2
2
ルカは鬱蒼と生い茂る熱帯の森に分け入る。
目的は二つ。
水源の確保と、食糧だ。
ルカは闇雲に探索するのではなく、手ごろな木に登ると自然の声に耳を傾ける。
鬼狩りの一族として、山の歩き方を幼い頃から教わっている。
神の呪いにより女が入ることの出来ない山は、男にとっての聖域であり、鬼と戦う戦場でもあった。
「あっちだな」
水が流れる音を探知したルカは、木から飛び降り音の方へ走る。
ほどなくしてルカは、せせらぐ小川に辿り着いた。
川辺に膝を突いて、水の中に手を入れる。
冷たく、澄んだ水。
手ですくって口に含んでみる。
臭みも渋みもない。横に水を吐き出し、ルカは立ち上がった。
「煮沸すれば飲み水は問題ないな」
もしかしたら生水でも大丈夫かもしれないが、用心するに越したことはない。
ルカは周囲を見渡し、竹が生えているのを見つける。
竹は、万能素材だ。
加工しやすく頑丈で、様々な用途に使用出来る。
手頃な太さの竹を切ると、ふしごとに切断。穴を開ければ水筒の完成だ。
と、その時。
ルカの視界の端を、黒い影がよぎる。
「シッ!」
鋭く息を吐きながら、竹を削っていたサバイバルナイフを投擲。
ギャと小さな獣の声。
歩み寄れば、丸々太った耳長兎が倒れていた。
銃での射撃は苦手だが、投擲には自信がある。剣の師に言わせれば、まだまだ甘いらしいが。
ルカは生き物の恵みに感謝するため、手を合わせてからトドメを刺して血抜きする。
「これはいい獲物が捕れたな」
四キロはある大きな兎だ。
二人で食べるには十分すぎる量だろう。
早く戻ってアテネの腹を満たしてやらなければと、ルカは意気揚々と帰路につく。
森を出て拠点に戻ると、先にアテネが焚き火の前で作業をしていた。
「おかえりなさい、ルカ! 見てください、立派なサーモンが捕れたんですよ!」
アテネは嬉しそうに見事な大きさのサーモンを掲げてみせた。
だが、
「す……凄いな。中々見ない大きさだぞ……」
ルカの視線はサーモンよりも、アテネのたわわな『胸』に釘付けとなる。
何故なら、アテネはメイド服から、純白ビキニの水着姿へ変わっていたのだ。
「なんといってもマーメイドですから、お魚を取るなんて朝飯前ですよ」
えっへんと胸を張るアテネ。
重そうな胸がたゆんと揺れる。
「その水着はどうしたんだ?」
「はい、ボードにあるのをお借りしました。少しサイズが合いませんが、水場での作業にはもってこいです」
「そ、そうか」
確かに胸がきつそうだと、ルカは危うく言ってしまいそうになった。
「ルカの方は収穫はありましたか?」
「いい獲物が捕れたぞ。あと、川が近くにあったから水も汲んできた」
ルカは耳長兎と、竹筒を掲げてみせた。
「わぁ、素晴らしいです! 今夜はご馳走ですね! それに水源まで確保するなんて流石です!」
「皮をはいでさばいてくるよ。ところで、アテネは何をしているんだ?」
焚火の上で真銀の兜が逆さまに乗っており、ルカは怪訝な顔をする。
「兜をお鍋変わりに使っています。海水を沸騰させて塩を作ろうかなと。あと、ハーブが自生してたので何種類か取ってきました。見てください、ローズマリーに、セージ、ガーリックなんかもあるんですよ! これで特製のハーブソルトを作ります!」
「なるほど、最高だな」
ただの塩味でも美味いだろうが、ハーブと塩を混ぜたハーブソルトがあれば、素材の味は何倍にも豊かになるだろう。
「今からお腹が空いてきましたよぅ」
「アテネはいつも腹ペコだろ」
「く、空腹は健康的な証拠です!」
アテネは恥ずかしそうにお腹を押さえる。
