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 宴はまだ盛大に続いていたが、ルカは店の二階に部屋を借りて、今はそこに引き上げていた。

 理由は、ルカが目を離した隙に、アテネがお酒を飲んでしまったからである。

 ビールを飲んだアテネは、一言「苦いです」と顔をしかめて、あっという間に酔い潰れてしまった。

 ステラ・マリス号は男子禁制のため、おおむね安心だったが、ここは陸の上で大きな歓楽街だ。

 眠る少女に『不埒』を働く輩がいないとも限らない。

 ルカは酔ったアテネの介護と守護をするために、こうして部屋を借り訳だが――

「むにゃむにゃ……ルカぁ……あーん……して、くらしゃい……」 

 シーツをはだけて寝返りをうつアテネ。

 乱れたメイド服から覗くのは瑞々しい肢体で、食べた栄養が全て胸に行っているんじゃないかと思うほどたわわな胸が、危うくこぼれ落ちそうになり、非常に短いスカートからはライトグリーンの下着が丸見えとなっていた。

 アテネへの好意を自覚してからというもの、ルカは時折、己の感情を制御出来ないことがある。

 あの唇に、胸に、腰に、その深奥に――触れてみたい。

 そういった欲望が轟々と渦をまく一方で、この可憐な人魚を守りたい、穢したくないという感情が心の中でせめぎ合う。 

「不埒者は……俺だったか……」 

 ルカは大きくため息を吐くと、はだけたシーツを掛け直して、理性を総動員してアテネから目を逸らす。

 と、その時。

 一階からとりわけ大きな歓声が上がり、楽しげな笑い声が響いてくる。

 海兵隊の任務は、その多くが敵との直接戦闘であり、死は――常に隣に居る。

 だからこそ、彼女達は歌い、飲み、今この時を楽しむのだ。

(随分と、盛り上がっているようだな)

 ルカは嬉しそうに笑みを浮かべる。

 こんな自分を仲間として快く受け入れ、祝いの席まで用意してくれた彼女達に、ルカは深い感謝を覚えていた。

 同時に、人の道に背いているという強い罪悪感も覚えるのだ。

 ルカはこの世で唯一、海に出る事を許された『男』であり、それは重大な秘密として隠さなければならないものであった。

 男だと知られたら最後、ステラ・マリス号には二度と戻れないだろう。

 それはアテネとの別離を意味していた。

 だが、裏を返せば、秘密がばれない限りずっとあの船にいられるのだ。アテネの側にいられるのだ。

 海兵隊の入隊試験にも受かり、晴れてマーメイドの仲間入りも果たした。

 これからは戦場に立つアテネの隣で、剣を振るうことが出来る。

 なら、これで(・・・)いいのではないか――と、心の弱い部分が訴えるが、ルカは首を左右に振って自嘲気味に笑う。

「このままで、いいわけがないな」

 奴隷だった頃は、何も考えずにただ命令を聞くだけでよかった。

 だが、自由を掴むというのは、己の心の舵を、己の手で動かさなければならないという事だ。

 自由と責任は同義なのだ。

 マーメイドの少女達と、なによりアテネと、真の仲間であろうとするなら、いずれ己の秘密とも『決着』をつけなければならないだろう。

 例えそれで、多くを失うことになろうとも。

 と、その時。

 

 コンコン――――


 部屋の扉をノックする音がした。

「…………誰だ?」

 ルカは警戒しながら、ドアノブに手をかけて問う。

 一階では、精強たるマーメイドの少女達が宴をしているのだ。酒に酔っていたとしても、部外者が通れるはずがない。

 ならば、ステラ・マリス号の誰かだろうか?

