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カリブ海の大アンティル諸島に位置するハイランド王国。
彼の王国の歴史は、波乱に満ちていた。
三百年前にイスパニア帝国との戦争に敗れて植民地となり、百年前に解放戦争の果てに独立を勝ち取り王政を復活させたものの、今度は二十年前にブリテン王国の植民地となり、現在では先代の《黒髭》ことエドワード・ティーチによって国土の半分が奪われていた。
そして、ハイランド王国の首都にして、最大の港町こそが海賊の楽園とも、海賊共和国とも呼ばれる『ポートロイヤル』である。
海賊の手によって巨大な湾がまるごと要塞化ており、海を埋め尽くす海賊船が常に海上を警戒。
さらに、無数の錨で係留され、固定砲台となった三隻の戦列艦が、無数の砲を海に向けていた。
世界中のありとあらゆる人が、物が、財宝が集まるこのポートロイヤルは、命であっても金で買う事が出来る。
まさに創世記に記されたソドムとゴモラ――現代に蘇った『背徳の都』である。
そのポートロイヤルに王者の如く巨大な城を構えるのが、カリブ海で最大勢力を誇る『黒髭海賊団』であった。
だが、現在、城の中はピリピリと緊張した空気が張りつめていた。
何故なら、《黒髭》の名を継いだ二代目こと、エドワード・テュッティの機嫌がすこぶる悪いのだ。
二度の襲撃に失敗しポートロイヤルに敗走してからというもの、テュッティは自室に引きこもり出て来ようとしない。
海賊団の幹部クラスが幾人か説得のために部屋を訪れたが、その全員が龍鞭に打たれて重傷を負う始末。
もはや、怒れる龍に引き裂かれるのを恐れ、誰も彼女の部屋を訪れようとはしない。
「――――――――ルカッ」
半壊した天蓋付きのベッドに寝そべるテュッティは、擦れる声でその名を呼んだ。
炎の化身の如き絶世の美女は、見る影もないほど無残にやつれ、そして荒れていた。
手入れを怠った炎髪は乱れに乱れ、ほとんど何も食べずに酒ばかりのんでいた肌の血色は悪く、唇はひび割れまで起こしていた。
だが、紅の瞳にはギラギラと仄暗い業火が燃え盛っており、全身からほとばしる荒々しい殺気に微塵の衰えもない。
と、その時。
ガチャ――と、音がして、部屋の扉がゆっくりと開かれる。
テュッティは、先ほどまでの気だるげで死人だった様子から一変、目にも留めらぬ速さで龍鞭を振るう。
音速を貫く先端が、床に転がる酒樽や、金銀財宝を薙ぎ払いながら、開いた扉を木端微塵に粉砕した。
と、
「やれやれ。随分な挨拶じゃないか、黒髭の大将よ」
龍鞭の一撃をものともせず、壊れた扉を蹴り飛ばして入ってきたのは、黒が基調のキャプテンコートを纏う『男装』の海賊であった。
歳は三十台の中頃。
長身で鍛え上げられた身体つきに、麻色の髪を短く刈り揃え、瞳の色は葵。
掘りの深い顔には幾つもの戦傷があり、全身の至る所に六丁の短銃を装備していた。
彼女の名は、キャプテン・キッド。
カリブの海に悪名を轟かせる大海賊の一人で、ブラックファルコン号と呼ばれるカリブ海で最速のコルベット船を持っている。
「場末の酒場よりくせぇ部屋だな。空気が淀んでるぜ」
キッドは鼻を抓みながら、床に散らばる財宝を踏みしめ窓に歩み寄ると、分厚い遮光カーテンを引き裂き窓を開ける。
暗い室内に日の光と、清涼な風が吹き込み、部屋の惨状が明らかになる。
王侯貴族でも簡単には手に入れる事の出来ない、絢爛豪華な家具に囲まれた部屋は、嵐の直撃を受けたかのようにボロボロだ。
家具の多くは半壊し、壁や天井の至る所に龍鞭の爪痕が刻まれ、テュッティが横になる天蓋付きのベッドまでが崩れ落ちていた。
