プロローグ 襲撃
夜の闇を赤く染める炎が船の甲板を焼き、鋭い水のアギトが船の外殻を斬り裂いた。
砲撃が鳴り響くたび、帆は燃え上がり、太いマストがへし折れ、船が悲鳴のような音を上げて削り取られていく。
カリブ海に停泊し、夜を静かに越そうとしていた商船『サン・アントニアス号』は、この夜、海賊の襲撃に会っていた。
「老いた女は殺せ、若い女は奴隷として連れ帰る! あとは、ありったけの積み荷を奪いなさい!!」
砕けた木片が四散する甲板に降り立った女海賊の命令に、幾人もの海賊達が雄叫びを上げて乗りこんで来る。
このまま海賊達に、商船はなす術もなく蹂躙されるかと思った矢先――
闇の中を漆黒の獣が駆け、その鋭い牙で、リーダー格の女海賊の首元に噛みついた。
否、それは獣に見える一人の少年だった。
年の頃は、十六。
漆黒のざんばら髪を後ろで纏め、細身で筋肉質の体躯。
背丈は中ほどで、男にも女にも見える中性的な顔立ちをしているが、闇を溶かしたような黒い瞳には、怒りと、憎悪が燃え上がっていた。
彼の名は、琉風。
名が示す通り大和の民であり、手足の鉄枷の示す通り――金で売られた『奴隷』である。
「――――よくも、タバサを殺したな!」
ルカという名の少年は、そう言って女海賊の首に突き刺しした『木片』を引き抜く。
かひゅっ、と声を上げ、首から鮮血を噴出した女海賊が甲板に崩れ落ちた。
「て、てめぇ! よくもアタシ達の仲間を!!」
女海賊の一人がそう叫ぶが、
「先に襲ってきたのは、先に俺の仲間を殺したのは、お前ら海賊だろうが!!」
ルカは吠えるように叫ぶと、倒れた女海賊が持つカトラスを奪い、海賊達に斬り込んでいく。
その剣技は奴隷とは思えぬほど洗練されており、容赦なく一人また一人と斬り殺していく姿は、まさに修羅の如しであった。
「な、何で商船なんかにこんな化け物が!? ――――ぎゃあッ!!」
海賊の一人が、構えた武器ごと真っ二つに斬り捨てられた。
「くそッ、体制を立て直す! 一度引き上げるわ!」
あっという間に仲間の半数を殺され、海賊達は泡を食って引き上げていく。
次に襲ってくるときは、倍以上の戦力を連れて戻って来るに違いない。
ルカは刃こぼれして、ひびの入ったカトラスを投げ捨てると、血塗れの甲板を走って船内へ向かう。
「皆、無事でいてくれ……ッ!」
船員や船長などは、いの一番に船を捨てて逃げ出している。
だが、船倉には今だ『仲間』が、ルカと同じ『奴隷』達が取り残されているのだ。
ルカは浸水が始まった真っ暗な船倉で、行く手を阻む樽を押し退け進む。
と、その時。
身体が浮かび上がるような衝撃と共に、大砲の音が鳴り響く。
「くそ……奴ら、船を沈める気か!?」
船壁に叩きつけられたルカは、頭を押さえて立ち上がる。
ぬめる手を見れば血で真っ赤に染まっていたが、ルカは傷をものともせず先に進む。
砲撃が着弾するたび船が大きく揺れ、浸水はいよいよ深刻な状況になっていた。
このままでは、半刻もしないうちに船は沈没するだろう。
「アデラ! ドリーン! 返事をしてくれ!!」
水をかきわけルカは叫んだ。
夜になれば奴隷は全員が船倉に閉じ込められて、足枷に逃亡防止の鎖をつけられる。
このまま船が沈めば取り残された奴隷達は、船と運命を共にするしかない。
「ブレンダ! サマンサ! マーサ!」
再びルカは叫ぶ。
と、
「ルカ!? ルカなのかい!?」
声がした方を見れば、浸水する中で辛うじて顔を出す数人の女性達がいた。
年齢も人種も様々だが、共通しているのは彼女達の手足にある鉄枷と、背中に押された奴隷の焼印だろう。