「……クロエだよ。少し話したいことがあるんだけど、いいかな?」

 ルカが扉を開けると、目元に涙の痕があるクロエが、無理に作った笑顔で立っていた。

「なにがあった?」 

「中に入ってもいい……?」

 ルカは眠るアテネを一瞥すると、クロエを部屋の中へ招き入れた。

「話とはなんだ? アテネを起こしたくはない。火急の用件でなければ明日に頼めないか」

「うん……アタシもそうしようかなと思ったんだけど、きっと、今日じゃなきゃ話せない。駄目ならいいよ……すぐに出てくから」

 いつもと様子の違う弱々しい声のクロエ。

 ここで選択肢を間違うと、取り返しのつかないことになる予感をルカは感じ取った。

「わかった。聞こう」

 ルカはコクリと頷いた。

 クロエは緊張しているのか、手を開いたり閉じたり、何度か逡巡したのち――

「ルカっちは、ルカっちは……アテネお嬢様の『味方』……だよね?」

 と、すがるような声で言った。

 クロエの問いにルカはしばらく考え、正直に答えた。

「味方というのは少し……違うな」

「え――――」

 クロエは絶望を顔に刻んで、一歩、二歩と後ろに下がる。

「待て、勘違いするな。『味方』というのは、立場が変われば『敵』になるかもしれない存在だ。だから、俺は違うと答えた」

「じゃ、じゃあ、ルカっちにとって、アテネお嬢様はどういった存在なのさ?」

「例えるなら、砂漠の真ん中にある『生命の泉』だな」

「生命の泉……?」

「人は水がなければ生きていけない。だが、水があれば不毛の砂漠でも生きていける。俺も、アテネさえいれば――この世のどんな場所だって生きていける。俺にとってのアテネは、そんな風に特別で、他に変わりのいない、唯一無二の存在だ」

「ふふ、なによそれ。まるで『愛』の告白に聞こえるんだけど?」

 いつもの調子を取り戻したのか、クロエはからかうように言った。

 だが、

「………………」

 ルカは無言で、真剣な眼差しでクロエを見つめる。

 沈黙は肯定であり、ルカの瞳に宿る感情に気が付いたクロエの頬が、みるみる真っ赤に染まっていく。

「あ、えっと……そ、そうなんだ。ルカっちは、その……そっちの趣味なんだ?」

 落ち着かない様子で髪を弄りながら、クロエは一歩二歩と後ろに下がる。 

「何故、下がる」 

「い、いや~、なんていうのか……その、身の危険というか、貞操の危機というか。もしかして、お嬢様はもう……」

「馬鹿なことを言ってないで、早く本題に入ってくれ」

「る、ルカっちが変なこというからっしょ!?」

 頬を赤く染めて、クロエは言った。

「クロエが真剣だったから俺も真剣に答えたまでだ。腹を割って話そうとしている相手に、隠し事は出来ないだろう」

「そ、そっか……」

 クロエは嬉しそうに笑うと、覚悟を決めたように拳をギュッと握りしめる。

 そして、

「今日、アタシがここに来たのはさ、お嬢様の幸せそうな顔を見たからなんだ」

「アテネの?」

「ルカっちにならお嬢様を任せられる。これからは、アタシの変わりに……お嬢様を守って欲しいんだ」

「どういうことだ。クロエはフォーサイス家に仕える従士の一族なのだろう?」

「言葉通りの意味さ。アタシは……『フォーサイス家』に仕えている。アテネお嬢様個人に忠誠を誓っているわけじゃない。だから、フォーサイス家の利益のためなら嬢様が不利になることでも、危険な目にあわせてしまうことでも平気で出来る。いや、そうして来たんだ」

 クロエはそう言うと、顔を伏せ、唇を噛みしめる。

 震えて小さくなるその姿は、何か大きな罪を犯して、その罪悪感に押しつぶされそうになっているように見えた。

(――そうして来た、だと?)

