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渋い新茶

作者: 松田 ゆき

以前、ある文学賞に応募し、三次選考で落選した作品です。

空を雲が流れていく。あれはイワシ雲。別名は巻積雲。秋の雲。

わたしはランドセルに入れたノートの内容を思い出しながら、小さな声で呟いた。こうやって小さくても声にすることで、記憶はより確かに身に付くことを知っている。

どうして秋の雲なのか、それを思い出そうとした時、ふいにお腹が痛くなった。今日、何回目だろうか。背中のランドセルを前に回して、胸とお腹に押し付ける。ノートを取り出せば秋の雲について詳しくまとめてあるが、そんなことはもうどうでも良くなった。

鈍い痛み。分厚く重いランドセルを抱え込むようにしゃがんだが、痛みは増す一方。こんなものをこの先四十年以上、毎月律儀に経験しなければならないなんて、泣きたくなる。街を歩く女の人たちはどうしているのだろう。いっそ子供なんて産めなくなってもいいから解放されたいと、そう思わないのだろうか。

鈍い痛みはピークを迎えた。どこか落ち着けるところを考える。ここは通学路だ。クラスの男子に見られる前に、どこかへ移動しなければ。

 震える足に鞭を打ち、吐きそうになる痛みを噛み殺しながら、わたしは立ち上がった。そこの角を曲がれば、里ばあの家だ。


思春期とは。

第二次性徴が現れ、子供が産めるようになって、精神的にも大きな変化が現れる時期。ふつう十二歳から十七歳頃までをいう。

 と、本に書いてあった。

 わたしは八歳だ。平均的な思春期を迎えるには、四年早い。

 昔から成長が早かった。歩き始めたのも話し始めたのも早かったらしい。幼稚園から背の順は一番後ろ以外なったことがないし、小学校の制服は、六年生用の一番大きなスカートでもサイズが合わずに特注になった。

 成長が早いのは、身体だけではない。精神面もだ。

 周りの同い年の子が、子供に見える。きゃあきゃあと遊ぶ様子も、喧嘩する様子も、馬鹿馬鹿しくて見るに堪えない。悪口を言われたとか、ぶたれたとか、そんなことでどうして泣いて騒げるのか、不思議だった。

 自然にわたしの友達は本になり、知識を得る。去年のクリスマスには、周りの女の子がお人形やテレビアニメのおもちゃを欲しがる中、わたしは有名な気象予報士が出版した空の辞典が欲しかった。

 大人っぽい子、ずば抜けている子、それがわたしの枕詞だった。そう言われて、もてはやされて、八歳になった。

 そしてわたしは昨日、初潮を迎えた。

 女にはそういうものがあるということは、本で読んで知っていた。でも実際に下半身の違和感と、自分の下着が赤く汚れている事実を目の当たりにすると、頭が真っ白になった。病気になったに違いない。わたしはもう死ぬのだ。そう思って涙が止まらなくなった。

 本で読んで知ってはいたけど、それは早くても小学校高学年の話だと思い込んでいた。自分の成長がずば抜けて早いことは自覚としてあったが、こんなことまで当てはまるとは考えもしなかった。知識なんて役に立たない。経験には勝てないのだ。

 昨日も、涙を流しながら駆け込んだのは、里ばあの家だった。

 里ばあは学校の近くのアパートに住むおばあちゃんだ。一年前までお習字教室を開いていたが、腰が痛くて今はもう辞めてしまった。わたしは半年だけそこの生徒だった。背はわたしより小さく、猫よりもまがった背中なのに、太くて大きな線をまっすぐ引く。お手本を書いてもらって、その字を真似て、朱色の墨で採点してもらい、飴玉をもらう。それが里ばあのお習字教室だった。

 同年代と馴染めず、家の中にもなんとなく違和感を持っていたわたしは、最後のお習字教室で「いつでも遊びにおいで」と言ってくれた里ばあの言葉に甘えた。学校から家に帰り、本を抱えて里ばあの家で読むのが日課になった。


