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 海に飛び込んだルカは、荒れる海中で必死にアテネを探す。

(アテネ! アテネ! 返事をしてくれ、アテネ!)

 焦燥に叫びたい気持ちを懸命に堪え、沸き上がる恐怖を飲み込み、石のように重く感じる海水をかき分ける。

 だが、そんな想いを嘲笑うかのように、濁流の渦と、巨大な波が襲い来る。

 ルカは四肢が引き裂かれそうになりながらも、目を見開いて、白波に消えた少女の姿を求めた。

(どこだ!? どこにいる!?)

 息の続く限り何度も海に潜るが、アテネの姿を捉える事は出来ない。

 沈みゆく商船と奴隷仲間の姿が脳裡にフラッシュバックして、胃酸が込み上げてくる。

 海底に没していく船の残骸に挟まれているのか?

 それともロープに絡まって動けないのか?

 一秒がまるで一時間に感じるような時の流れの中で、心臓だけがドクンドクンと鳴り響き、酸欠によって意識が飛びそうになる。

 それでもルカは、必死に、必死に、必死に、アテネを探した。

(女神よ! アンフィトリテよ! どうか、彼女を本当の人魚にしないでくれ! アテネを返してくれ!!) 

 と、その時。

 一匹の『白イルカ』が前を横切り、ハッと目で追う。

 白イルカは《海の女神アンフィトリテ》の使いと云われており、イルカの泳ぐ先に――海中で漂うアテネを見つけた。

(――――アテネッ!)

 声なき叫びを上げて、必死に泳ぐ。

 水中でアテネを捕まえたルカは、ぐったりと気絶した少女の身体を抱き締め、水を蹴るように海面を目指す。

 荒れる海面に出たルカは、大きく息を吸い込み、アテネの唇を通して息を吹き入れる。

 だが、アテネは何の反応も見せず――

「…………クソッ!」

 ルカは絶望的な表情で、周囲を見渡す。

 イスパニアの護衛船の残骸が辺り一面に漂っており、波に巻き込まれた残骸が直撃すれば、人の身体などひとたまりもないだろう。

 と、その時。

 ふいに辺りが暗くなり、ハッと上を見上げたルカは、太陽を遮るように天から押し寄せる大波を見る。

 アテネを強く抱き締め身を固くする。

 直後に、波と波がぶつかり合い、上も下もわからなくなるほど海の中で攪拌された。

 背中に何かがぶつかり、ガハッと強制的に息が吐き出される。

 意識が闇に落ちそうになるが、腕の中で息をしていない少女の存在が、ルカに力を与えた。

(例え命尽きようとも、アテネだけは絶対に――――) 