 ルカの中に一つだけ心当たりがあった。

 《黒髭》が最初に襲撃した『あの夜』のことだ。

 海賊船は夜の海を、闇の中を、真っすぐにこちらに向かって来ていた。

 ルカのように特別な瞳を持たない限り、ステラ・マリス号の停泊位置が見えるはずがない。

 つまり、誰かが『外部』に情報を流していたことになる。 

「…………軍艦の停泊場所は、最高機密だとテミス副長が言っていた。つまり、そういうことか(・・・・・・・)?」

「あはは、流石にルカっちは察しがいいね。そうさ、アタシが『裏切り者』だよ」

 乾いた声で笑うクロエだが、その表情は後悔で歪んでいた。

「事情があるのだろう。詳しく話せ」   

「……メルティナ様と、フォーサイス家の確執は知っているよね?」

「ああ、話には聞いている」

「結局、それが全てなんだ。メルティナ様とヘラヴィーサ様。その二人が愛したエリオット様が死んだあの日から、全てが狂ってしまった」

「ヘラヴィーサ?」

「フォーサイス家の当主であり、エリオット様の母であり、アテネお嬢様の祖母にあたる人だよ」

 エリオットが亡くなるまでは、ヘラヴィーサはとても優しい女性だった。

 多くの慈善事業を行いながら、コロンビアを支える大財閥としての責任を果たしてきた。

 息子の駆け落ち同然の結婚にも理解を示し、反対する親類縁者の声を封じて、温かく二人を見守っていた。

 だが、エリオットは病で亡くなった。

 家を出て、一年足らずのことだった。

 訃報を受けたヘラヴィーサは錯乱したのち気を失い、三日も眠ったままだった。

 そして、次の目覚めたときには――『別人』に変わっていた。

 失われた愛は憎しみに変わり、その憎悪は、残されたメルティナへと向いた。

 ヘラヴィーサは手始めに、愛する息子を奪ったとして、メルティナから最も大切なアテネを奪った。

 さらに、軍へ圧力をかけ、メルティナを戦場の最前線に送り込んで抹殺しようとした。

「…………生き地獄ってさ、本当にあるんだよ」

 フォーサイス家に連れてこられたアテネの生活は、凄惨の一言であった。

 三歳のアテネに与えられたのは、塔の頂上にある『牢獄』だった。

 凍てつく寒さの牢獄には、毛布が一枚と、他にあるのは羽ペンとインクに、羊皮紙だけ。

「ヘラヴィーサ様は、牢獄の格子越しにアテネお嬢様に命じた。船を設計しろと、エリオットの娘なら出来るはずだと。もちろん、三歳の幼女にそんなことが出来るはずがない。そしたら……ヘラヴィーサ様は馬を打つ鞭でアテネお嬢様を叩いた。背中の皮が剥がれて、血が噴き出すほどね。ヘルヴィーサ様は狂ったように叫んだそうよ。お前は――エリオットの娘じゃないと」

 船の設計が出来るまで食事は与えられず、アテネは衰弱していった。

「その状況を見かねたのが、塔の監視を命じられたアタシの親父さ。親父は内緒で食事を差し入れ、お嬢様に治療を施した。その時に、お嬢様がお礼といって描いたのが、可愛らしいクマのぬいぐるみだったんだ」

「Mr.ブラウンだな」

「へぇ、お嬢様がブラウンのことまで話すなんて、やっぱりルカっちを選んで正解だったよ」

 屋敷に連れて来られた時、アテネが抱きかかえていた唯一の品である『クマのぬいぐるみ』は、ズタズタに切り裂かれてゴミ場に捨てられていた。

 それを回収して修繕し、再びアテネに手渡した時、鞭で打たれても泣かなかった少女が初めて涙を流したという。

「泣き止んだお嬢様は、まだ字もまともに読めないだろうに、親父に『造船』に関係する専門書を持ってくるよう頼んだ。一週間後、再び塔を訪れたヘラヴィーサ様に、お嬢様は一枚の『絵』を渡して見せた。何が描いてあったかは知らないけど、それを見たヘラヴィーサ様は青ざめ――二度と塔を訪れなかった」

「二度とだって!?」

「そうだよ。まるで見たくないものに蓋をするようにね。私達の一族は、ヘラヴィーサ様が捨て置かれたあともお嬢様のお世話を続けた。神の救いでもない限り……お嬢様は死ぬまで牢獄に囚われたままだったろうさ。でも、そんな状況が、好転する日が来た」