両手で掴めそうに華奢な腰は、綺麗なくびれを描いており、あの細いお腹のどこに沢山の食事が入るのだろうかと不思議に思う。
こうして、ルカとアテネの二人は会話を弾ませ調理を続ける。
ルカが兎を解体している間に、アテネは料理に使う植物を集めた。
拠点のすぐ近くに『ティーリーフ』という名の、高さ二メートルぐらいの南洋植物が群生しており、その葉は人の顔ほど大きいのに、柔らかく、とても甘い香りがする。
カリブでは何処でも見かける植物だが、葉には強い殺菌作用があることで知られており、傷の回復を早める薬草として使われたり、腐敗防止のために食材を包むものとして、市場などでもよく使われている。
アテネはそれを、食器や調理器具のの代わりとして使うつもりだった。
「調理法やレシピは、私が色々知っていますけど、その……えっと……」
言いにくそうに指をモジモジするアテネ。
「安心しろ。芋の皮むきも出来ないアテネの代わりに調理は俺がする。食べたいものを言ってくれ」
「お、お芋の皮むきくらい出来ます!」
アテネは顔を赤くして抗議する。
「そうだったか?」
「うう、そうだと胸を張って言いたいところですが、お芋の皮むきがようやくといったレベルの調理技術しかないのも事実です。もしルカに料理の心得があるのなら、お任せしてもいいでしょうか?」
「任せておけ」
こうして料理長に就任したルカは、さっそく調理に取り掛かる。
鱗やエラ、はらわたなどを取り除いたサーモンに切り込みを入れて、数種類の生ハーブを挟んだあと、塩をたっぷり振りかけ、ティーリーフで何重にも包む。
焚火の前に穴を掘り、そこにティーリーフで包んだサーモンを入れる。
砂で蓋をしたあと焚火をかぶせれば、サーモンの姿蒸しの出来上がりというわけである。
もう一品は、耳長兎の串焼きだ。
さばいて兎は部位ごとに分け、特製のハーブソルトをもみ込み、最後は竹串に刺して焼くというシンプルな調理法。
あとは、どちらもじっくり時間をかけて火を通すだけだ。
アテネは焚火の前にしゃがみ込み、ワクワクした表情で焼けていく肉などを眺めていた。
「すまない、アテネ。しばらく火の番を頼めないか?」
「構いませんが、ルカはどこへ行くのですか?」
「この場所は海からも森からも遠すぎず近すぎず、拠点にもってこいだ。だから雨風を凌げる本格的なテントを作ろうと思う」
テントを作るのに必要な材料を、ルカは調達しに行くつもりだった。
「なるほど、名案です! ですが、それならご飯を食べてから二人で行った方がよいのではありませんか?」
「いや、時間が惜しい。太陽の高さを見るに今はおそらく昼の一時頃だろう。食事を終えてから材料の調達に行っては、テントを作る頃には日暮れになるかもしれない」
無人島の夜がどれだけ冷えるかわからない現状、雨風をしのげるテントは早めに立てておくべきだろう。
風邪でも引いたら大変だ。
それに食料も水も確保できた以上、病み上がりのアテネには出来るだけ安静にして欲しかった。
「ちなみに、テントに使う素材は決まっていますか?」
「竹を使おうと思う。加工しやすいし、頑丈だからな」
「わかりました。では私は火の番をしつつ、テントの設計をしておきます!」
アテネは期待してて下さいという表情で、胸に手を当てた。
「ああ、頼んだ」
ルカもまた期待しているぞという表情で、コクリと頷いた。
◇
水場の道中に生い茂っていた竹林に到着したルカは、さっそくテントの材料に使う竹を切り倒して行く。
選ぶのは、長く育った太くて青々とした竹だ。
よく育った竹は、長さ二〇メートル、幅一〇センチを越える。
