはキャッチしたクコの実をかじってみた。
次の瞬間。
強烈な酸味が舌を突き刺し、口から鼻に痛みとなって抜けていく。
アテネは思わず口を押さえてうずくまった。
「ぷっ、あははははは! こんな簡単な演技に騙されるなんてまだまだね、マーメイド!」
テュッティは腹を抱えて大笑いした。
「むううう! 今日という今日は怒りましたよ!」
ツインテールの髪を逆立てる勢いで、アテネは頬を膨らませる。
「追い付けるものなら、追い付いてみなさい!」
テュッティは、挑発的な笑みを浮かべて走り出した。
「ま、待ちなさぁああい!」
軽快な走りで森を駆けるテュッティに、それを追うアテネ。
テュッティは走りながら思う。
(やっぱりこの子、驚異的な身体能力を持っているわ)
身体の柔軟性は言うに及ばず、特に瞬発力が優れており、まるで戦の申し子のように鋭い動きをする。
だが、身体能力ならテュッティも負けていない。
継続的な速さや、駆け引きは、テュッティが上回っていた。
なにより、
(森の中で真っすぐ追いかけてくるだけじゃ、絶対に追いつけないわよ!)
木の陰に隠れ気配を殺して移動するテュッティを、アテネは見失いがちで、徐々に二人の距離は開いていった。
◇
畑で作業をするルカに、森から真紅の髪の少女が走り寄って来る。
「性が出るわね、黒髪」
息を弾ませながら、額の汗を拭うテュッティ。
「アテネはどうした?」
「森を彷徨っているわ。すぐに追いついてくるでしょう」
「すっかり調子を取り戻したようだな」
「ええ、不思議な事に以前よりもずっと調子がいいの。今ならお前を簡単に殺せそうよ」
「やってみるか?」
スコップを地面に突き刺し、ルカは言う。
「止めておくわ。私、楽しみはあとに取っておく質なの。それにお前とはベッドの上で勝負がしたいわ」
「どういう意味だ?」
「あの時は不意打ちで何もできなかったけれど、今なら私のテクニックで哭かせてやるって意味よ。ふふ、男勝りのお前が、どんな可愛らしい声をあげるか楽しみね」
テュッティは誘惑するように、挑発するように、指先でルカの胸を撫でる。
その瞳には、今も殺意と憎悪が燃え盛っていたが、己をも焼き尽くす怒りの炎は影を潜めているように見えた。
「誤解を招くような言い方をするな。あれは、ただの救命措置だ」
「一欠けらの後ろめたさもないと?」
「ない」
ルカはきっぱりと言い切る。
「だったら、どうしてあの子に目を閉じるようにいったのかしら?」
「聞いていたのか……」
「朧げに意識はあったわ。身体は動かなかったけれどね」
「後ろめたさはない。だが、傷つけてしまうと思った。今は、下手に隠すべきではなかったと後悔しているよ」
「お前達ってほんとおかしな関係ね。まるで恋人に対する物言いじゃない。さしずめ奴隷の歪んだ主従ってところかしら?」
「俺とアテネの間に主従はない。あるのは共に目指す夢だけだ」
「ふぅん、恋人という部分は認めるんだ。それとも歪んでいるほうかしら?」
「……………さあな」
恋人かどうかはともかく、特別な感情は抱いている。
そして、『歪』んでいるのも間違いないだろう。
ルカはアテネに強く『依存』していた。
家族を失い、仲間を失い、己の命を失いかけた時に現れた救いの女神がアテネだ。
恩義が好意に変わり、気が付けば後戻り出来ないほど惹かれていた。
大和の国から遠く離れた異郷の地において、アテネだけが、ルカをこの世界に繋ぎ止める『縁』なのだ。
だから、失うことを極端に恐れる。
もし、万が一にでもアテネを失うことがあれば、真っ暗な水底よりも、遥かに暗くて冷たい領域に堕ちるだろう。
本心をいうなら、アテネを誰に手にも触れることの出来ない、安全で危険のない場所に捕らえてしまいたい。
そう。塔の頂にある牢獄などが、丁度いいだろう――