 クロエは顔を上げると、ベッドで眠るアテネに目を向け、

「――――『海の英雄』が帰還したんだ」

 と、誇らしげに言った。

 最前線に送ったはずのメルティナが、戦争で絶大な戦果を挙げて帰還した。

 提督としての不動の地位を手にしたメルティナは、極めて優秀な仲間と共に、海軍の大掃除を始めた。

 フォーサイス家と裏で繋がる者達を徹底的に更迭し、《サザングレイス大要塞》に海軍本部を移転。

 海軍独自の造船所を作り上げた。

「ステラ・マリス号が世間に公開されたのは、今から三年前の起工式さ。来賓として招かれたヘラヴィーサ様は、それは度肝を抜かれたそうよ」

 ヘラヴィーサは一目でこれから作られる船が、エリオットの遺作であると見抜いた。

 これまで海軍は、造船の半分近くをフォーサイス家に頼っていた。

 だが、ステラ・マリス号を皮切りに、海軍は独自の技術で次々に新造艦を建設し始めた。

「待ってくれ、あの船を設計したのは確かアテネの親父さんのはずだろう? なのに、どうしてフォーサイス家はそれを知らないんだ?」

「設計したのは確かにエリオット様だった。でも、エリオット様が設計図を託したのはメルティナ様だったんだ」

「そうだったのか……」

「メルティナ様は本当に凄い人だよ。あの人は、堂々と真正面からフォーサイス家に喧嘩を、いや……戦争をしかけたんだ。娘を取り戻すために」

 大きなの既得権益を失いつつあるフォーサイス家は、喉から手が出るほどステラ・マリス号の情報を欲した。

 だが、海軍本部にある造船所は守りが固く、諜報員を潜り込ませるのは不可能。

 だから、海の英雄メルティナと、天才造船技師エリオットの恋物語が世間に流布し、世論を利用して一人娘であるアテネを海軍に入隊させた。

 ステラ・マリス号の情報を得るために。

「私はアテネお嬢様の御付きとして一緒に海軍に入隊。この三年間、母娘の感動の再開を見守る一方で、ステラ・マリス号の情報をフォーサイス家に流していたというわけ」

「それが、あの夜の襲撃に繋がるんだな」

「ほんとはさ、処女航海の前にフォーサイス家から帰還命令が来てたんだ。アテネお嬢様を連れて戻れってね。でも、アタシはそれを無視した。そしたら《黒髭》が襲撃してくるんだもん。私が流した情報のせいで何人も仲間が死んだ。ううん、もう……仲間の資格なんてないか。だってさ、アタシはあのとき安心していたんだ。あの地獄にお嬢様を戻すくらいなら、戦いの果てに海で散る方が幸せなんじゃないかってさ。はは、最低でしょアタシって……」

 扉に持たれて、ずるずると崩れ落ちるクロエ。

 床に座り込んだ彼女は、断罪されるのを待っているかのようだった。

「……これからどうするつもりだ?」

 死んだ方が幸せ――その言葉を、ルカは嫌というほど理解出来た。

 大和の国の文化は、恥の文化だ。

 体裁や体面を何よりも重んじ、常に人からの評価を気にして生きなければならない。

 ルカの父は、『角の討手』と称される稀代の鬼狩りだった。

 だが、その父が鬼へと堕ちたことで、ルカの家は――『たちばな』家の名声は完全に失われた。

 その汚名は、孫の代まですすぐのは無理だろうと云われている。

 鬼狩りにとって鬼に堕ちるは、それほどの……まさに死んだ方が幸せなほどの恥なのだ。

 懇意にしていた商人達も悪評を恐れて橘家との商いを止めてしまい、幼いルカが異人商人と交渉したのも、それしか家族を救う手立てが残されていなかったのだ。

「これから海軍本部に出頭して、全部告白する」

 と、クロエは顔を伏せたまま呟いた。

「極刑は免れないぞ?」

 どこの国でも、間者に待つ運命は厳しい。

 クロエは酷い拷問を受けたのちに、処刑されるだろう。

「洗いざらい喋ったら、少しくらいフォーサイス家に痛手を与えられるかもしれない。少しくらい……お嬢様への詫びになるかもしれない。だから、死ぬのは怖くないよ」

 顔を上げたクロエの瞳には、死を賭して報いる覚悟が宿っていた。

 と、その時。


「――――そんなの駄目ですッ!!」


 アテネの声が部屋に響き渡る。

 見れば、酔って眠っていたはずのアテネがベッドから飛び降り、駆け寄って来るではないか。

「お、お嬢様ッ!?」

 話を聞かれたクロエは、愕然とした表情になる。

 アテネはうなだれるクロエの前に両膝をついて、

「もう一度言います。そんなことをしては駄目です、クロエ!」

 と、言って、クロエの手を両手で包み込む。

「聞いてたでしょ……お嬢様。アタシは最低の裏切り者なんだ。だから、もうお嬢様の従士ではいられなんだ」

「だったら、知っていて黙っていた私は……裏切り者の親玉ですね」

「え?」

「私を何年も牢獄に繋いだヘラヴィーサお婆様が、突然、海軍へ入れと命じたのですよ? 裏がないはずがありません。そして、ステラ・マリス号を見た時に全てわかりました。あの船はお父様が設計したもので、お婆様はその情報を入手するために私達を海軍に送り込んだのだと」

 牢獄で造船について学んでいたアテネは、一目でステラ・マリス号が父エリオットの設計である事に気が付いた。

 同時に、自分とクロエが、間者として送り込まれた事も。

「だったら、どうして……裏切り者のアタシを突き出して保護を求めなかったのさ? メルティナ様なら絶対に何とかしてくれたはずだろ?」

「そんなの! クロエが、友達だからに決まっているじゃないですか!」 

「とも、だち……アタシが、お嬢様の?」 

 クロエは信じられないという表情で唇を震わせた。

「少なくとも私はそう思ってきました。一人で心細かったあの牢獄で……時折遊びに来てくれるクロエの存在がどれだけ救いになったか。あの時に貰った『絵本』がどれだけ支えになったか。クロエは私の初めての友達です。大切な親友です。友を守りたいと思うのは当然でしょう?」

