第7話 旅立ちの朝
翌朝、宿の主人が、ナナたちに見送りの朝食を作ってくれた。
昨日とは別物だった。庭の菜園から摘んだらしい新鮮な野菜のスープは、澄んだ琥珀色で、玉ねぎの甘みが溶けている。焼きたてのパンは、外が香ばしく、中がふんわりしていた。焼いた卵は、黄身がとろりとしていた。同じ食材を使っているはずなのに、味が違う。
「昨日は暗かったんですよ」
主人は照れたように言いながら、スープをよそった。白髪が、朝の光の中で柔らかく輝いている。
「何を作っても暗い気持ちで作るから、味も暗くなる。でも今日は……なんか、なんとかなりそうな気がして」
「美味しいですよ」
ナナが言うと、主人の目に涙が浮かんだ。
「お嬢さん」
主人は言いかけて、止まった。また言いかけて、また止まった。
「……ありがとう」
最終的に、それだけ言った。
ナナは微笑んだ。
「ここに来られて良かったです」
朝食の後、荷物をまとめて馬車に乗り込んだ。
御者台のハクが手綱を握り、ゼノが地図を広げた。馬が一度足を踏み鳴らして、蹄の音が石畳に響いた。
「次はどこへ参りますか、ナナ様」
ハクが馬車の窓越しに尋ねた。
「そうね」
ナナは空を見上げた。
秋の朝は清んで、空気が透明だった。青い空の中を、渡り鳥が南へ飛んでいく。細い翼が、光の中で銀色に輝く。
「愛の足りていない方向へ」
「沢山ありますよ……」とゼノが眼鏡の奥から呟いた。
「まあ、それなら旅が続きますね」
ナナは微笑んだ。
馬車が動き出した。街道の石畳が、蹄の音を規則正しく跳ね返す。街が遠ざかり、また麦畑と林の風景が始まった。
「あの!」
窓から声がした。
振り返ると、城門のあたりに人が集まっていた。宿の主人が、街の商人が、昨日の路地の子供たちが、そして昨日まで泣きじゃくっていた元衛兵が、街の人たちと混じって立っていた。
あの子供が、手を振っていた。
「またいつか、来てください!」
誰かが叫んだ。
また誰かが叫んだ。
やがて複数の声が重なって、街の人たちが、手を振りながら叫んでいた。
宿の主人も、白い手ぬぐいを振っていた。元衛兵は照れたような顔をしながら、それでも手を上げていた。あの老婆も、杖をついたまま、静かに立っていた。
ナナは窓から手を出して、振り返した。
「また愛が足りなくなったら、参りますよ」
声が届いたかどうかはわからなかった。
しかし彼女は確かに、笑っていた。
馬車が曲がり角を曲がると、街の姿が見えなくなった。
「……良い街でしたね」とナナは言った。
「過去形ですが」とゼノが言った。
「これからもっと良くなるから、過去形でいいのですよ」
ゼノが眼鏡を直した。
「……記録します」
「何を」
「ナナ様讃歌・第二巻、第四十九章、愛と時制について」
「もう五十章近くになるんですね」
「ええ。本日の出来事だけで三章分のトピックが生じております」
「そう」とナナは言った。「まあ、元気なのは良いことですね」




