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太陽が東の海に沈みゆく夕暮れ時。
ルカはアテネの案内で、海軍本部のお膝元であるサンシャインロードと呼ばれる大きな港町に来ていた。
この街は『太陽の道』の名の通り、夜になっても眠らない大きな歓楽街がある。
様々な店が軒を連ねる大通りを、ルカと並んで歩くメイド姿のアテネは、
「今日はルカの入隊祝いですからね! 盛大にいきますよ!」
嬉しそうにはしゃいで、短いスカートをふわりとなびかせる。
「わざわざすまないな」
「いいえ、嬉しいときは皆で喜び、悲しいときは皆で支え合うのが仲間です。ルカはもうマーメイドの一員なんですから、遠慮はなしですよ!」
「ありがとう、アテネ」
「クロエが知り合いのお店を貸し切りにしてくれました。美味しいお酒も、ご馳走も、たっくさんありますから、期待してて下さいね!」
「言っておくが、アテネは酒を飲んだら駄目だぞ」
以前、ラム酒を一口飲んだだけで酩酊してしまったアテネの世話に、ルカは大変苦慮した。
「心配無用です。今夜の私は食べるのが専門ですから!」
えっへんと胸を張るアテネ。
重そうな胸がゆさんと揺れた。
「それなら安心だな……」
少女の胸にたわわに実った魅惑の果実と、それが作り出す吸い込まれそうに深い谷間から、ルカはなんとか目を逸らした。
「ところで、一つ質問があるんですが」
「どうした?」
「最近、黒曜石の首飾りを付けてませんけど、どうかしたのですか?」
「首飾りか……」
癖のように胸元を探るが、そこに家族との唯一の繋がりはなく――言うべきが迷ったが、ルカはアテネに隠し事はしないと決めた。
「あれは手放した。今はジョアンナのものだ」
「な、何故です!? あれはルカの故郷の、お母様からの贈り物だと!!」
アテネは狼狽したようすで言った。
「この刀を手に入れるためだ」
ルカは腰に差す《黒刀・闇一文字暗月》に触れる。
「水臭いですよ、ルカ! 言ってくれればお金なら用立てましたのに!」
自分のために怒ってくれるアテネに、ルカは喜びと愛情を感じながら答えた。
「いや、金を幾ら積んでも、ジョアンナはこの刀を譲ってはくれなかっただろう。この刀は彼女の親友の形見なんだ。彼女の宝物なんだ。だから、俺が持つ唯一の宝と交換して貰った」
「ですが、それでは……」
「大丈夫だ、アテネ。形はなくしても思い出は心にある。それに、今はこの刀が新しい絆だ」
「新しい絆?」
「アテネ、君との絆さ」
「――――ッ!」
アテネは一気に顔を真っ赤に染めた。
夕焼けの空のように、顔を真っ赤にしたまま立ち尽くすアテネに、
「案内してくれないと、店がわからないぞ」
ルカもまた、頬を赤くして言った。
アテネは顔をうつむけたまま走り寄ると、ルカの腕をギュッと抱きしめた。
驚くほど柔らかな胸の感触に、ルカは言葉を失う。
「あ……案内します、ね」
アテネは顔をうつむけたまま、ルカの腕を引く。
真っ赤に染まった耳が、現在のアテネの心境を示していた。
まるで恋人さながらに密着したまま、二人は夕暮れのサンシャインロードを行く。
ほどなくして、大通りの一角にあるお店に到着した。
赤レンガ造りの二階建ての建物で、入り口には樽を使ったおしゃれな看板が置かれていた。
「いい雰囲気の店だな」
「店の名前は『トラットリアジェノバ』。カリブ料理や西欧料理など、世界中の様々な美味しいものを食べられるんですよ」
まだ頬が赤いアテネは、はにかむような笑顔を見せる。
「そいつは楽しみだ」
ルカが店のドアを開けると、カランカランとベルが鳴る。
次の瞬間。
「せーの! ルカ君、おめでとうおおおおおおおお――――ッ!!」
ルカ達を出迎えるように、大きな歓声が上がる。
貸し切りの店内には、マリナやクロエを始めとするステラ・マリス号の少女達が勢揃いしていた。
「ふふ、みんなルカの入隊を祝いたいと集まったんですよ!」
アテネは誇らしげに胸を張る。
「いやー、誇張なしにルカっちの人気が凄くてさ、船の全員が参加するって言い出してほんと大変だったんだから」
と、言ったのは、スレンダーで引き締まった体系の少女で名はクロエ。
ショートカットの緑の髪と、猫のような緑の瞳を持つ少女は、片目を閉じてウインクしてみせた。