「五本もあれば足りるだろう」
竹を切り倒したルカはナイフを取り出し、運びやすいよう枝を掃って半分の長さに斬り落とす。
運び出すのは地味な作業となる。
長さ一〇メートルになった竹を、肩に担いで一本づつ森から運ぶ。
森の出口に全ての竹を積んだ頃には、肉の焼けるいい香りが漂って来ていた。
「これは急がないと、アテネに怒られてしまうな」
食いしん坊のマーメイドは今頃たまらないといった表情で、ルカの帰りを待っているだろう。
ルカは急いでロープの代わりとなる蔓草を求めて、再び森へ戻る。
目星は既についていた。
竹を運ぶ道中で『ブラックベリー』が生っているのを見つけたのだ。
ブラックベリーとは、甘く酸味のある小さな果実をつける蔓植物だ。
一〇メートルほど蔓を採取し、丸めて一抱えにする。
ベリーを一つ食べてみると、ほどよい甘さと酸味が口に広がった。
「お土産も手に入ったし、早く戻ろう」
ブラックベリーを幾つかポケットに入れて、ルカは足早に拠点への帰路につく。
「お帰りなさい、ルカ! お疲れさまでした!」
戻ると、竹筒を持ったアテネが出迎えてくれた。
「ただいまアテネ。それは?」
「喉が渇いただろうと思ってハーブティを作ってみたんです。氷で冷やしてますからどうぞ」
水の聖霊術を自在に操るアテネは、氷すらも簡単に作り出すことが出来るのだ。
「それは助かる。喉がカラカラだったんだ」
竹筒を受け取ったルカは、ハーブティを一口飲んでみた。
ハーブの香りが爽やかに喉を流れ、清涼感が全身に広がる。
歯に染みるほど冷えたハーブティを空になるまで飲み干したルカは、
「あーっ、美味い!」
と、思わず叫んだ。
「ありがとう、アテネ」
「ふふ、どういたしまして。肉も魚もよく焼けて食べごろですよ。それっぽく盛り付けたみました」
アテネはジャーンという仕草で、ティーリーフの葉に盛りつけた料理を見せてくれた。
ルカが森で作業をしている間に、アテネも生活環境を一生懸命に整えたのだろう。
拠点の景色が一変していた。
丸太のテーブルに、丸太椅子が用意され、テーブルの上には料理が並ぶ。
サーモンの姿蒸しを真ん中に、ほかほかと湯気の上がる串焼きが綺麗に並べられていた。
ところどころに南国の花があしらわれ、トロピカルな雰囲気となっている。
「凄いな。まるでお店のようだ」
空間に潤いをもたらすこういったセンスは、女性ならではのものだろう。
ルカには想像も出来ない華やかさに、感心するしかなかった。
「えへへ」
アテネは嬉しそうにはにかむ。
「さぁ、食事にしよう」
「はい!」
無人島生活、最初の食事は二品。
一品目は、アテネが獲ったサーモンの姿蒸し。
二品目は、ルカが獲った耳長兎の串焼きだ。
「んー! 美味しいです。美味しいですよ、ルカ!」
さっそく串焼きをほおばったアテネは、あまりの美味しさに目を丸くする。
表面はパリッとして焼き上がり、中はジューシーと絶品に仕上がっていた。
「アテネのハーブソルトのおかげだな。サーモンも油が乗ってて最高に美味いぞ」
「兎肉の串焼きも最高です❤」
「肉ばっかりじゃなくて、野菜もちゃんと食べるんだぞ」
栄養のバランスを考えキャベツの酢漬けも出したが、アテネは一向に食べようとしない。
「や、やっぱり、食べないとダメでしょうか?」
「好き嫌いしていると、立派なマーメイドになれないぞ」
「うう……」
ルカにそう言われ、アテネは鼻を抓みながらキャベツの酢漬けを口に入れる。
「ふぇええ、酸っぱくて舌がビリビリしまふ」
頑張って飲み込んだアテネは、目をばってんにして舌を出した。