「ゆうちゃん、お腹が痛いのかい」

 里ばあの言葉に、わたしはランドセルを抱えたまま小さく頷いた。ここに来るときは、一度自宅に返って、学校の荷物を置いてから。それはわたしと里ばあとの間の、暗黙の了解だった。学校帰りに寄り道をしていると、見つかったときに里ばあが怒られてしまうから。でも、今日はそれどころじゃなかった。里ばあもそのことには何も言わなかった。

「待ってなさい、今カイロを出してあげるから。温めると楽になるよ。それとお薬のことも、教えてあげようね」

 痛みは大分治まっていた。けれど少しすると、やってくるだろう。また痛くなることはわかるのに、いつ痛くなくなるのかがわからない。初めての体験に不安と憂鬱が交差して、一人だと心細い。

 目頭が熱くなったが、ぐっと涙を堪えた。こんな感情に振り回されている自分が悔しい。

「はい、ゆうちゃん、カイロだよ。そんなところに立ってないで、座りなさい」

 ポットが白い湯気を吐き出しながら、軽快な電子音を鳴らす。その音に苛立ちを感じた。わたしはランドセルを乱暴に放ると、里ばあからカイロを受け取りお腹に押し当てた。ランドセルよりずっと小さいカイロは少し頼りなく思えたが、じんわりと温かさが伝わって、また涙が出そうになる。

 小さなちゃぶ台で、里ばあがこぽこぽとお茶を注ぐ。その音には苛立ちを感じなかった。ポットの音が不快で、お茶を注ぐ音が許せるのは、きっと人間の所作が含まれるか否かなのだろう。

「お母さんには話したかい」

 里ばあが囁くように訊く。わたしは首を振りながら、里ばあの斜め前に座った。深刻な話をするとき、正面向かい合わせより、相手の斜め前に座った方が話しやすいと、心理学の本で読んだことがある。

「ゆうちゃんの体に関わる大事なことだからね、ちゃんとお話ししてあげなさい」

 黙って俯いていると、里ばあがお茶を入れた湯呑をわたしの前に置いた。古い湯呑。昔話の絵本で描かれるような丸くて重い湯呑だった。普通にこすっただけでは落ちないのだろう、内側には茶渋がこびり付いていたが、不思議と汚いと思ったことは一度もない。

 わたしは湯呑で手を温めてから、背中を丸めて一口啜った。渋くて熱かった。

「女の子には必ず訪れることだからね。昔はお赤飯を炊いたりしたんだよ」

 お赤飯なんて、幼稚園の頃に一度食べたことがあるくらい。味も、どうして食べたのかも覚えていない。

「恥ずかしいことじゃないんだよ。ゆうちゃんは一番乗りだっただけ」

里ばあがそっと、内緒話をするように言った。

 しばらくゆらゆらと揺れる湯呑の中のお茶を見ていたら、堪えていた涙腺が唐突に決壊した。

「わたし」

 急に絞り出した声が喉に絡む。情けない自分の声を聞いてしまったものだから、より一層情けなくなって、後から後から涙が零れた。ずっと堪えていたから、溜まりに溜まっていたのだろう。止まらなくなった。

手で必死に拭うが、間に合わなかった水滴が滴って、ちゃぶ台に落ちる。

「わたし、わかってるの」

 里ばあは何も言わない。でも聞いていてくれることは、わかっている。だから勝手に喋ることにした。

「わたし、今だけだってわかってるの。背が高いのも、頭がいいのも、今だけ。きっと中学生や高校生になるころには、周りのみんなも大人になって、わたしは普通になる。背だって、今のクラスの中では一番だけど、道を歩いている中学生と比べれば、全然、普通だもん」