「お嬢様……」

「ですが、私に出来る事は多くありませんでした。実家は敵で、お母様に頼ればクロエは船を降ろされる。次にやってくるのは顔も知らない間者でしょう。だから、私は偉くなろうと、強くなろうと決めました。海尉任官試験に合格して、お婆様が認めざるを得ないほどの功績を上げ、友も船も同時に守れるだけの存在になろうと。でも……私は失敗してしまった」

 アテネは悲しげに顔を伏せる。

 ルカと出会う少し前に、アテネは海尉任官を受けたが、合格する事が出来なかった。

 士官候補生として出直しとなったアテネに下されたのは、重要な任務とは程遠い、『見習い水兵』の教育係りだった。

 あの頃のアテネにあった焦燥の裏には、友人であるクロエの事もあったのだろう。 

 それからすぐに、黒髭の襲撃が起きてしまった。

 全て解決したのは、つい二週間前の出来事である。

「私は、大きな挫折を経験しましたが、同時に運命の出会いも経験しました。ルカが居なければ、もう一度立ち上がる勇気を得る事もなく、戦いに敗れ、失意と絶望の中で命尽きていたでしょう」 

「お嬢にはルカッちが居れば安心だと思った。今のお嬢様は……すっごく幸せそうだもん」

 クロエは自分の事のように嬉しそうに微笑んだ。

「ルカが教えてくれたのです。生きている限り何度だってやり直すチャンスはあると。だから、クロエも諦めないで下さい。一緒に戦いましょう」 

「ありがとう、お嬢様。こんなアタシを友達だと言ってくれて……凄く嬉しかった。でも、アタシはもう――」

 何もかもに疲れたというように、クロエは首を左右に振った。 

「クロエは、あの夜の黒髭襲撃が自分のせいだと……そう考えているんですよね?」

「うん、そうだよ」

「その根拠はなんですか?」

「あれは忘れもしない……ステラ・マリス号の処女航海を一週間前に迎えた日の事さ。フォーサイス家の使者が三年ぶりに接触して来たんだ。命令の内容は『航路計画表』を盗み出す事だった。私はテミス副長の部屋に忍び込んで書類を複写。出入りの業者に扮したフォーサイス家の使者にそれを渡したんだ」

「流した情報は、それだけですか?」

「神に誓ってそれだけだよ。今さらお嬢様に嘘なんて吐くものか」

 クロエは胸に手を当て、真っすぐにアテネを見やる。

 アテネはホッと息を吐いた。

「確かに、海軍本部に提出される航路計画表には、おおまかな停泊位置を記す決まりとなっています。ですが、船は常に波と風の影響を受け、針路は計画通りにはいきません。実際、あの夜の停泊位置は、航路計画表とは全然違う場所でした」

「え、そう……なの……?」

「はい!」

「じゃ、じゃあ……」

「あの襲撃にクロエは関係ありません。他に別の要因があるはずです。ですよね、ルカ!?」

 アテネはそう言って、先ほどから黙って聞いていたルカを振り返る。

 確かにアテネの言う通りだった。

 航海は予定通りにいかないのが常で、ルカが乗っていた奴隷商船も、目的地への到着が何週間も、酷い時には何ヵ月も遅れたりする場合があった。

 それに、あの聡明なメルティナ艦長が、フォーサイス家の人間を船に招き入れるのに、何の対策もしていないはずがない。

 おそらくクロエに触れられるのは、知られても構わない情報だけなのだろう。

 だが、

「駄目だ。そいつは裏切り者だ」

 刀の柄に手を乗せ、ルカは冷徹に言い放つ。

「ま、待って下さい、ルカ!」

 予想だにしないルカの反応に、アテネは慌てて立ち上がる。

「ルカッちが正しいよ、お嬢様。やっぱりアタシのような存在がお嬢様の側にいちゃ駄目なんだ。例えお嬢様の言う通りだとしても、アタシが情報を流していた事実はかわらない」