「ははは、偉いぞ」
ルカは口直しにハーブティを差し出す。
アテネはそれを両手で掴んでゴクゴクと飲み干すと、口直しのように兎肉の串焼きをほおばった。
「むぐむぐ、酷い目にあいました。神はどうして、キャベツの酢漬けなんてものを御作りになったのでしょう……」
「苦手を克服する日は遠そうだな」
こうして、ルカとアテネは、無人島とは思えない、のどかで、楽しく、豊かな食事を堪能した。
流石に全ては食べきれなかったが、器に使っているティーリーフは殺菌効果が高く包んでおけば、夕食には十分持つだろう。
「ジャジャーン! 食後といえばデザートです!」
アテネはテーブルの下から、よく熟れた大きなマンゴーを取り出した。
「マンゴーじゃないか!?」
ルカは驚きのあまり、がたんと席を立つ。
「浜辺の向こう側にいっぱい生ってましたよ♪」
マンゴーとは赤黄色の楕円形の果実で、独特の香りに、濃厚な甘みと、爽やかな酸味を合わせ持つ。
果物の王様とも、聖なる果実とも呼ばれ、奴隷として働いているころに偶然食べさせて貰ってから、ルカの密かな大好物となっていた。
「料理では全然役に立てなかったので、マンゴーは私にむかさせて下さい」
「指を切らないよう気を付けるんだぞ」
「はい!」
アテネは嬉しそうに頷くと、さっそくマンゴーにナイフを差し込む。
危なっかしい手つきにハラハラするが、やらせて欲しいというアテネの熱意を買った。
どんなことにでも、例え苦手なことだとしても、挑戦し、諦めないアテネの姿勢を、ルカはとても魅力的に思う。
こうして、美味しいデザートまで食べたルカとアテネは、大満足で食事を終えた。
正直にいえば、お腹が一杯で今すぐにでも横になって寝てしまいたい。
身体に疲労が溜まっているのを感じる。
だが、暗くなる前に、寝床となるテント作りに取り掛かるべきだろう。
と、
「ルカ、これを見て貰ってもいいですか?」
アテネは砂浜に描いた絵をルカに見せる。
「これは設計図か」
砂浜に描かれたのは緻密な設計図で、素人目に見ても凄いものだとわかる。
「長く住める頑丈なものを、限られた資材で、なおかつ簡単に作れる方法はないか設計してみたんです!」
設計図の内容をアテネは説明する。
作るのは半円型のドームテントで、コロンビアの先住民族であるインディオの住居『ウィグワム』を参考にしてあるという。
直径は六メートルに、高さは最長で二メートルと、大人が軽く十人は入れる大きなテントだ。
だというのに使う素材は、幅三~四センチに、長さ七メートルの竹材が三〇本だけ。
これは切り出してきた竹を八等分に割れば、簡単に数が揃う。
「あとは地面に円を書いて、等間隔に十箇所の穴を掘ります。穴の深さは三十センチもあれば十分でしょう」
その穴に竹を三本ずつ刺して、扇の形に広げる。
最後は、対角線の竹同士を曲げて、互い違いに編むように組んでいく。
簡単にいえば、逆さまにした大きな『竹籠』である。
「この構造なら耐久度もばっちりで、ハリケーンにも耐えられますよ!」
以前にアテネは、《双銃グラウクス》を自分で設計したといっていた。
実際に作ったのはガンマイスターの資格を持つ、同じ士官候補生のルテシャで、本当に凄いのは彼女だとアテネは謙遜していたが、砂浜に棒一本で描いたこの設計図を見れば、その天才性を一目で理解出来るだろう。
「凄い才能じゃないか。親父さんの『血』を立派に受け継いでるな」
ルカは何気なくそう言った。
意識して喜ばせようと賛辞したわけではなく、本心から出た言葉であった。