 昨日、わたしは。

 全部わかってしまった。

「生理が来た後に、身長はほとんど伸びないって、本で読んだ」

 きっともっと伸びると思っていた。このまま伸び続けて、百七十センチを超えたら、モデルになりたいなんて、そんなことを思っていた。その夢が、昨日あっけなく壊れて、今はただただ恥ずかしい。もうこんな夢、叶わない。絶対、誰にも言えない。

 それがわかってしまった。

「だからわたしは、ただ成長が速いだけで、それ以外は何の取り柄もないんだって、証明されたの。時間がたてば、わたしは他のみんなに追いつかれちゃう」

 一番怖いことは、追いつかれて、追い越されること。

「今までわたし、みんなを馬鹿にしてた。みんな子供で、わたしは特別だって思ってた。それが間違いで、すごく嫌な感情だって、何となく気付いていたけど、昨日はっきりと自覚しちゃったの」

 この感情だって、そのうち誰もが経験する感情なのだろう。そんなことまで、わかる。それなら、どうしてわたしだけ今だったのだろう。どうしてわたしは今だったのだろう。これが特別じゃないなら、わたしは何だ。

 悔しくて、悲しくて、やるせない。その感情に追い打ちをかけるように、お腹がまた痛くなる。

 わんわんと声を出して泣きたいと思った。床に転がって、思うままに声を上げて、疲れて眠ってしまうまで、泣きたい。それが出来なくなったのはいつからだったか。たまにそうやって泣いているクラスメイトを見て、妙に冷めた自分がいるのに、一方で少し羨ましい自分もいる。複雑な感情の正体が知りたくて、心理学の本を読んだが、よけいにわからなくなった。

 だからわたしは今も、止まらない涙を懸命に拭って、奥歯を噛みしめて衝動を殺す。ここで声を出して泣いてしまったら、わたしは自分の中の正体不明の何かに負けたことになる。衝動に従って行動するのは、子供だ。負けてしまったら、わたしはやっぱり特別じゃなくなってしまう。

 馬鹿みたい。特別じゃないってわかっているのに、それでも特別でありたいなんて。考えれば考えるほど、矛盾していく。その矛盾を整理しようとして、また矛盾する。頭の中がぐるぐると回って、スイッチの壊れたミキサーみたいだと思った。

「ゆうちゃん」

 里ばあがゆっくりとわたしを呼んだ。その優しい声に少しだけほっとして、すがり付きたくなった。

 優しくしてほしい。認めてほしい。でも、それを口にしてしまうのは、弱い自分をさらけ出すようで、わたしは俯いて必死に平気なふりをする。気付いて、気付いて。そう祈りながら。

「やっぱり、お薬は、お母さんに教えてもらった方がいいね。アレルギーとか、あるかもしれないから」

 う、と心がうなった。そのうなり声を耳で聞いた気がした。俯いたまま、ばれないように目を閉じる。

 わたしが欲しかった言葉じゃなかった。

 途方もない悔しさと怒りが、静かに体を冷ましていく。目と心臓だけが痛いくらいに熱くて、他の場所は冷たくなって震えていた。

 何かを言わないといけなかった。負け惜しみと思われても、子供だと思われても、何か言葉を返さないと、わたしはわたしに負けてしまう。自分の中の折れそうな柱を支えながら、わたしは鼻をすすって、空気を飲み込む。

「何も、考えないで生きていけたらいいのに。何も考えないで、感じないで、周りの目も気にしないで、ただ本能的に生きていけたらいいのに」

 これは八つ当たり。思うようにならない自分の体と感情と、素直になれない自分と、理解できない変化と。混ざり切ったミキサーの中身が、爆発して溢れた。そして里ばあに向かって流れだす。

 身体の中のどこかで、きゃあ、とわたし自身が叫んでうずくまった。

「それは獣だよ」

里ばあは、さっきと変わらない声で言った。すとんと落ちて、すっと広がるような、そんな、ゆっくりとした優しい声だった。

「人はね、考えるから、人なんだよ。考えて、理性と常識で行動できる。周りの生き物を思いやれる。困っている人に優しくできる。わからないことを知ろうと努力ができる。考えることをやめてしまった人は、ただの獣さ」