 死の淵を乗り越えた先にこそ、希望の実は宿る。

 死力を振り絞って海面に再度浮上したルカの目の前には、サン・マチスタ号に積まれていた小型の輸送ボートが漂っていた。

 ボートは傷だらけではあったが、奇跡的に浮力は生きていた。

 ルカはアテネを抱きかかえてそこまで泳ぎ、意識の戻らないアテネをボートに横たえる。

 呼吸は完全に止まり、脈も感じない。

「しっかりしろ、アテネ! 死ぬなッ!!」

 ルカは急いで救命措置に入った。

 医術の心得がある奴隷仲間から教わった方法で、ルカはアテネの胸を両手で押し、口から息を吹き入れる。 

 何度も何度も繰り返すが――少女の身体はピクリとも反応しない。

 魂が凍てつくような恐怖が足元から這い上がり、少年の心と身体を犯す。

 それでも、絶望に喚きたい感情を必死に押し殺し、

「――――アテネッ! 戻ってこい!!」

 と、叫んで、アテネの口から息を吹き込んだ。

 まさにその時。

「ケホッ! ケホッ――ッ」

 アテネが咳き込み、その口から海水が吐き出されたではないか。

 ルカは急いでアテネの身体を横向きにして、嘔吐しやすいよう背中をさする。

 アテネの咳が収まるまで待ってから、ルカは心音を聞き、呼吸の有無を再び確かめる。


 永遠にも感じる緊迫した時が流れ――


「ああ! 感謝する……女神アンフィトリテよ!」

 アテネの胸が緩やかに上下し、心臓がトクトクと元気よく鼓動を刻む。 

 安堵と共に、魂が凍てつくような恐怖が消え去り、ルカの意識は暗転した。

 ドボンッと何かが海に落ちる音がして、それが海中に没した自分自身だと気が付いた時、ルカは慌てて浮かび上がってボートの縁を掴む。

 ルカは改めて、周囲を見渡した。

 先ほどまであれほど荒れていた海は幾分落ち着きを取り戻し、クラーケンが霧を吐いたのだろう。ミルクを流したかのような先が見えない濃霧が立ち込めている。

 これでは捜索は無理だろう。

 霧が晴れるのは、一時間後か、二時間後か。

 その間に潮に流されたら、遭難するかもしれない。

 海を漂流した経験を持つルカは、アテネの容態が安定しているのを確め、周囲の海面に目を向ける。

 飲み水のない海上では、人は三日ともたない。

 万が一のために、必要な備えをしておくべきだろう。

(水や食糧を保存するために密閉された樽は、浮力が高い。必ず浮かんでいるはずだ)