だが、その言葉こそが、ルカの『運命』を大きく動かすことになる。
人は言葉一つで希望を抱き、言葉一つで絶望する生き物なのだから。
「――――ッ!」
アテネは目を見開き、手に持っていた棒を滑り落とした。
「ん、どうかしたのか?」
突然説明を止まり、ルカは不思議げに顔を上げ――アテネの青い瞳から『涙』がこぼれるのを見てしまう。
涙は次々に頬を伝って、砂浜に描いた設計図に跡を刻んでいった。
「す、すまない。不味いことを言ったなら謝る!」
思いもよらないアテネの反応に、ルカは慌てた。
「いいえ……ぐすッ、この涙は、喜びと、誇らしさ、そして、心の器を溢れさせるほどの幸せから来る涙です。まさか……私がずっと望んでいた『言葉』を、ルカが言ってくれるなんて……」
アテネは泣きながら、ルカの胸に飛び込むように抱き付いた。
「…………アテネ」
「ごめんなさい。少しだけ……少しだけでいいんです。こうさせて下さい……」
肩を震わせるアテネに、ルカは戸惑いながらもその身体を優しく抱きしめる。
確かに、アテネの表情に悲しみはない。
だが、
「急に取り乱してごめんなさい……」
顔を上げたアテネの表情には、これまでにない覚悟が秘められていた。
「アテネが謝る事は何もない」
「……ルカ」
「どうした?」
「命を懸けてでも認めさせたい相手がいると、いったことを覚えていますか?」
「ああ、覚えている」
「あの時は、真実を伝える勇気が持てませんでした。あの地獄での、あの牢獄での辛さを思い出したくなかったから。でも、今なら話す事が出来ます。聞いて貰えますか?」
「……聞かせてくれ」
「ヘラヴィーサ・フォーサイス――――私のお婆様こそが、命を懸けてでも認めさせたい相手です」
アテネは辛そうに胸を押さえ、絞り出すように声を上げた。
(やはり、そうだったか……)
幼いアテネに船を設計させようとしたあげく、それが出来なければ鞭で打つ非道を行ったヘラヴィーサ。
クロエが語ったアテネの過去を聞かされた時から、そうではないかと思っていた。
人を恨むのは辛い事だ。
それが肉親ともなれば、なおさらだろう。
ルカの言葉が、アテネのトラウマを呼び覚ましたてしまったのかもしれない。
治りかけの傷に出来たかさぶたを、無理に剥がしてしまったのかもしれない。
ここでルカは、アテネに優しい言葉をかける事も出来た。
辛いのなら、これ以上話さなくてもいいと――
だが、
「………………」
ルカが選んだのは、黙したままアテネの言葉を待つ事だった。
かさぶたを無理に剥がせば、血が出るだろう。
それでも心に突き刺さった『棘』を抜かない限り、内側から心を傷付け続ける。
アテネは今――血が噴き出そうとも、心を蝕む棘を引き抜こうとしているのだ。
そして、
「鞭に打たれたのは痛かったです。牢獄に閉じ込められ、食事を貰えなかったのも辛かったです。でも、なにより苦痛だったのは、私が『エリオットの子供ではない』と、言われたことでした」
アテネの心に突き刺さる、ヘラヴィーサに打ち込まれた棘が明らかになる。
エリオットの子供ではない――正気を疑うその言葉は、アテネにとって両親の愛を否定するだけではなく、誇りすら穢すものであった。
ヘラヴィーサにどんな理由があったかなど知りたくもないが、祖母が孫に向けて放つ言葉では決してない。
アテネの心がどれだけ傷付いたかを想像すると、ルカは強い怒りと、憤りを覚えた。
「親父さんとお袋さんの誇りを守るために、そして、友と、父の形見の船を守るために、アテネはずっと……一人で戦っていたんだな」
ルカがそう言うと、アテネは悲しい表情でコクリと頷いた。