 小さな音を立てて、里ばあがお茶を一口飲んだ。

わたしは顔を上げることができないでいた。涙を拭うために放り出してしまったカイロを、こっそり拾うと、びっくりするくらい熱かった。

「例えば、産まれたばかりの赤ちゃんは、考えることも話すこともできない。お腹がすいたり、お尻が汚れたり、機嫌が悪かったり、とにかく何かを感じたままに大きな声で泣く。本能で生きている、獣だよ」

カイロを手で包んで、そのままお腹にあてた。

獣でも、何でもいい。このぐちゃぐちゃになった感情から逃げ出したい。

「でもね、人から生まれた子供は、人になるために成長する。完全に一人の立派な人間として認められるのは、法律的には二十歳だね。ゆうちゃんも周りのお友達も、まだまだ子供だ」 

 わたしは子供。身体はこんなに大きくて、中学生が読む本も理解できるのに、八歳だから子供。

 じゃあどうして泣けないの。どうして素直になれないの。

「人の大人は、泣いたり怒ったりしない。でもそれは、大勢の人の前でしないってだけで、全くしないわけじゃないよ。ちょっと我慢するだけ。家で一人になったときや、家族の前でほっとした時に、子供みたいに泣いて怒ることもある。時と場所を考えることが、理性と常識だよ」

 はっとして顔を上げると、里ばあはにっこりと微笑んだ。

「泣いてもいいのよ」

 わああ、と声が漏れた。小さな声だったと思う。落ち着きかけていた涙が、さっき以上の勢いで流れだす。一体わたしの体のどこが、こんなにたくさんの涙を作っているのだろうと、不思議に思う。

 大きな声を出して泣きたかったのに、声は声にならなかった。喉に溜まって呼吸に押し出されるように、ヒックヒックと痙攣し、たまに思い出したように、ああ、と意味のない音になり、吐き出される。

 苦しくなって、ちゃぶ台に顔を伏せた。古い木の匂いがした。

「人はいろんなことを考えて、間違えて、また考えて、悩んだり苦しんだりしながら成長するんだよ。もちろん辛いことばっかりじゃなくて、大きな声で笑ったとか、お休みの日に買い物したとか、そんな些細なことや嬉しいことも、人を成長させてくれる」

 泣いてしまった。だって泣いていいって言われたから。里ばあが泣いていいって言ったから。

 その言葉が、嬉しかったから。

 わたしは。わたしは。わたしは、自分のことしか考えてなかった。名前の付けられない感情が恐ろしくてたまらない。理解できない自分だけの体質が不安でたまらない。

 だから一番優しくしてくれて、わたしが欲しい言葉をくれそうな里ばあを選んだ。お母さんでも、保健室の先生でもなく、里ばあを選んだ。

 わたしは卑怯だ。思い当たる人間を、自分の中で天秤にかけた。人を、自分だけの物差しで選んで、価値を付けた。そしてその選択が正しかったことに、今満足している。

 こんなわたしが、特別なわけがない。

 そう思ったらまた涙が出て、うう、と声が漏れた。こんなことを繰り返して、こんな惨めな気持ちを抱えて、大人にも特別にもなりたくない。

「ゆうちゃんが今抱えている感情は、これからみんな経験していくことだよ。おばあちゃんも、同じように経験してきたし、きっとゆうちゃんのお母さんも」

 お母さん。少し前まで、手をつないで歩いていたのに、最近出来なくなった。妙に恥ずかしくて、うっとうしい。その感情の変化もわからない。

生理が来たなんて、絶対に言えないと思って、昨日は一人でおこずかいを持って、ナプキンを買った。悪いことをしている気がして、自分がひどく哀れに思えた。

 こんな気持ちを、お母さんも、里ばあも経験してきたのだろうか。わたしだけじゃないのだろうか。わたしの成長が早いからじゃないのだろうか。

「訳の分からない感情や、自分の中の醜い部分や、周りの人たちとの関係や、いろんなことに悩んで嫌になって。でもね。嫌なことが続いていても、その中に良いことや楽しいことは絶対にあるんだよ。そういう些細な幸せを見つけて大切にできる人に、ゆうちゃんがなってくれたらいいなって、おばあちゃんはそう思うんだ」