「結局くじ引きで、参加者を抽選することになったんですよ」
と、言って、優しく微笑むのは、抜群のプロポーショナルを誇る少女で名はマリナ。
ふわふわした桃色の髪を腰まで伸ばし、火竜石のように真っ赤な瞳を持つ。
「主賓がいつまでも立っていたら始められません。座りましょう、ルカ」
アテネに腕を引かれ、ルカは店の真ん中のテーブルに案内される。
すると、メイド服を纏った海兵隊の少女達が、両手にいくつものジョッキを持って調理場から出て来るではないか。
木製のジョッキには、なみなみと泡立つビールが注がれていた。
彼女達は店の者では手が足りないため、給仕役を買って出てくれたのだ。
だが、
「なんでメイド服なんだ?」
「最近マーメイドではメイド服が大流行っているのですよ。どうです、ルカも着てみませんか?」
「やっぱりアテネが原因だったか……って、お酒は駄目だといっただろ」
目の前に置かれたビールに目をキラキラさせ、手を伸ばそうとしていたアテネに、ルカはすかさず果実水を差し出す。
「一口飲んでみたかったのに……」
「大人になったらな」
「むぅ、子供扱いしないで下さい。私とルカとでは一つしか違わないじゃないですか!」
子供っぽく頬を膨らませるアテネに、ルカは優しい笑みを浮かべる。
出会った頃では考えられなかったほど素の感情を見せるようになったアテネに、強い愛しさを感じるのだ。
と、
「こらそこ! 二人でイチャイチャしてないで早く乾杯の音頭をとってよね!」
クロエが付き合っていられないという表情で、ヤジを飛ばす。
ルカは苦笑しながらジョッキを持って立ち上がる。
「こういった場は不慣れで気の効いた言葉は出て来ないが、俺のために集まってくれたことにまずは感謝を。これからマーメイドの一員として共に戦えることを誇りに思う。海で生まれ、血の洗礼を受けた乙女達よ――」
そこで言葉を切ったルカは、店の中にいる全員を見渡すと、泡立つジョッキを天高く掲げて言い放つ。
「――――杯の底を上げろ!」
海兵隊の少女達は満面の笑顔で、『乾杯!!』と声を揃えた。
「さぁ、あとは食って、飲んで、盛大に騒いでおくれ!」
出来立ての料理を運んでくるのは、店主である恰幅のいい女性だ。
彼女に続いて、メイド服を着た海兵の少女達が続く。
テーブルの上にはあっという間に乗りきらないほどの料理が並んだ。
チーズたっぷりの焼きたてピザに、大きなミートボールの入ったトマトパスタ。子牛のパイ焼きに、魚介たっぷりのアクアパッツァ。山盛りのサラダに、子豚の丸焼きなど――海の上で滅多に食べられない料理の数々に少女達の歓声が上がる。
特に、
「こ、これ全部食べてもいいんですか!?」
腹ぺこマーメイドのアテネは、青い瞳をキラキラ輝かせて食い入るように料理を見つめる。
「もちろんさね。お宅の船長さんからお代は貰ってるから、遠慮せずにたんとお食べ!」
女店主が真っ赤に茹であがったとびっきり大きなロブスターをテーブルの上に置くと、少女達から「やーっ!」と歓声が上がった。
「よーし食べますよ! あ、ルカの分は私が取り分けて上げまからね」
アテネは席を立つと、二つの皿にせっせと様々な料理をとりわける。
どこの国でも身分が高くなれば高くなるほど、給仕の仕事は、奴隷や身分の低い者の務めとなり、大和の国では高貴な女性が手ずから飯をよそうのは卑しい行為だとさえ云われている。
だが、ルカは自分のために料理を取り分けてくれるアテネの姿を、とても魅力的だと感じていた。
愛する女性に身のまわりの世話をしてもらいたいと思うのは、男であるなら誰もが持つ願望の一つだろう。
「どうぞ、ルカ」
アテネは皿に色んな料理を少しづつ盛りつけ、ルカの前に置いた。
「ありがとう、アテネ」
「ふふ、どういたしまして。では、いただきましょう!」
アテネは両手にナイフとフォークを持つと、自分の皿に取り分けた大きなミートボールを一口でほおばる。
「はふはふ、美味しいれふ❤」
美味しそうに食べるアテネの姿を見ると、こちらまで幸せな気持ちになってくる。
ルカもミートボールを食べてみた。
少し濃いめの味付けだが、よくソースが染み込んでいて――
「なるほど、これは美味いな」
どこか懐かしさを感じさせる、まさに大衆食堂ならではの家庭の味だ。