「……ルカに出会えて本当によかった。これまでの辛い経験も、悲しい出来事も、ルカに会うための試練だったのだと今なら思えます」
「挫けずに、よく頑張ったな」
ルカはアテネの頭を優しく撫でた。
アテネは嬉しそうに目を細めると、キュッとルカの服を掴んだ。
「私の心は……ずっとあの塔の牢獄に囚われたままでした」
「アテネ……」
「大丈夫です。そんな不安げな顔をしないで。だって……それがわかるのは、私の心がようやく自由になれたからです。ルカの言葉が真の意味で私を救ってくれました。牢獄を打ち壊して――こうして外に連れ出してくれたのです。この感謝は、千の言葉でも、万の言葉を尽くしても足りないでしょう」
「いいや、俺の力なんて微々たるものだ」
「え?」
「自由と感じるのは、それだけアテネの心が健やかに成長しているからだ。親父さんの血を生かせるのは、弛まぬ努力があってこそだ。例え牢獄を打ち壊しても、囚われの姫が一歩を踏み出さない限り物語は始まらない。俺に出来るのはこうやって……アテネの手を離さないようにするぐらいさ」
ルカはアテネの手をソッと優しく掴んだ。
決して離さないという想いを籠めて。
アテネは頬を赤く染め、うっとりとした表情でルカを見上げる。
「ルカは、女の子なのにかっこよすぎます。まるで人魚物語に出て来る『光の王子様』のよう」
人魚物語とは、コロンビアでは知らぬ者はいないほど有名な童話だ。
船歌にもなっており、奴隷仲間から歌詞を教わった。
人間の王子と人魚の姫が、異種族の壁を越えて愛を育み、様々な試練の果てに結ばれる恋の物語である。
「確かあの王子様は金色の髪に青い瞳だろう? 濡れ烏の俺とは似ても似つかないさ」
性別を偽るルカは誤魔化すように、漆黒の髪を指で抓んだ。
と、
「ルカ、髪に何かついていますよ。あ、そこではありません」
「ん、こっちか?」
アテネの指摘に頭をはらうルカ。
「私が取って上げますから、少し……かがんでもらえますか? あと、ホコリが入っては大変だから目を閉じて下さい」
「わかった。これでいいか?」
アテネの指示に従い、ルカは目を閉じて少しかがむ。
「あ、それで大丈夫です。それでは、その……動かないで下さいね……」
アテネは祈るように両手を胸に当て、呼吸を落ち着けるように一度深呼吸する。
そして、
「感謝します。私の――光の王子様」
アテネの囁きが耳に届いた直後、チュッ――と、甘い音がして、ルカの唇に何か柔らかなものが触れた。
「!?」
ルカが驚愕に目を見開く。
「や……やっぱり何もついてませんでした。私の、気のせいです……」
咄嗟に身体を離したアテネが、真っ赤な顔で目を逸らす。
艶やかなピンクの唇を、指先で撫でながら――
「………………ッ」
口付けされたのだと理解した瞬間、ルカの顔が茹で上がったように真っ赤に染まっていく。
「て、テントを作らないとですね!」
アテネは話題を無理やり変えたが、ルカはそれどころではなかった。
胸の奥に封じていた感情が、恋の炎が、風にあおられたように轟々と燃え盛る。
ルカはアテネに『特別な感情』を抱いていた。
神であっても、この恋慕を消すことは出来ないほどの。
だが、同時に、奴隷である自分と、フォーサイス家の令嬢であるアテネとの身分の差は、決して越えられない壁であることも理解していた。
この想いは伝えてはいけないもので、墓場まで持っていくつもりだった。
そんなルカの決意を、身分の壁を、アテネは容易く飛び越え、打ち壊してしまう。
まるで、人に恋をした人魚の姫のように――
「アテネ」
身体は自然と動いていた。