 ルカの瞳はこの霧の中でも、海に浮かぶ浮遊物を捉えていた。

 探すのは、イスパニアの護衛艦が積んでいた、水や食糧樽だ。

 思った通り幾つかの樽を見つけたルカは、樽を一つ乗せるたびにアテネの呼吸の有無を確認しながら、泳いですぐに戻れる範囲に浮かぶものをありったけ集めて載せていく。

 樽以外にも、イスパニアの上級士官がかぶる真銀製の兜や、浮きが着いている道具箱なども、目につく使えそうなものは手当たり次第にボートに放り込んだ。

「これぐらいか……」

 欲張ればもう少し回収出来るかもしれないが、アテネを一人にするわけにはいかない。

 ルカはボートに上がると、すっかり顔色のよくなったアテネの横に腰掛ける。

 しばらく穏やかな寝顔に見つめていたルカであったが、

「まずいな。妙な海流に乗ったか? ステラ・マリス号が遠のいていくぞ」

 霧は全く晴れないが、ボートが急速に流されていくではないか。

 このまま母艦からはぐれてしまうと、遭難のリスクはさらに高まる。

 ルカはオールを漕いで潮の流れに逆らおうとするが、ふと、海面が蠢いている(・・・・・)事に気が付いた。

 見れば、ボートの真下を巨大なクラーケンの触手が通過していくではないか。

「――――ッ!」

 ゾッとする光景だった。

 ルカは咄嗟に、ボートに予め積まれてある三角帆を掴むと、アテネに覆い被さり息を潜めた。

 直後、海面から触手が顔を出し、真っ白な霧を噴出する。

 もし、クラーケンに気付かれたら、こんな小型の輸送ボートではひとたまりもないだろう。

 クラーケンをやり過ごすべく、ルカは気配を殺してアテネを抱き締める。

 一体どれほどの間そうしていただろう。

 一時間か、二時間か。

 もしかしたら、数分の出来事だったのかもしれない。

 静かな波の音しか聞こえなくなり、ルカが顔を上げたときには、すっかり霧は晴れクラーケンの気配も消えていた。

「アテネ……」

 まだ意識は戻らないものの、顔色もよく呼吸も安定しており、体内に循環するエーテルも強く輝きを増している。

 もう心配はないだろう。

 アテネの頬にソッと手を当て、ルカは安堵の息を吐く。

 と、その時。

 ニャーニャーと、まるで猫のような鳴き声が空に響き、ハッと顔を上げたルカは、ボートの上を飛んでいく海猫を発見。

 海猫とは、沿岸部に生息する海鳥の一種で、船乗りにとっては近くに陸がある(・・・・・・・)事を示す重要な道標であった。

 ぐるりと三六〇度周囲を見渡したルカは、海鳥の飛んでいく先に『島』を発見した。

「やったぞ! 天の助けだ!」

 このまま海を漂流するより、水や食料を確保出来る島の方が、生存の可能性は遥かに高くなる。

 ましてや、今は自分の命より大切なアテネがいるのだ。

 ルカはオールを海につけると、島へ向け力強く漕ぎ出した。


   ◇


 ルカが上陸した島は、砂浜に覆われ、起伏に富んだ自然にあふれる島であった。

 島の真ん中には大きな山があり、周囲に森が広がっている。おそらく火山性の活動によって出来た島だろう。

 大きな森があるので、水源が期待出来るかもしれない。

 ボートを岸にあげ、流されないよう固定したルカは、アテネを抱きかかえて砂浜に横たえる。

 周囲の枯れ木や流木を集めると、腰のツールベルトから火箱を取り出した。

 晴れて海兵の一員となったルカは、水兵の装備から海兵の装備に一新したが、その際に見習いから使っていた『ツールベルト』だけはそのまま装備していた。

 刀を差すのに丁度いいのもあるが、様々なツールがコンパクトに揃うこのベルトをルカは密かに気に入っていた。

 火箱から火打ち石を取り出したルカは、手際よく火種を起こし焚き火を作る。

 長時間濡れたままでは風邪を引く。

 特に、気を失っているアテネの体温調整は、注意しなければならない。

 アテネを見守りながら、パチリと炎がはぜる焚火に、ルカは新しい木を放り込んだ。


 火を起こして一時間ほど経過した頃。


「……っ、はぁ……で、……かないで、ル……カ……」

 怖い夢でもみたいるのだろうか。

 アテネはうなされ、眉を悲しげに歪めていた。

「大丈夫だ。俺はここにいる。ここにいるよ」

 側に腰掛けていたルカは、安心させるようにアテネの頬を優しく撫でる。

 すると、

「――――ル、カ?」

 青い瞳がゆっくりと開かれた。

 不安げな色を帯びて曇った瞳は、ルカの姿を見て取った瞬間に安堵したように光彩を取り戻す。

「ああ、よかった……夢だったんですね……」

 頬を撫でるルカの手に、アテネはソッと手を添えた。

 だが、安堵しているのは、ルカも同じであった。

 生きていて本当によかった。

 意識が戻って本当によかった。

 もう一度、声が聞けて本当によかった。

「目が覚めたか、アテネ?」

 ルカは込み上げてくる感情を懸命に堪え、万感の想いを籠めて少女の名を呼んだ。

「とても怖い夢を見たんです。もう二度とルカに、会えない……そんな夢を……」

「アテネを一人になどするものか。例えあの世でも追いかけて行くからな」

 ルカは恐怖に震えるアテネの背中に手を回すと、優しく抱きしめた。

 アテネは驚いたように目を見開くと、

「――――はいッ」

 と、呟いて、その青い瞳から涙が溢れさせる。

 二人は互いの熱を求めあうように、強く抱擁した。

 しばらくの間、ルカの胸に顔をうずめていたアテネだが、徐々に冷静さを取り戻したのだろう。

「ありがとう、ルカ。もう大丈夫です……」

 照れるように頬を染めて、顔を上げた。

「身体に不調はないか? 苦しかったり痛いところがあれば言ってくれ」

「はい、大丈夫のようです」

 アテネは身体のチェックをして、コクリと頷いた。

「そうか。よかった」

「えっと……ルカの手を掴んだ瞬間までは覚えているのですが、あれから何があったのです? それにここは何処でしょう?」

 強い衝撃に記憶が飛んでしまっているのだろう。

 ルカはかいつまんで事情を説明した。

 海に落ちたアテネを助け、海を漂流し、島を見つけて上陸した事を。 

「ご、ごめんなさい! 私が無茶をしたせいで、ルカにはとんでもない迷惑をかけてしまいました!」

 アテネは青い顔で頭を下げた。

「顔を上げてくれ。謝るのはむしろ俺の方だ。あの時、アテネが救ってくれなければ、俺は今頃海の藻屑になっていただろう」

「ですが……」

 何か言いたげに口を開くが、結局言葉に出来ないままうつむくアテネ。 

 その表情を見て――アテネは怒って欲しい(・・・・・・)のだとルカは直感的に察する。

 優しくするだけが、優しさではないのだ。

(許さない事が、赦しになる――か)

 ルカは少し厳しい表情をして腕を組むと、

「だが、確かに……命綱を付けずに飛び出したのは不味かったな」

 と、声に怒気を籠めて言った。

 怒ったぞという態度のルカに、アテネはハッと顔を上げると背筋を伸ばして姿勢を正した。

「……は、反省してます」

「そもそも要救助者の存在に気付いた時の行動からして規則違反だぞ。一人で沈み行く船に戻るなんて一体何を考えているんだ?」

「軽はずみな行為でした!」

「直感に頼って行動するきらいがあるとはわかっていたが、それにしたって直情的になりすぎだ。アテネは士官を目指すのだろう? 将の行動一つで部下の命運が左右されるのだぞ!」