「荒れてるって聞いてたが……やっぱり噂は当てにならねぇな。こいつは、荒れてるなんてもんじゃない。暴れてるってやつだ」
キッドは室内を見渡し、呆れた口調で言う。
テュッティは日の光すら忌々しげに目を細めた。
「やれやれ、取り付く島もなしか」
肩をすくめたキッドは、龍鞭を受けて真っ二つに切り裂かれ、血を吐き出すように赤黒い液体をこぼす酒樽に歩み寄った。
「って、おいおい、この葡萄酒!? 一樽で一〇〇〇シリングはする最高級のポートジボワール産じゃねぇか!」
「……一〇〇〇シリング。そうよ、アイツはその程度の価値しかない奴隷なのに……」
テュッティは樽の向こうに、憎い仇を見るように紅の瞳をざわつかせた。
「ああ、うめぇ! やっぱ葡萄酒はポートジボワール産だな。しっかし、こんないい酒を無駄にしちまうなんて天罰が下るぜ」
キッドは床に転がる黄金の杯を拾うと、ワインを乱暴にすくって煽り呑む。
「どうせ奪ったものよ。価値なんて知ったことじゃないわ。それより、さっさと用件をいいなさいキッド。つまらいことだったらその首と胴が泣き別れることになるわよ」
「俺たちゃ海賊だぜ。用件なんて悪巧みに決まってる。いい獲物がいるんだ、一口乗らねぇか?」
「気分じゃないわ。他を当たりなさい」
「まぁ、聞きなって。俺が狙おうとしているのは、金銀財宝を満載してアステカの植民地から、イスパニア本国へ向かう商船隊さ」
金銀財宝と聞いても、テュッティの気だるげな表情はかわらない。
キッドは自信ありげな表情で、次のカードをきる。
「護衛とあわせてノロマな大型船が十一隻。奴らは途中でコロンビアのフリョーダを経由して、大西洋を横断する航路を取る。どうだい、これでもやる気にならないか?」
「…………詳しく話しなさい」
「くくっ、目の色が変わったな。イスパニアとコロンビアは同盟国。フリョーダを経由した商戦隊は、通行税と引き換えにコロンビア領海を出るまで海軍の護衛がつくことになる。当然、大将が痛くご執心の『純白の女神』も出てくるだろうぜ」
「あんな船……もうどうだっていいわ。私の狙いは黒髪の東洋人よ。アイツの断末魔を聞くまで、この苛立ちは消えないわ」
テュッティは鞭を握りしめ、殺意と怨嗟の籠った声を吐く。
「お宝は山分け。あとは取ったもん勝ちでどうだい?」
「宝はいらない。そのかわり、黒髪の東洋人は私が貰うわ」
「生死は?」
「お前達如きが敵う相手ではないわ。見つけたら、手出しせずに私を呼びなさい」
「オーケー。取引成立だ。黒髭の大将が加われば、鬼に金棒。海賊に船ってもんだ。さぁ、海賊同盟樹立を祝って乾杯といこうぜ」
キッドは黄金の杯に葡萄酒をすくうとテュッティに手渡し、自分は床に転がる銀杯を掴んだ。
「決行は三日後。沖合で待ってるぜ」
酒を一気に飲み干したキッドは、そう言って壊れた扉から去っていく。
一人部屋に残されたテュッティは、金杯に注がれた葡萄酒をしばらく見つめ――
「―――シルフィ」
と、小さく声を上げた。
窓から一陣の風が吹き、カーテンが揺れると、そこには金目銀目の少女が立っていた。
「お呼びでしょうか、ティファニア様」
「女達にいって湯あみの用意をさせなさい。あと、お腹が空いたわ」
テュッティの言葉にシルフィが驚いたように目を見開き、満面の笑顔に転じる。
「返事は?」
「はい! すぐに、すぐに用意させます!!」
「待ちなさい、シルフィ」
「これを呑みなさい」
テュッティは葡萄酒が注がれた金杯を掲げる。
恭しく金杯を受け取ったシルフィは、あまりに芳醇な香りから非常に高価な酒である事に気が付いたのだろう。
「高いお酒のようですが、よろしいので?」
「しばらく酒を抜く。祝杯は――奴の首を取るまで預けておくわ」
テュッティは真紅の瞳をギラつかせ、凄惨な笑みを浮かべた。