「ねぇ、気が付いている? お前……ゾクゾクするような素敵な目になっているわよ」
「ッ!?」
テュッティの声にルカは我に返る。
いつの間にか思考がドス黒く染まっていた。
「二度目に船を襲ったあの時、私はマーメイドを殺してお前の心に仄暗い炎を灯そうとした。失敗したと思っていたけれど、その目を見て確信したわ。お前はもう……私の炎からは逃げられないと、ね」
テュッティのいう通りだった。
アテネの首に龍鞭が巻き付いたあの時から、苦しげに呻く声を聞いたあの瞬間から、ルカの心には決して消すことの出来ない漆黒の炎が宿っていた。
怒りとも、恐怖ともつかない、冷たく暗い絶望の炎が。
「満足か?」
「ええ、大満足よ。愛には純も不純もないの。どんなに甘い言葉で包んでも、そこにあるのは相手を欲する『欲望』だけ。だから……一つ忠告してあげる」
テュッティはそこで言葉切ると、抱き着くように身体を寄せ――
「お前が幾ら求めても、あの女は手に入らないわ」
と、悪魔のように囁いた。
「身分違いの恋はいつの時代も悲壮なものよ。しかも相手は世界に覇を成すフォーサイス家の一人娘。そこへ女同士の禁忌までおまけされたら、この世の何処へ逃げても安住の地はない。お前がどれだけ剣の腕が立とうともね。その想いは、いずれ――現実という名の狂気に押し潰されるわ」
テュッティは言葉を紡ぎながら、ルカの胸から順に、鎖骨を撫で、首を通って、顎へ指を添えると、最後は口付けせんと唇を寄せていく。
だが、
「そんな事は、とうに覚悟の上だ」
ルカはテュッティの腕を振り払うと、短い言葉に決して折れない意思を籠めた。
テュッティは自分が愛を囁かれたかのように、頬を染め、熱い吐息を吐く。
「――――お前が欲しいわ、ルカ」
真紅の瞳には、殺意と、憎悪と、情欲が、混然一体となって燃え盛っていた。
「断る!」
「いいえ、駄目よ。お前は私の命を救ってしまった。二度にわたってね。それがどういう意味を持つのか、これから……ゆっくりと理解させてあげるわ」
と、その時。
頭に小枝や木の葉をつけたアテネが、森から飛び出して来たではないか。
「見つけましたよ、テュッティ! って、ああ!? る、ルカから離れなさいぁい!!」
大きな声が森に響き、鳥たちが一斉に飛び立つ。
テュッティは今までの狂熱が嘘のように楽しげに笑うと、あっさりと身体を離した。
「やれやれ、うるさいマーメイドがやって来たわ。夜には戻るからあとはよろしくね」
「猫のように気まぐれなやつだ」
ルカはそう呟いて、走り去るテュッティを見送った。
ほどなくして、
「ああ、もう! また逃げられました!」
畑まで走って来たアテネは、ぷっくり頬を膨らませた。
「あの様子なら、怪我の具合は大丈夫そうだな」
「見ての通りです。運動機能にも問題はありませんし、体力もすっかり回復しました」
「よかったじゃないか。アテネの霊薬のおかげだ」
「いいえ、全然よくありません! 元気になったのにお手伝いはしてくれないし、 昨日も頼んでいた仕事をほっぽりだして海で遊んでいたんですよ! 意地悪ばかりするし、ほんとにもう……」
アテネは拗ねたように唇を尖らせるが、その表情に険はなく、むしろ楽しげですらある。
今の二人の関係を例えるなら、少し仲の悪い姉妹だろう。
アテネを妹とするなら、テュッティは妹をからかう姉である。
あの日から、ルカを含めた三人の関係は変わった。
ぎこちないまでも会話があり、笑いがあり、寝食を供にする。
だが、完全に打ち解けたわけではない。
互いに牙を納め、凍てつく感情を、仄暗い炎を、無理矢理に封じているのだ。
時間をかけて解きほぐしていけば、やがて雪解けに至るかもしれない。
だからこそ、テュッティは必要以上にアテネにちょっかいをかけ、互いに傷付けないような距離を計っているのだ。