「…………言い残す言葉があれば聞こう」

 ルカは鞘から、ゆっくりと刀を抜き放つ。

「お嬢様を……頼みます」

 クロエはそう言って覚悟を決めたように目を閉じると、祈るように両手を組む。

 と、

「お願いです、ルカ! どうかクロエを許してあげて下さい!」

 アテナは必死にルカを説得しようと言い募るが――

「どくんだ、アテネ。裏切り者は斬らなければならない」

 ルカは鋭い表情で、クロエに殺気を向ける。

 だが、次の瞬間。


「いいえ! クロエを斬るというなら、私を斬ってからにして下さい!」


 アテネは両手を広げて、クロエを庇うように立つ。

 青い瞳には、死を賭してでも友を守らんとする決意があった。

 クロエはそんなアテネの姿に、くしゃりと顔を歪めて嗚咽を漏らす。

「ああ……アタシは、なんて、なんて……馬鹿だったんだ。ごめんなさい、お嬢様! ごめんな、さい……ッ!」

 両手で顔を覆って泣き崩れるクロエ。

 アテネは両手を広げたまま微動だにせず、目を真っ赤に充血させながらも、決して目を逸らす事はない。

 ルカもまた、抜刀した刀を手に厳しい表情を続ける。

 しばらく膠着が続き――ふいに、ルカは背を向けた。

 直後、ビュンッと凄まじい速さで刀を振り抜き、何もない空間を断ち斬ったルカは、そのまま刀を鞘へと納める。

 リンッ、と涼やかな音がして、

「たった今……裏切り者は俺が斬った。罪はこれで祓われた」

 背を向けたままルカは言った。

「ルカッ!」

 こちらの真意に気付いたのだろう。アテネは嬉しそうにルカの背中に抱きついた。

「わかっただろう、クロエ? お前にとってアテネがどれだけ大きな存在か。命をかけても守らんとするその思いが」

 ルカの言葉にクロエは泣きじゃくりながら、何度も何度も頷いた。

「これからはアテネに忠義を尽くせ。友として、仲間として、従士として」

「――――はいッ!」

 クロエは涙で濡れた顔を上げ、誓うように返事をした。

「ありがとう、ルカ……」

 アテネは涙を拭いながら、ルカの背中に顔をうずめる。

「俺達がクロエを許すのは簡単だ。だが、簡単に許せばクロエの心には罪の感情が『しこり』となって残るだろう。そのしこりがある限りクロエは心から笑えなくなる。だから、許さないことが赦しになると思ったんだ」

 ルカはそこで言葉を切ると、アテネの手を取り振り向いた。

 二人は正面から見つめ合う。  

「今度は俺が許しを乞う番だ。如何なる理由があるにせよアテネに刃を向けたのは事実。このような真似は二度としない。どうか許してほしい」

「いいえ、いいえ、ルカが謝ることは何もありません。それに……信じていました。ルカが理由もなく刃を抜くはずがないと。だから、自分を責めるのはもう止めにして下さい」

 アテネはそう言って繋がる手をギュッと握りしめる。

「……わかった」

 少女から寄せられる真っすぐな信頼に、ルカはようやく硬い表情を解いた。

 アテネは嬉しそうに微笑む。

「ところでだ、アテネ。一つ質問したい事があるんだがいいか?」

 ルカにはどうしても、アテネに確認しておかなければならない事があった。

 それは二人の今後に関わる重大な案件である。

「なんです?」

 アテネは可愛らしく首を傾げた。 

 ルカは己を落ち着かせるように、一度深呼吸すると、丹田に力を籠めて問う。

「……いつから起きていた(・・・・・・・・・)?」

「え?」

「いつから、起きていたんだ?」

 ルカは珍しく動揺した様子でアテネの両肩に手を置くと、再度問う。

 アテネの瞳が右から左に流れ、その頬がみるみる真っ赤に染まっていく。

 そして、

「……せ……生命の泉……から、です……ッ」

 アテネは正直に答えてうつむいた。

 その頭からは湯気が上がり、耳まで真っ赤になっていた。

(ほとんど……最初からじゃないか!)   

 己の胸の内を全て知られてしまったルカは、羞恥のあまり力尽きるようにその場にしゃがみ込む。

「きゃあ!? し、しっかりして下さい、ルカ!」

 アテネはおろおろするしかなく――


 奇妙で、甘くて、どこか清々しいルカとアテネの姿に、クロエは心の底から笑う。

 この二人をずっと見ていたい。

 この二人とずっと一緒に居たい。

 頬を伝う涙は、そんな嬉しさから来るものであった。



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