◇
三日後――
真っ青な空に下、カリブの海を東へ向かう海賊連合の船団があった。
船の数は九隻。
それぞれの船には名うての大海賊が船長を務め、その内の一隻を駆るのが、《黒髭》テュッティが乗る《赤の貴婦人号》である。
元々は『パール号』という名のブリテン王国海軍の五等艦で、ステラ・マリス号と同じフリゲート艦ではあるが、その全長は三十メートルと半分にも満たない。
通常フリゲート艦とはこのサイズであり、ステラ・マリス号が常識外れに大きいだけである。
一年前に鹵獲したもので、テュッティ好みの高速船に改修してある。
特徴的なのは、艦首喫水下に取り付けられた真っ赤な鋼の『衝角』だろう。
黒髭海賊団の旗艦である《アン王女の復讐号》に比べて、快速で小回りが利き、テュッティお気に入りの船でもあった。
「見えたぜ、お嬢」
褐色の肌にドレッドヘアと、鍛え抜かれた筋肉質の身体を惜しげもなく晒すアマゾネスのオーガが、船尾楼で舵を握るテュッティに報告する。
「ええ、わかっている。あの船がいるということは、アイツも間違いなくいるわ」
テュッティの視線の先には、商船隊の先頭に立って波を切り裂く白銀の女神――ステラ・マリス号の姿が映っていた。
キッドとの取引から三日が経ち、テュッティは見違えるほど精気を取り戻していた。
まだ顔色は少し悪いものの、戦意は揚々で、今も紅の瞳をぎらつかせてステラ・マリス号を、そこに乗るであろうルカの姿を幻視する。
「待ってなさい、ルカ。今からお前をたっぷりと愛でてから、首を刎ねて、塵も残さず消し炭にしてあげるわ」
テュッティは頬を染め、唇を艶やかに撫でる。
その表情は、憎い仇を前にしたようでもあり、愛しい想い人を前にしたようでもあった。
帆に風を満帆に受け、舵を回して、先陣を切って進むスカーレット号。
だが、そのスカーレット号の針路を塞ぐように進み出たのが、キャプテンキッドが駆るカリブ最速の船ブラックファルコン号だ。
「なんのつもり、キッド!」
当然、水を差されたテュッティは、隣に接舷したキッドに向け殺気だった声で叫ぶ。
「先走るなよ、黒髭の大将! こっちの仕掛けがまだ済んでないんだ!」
キッドは舵を副長に任せると、身軽な動きでスカーレット号に乗り込んだ。
「小細工は無用よ。私がステラ・マリス号に斬り込むから、あとの獲物は好きになさい」
「斬り込むにしたって、露払いは必要だろう。見てみろよあの陣形を。商船隊をガッチリガードして、水も漏らさねぇ鉄壁の構えだ」
「問題ないわ。私の腕と、このスカーレット号なら突破できる」
「確かに大将ならいけるだろうさ。俺のブラックファルコン号でも問題ない。だが、他の連中は着いてこれないだろう。それじゃあ、海賊同盟を結んだ意味がなくなっちまう」
「この私に……雑魚共と足並みを合わせろと?」
今にも爆発しそうな声色で、テュッティは言う。
「そうじゃねぇ。そうじゃねぇって。大将は好きに動いてくれて構わない。ただ、仕掛けが終わるまで待ってくれ」
これにはキッドも焦った様子で、なんとかテュッティをなだめようとする。
だが、
「…………仕掛けとは、お前がその胸に隠している『それ』のことかしら?」
テュッティは全てを見透かすような瞳で、キッドを睨みつけた。
その瞬間。
飄々としたキッドの顔が能面のように無表情になり――ゾロリとした殺気がにじみ出すが、すぐに破顔して、元の通りの軽薄な笑みを浮かべる。
「くくっ、流石は黒髭の大将だ。隠し事は出来ねぇな。いいぜ、仕掛けの種をみせてやる」
キッドはコートの内側から『不気味な卵』を取り出した。
それは表面にびっしりと青色の毛細血管のような筋が浮かぶ、十センチほどの大きさの卵であった。