「アデラ! すぐいく!」
ルカは女性達の元へ急いだ。
「馬鹿だよ! 何で戻ってきたんだい!?」
褐色肌に銀髪のアデラは気の強そうな顔立ちの美人で、奴隷のまとめ役をしており、正確な歳は分からないが二十代半ばだろう。
九歳で奴隷となったルカを、一人前の船乗りにしてくれた恩人である。
「話しは後だ。すぐに鎖を斬る!」
ルカは腰のベルトに差す短剣を引き抜いた。
「鉄の鎖なんて斧でもなきゃ切れやしないよ! 仮に斧があったとしてもこんな水の中じゃどだい無理さ!」
アデラがそう言うと、
「そうだよ、ルカ! あんただけでも逃げな!!」
他の奴隷仲間も口々にルカの身を案じる。
「大丈夫、出来るさ。俺が『客人』から剣を習っていたのは知っているだろう?」
三年前に西欧の港町で、船の用心棒に雇われた『東洋人の女性』から、ルカは同郷のよしみで剣術を学んだ事がある。
勿論、奴隷であるルカがまともに剣を教わるのが許される訳がなく――
「習うって、あんなのただ見ていただけじゃないか!」
アデラの言う通り、ルカはが許されたのは客人の鍛錬をじっと観察する事だけだった。
だが、それは、『見取り稽古』と呼ばれる立派な鍛錬法であった。
剣術を習った三年間で、刀を握ったのはたったの一度だけ。
師が、目的地である新大陸で下船する前夜だ。
真剣での仕合の結果、彼女の流派である『七星一刀流』の『初伝』を貰っている。
「俺を、信じてくれ」
ルカはそう言って、大きく息を吸い込んで海水へ潜り込む。
真っ暗な水中は、さながら墨の中を泳ぐようなもので、視界は完全に闇に覆われる。
だが、ルカの『瞳』は、この闇の中でもアデラ達の足を拘束する鉄の鎖を確実に捉えていた。
(集中して見るんだ。鎖のほころびを……刃の通る道筋を。師匠の教えを思い出せ――)
ルカは水中で短剣を構え、精神を集中させていく。
息を止め、聞こえるのは自分の心臓の鼓動だけ。
やがて、それも聞こえなくなるほどの極限の集中の果てに、ルカは一気に短剣を突き入れる。
水の中にリンッと涼やかな音がして、アデラ達を拘束する鉄の鎖が一刀の元に断ち斬れた。
プハッ、と水中から顔を出したルカに、
「ああ、ルカ! 何度呼んでも浮かび上がって来ないから、心配したじゃないか!」
アデラが怒ったような表情で叫んだ。
「心配かけてすまない。けど、上手く行っただろう?」
「全く、たいした子だよぉ」
恰幅のいい中年女性のマーサが、目尻を拭いながら言った。
「見直してくれたなら、いい加減にガキ扱いはよしてくれ」
「馬鹿だね。あんたは幾つになってもあたしらのガキだよ。悔しかったらあたしらより歳上になるんだね」
アデラがそう言えば、奴隷仲間がうんうんと頷く。
と、
「――――話しは後にしな。急がなきゃ船が傾斜してきてるよ!」
熟練船乗りであるサマンサが、緊張した声を上げる。
全員が頷き、出口に向かって泳ぎ出す。
「ルカ、アンタから先に上がりな!」
梯子の前に着いたアデラがそう言うが、ルカは首を左右に振って、
「いや、俺は一番後でいい。太ったマーサや、脚を痛めてるブレンダから先に登ってくれ」
「……わかったよ。議論している時間が惜しい。ほら、急ぎなお前達!」
マーサを最初に、仲間達が甲板に繋がる梯子を登っていく。
「ねぇ、ルカ……一つ聞いてもいいかい?」
と、アデラが尋ねた。
「今じゃなきゃ駄目か?」
「こんな時でもなきゃ、こっ恥ずかしくて聞けないからね……」
「ドリーン、足元に気を付けろ。で、聞きたい事ってなんだ?」