 里ばあの声は、相変わらず優しい。口調も、言葉も、優しい。里ばあに言えて、お母さんに言えないのは、どうしてだろう。

 ああ、そうか。

家族じゃないからか。

 里ばあのことは大好きだ。でも、家族じゃない。わたしはお母さんに理解してもらえるかどうか、里ばあで試したんだ。

 怖くなる。無意識にそんなことを実行した自分が。それに今更、気付いた自分が。こんなに温かくて、優しい人を、わたしは利用してしまった。

 熱いカイロを持っているのに、手が氷のように冷たい。指先から心の中まで、冷え切ってしまった。

「ゆうちゃんは、将来、何になりたいの」

 しばらくの沈黙の後、里ばあが口を開いた。

「モデルさん」

 誰にも言えないと思っていた恥ずかしい夢は、するりと喉を滑って、声になった。言ってから恥ずかしいと思ったが、弁解してごまかす権利は、もうわたしにはない。今のわたしに許されることは、ただ正直に話すことだけだ。

「それは華やかだねぇ」

 里ばあの声が、ぱっと、高くなった。笑って馬鹿にされると思い込んでいたわたしは、思わず顔を上げた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を。

「ゆうちゃんはいつも空の本を読んでいるから、お天気の仕事を目指しているのかと思ったよ」

 お天気の仕事。考えたこともなかった。

「ゆうちゃんがモデルさんになってテレビに出たら、おばあちゃん知っている人みんなに、自慢しちゃう」

 呆気に取られていると、小さな女の子のように、里ばあが笑って言った。

「おばあちゃんはね、実は小さい頃、兵隊さんになりたかったんだよ。身体はゆうちゃんみたいに大きくなかったけど、腕っぷしが強かったから、男の子と喧嘩しても負けなかったんだ」

 へいたいさん。兵隊さん。いつの話だろう。ぼんやりと、霧がかかったように鈍い頭が考えて想像する。里ばあの小さい頃。里ばあの昔。大昔のような気がした。

「でもね、ある時言われたんだ。兵隊さんは男しかなれないってね。それを聞いたとき、おばあちゃんすごく恥ずかしくなって、それからはずっと誰にも言えなかったんだ」

 あ、わたしと似ている。そう思った。

「結局おばあちゃんは、そのまま洋服を作る工場で働いて、六十歳を過ぎてからお習字教室を始めたんだよ」

 大きくて太い、里ばあのまっすぐな字が頭をよぎった。

「昔からお習字の先生だったわけじゃないの?」

「字を書くのは好きだったけどね、ずっと教えていたわけじゃないよ」

 丸い背中を一層丸くして、声をひそめ、里ばあは答えてくれた。

 兵隊さんも、洋服工場も、昔の里ばあも、全然イメージがわかない。ただ里ばあの字と、字を書いているその姿が、頭の中で浮かんでは消えて、また浮かぶ。

 六十歳。自分の六十年後を考えてみる。生理はきっと終わっている。今はまだ始まったばかりなのに。それまでにわたしも、誰かを好きになって、結婚して、子供を産むのだろうか。モデルになるのだろうか。それともお天気の仕事をするのだろうか。