失われた熱を取り戻すように、間違えた選択肢をやり直すように、アテネを強く抱き締める。
「あ……ッ」
アテネの唇から、微かな吐息が漏れた。
抵抗はなく、美しいマーメイドの少女は腕の中で頬を赤く染める。
ルカはさらにアテネの腰に手を回し、強く抱きしめると、
「俺は、大きな秘密を隠している」
と、罪を告白するように言った。
「秘密、ですか?」
「今はまだ……それを話すことは出来ない」
奴隷解放のためにステラ・マリス号で働くことになったルカは、艦長であり、アテネの母であるメルティナと、男であることを隠して働くと約束した。
約束は契約であり、手前勝手な理由で反故にする訳にはいかなかった。
もし、男だと知られたら、ステラ・マリス号で働くことはおろか、アテネと一緒にいることも出来なくなるだろう。
「構いません。例え、ルカがどんな秘密を抱えていても、私はあなたを信じています」
アテネはそう言ってルカの背中に手を回し、ギュッと抱き着いてくる。
「…………アテネ」「…………ルカ」
世界でたった二人だけのように、ルカとアテネは見つめ合う。
「なら、これだけは知っていて欲しい。俺の瞳は《千里眼》などと大層にいわれているが、俺はアテネの笑顔さえ見れればそれでいいんだ。この瞳に映したいのはアテネ――君だけなんだ」
ルカは灼熱する想いを言葉に乗せて、アテネに伝える。
「嬉しい……嬉しくて、心がとけてしまいそうです……」
アテネは感極まった声で囁く。
二人は強く抱き締めあい、互いの熱を、鼓動を、息遣いを、肌で感じ合う。
こうして、三十分の時が流れ――
時が止まったかのように、ルカとアテネは抱擁を続けていた。
だが、抱き合ったまま、十分経ち、二十分経ち、三十分が過ぎたところで、心が冷静さを取り戻すにつれ、徐々に恥ずかしさが込み上げて来る。
アテネもそれは同じのようで、腕の中で真っ赤な顔でモジモジしていた。
(完全にタイミングを逸したぞ……)
初心な恋人同士が、一度掴んだ手を離すタイミングが掴めないのと同じように、ルカとアテネは互いに身体を離せなくなっていた。
チラチラと視線を交わらせるのだが、どうしても一歩が踏み出せない。
完全に立ち往生だ。
日暮れにはまだ時間はあるものの、そろそろテントを作らなければ間に合わないだろう。
(ここは俺がしっかりしなければ!)
無人島での共同生活のために、ルカは奮起する。
「……そろそろ、テントを作ろうか」
「す、すみません。いつまでも抱き着いてしまって……」
アテネは慌てた様子で身体を離す。
「謝らないでくれ。先に抱き締めたのは俺の方だ」
ルカは照れ臭そうに頬を赤くしながらも、きっぱりと言った。
すると、
「頑張ってテントを作ります。だから、その……終わったら、また、抱き締めてくれますか……?」
アテネが不安と期待、そして僅かに艶を帯びた表情でこちらを見上げる。
ズキンと、心臓が痛いほど鼓動した。
「ああ、約束する!」
ルカは思わずそう答えた。
「嬉しい! では、作業の前に、き、着替えてきますね!」
真っ赤な顔のアテネは、いまさら水着姿である事が恥ずかしくなったのか、両手で胸を隠して走り去る。
その可憐な姿を見送るルカは――
「大変な約束をしてしまったぞ……」
と、顔を覆って呟いた。
無人島生活一日目。
ルカはさっそく不安になっていた。
自分には、確かに美しい女神がついている。
だが、その女神はあまりに可憐で、魅力的にすぎた。
救助が来るまでのあいだ、果たして理性が持つのだろうか――
さぁ、盛り上がってまいりました!




