第8話 王都の王子
王都の王宮の書斎で、クライヴ王子は報告書を手に持ったまま固まっていた。
書斎は落ち着いた部屋だった。本棚が三方の壁を埋め、羊皮紙の匂いと蝋燭の煤の匂いが染みついている。窓から見えるのは、整然と刈り込まれた王宮の庭園だ。噴水が規則正しく水を上げ、白い石の小道が幾何学模様を描いている。
どこも正常だ。静かだ。穏やかだ。
しかし王子の顔色は、蒼白だった。
「……ラヴェルト領主が、自首した」
「はい」と側近が答えた。三十前後の生真面目な男で、王子の顔色を見て少しだけ眉を下げた。「不正課税、贈賄、その他諸々の罪状で王都に自らを出頭させたと。本人の弁によれば、『旅の令嬢に諭された』とのことで」
「旅の令嬢」
王子の眉が、ぴくりと動いた。
「なんでも、金髪の大変美しい方だったと。それと二人の護衛が。一人は武人風の男、もう一人は眼鏡をかけた知識人風の男が、証拠書類を全て揃えていたと」
「……」
王子の顔色が、みるみる蒼白になっていった。
「殿下、いかがなされましたか」
「……ハクとゼノも一緒にいたのか」
「その二名については詳細が——」
「来る」
王子は呟いた。
書斎の椅子から立ち上がり、窓の外を見た。王宮の庭園の向こう、王都の街並みが広がっている。その向こうに、どこかの辺境の街道を進む一台の馬車があるはずだった。
「また来るんだ……あいつが……」
「殿下」側近が恐る恐る言った。「ヴァンドール公爵夫人より文が届いております。ナナ様の近況について、大変お喜びになっておられるようで」
「わかった」
「ついては……殿下も、ナナ様の旅路を応援されてはいかがか、と」
「わかった」
「また、王太后陛下も同様に、ナナ様のご活躍をたいへん嬉しそうに話されておられまして——」
「わかった!!」
王子は机の上に突っ伏した。
「……母上まで……」
「王太后陛下は、ナナ様のことを大変慕っておられますので」
「知ってる!! 俺のせいで追放した令嬢に、母上が毎週手紙を書いていることを俺は知ってる!! なんなら先週、俺の部屋に来て『ナナちゃんはどこにいるの』と一時間聞かれた!!」
「それはお辛かったかと」
「そうなんだよ!!」
王子は机に額を押し付けたまま、しばらく黙っていた。
側近もしばらく黙っていた。
やがて王子が顔を上げた。目の下に、疲れの色が濃い。
「……一つ聞く」
「はい」
「あいつが、このまま旅を続けて、世界の果てまで行ってくれる可能性はどのくらいある」
「……それは」
側近は、少し間を置いた。
「ナナ様は、愛が足りない場所を見つけると、そちらへ向かわれると伺っております」
「そうだ」
「王都は、現在……」
「そうだよ」
「愛が……その、必ずしも」
「そうなんだよ!! なんで王都に愛が足りないんだ!! 俺の失政か!! 俺のせいか!!」
「殿下のせいでは……」
「だよな!? だよな……」
王子は再び机に突っ伏した。
窓の外、王宮の庭園の白い噴水が、規則正しく水を上げ続けていた。
「……来ないでくれ」
誰もいない方向に向かって、王子は祈った。
しかし、その祈りが届かないことを——王子は既に知っていた。
なぜなら、ナナはいつでも、愛が足りない場所へ向かうから。
そして王都ほど、愛が歪み、不足し、渇いている場所は、この王国にはないから。