「少し待っててくれないか。もうすぐ作業が終わる」
「私もお手伝いします! 早く終わらせて、二人だけで美味しいものを食べましょう!」
二人だけという部分を強調して、アテネは言った。
◇
夜。
周囲を岩で固めてさらに使い勝手の増した焚火炉で、ルカが夕食を調理していた。
今夜は、たっぷりのキノコと山菜に、兎肉をふんだんに使ったシチューだ。
「それで、テュッティったらクコの実をかじっちゃうんですよ!」
隣に座るアテネが、作業を手伝いながら楽しげに談笑する。
この一週間で、拠点の設備は大きく発展していた。
害獣対策に拠点の周囲には竹柵が施され、柵の内側には、七面鳥の飼育小屋に、トイレ小屋、薪を保管するための薪小屋まで作られた。
まだ牛を捕まえていないが、これから牛小屋も作る予定となっている。
他にも生活に必要な様々な食器や、調理器具などを、木から削り出して作った。
現在は、炻器と呼ばれる土鍋や、炭作りのために、大きな『窯』を作る計画が進められていた。
と、
「――――島の反対側で、難破船を見つけたわ」
夕食時に戻って来たテュッティは、開口一番そう言った。
「船ですか!?」
テーブルに器を並べていたアテネは、驚きに手を止めた。
「損傷は?」
シチューを作っていたルカも、鍋を火から離してテュッティに歩み寄る。
鍋は、真銀の兜を叩いて伸ばして成型したもので、もはや兜の面影はどこにも残っていない。
「中は見てないけど、外には大した損傷はなかったわ。船の苔具合から見てここ一年以内に難破したものよ」
陸では水を離れた魚のようだったテュッティだが、船に関する知識や経験は、長年船乗りをしていたルカをも凌ぐため、その言葉には強い信憑性を感じた。
「随分新しい船だな。人の気配はなかったのか? ここ一年なら、生存者がいてもおかしくないだろう」
「私もそう思ったけれど、人の気配は全く感じなかったのよ」
テュッティは肩をすくめて答えた。
「修理は出来そうですか?」と、アテネ。
「そうね。あの程度の損傷なら修理は可能だと思う。けど、竜骨を見ない事には最終的な判断は出来ないわ。外側は無傷でも竜骨が折れてたらお手上げだもの」
竜骨とは人体でいう背骨にあたり、船底の中心線を通る太い木材だ。
ここが損傷している場合、他がどれだけ無事でも船としては終わりなほど重要な部分である。
「明日にでも皆で行って確認してみよう。もし竜骨が折れていたとしても、解体すれば新しい船を造る材料に使える。それに船内には様々な道具が残っているだろう」
「賛成です! 先伸ばしになっていた探検ですね!」
ルカの提案に、アテネが嬉しそうに両手を叩く。
「そういえば、探検に出れずじまいになっていたな」
「テュッティったらずるいんですよ。自分ばっかり島を探検して!」
「おかげで船を発見出来たからいいじゃない。ああいう船にはお宝が眠っているものよ。楽しみにしてなさい」
「お宝!」
金銀財宝に興味があるというより、宝探しという探検要素に惹かれているのだろう。
アテネはキラキラと瞳を輝かせる。
「そうと決まれば、飯を食べたら今日は早めに休もう」
「すぐに準備をしますね!」
アテネは急いでテーブルに器を並べていく。
「お腹が減ったわ。今夜のメニューはなにかしら? あ、そこのメイド。ワインを入れてくれない?」
椅子に腰かけたテュッティは、優雅に脚を組んだ。
「……どうやら器は、ルカと私の分だけでいいようです」
アテネは凍えるように冷たい目で、テュッティの器を片付け始める。
「冗談よ。私も手伝うに決まってるじゃない。まぁ、私に出来る事があればだけど」
テュッティは自信満々に髪を掻き上げ散らす。
「どうして何もできない人が、一番偉そうなんですか!」
アテネは当然のように怒った。