「あの夜……何故、お客人と一緒に行かなかったんだい? あんたの強さは皆が知っている。その腕っぷしと、その目があれば、こんな奴隷船から逃げ出してどこでも一旗あげられるだろう?」
「藪から棒にどうしたんだ? あの人が船を降りてから、もう半年になるじゃないか」
「つい、この間の話だよ……」
「俺にとっては、もう昔の話だよアデラ。それに……どこへ逃げたって奴隷は奴隷だろ?」
「この際だから言っとくけど、あたし達は、ルカ……あんたを本当の子供のように思っている。クソ生意気で手のかかるガキだけどね。ただ、あんたはそれを重荷に背負う必要はないんだよ。子は必ず、親の元から巣立つんだから」
「約束したじゃないか」
「約束……だって?」
「俺が一人前の船乗りになったら、船の操舵を教えてくれるって」
ルカは照れるように、頬をかきながら言った。
「ルカ、あんた……」
アデラの瞳に涙があふれる。
「年取ると涙もろくなるって本当だな。鬼のアデラの目にも涙って、いたたたたッ!」
アデラは片手で涙を拭いながら、もう片方の手でルカの頬をつねる。
「ったく、ナマ言ってんじゃないよ。あたしはまだ二十二だよ!」
「はいはい。うら若きアデラ母さん。さっさと登ってくれないか。あとは俺達で最後だ」
ルカは頬を撫でながら、梯子を指さす。
「行くよ、ルカ!」
「ああ、心配しなくても、でっかい尻が見えてるよ」
アデラが登っていくのを確認したルカは、自分も梯子に足をかける。
だが、次の瞬間。
これまでとは比較にならない凄まじい爆発と衝撃がして、水流弾が船倉の壁を貫いた。
海水が津波のように押し寄せ、船が一気に横転していく。
「――――ルカッ!!」
誰かが名を呼ぶ声がして、ルカは開いた船の穴から海へ投げ出された。
三日後――
どこまでも広がる青い空。
果てしなく広がる青い海。
空と海の境目すら曖昧に感じる大海原の真ん中で、ルカは漂流していた。
三日前まで商船だった成れの果てである折れたマストに、辛うじて引っかかる姿は、まるで萎びた海藻のようであった。
「陸は見えない、か……」
そう呟くルカの顔には、拭いがたい死相が浮かんでいた。
あの後、海に投げ出されたルカは、必死に仲間を探した。
だが、結局誰一人見つけ出す事が出来ず、最後は力尽きて、今しがみついている折れたマストで眠ってしまったのだ。
漂流して三日目。既に体力は限界を超えていた。
飲み水はとうに尽き、あとは干からびるのを待つだけだ。
「いや、魚の、餌になる方が早いか……」
ルカは首にかけていた『黒水晶の首飾り』を外し、マストの金具に巻き付けようとする。
ルカの故郷では厄を祓う御利益があるとして、『親』から『子』へ贈る習わしがある。
小指位の大きさの黒水晶を麻縄で縛っただけの簡単な作りで、高価な品ではない。
子供でも小遣いを貯めれば買える代物だ。
だが、ルカにとっては九歳で奴隷となってから、今日まで、肌身はなさず持ち続けてきた大切な家族との絆であった。
「俺が生きた証として、せめてこれだけは……」
死に際して望むのは、遠い故郷の地。
潮の流れは世界の海に繋がっているという。
なら、いずれこの首飾りも、大和の国へたどり着くかもしれない。
そうなればいいな――と、ルカは願い、そこで意識が途絶えた。
身体はするりと海に沈み、まるで空から落ちていくかのように、ルカは海の底へ消えていく。
苦しくはなかった。
不思議と恐怖もなかった。
もしかしたら、仲間が先に待っているかもしれない。
(きっと、怒らせてしまうな……)
ルカはそう思いながら目を閉じていく。
暗い水底から最後に見たのは、輝く水面を背に泳ぐ美しい人魚で――