「個性はね、突然現れるんだよ」

 漠然とした未来の自分を思い描いていたら、里ばあがゆっくりと言った。突然現実に戻ったわたしは、思わず目を瞬いて、え、と声を漏らす。

「背が高いのも個性。頭がいいのも個性。顔が可愛いのも、運動ができるのも、腕っぷしが強いのも個性。字が上手なのもね」

 そう言ってから、里ばあは、湯呑のお茶を飲み干した。

 いつの間にか、わたしの頭の中のミキサーは止まっている。今はただ、溢れ出たものをそのままにして、静かに里ばあの言葉を待っていた。

「ゆうちゃんはたまたま、成長が早いっていう個性が今見つかっただけ。これからきっと、もっといろんな個性が出てくるよ。人の個性は一つじゃないからね」

 個性。わたしの個性。特別。

「人と同じ個性もあるし、その人だけの個性もある。他人のものが羨ましく思えることもある。気付いた時にはもうなくなっているものもある」

 そうか。だから、大切なのか。

 些細な幸せを大切にすること。本能の赴くままに行動する獣ではなく、考えること。悩むこと。

 里ばあがにっこりと微笑み、ポットのスイッチを入れた。ほどなくして、軽快な電子音が沸騰を知らせる。やっぱり好きにはなれない音だけど、さっきよりも苛立ちは感じなかった。

個性は、これからもたくさん現れる。おばあちゃんになってから、現れる個性もある。

もやもやと絡まっていた感情は、今もまだ、わたしの中にある。さっきみたいに、大きくはないが、息をひそめてじっとしている。きっと一人になれば、わたしはまた飲み込まれて、もがいて、苦しむのだろう。

でも、その中に、幸せが紛れているのなら。嫌な感情も、醜い自分も、今はまだわからない個性を秘めているのなら。

それは少しだけ、素敵なことかもしれない。

お茶を一口飲んだ。もうすっかり、ぬるくなってしまったお茶を。渋くて苦い味は、喉の奥にいつまでも残ったが、嫌だとは思わなかった。むしろ、泣いたせいでズキズキと痛む頭を、そっと撫でてくれている、そんな感じがした。

「どうしたらいいのかわからなくなって、泣きたくなったら、いつでもここにおいで。何にもない家だけど、お茶だけはたくさんあるからね」

 そう言って、里ばあは自分の湯呑と、わたしの湯呑に、交互にお茶を入れた。わたしのお茶はまだ少し残っていたから、新しい熱いお茶と混ざって、微妙な温度になった。

 これがわたしだ。

 まだ中途半端。必死に大人になろうとしている、子供。わかっているけど、認められない。

 涙はもう、出なかった。

 里ばあの言葉に、ほんの少し笑って、うん、と頷いた。お茶を一口、すする。微妙な温度のお茶は、やっぱり渋い。

 モデルさんもいいけど、お天気の仕事もいいなと思った。お習字の先生も、素敵だと思う。兵隊さんも、今度調べてみよう。

 あんなに冷たくて、カイロを握っても温まらなかった手は、いつのまにかすっかり、もとの温度を取り戻していた。頭もお腹も痛いし、泣いた後の独特の疲れも体中に感じている。でも、気分はすっきりしていた。

 ハンカチを濡らして顔を拭こうと、転がっていたランドセルを手繰り寄せる。

小さな赤いランドセル。本当はピンク色の可愛いやつが欲しかったのに、六年間使うものだからと、お母さんが強引にこの色とデザインに決めてしまったものだ。その時は大人しく納得したふりをしたけれど、もっと素直になればよかったと、後から後悔した。だって子供っぽいと思われるの、嫌だったんだもん。

ハンカチを引っ張り出すと、その横に今日の授業で使ったお習字の道具が見えた。お腹が痛くて適当に洗って、乱暴にしまった筆と紙。里ばあから見えないように、そっとずらして、ふたを閉めた。

 大きく息を吸って、吐く。

帰ったら、乱暴にしまったお習字道具を、綺麗に洗い直して。それから、お茶を二つ用意してお母さんを呼ぼうと思った。




〈終〉



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