「ロブスターも身がぷりっぷりですよ!」
アテネは茹でたロブスターの身に、バターソースを絡めてほおばる。
ルカもまた、アテネが取り分けてくれた料理に舌鼓をうつ。
「ん~❤」
幸せな声を上げるアテネに目を向けると、可愛らしいピンクの唇から、焼きたてのビザがとろりとチーズのアーチを描いていた。
「アテネは本当になんでも美味しそうに食べるな」
「だって本当に美味しいですもん」
アテネは満面の笑顔を見せる。
そんなに美味しいならとルカもピザに手を伸ばそうとするが、それに気が付いたアテネは、
「あ、私が取って上げますよ。ここが一番美味しいんです」
ピザを切り分けると、皿に置くのではなく手を添えながらこちらの口元に持ってくる。
そして、
「ほら、あーんして下さい♪」
と、言ったではないか。
「いや、流石にそれは……」
「今日の主役はルカなんですから遠慮はなしですよ。それに、新入りの世話をするのも先輩マーメイドの務めです」
そこまで言われては断るわけにもいかず、気恥ずかしいのを堪えてピザに噛り付く。
「美味しいですか?」
「う、美味いぞ……」
ピザの味は最高だが、周りの視線も最高に痛い。
「では、これもどうぞ」
アテネはロブスターの身をフォークに刺すと、嬉しそうに「あーん」と言ってくる。
小さく口を開けたアテネの表情はとても愛らしく、メイド服から覗く深い谷間を背景に、ロブスターの身がぷるぷるしている光景は色んな意味で目に毒だった。
ここは反撃に転じなければ、アテネの奉仕は止まらないだろう。
ルカは自らのフォークでパスタを絡め取り、アテネに口元に持っていく。
「えっと……?」
「俺ばかりじゃ悪いだろ。アテネも、あーんしてやるよ」
「なるほど。では、いただきますね」
アテネはおずおずと、ルカのフォークに絡まるパスタをほおばった。
上品に片手で口元を隠してもくもくと口を動かし、ほどなくして咀嚼されたパスタが飲み込まれていった。
なるほど、これは楽しいとルカは思う。
自分が与えたものを体内に取り入れるアテネの姿を見ていると、妙な喜びと、達成感が沸き上がるのだ。
「少し恥ずかしいですけれど、ルカから頂いたとものというだけで何倍にも美味しく感じます」
頬を染めて、無防備に微笑むアテネ。
ルカの心臓がドクンと音を立てた。
「そ、そうか……」
「もう一口、お願いしてもいいですか?」
アテネは上目遣いで、まさかのおかわりを求める。
「わかった。何が食べたい?」
「あのソーセージが食べたいです!」
「よし、任せろ」
最近のアテネは『奉仕』を称してメイド姿であれこれ世話を焼いてくるが、その気持ちがわかって来た。
ルカは雛に餌をやる親鳥の気分で、アテネに「あーん」をする。
最初に感じていた気恥ずかしさは既になく、ルカの瞳に映るのはアテネただ一人だけ。
二人は交互に「あーん」を繰り返して、甘い世界を作り出す。
「こんなに幸せな日が来るなんて、本当に……夢のようです」
アテネは今この瞬間を胸に刻むように呟いた。
「おおげさだな。この店が気に入ったならまた来ればいいじゃないか」
「いいえ、私一人では駄目です。ルカが側に居るから、ルカと出会えたから、幸せという感情を思い出すことが出来たのです。逆に言えば、ルカさえいれば、私は――どんな場所でも幸せを見つけられます」
アテネの言葉は聞きようによっては愛の告白であり、
「そ、そうか……」
ルカは顔を赤くするしかなかった。
「ええ、そうです!」
こちらの心情に気が付かないアテネは、いい事を言ったぞという顔でえっへんと胸を張る。
重そうな胸がゆさんと揺れた。
ルカは喉が渇きを覚え、ジョッキを傾けビールを飲む。
と、
「私は、ルカのおかげで変わることが出来ました」
果実水の入ったコップを手に、アテネは言った。
「確かに随分と柔らかな雰囲気になったな」
「以前、ルカには私が空っぽだと話しましたよね?」
「ああ、聞いた」
「あの時の私は、何をしても空回りで、焦るばかりで、海尉任官試験に落ちたのも当然の結果でしょう」
「今は違うだろ」
「はい! 今は何をしても楽しくて、幸せを感じます。潮の匂いにも、風の声にも、空の青さにも。なにより、ルカと一緒に食事を食べる時が一番幸せです」