すっかり日常となった、アテネとテュッティのやり取りを聞きながら、ルカはそれぞれの器にたっぷりシチューを注ぐのであった。
◇
「片付けをしておくから、二人は先に水浴びをしてくるといい」
食事を終え、アテネがむいてくれたデザートを堪能したルカは、二人の少女に向けそう言った。
「たまにはルカも一緒に水浴びしませんか? 出来たばかりの石鹸で背中を流しますよ」
「いや、俺は後でいい。遠慮せずに先に行ってくれ」
男であることを隠さなければならないルカは、二人と一緒に水浴びする訳にはいかなかった。
すると、
「そう、ですか。わかりました。無理に誘ってごめんなさい」
アテネは何かを察したような表情で、ぺこりと頭を下げた。
と、
「ちょっと待ちなさい。石鹸なんてあるの?」
爪を磨いていたテュッティが、驚いたように顔を上げた。
「ふふん、これです!」
アテネは長方形の真っ黒な塊を、テュッティに手渡した。
「へぇ、随分と上質じゃない。お前こんなものまで作れるんだ」
「塩と竹灰とココナッツオイルから作ったんです。霊薬の調合よりずっと簡単ですよ。あ、それはテュッティにあげます。私とルカのはこちらにありますから」
アテネはテュッティに渡したものの三倍はある石鹸を取り出した。
「どうして私の石鹸は、こんなに小さいのかしら?」
「テュッティが全然お手伝いしてくれないからです! 今日は石鹸を作るために誘ったのに!」
「はいはい、悪かったわよ。あ、そうだ。私達が火の番しといてあげるから、たまには、お前が先に行きなさいよ、黒髪」
テュッティはそう言って、ルカを見やる。
「それは名案です! テュッティもたまにはいいことをいいますね。温い飲み物を用意しておきますから、どうぞ先に行って下さい!」
結局、ルカは二人に押しきられる形で、先に水浴びにいく事となった。
◇
ルカが川に向かって、十分ほど経った頃。
「さてと、そろそろいいかしら」
爪を磨いていたテュッティが、おもむろに立ち上がった。
「何処へ行くんです?」
ルカのためにハーブティを作るアテネがそう問う。
「あいつの水浴びを覗きに行くのよ。少し気になることがあってね」
「なっ!? だ、駄目ですよ!」
アテネは真っ赤な顔で立ち上がった。
「女同士なんだし、別に裸を見るぐらい構わないでしょ?」
「構います! ルカは私にだって肌を晒さないんですから!」
「そこよ。私が気になるのは。どうしてあいつは頑なに肌を見せないの? 男装していることと何か関係があるのかしら」
「知りませんし、知ろうとも思いません」
ルカの秘密の一端を知るアテネは、真っすぐにテュッティを見つめて言った。
「なぜ?」
「ルカを信じているからです!」
いつか必ず、ルカは自分の口で真実を伝えてくれるだろう。
ならば、その日が来るまでアテネは待とうと決めていた。
「お熱い信頼関係だこと」
「それはもう!」
アテネは誇らしげに胸を張るが――
「お前達二人だけなら、その信頼関係は美しいでしょう。でも……今の私のように、悪意を持つ第三者があいつの秘密を暴こうとした時、真実を知らないお前にあいつを守ることが出来るかしら?」
「そ、それは!」
一番痛いところを突かれたという風に、アテネは眉間にしわを寄せる。
「知ろうとせず盲目的に信じるより、知った上で受け入れるのが、女の度量ではないかしら?」
腰に手を当て、テュッティは言い切った。
「…………ッ」
アテネは考える。
例えルカがどんな秘密を隠していても、彼女への信頼も、愛情も、変わることはない。
たった一つの真実で変えられるほど、この想いは軽くはなかった。
だが、確かにテュッティの言う通り、もしルカの抱えてる『尻尾の秘密』が他の誰かにバレそうになった時、真実を知っている者だけがルカを守ることが出来るだろう。
アテネはルカを守りたいと、守れる者になりたいと強く思った。
ただ――