「こ、これからは軽挙妄動は慎みます!」

「本当にわかっているのか!?」

「はい!」

 深い反省を顔に刻むアテネに、ルカは厳しい表情を崩すと、

「あまり無茶をしてくれるな。アテネに何かあったら、俺は……正気を保てなかっただろう」

 アテネの頭をポムポムと優しく撫でる。

「ルカ……」

 アテネはうっとりとした表情で、ルカを見上げる。

 だが、その時。

 キュルルル――と、アテネのお腹から可愛い悲鳴が上がったではないか。

「………………」「………………」

 二人は互いに黙り込む。

 そして、

「ほう、それが反省している態度かね……?」

 ルカが意地悪な顔で尋ねれば、

「は、反省してます! 本当ですっ!!」

 アテネは恥ずかしくて死んでしまうというように、耳まで真っ赤に染めて涙目でお腹を押さえた。

 その仕草があまりに愛らしくて、ルカは楽しげな笑う。

「ははは、お腹が減るのは健康の証だ。本当に身体は大丈夫のようだな。実は遭難したときに備えて、食糧樽を幾つか確保してあるんだ。まずは飯を食おう」

「やった! 流石はルカです! 私も手伝いますね!」

 食料樽と聞いて、アテネは目を輝かせる。

「アテネはもう少し休んでいろ。心配してなくてもすぐに持って来てやるから。ほら、お座り」

「わ、わかりました……」

 興奮する子犬のようなアテネにお座りを命じたルカは、ボートに樽を取りに向かう。

 

 結論からいうと『ろく』なものがなかった。


 樽の中身は、パママ芋と、乾燥トウモロコシが一樽づつに、キャベツの酢漬けが三樽に、あとは葡萄酒樽と水樽だった。

 そう。食いしん坊マーメイドが唯一苦手とする『キャベツの酢漬け』が、たっぷり三樽もあるのだ。 

「わ、私はいま強いショックを受けています! キャベツの酢漬けばかりではありませんか!」 

「に……苦手を克服するチャンスだな」

「この島の食糧担当大臣として、緊急会議を提案します!」

 アテネは立ち上がり、そう訴えた。

 持ち込んだ食糧に頼るのではなく、自然が豊かなこの島で食糧の確保し、自給自足の生活をすべきだとアテネは提案した。

 これにはルカも賛成だったが、アテネの考えはさらに先を見据えていた。

「まずは、四種類の食糧供給源を、確保をしようと思います」

「四種類?」

「狩猟と漁猟に加えて、採集と農耕です!」

「本格的だな」

「救助の船がいつになるのか。この島に人が住んでいるのか。まだわからない事は沢山ありますが、万が一に備えて食糧の備蓄はしておくべきです」

 今ある食糧でも一月は持つだろう。

 だが、その先を考えると、アテネのいう通り早めに備えておく必要があるかもしれない。

 もしかしたら、年単位の遭難になるかもしれないのだ。

「海では漁猟を、森では狩猟を、その両方で採集は可能です。そして、豊かな森がありますから、腐葉層の土から質のいい畑も作れるでしょう。そこでパママ芋とトウモロコシを栽培して農耕をします!」

「なるほど。畑が育つまでは、猟をして食糧を確保するんだな?」

「はい! 海も森も豊かなんで採集もはかどると思います。食べられる貝や海藻、野草にきのこなどは、私が知っていますから」

 えっへんと胸を張るアテネ。

 重そうな胸がゆさんと揺れた。

「サバイバルの知識があるとは、頼もしいな」

「いいえ、私にあるのは知識だけです。ルカが居なければ火を起こすことも出来なかったでしょう」

「俺も同じさ。アテネが居るから冷静でいられるんだ。二人でこの危機を乗り切ろう」

「では、早速手分けして食糧を確保しましょう。私は海で魚をとってきますね」

「俺は森で狩りをしよう。だが、本当に身体は大丈夫か?」

 確かに手分けしたほうが、作業の効率は倍になるだろう。

 なにより、飲み水の確報は急務だった。

 だが、アテネは一時とはいえとても危険な状態に陥ったのだ。

 目を離すのは早急ではないか? と、ルカは案じる。

 すると、  

「大丈夫ではありません。お腹がすいて倒れそうです! でも、ルカの心配もわかりますから、念のため海には潜らず浅瀬の魚を狙います。辛くなったらここに戻って休むので、どうか安心して下さい」

「わかった。絶対に無理はするなよ」

 ルカはアテネを信頼することにした。

 彼女は庇護されるだけの弱い少女ではないと、これまでの戦いで何度も見て来たのだから。

 二人はその場で別れ、それぞれ食糧を求めて島を行く。


 島に漂着して一日目。

 これからどうなるかは全くわからないが、今は目の前の課題をこなしていくしかない。

 不思議と不安はなかった。

 何故なら自分には、美しく可憐で、とても可愛らしい女神がついているのだから――

これからルカとアテネの二人っきりの島生活が始まります。

ルカは男であることを隠し通せるのか!

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