産む機会
いつ、誰によって書かれたものだったのか、どこで読んだのかも忘れたが、こんな話がある。
原始人の骨格を検査した結果、雄の平均寿命は三五年ほどであったのに対し、雌の平均寿命は二五年ほどであった。それは何故か。道具を使い、狩りをし、寄り集まって暮らすことを憶えたヒトは、外敵に襲われ死亡することが極端に減り、安心して交尾に励むことが可能となった。しかし、個体の数が増えすぎると群れは崩壊する。避妊というものを知らなかった原始人たちは、子供の数を減らすために中絶を行った。その頃の中絶“手術”とは、妊娠して膨らんだ雌の腹の上を雄が跳び跳ねて胎児を踏み潰すことによって流産させるという――当たり前だが――非常に野蛮な方法が採られており、その結果、肉体に深刻なダメージを負った雌は短命となったのだ。また当然だが“手術”の際に死亡することも多かった。
それに比べて現代に生きる僕たちはどれほど幸福だろう。君もそう思うだろう?
当然リスクはあるものの、中絶によって母体が死亡することは殆どないといっていいし、よほど下手な医者に当たらない限り、また妊娠することは充分に可能だ。
手術に伴う苦痛は殆ど無いと言っていいくらいだ。ただ麻酔で眠っていれば手術は終わる。
妊娠してしまったからといって無理をしてまで出産する必要はないんだ。時期が悪ければ、また別の機会を探せばいい。僕たちは原始人じゃないんだから。
それに中絶をは決して珍しいことじゃない。日本で一年間に何件の中絶手術が行われているか知っているかい? 約三〇万件だよ。年間約一三〇万人が妊娠して、三〇万人が中絶するんだ。つまり、妊婦の約五人に一人が中絶する計算になる。
産んだからといって、その子どもが幸せになれるとは限らない。児童虐待は年間約四万件以上発生している。中には子どもを殺してしまうケースも多くある。
胎児のうちに殺されるのと、誰にも望まれずに産まれて、その後何年にもわたって虐待を受けたあげくに殺されるのと、どちらが幸せだろうね。
虐待で子どもを殺すのは殺人になるけれど、中絶は殺人じゃない。妊娠から二二週未満の胎児は母体の一部であると法律で定められている。つまり二二週未満の胎児には人格なんてないんだ。その証拠に、誰も自分が子宮の中にいたときのことなんて覚えていないだろう?
自分が現代に生まれたことが、どれほど幸せなことか考えたことはあるかい? 妊婦してしまったからといって腹を踏み潰されなくても済むんだから。
彼女は俯いていた。
なあ、そうだろう?