「む~! 言ってることは正しく聞こえるのに、悪の道に誘われてる気がします!」
頭では理解しても、心が警鐘を鳴らしていた。
悪人は真実を語り、その真実によって人を騙すという。
「嫌ならここで待ってなさい。無理に誘わないわ。でも、そうなれば秘密は私だけのものとなり、あいつを脅すのも簡単になるわね」
テュッティはあっさりと身をひるがえし、ルカの居るであろう森へと歩いて行く。
「ま、待ちなさい私も行きます! ルカを守るのは、私なんですから!」
このままではルカの秘密が知られてしまうと焦ったアテネは、慌ててテュッティの後を追う。
「ふふ、ちょろい子ね」
テュッティはアテネの気配を背中に感じながら、悪い笑みを浮かべるのであった。
いつも水浴びをする川辺まで来たアテネとテュッティは、近くの草むらで息を潜める。
結局、テュッティを止められぬまま、なし崩し的にアテネも水浴びを覗く事に。
「――――いたわ。あそこよ」
「暗くてよく見えません……」
確かに人影はあるが、今夜は雲が出ているため森の中は暗く、はっきりとルカの姿が見えない。
「あまり顔を出したら気付かれるわ。あいつの目のよさは、お前が一番知っているでしょう」
「そ、そうでした」
アテネは慌てて頭をひっこめる。
「私が思うに、あいつが隠したいのは身体のコンプレックスよ」
「コンプレックスですか?」
「間違いないわ。あいつの胸を触ったときに確信したの。まるでまな板のように硬い胸板だったのよ」
「ま、まな板……」
アテネは思わず、自分の胸を両手で触る。
「豊かた胸を持つ私達には想像出来ないけど、胸のサイズに悩む女は多いわ。あいつもきっとそうよ」
名推理でしょうと自信満々のテュッティに対し、アテネは首を傾げる。
「そうでしょうか……」
秘密を話せないと言ったルカの表情は、辛そうで、とても苦しそうだった。
胸がぺったんこだからといって、あんな顔をするとは思えない。
それに、アテネは知っていた。
ルカの股座から生え出る、太くて長大な尻尾を――
「いずれにせよすぐにわかるわ。雲の切れ目から月明かりが射すわよ」
二人は息を潜め、固唾を飲んで、その時を待つ。
夜風に森の木々がざわめき、雲は緩やかに流れていく。
そして――――
雲の切れ目から、光がカーテンのように降りてきて、闇に溶け込んでいたルカの姿を照らし出す。
ルカは背を向け、髪紐をほどくため両手を掲げていた。
衣服の類は全て脱ぎ払われ、中に隠されていたのは鞘から抜き放たれた刃のように、凶暴で、荒々しく、恐ろしいほどの切れ味を秘めた肉体であった。
「――――ッ!?」
アテネとテュッティは同時に声を失う。
心臓の鼓動だけが耳に響き、呼吸すら忘れて、その背中に見惚れる。
鍛え上げられた肉体には無駄な贅肉は一切なく、しなやかな筋肉が全身を包み込み、みなぎるような生命力と、雄々しさが放たれていた。
綺麗だと思った。
恐ろしいとも感じた。
なのに、どこか儚げで、幻想的で、どうしても目が離せないのだ。
暗い森に浮かび上がるルカの裸体に、少女の視線は釘付けとなっていた。
引き締まったふくらはぎから、ふとももへ視線が流れ、お尻から、腰を通って、最後は背中へ行きつく。
その背中には『奴隷』を示す『焼印』があり、痛々しく無残な痕にすらある種の魅力を感じた。
穢してはならないものを、穢したかのような背徳的な美を――
「あれは、あれは一体『何』なの……?」
神をも恐れぬ少女が、《彩炎の魔女》の異名を持つ大海賊が、畏怖するように唇を震わせた。
それもそのはず。
少女達は見てしまった。
そして、知ってしまったのだ。
月光を浴びて輝く肉体が、その構造が、その有り様が、自分達とは似て非なるものだという事に。
なら、彼女は一体『何者』なのか?
そもそも、本当に『彼女』であっているのか?