「俺も同じ気持ちだよ。奴隷として狭い世界しか知らなかった俺に、アテネが世界の広さを教えてくれたんだ」
「私がどうして母のように偉くなりたかったのか。母のような英雄になりたかったのか。その理由を聞いて貰ってもいいですか?」
「教えてくれ」
「私には……命を懸けてでも、認めさせたい人がいるんです」
「命を懸けてでも……?」
穏やかじゃない内容に、ルカの表情が硬くなる。
「その人は、私の母を、引いては父をも侮辱しました。二人の娘として……決して許すことは出来ません」
「誰だそいつは?」
アテネの敵は、ルカにとっても敵である。
「……ごめんなさい。今はまだ言えません。でも、話す決心が着いたら聞いてくれますか?」
「もちろんだ」
ルカが力強く頷くと、アテネは嬉しそうに微笑んだ。
会話が途切れ、二人はしばらく、料理に手をつけるでもなく黙り込んだ。
だが、沈黙に気まずさはなく、ゆったりと流れる時間もまた、今の二人には大切な時間であった。
半分ほど残っていたビールを飲み干したルカは、自然と口を開いた。
「俺は、自由になったら……世界の海を冒険してみたい。この広い世界を、自分の手で切り開いてみたいんだ」
「とても素敵な目標だと思います!」
「今はまだ、夢物語だけどな」
「でしたら、船長には私がなってあげます。これで夢が現実に近付きましたね」
「お、言ったな。船長は座は譲らないぞ」
「いいえ、私が船長です」
「なら、勝負だな」
「はい! どちらが先に船長になるか、勝負しましょう!」
ルカとアテネは、互いに拳を打ち合わせた。
海兵隊の少女達は、そんな二人を温かく見守る。
彼女達は知っているのだ。
共に死線を越えた先にのみ築かれる、血の繋がりよりも強い――戦場の『絆』を。
それは友情とも、愛情とも違う、互いの命によって紡がれた絆である。
少女達は、新たな仲間を歓迎する歌を奏で、歌に合わせて踊りを披露する。
誰かが楽器を取り出すと、入隊祝いの宴は、より華やかなものへと変わっていった。
◇
「ルカさんと、アテネさんは、本当に仲がよろしいのですね」
マーメイドの歌を聞きながら、ルカと同じテーブルに座るマリナは、二人に羨望の眼差しを向ける。
「なんかもう、見ているだけでお腹一杯になってくるよ。でも……お嬢様、ほんと幸せそう」
クロエはテーブルに頬杖しながら、どこか遠い目で儚げな笑みを浮かべる。
その緑色の瞳からは、一滴の涙がこぼれ落ちた。
「どうして、泣いているのですか?」
「これは、その……唐辛子が目に染みただけよ」
自分が泣いていることに気が付いたクロエは、慌てて目をこする。
「ふふ、唐辛子の入った料理はありませんでしたよ。これ、使って下さい」
マリナは白いハンカチを差し出した。
「……ありがと」
「後悔のないように生きるのは、簡単に見えて……とても難しいことです。ですが、困難に立ち向かわなければ、道が開けることはありません」
「マリナには、後悔なんてないんじゃない?」
「いいえ、わたくしも――死にたくなるほどの後悔を今も抱えたまま生きています。何度この首を突いて楽になろうと思ったかわからないほど……」
そう呟いたマリアの声には、耐え難い苦痛と後悔が、声なき悲鳴となって籠められていた。
クロエは驚いた表情で、マリナを見る。
「冗談って、顔じゃないね……」
「こういった悩みを告白するのは、意外でしたか?」
「そりゃそうでしょ。マリナってそういう柔らかな部分……今まで見せたことなかったじゃん」
同世代にアテネがいるため、影に隠れがちだが、マリナの優秀さはマーメイドの中でも群を抜いていた。
入隊試験でセラフィナを退かせたのは、後にも先にもマリナだけである。
北欧移民の出身だと聞いているが、その言動や立ち振る舞いには、消すことの出来ない高貴さが滲み出ており、正直、得体の知れない少女だとクロエは思っていた。
「ルカさんと、アテネさんの関係を見て気付いたのです。自らが心を開いて歩み寄らない限り、信頼は得られないと。わたくし、クロエとはもっと仲良くなりたいと思っていたのですよ。もちろん、ルカさんとアテネさんとも」
「自分から……心を開いて……」
クロエはその言葉を胸に刻むように繰り返すと、幸せそうなアテネを見やる。
アテネが何かを食べてるシーンを書くのはとても楽しい。