嫌悪感を抱かざるを得ない不気味な見た目の卵からは、微かな冷気と、禍々しいエーテルがあふれ出していた。
(あの卵、以前に本で見たことが……)
テュッティは警戒するように、卵を見つめる。
「大将は、釣りをしたことがあるかい?」
「あるようにみえて?」
「俺はこう見えて釣りが好きなんだ。釣りってのは奥が深いんだぜ。仕掛け一つ変えるだけで釣れる魚が千差万別に変化する。この『卵』もまた釣りの餌なんだよ」
「餌ですって……?」
「そうさ。ああ――待ってくれ。ようやくお出ましのようだ。ったく、ちんたらしやがって所詮は化け物か。まぁ、いい。今からとっておきのショーを見せてやるぜ、大将!」
時間稼ぎは終わったかというようにキッドは笑うと、右手に持つ不気味な卵を天に掲げて見せた。
コートの袖口から露わになった手首には禍々しい腕輪が嵌められており、キッドがエーテルを流し込むと、卵の表面に浮かぶ毛細血管のような筋が青黒い輝きを放つ。
次の瞬間。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――
身の毛のよだつ獣の咆哮が、海に轟いた。
「まさかその卵!?」
テュッティが血相を変えて、キッドを睨む。
「ご明察だ、大将! この卵はな……海の悪魔といわれるクラーケンの卵さ!!」
キッドがさらに天に掲げた卵にエーテルを注ぐと、周囲に真っ黒な稲妻がほとばしる。
直後、海中から巨大な触手次々に突き出して、鉄壁の陣形で進むステラ・マリス号を先頭とする商船隊に襲い掛かったではないか。
「海の悪魔でも子は大事なのかねぇ。こいつが取り返そうとああやって必死になって、くくっ、滑稽だぜ」
キッドは下卑た笑い声を響かせる。
「極寒の北海が生息圏であるはずのクラーケンが、どうしてこんな熱帯のカリブ海に姿を現したか不思議だったけれど、卵泥棒を追ってきたというわけね……」
「言っておくが、盗んだのは俺じゃないぜ」
「悪党にだってルールはある。お前のしている事は……海賊の流儀に反するわ」
テュッティは殺気の籠った眼差しで、キッドに見据える。
キッドもまた本性を現したかのように挑発的な態度を崩そうとはせず、その顔に軽薄な笑みを張り付かせた。
「だったらどうするってんだ黒髭の大将? ここで俺達がやり合っても一シリングの足しにもならねぇ。それにグズグズしていたらあんたがご執心の獲物も逃げちまうんじゃねぇのか?」
キッドは今までにない傲慢な態度で、嘲るように口角を釣り上げる。
だが、
「身の丈に合わない力を手に入れて随分とご満悦のようだけれど……所詮は三下の雑魚ね。どうするかですって? そんなの――決まっているじゃない!」
テュッティは目にも止まらぬ速さで龍鞭をしならせ、キッドが手に持つ卵を打ち砕く。
パァアンと乾いた音がして、緑色の液体が周囲に飛び散った。
「がぁあッ!? こ、この、糞アマがッ!?」
指が二本ほど千切れ、血が噴き出す右手を押さえたキッドは、憤怒の表情で後ろに跳んで距離を取った。
「腕ごと吹き飛ばさなかっただけ、ありがたいと思いなさい。命が惜しければ宝を奪ってさっさと消えることね。次にカリブの海で見かけたら……その顔を餌に釣りをしてあげるわ」
腰に手を当て、どこまでも傲慢にテュッティは言い放つ。
「チッ」
キッドは憎々しげにテュッティを睨んでいたが、舌打ちしてあっさりと引き上げた。
「いいのかい、お嬢? 今ならあの糞野郎を船ごと沈められるよ」
オーガが耳打ちするが、テュッティは首を左右に振って答えた。
「キッドは殺す。絶対に殺す。でも、今は――アイツの首が欲しいの」
熱気と、狂気と、殺気が混沌と燃え盛る瞳は、既に白銀の船に釘付けとなっていた。