アテネもテュッティも、これまで男の裸など一度たりとも見た事がない。
だが、仮にあったとしても、同じ疑問を抱くだろう。
この世で海に出る事を許されるのは、『女』だけなのだから――
「――――サイニ・ルークス・イムマクラータ」
アテネが唱えるのは、『穢れなき光』という意味を持ち、《海の女神アンフィトリテ》の息子にして唯一海へ入るのを許された《少年神トリトン》を表す言葉であった。
「マグナ・マーテル・デオルム・イダエア――――」
テュッティが震える唇で紡ぐのは、『大いなる母』という意味を持ち、大地母神にして《両性具有の神キュベレー》を表す言葉であった。
と、その時。
結んであったルカの髪がほどけ、パッと散るように、月光を反射しながら漆黒の髪が流れ落ちる。
その光景はあまりに神秘的で、二人は食い入るようにルカを見つめた。
「はぁ……あ……」
熱の籠った吐息を漏らしたのは、果たしてどちらだっただろう。
二人の少女は、月明かりに映る一人の少女に見惚れ、身体の芯に甘い熱を帯びる。
それは本能であった。
あれこそが自分達の番になる者だと、身体が理解していたのだ。
疼く下腹部を気にするように、少女達は短いスカートの裾を握りしめる。
次の瞬間。
「ッ!?」
アテネとテュッティは、思わず身を乗り出した。
何故なら、背中を向けていたルカが、ついにこちらへ身体を向けようとしているのだ。
後ろ姿だけでもこんなに胸が熱くなるのに、前を見てしまったら自分達は失神してしまうかもしれない。
それでも少女達は、固唾を呑んで、ふとももを擦り合わせて、ルカに熱い眼差しを注ぐ。
だが、
「ああ……ッ!?」
二人は揃って、悲痛な声が漏らした。
あと少しというところで、雲に遮られて月明かりが途切れたのだ。
闇が再び森を覆い隠し、今まではっきりと見えていたルカの姿を朧げにする。
諦めきれない二人は、何とか視線を通さんと身を乗り出すが、手元がおろそかになっていたのだろう。
パキリ――と、小枝がへし折れる音が響き渡った。
「――――誰かいるのか!?」
ルカの鋭い声が森に響き渡る。
アテネとテュッティは両手で口を押え、血相を変えて草むらに平伏した。
だが、刀を手にしたルカが、こちらに歩み寄ってくる気配がして――
(どどど、どうしましょう!?)
(ど、どどど、どーすんのよ!?)
二人は大混乱に陥った。
こんな状況を見られたら、どんな言い訳も通じないだろう。
(死んだふりです!)
アテネは草むらに突っ伏し、死んだふりをする。
(意味ないわよ、バカ!)
(なら、他に案を出して下さい!!)
(ど、動物の鳴き声で誤魔化すとか……?)
いつも自信に満ちているはずのテュッティが、不安げに呟く。
(それです! それしかありません!)
(でも、この島に居そうな動物なんて、私、全く知らないわよ!?)
そんなやり取りをしているうちに、どんどんルカが近付いてくる。
と、
「――――にぁあ」
アテネが咄嗟に、可愛いらしい猫の鳴き声を上げた。
(な、なんで猫なのよ!)
(これしか思い付かなかったんです! 早くテュッティも!)
(ああ、もう!)
テュッティは鼻をつまむと、
「にゃ、にゃぁご」
と、どら猫のような鳴き声をあげた。
二人が隠れている草むらのすぐ側まで来ていたルカは、
「山猫の類いか……」
と、呟いて、しばらく周囲見渡したあと、背を向け去っていった。
(い、今のうちに、逃げるわよ!)
(はい!)
アテネとテュッティは、文字通り尻尾を巻いて逃げ出した。
◇
次の日の朝。
アテネの作った石鹸で心身ともに洗い清めたルカは、清々しい目覚めで朝を迎えた。
改めて、衛生を保つことの大切さを思い知る。
昨晩はアテネもテュッティも、熟睡したのだろう。
ベッドの中で身じろぎ一つしなかった。
「ここで本格的に暮らしていくなら、風呂作りも考えないとだな」
今日見に行く船の損傷具合では、無人島生活の長期化を避けられないだろう。
そうなれば、今後の生活の質を向上させるためにも、風呂は必要だとルカは考えた。
火山由来の島なら、温泉が沸いているかもしれない。
楽園を作ろうというアテネの気概に、ルカはすっかり当てられていた。
だが、そんなルカの後ろでは――
「ぜ、全然……眠れませんでした」
眠たげに目を擦るアテネと、
「ええ……凄く、眠いわ……」
あくびを噛み殺すテュッティの姿があった。
こうして、ルカの与り知らぬところで、アテネとテュッティはちょっぴり仲良くなっていた。
同じ秘密を共有する者として――
次で三章に入ります。




