第4話 領主館への招待
問題は、夜明け前に向こうからやって来た。
宿屋の扉を叩く音は、夜明けの一刻前に響いた。激しく、何の遠慮もなく、木の扉が軋むほどの勢いで叩かれた。
ナナはその音で目を覚まし、静かに起き上がった。
寝台の脇のテーブルに置いてあったろうそくに火を点け、白い寝間着の上から薄い羽織を一枚かけ、扉の前に立った。
廊下からは、鎧の音がしていた。複数人、足音が揃っていないところを見ると、緊張しているのかもしれない。
「開けろ! 領主ガゾン男爵の命により、不審な旅人を捕縛する!!」
ハクが、どこから来たのか、ナナの左前に音もなく立っていた。両手は空だが、その場にいるだけで空気が変わる。昨日まで持っていた旅人の気配が消え、かつて大陸の裏社会を震わせた「黒刃」の気配が戻っていた。
「ハク、大丈夫ですよ」
「ですが、ナナ様——」
「きっと、愛を届けてほしい方たちが来てくれたのでしょう」
ハクは一瞬、複雑な顔をした。しかし「はい」と言って、一歩引いた。
ナナは自分で扉を開けた。
廊下には兵士が十五人から二十人ほど、ぎっしりと詰まっていた。全員が武装しており、手には松明を持っている。炎の光が廊下を橙色に染め、兵士たちの甲冑に揺れていた。
その後ろに、腹の出た中年の男が立っていた。
絹の上着に金の刺繍、首には宝石のついた鎖、指には三本も指輪がある。五十を過ぎているだろう年齢のわりに、どこか幼い顔つきをしていた。その目は、濁った水のような色をしていた。
ガゾン男爵だ、とナナはすぐにわかった。
「お前が例の女か」
男爵は、ナナを上から下まで、品定めするような目で眺めた。しかし睡眠を引き裂かれた直後に、寝間着と羽織のまま扉を開けたナナの姿を見て——その目が、少しだけ揺れた。
どんな状況でも、ナナは美しかった。夜の薄明かりの中でも、炎の光の中でも、それは変わらなかった。
男爵は小さく咳払いをした。
「ふん。確かに美しい。が、身分もわからぬ旅人が俺の衛兵を混乱させ、領都に無許可で入り込んだとあっては、放置するわけにもいかん。明朝、俺の屋敷に来い。話を聞いてやろう」
「まあ」
ナナは微笑んだ。
「愛を届けに行けばいいのね。喜んで」
男爵の顔が、なぜか引きつった。
◇
翌朝、ナナたちは男爵の屋敷に向かった。
ガゾン男爵の屋敷は、丘の頂上に建つ、白い石造りの大きな建物だった。外壁は確かに立派だったが、石の目地がひび割れ、蔦が不規則に這い上がっていた。手入れをしているとは言い難い。
門から屋敷の玄関まで続く石畳の道の両側には、かつては庭園だったらしい痕跡があった。しかし今は花壇の輪郭だけが残り、植えられていた花は枯れ果て、芝生は黄色く変色していた。噴水の水は止まり、底に落ち葉が積もっている。
「愛情を注がれない場所は、どこも枯れていくものですね」
ナナはその庭を見ながら静かに言った。
「植物の管理に人員を割けないほど、経済が逼迫しているということでもあります」ゼノが補足した。「屋敷の維持費さえ削っている、ということは、上納金がかなりの額に上っているか——あるいは、男爵自身の手元に蓄財されているか」
「もしくは両方」
「もしくは両方、ですね」
玄関ホールは、外の殺風景とは対照的に、過剰なほどの飾り物で埋め尽くされていた。
金の燭台が壁に並び、赤い絨毯が床を覆い、壁面には歴代領主の肖像画がずらりと掛かっている。肖像画の金の額縁は磨き込まれており、絵の具の色も鮮やかだ。しかしどれも、どこか生気に乏しかった。絵の中の人物たちが、全員同じ方向を向いて、同じ無表情で、ただ飾られているだけ。
豪奢で、空虚だった。
ナナは静かに、そのホールを歩いた。
足音が絨毯に吸い込まれ、どこか遠い音になる。
広間の扉が開かれ、中に通された。
広間は、屋敷で最も大きな部屋のようだった。高い天井には巨大なシャンデリアが吊り下がり、長い一枚板のテーブルが中央を占領している。テーブルの奥の、上座と思われる椅子に、ガゾン男爵が座っていた。
昨夜とは打って変わり、豪奢な礼服を着込んでいる。宝石の指輪も増えており、胸には勲章のようなものまで飾っていた。しかし目の濁りは変わらなかった。
男爵の両脇には、護衛の兵士が五人ずつ、計十人が立っている。
「座れ」
男爵が顎でしゃくった。
ナナはゆっくりと椅子に座った。ハクとゼノが両脇に立つ。
男爵は、ナナを見つめた。ゼノを見た。ハクを見た。また、ナナに視線を戻した。
「身分を名乗れ。どこの家の者だ」
「オーレリア・ヴァンドール家のナナと申します」
広間に、微かな騒めきが走った。護衛の兵士たちが顔を見合わせた。
「ヴァンドール……」男爵の眉が動いた。「公爵家か。なぜ公爵令嬢が、こんな辺鄙な領地を旅している」
「愛を届けるために」
「……は?」
「この街は、愛が足りていないように見えましたので」
しばらく沈黙があった。
男爵の顔が、みるみる赤くなった。頬が膨らみ、首の血管が浮き出た。
「馬鹿にしているのか!? 公爵の小娘が、わざわざ儂の領地まで来て愛がどうのとほざくのか!! 儂は礼節を持って——」
「男爵」
ゼノが、静かに一歩前に出た。
眼鏡が、シャンデリアの光を受けてきらりと光る。その細い体が、不思議なほどの威圧感を放った。元王国随一の天才魔導師の、学者としての矜持が宿る目だった。
「ラヴェルト領における領民への不正課税——収穫の八割という法外な税率の記録、及び徴税時の暴力行為の証言録。街道通行料の不正徴収記録——王国規定の二十倍に及ぶ通行料の徴収実績。中央役人への贈賄記録——王都監察院の査察担当官三名への定期的な金品提供の詳細。拷問施設の存在と利用記録——領都北部の地下施設における被害者の証言」
ゼノは一息に読み上げた。
「全て、記録として王都に送付可能な状態で揃っております」
男爵の顔から、赤みが消えた。
蒼白になった。
「な……なんだと……お前、どこで……」
「より正確には」ゼノは続けた。「王国査察院の独立告発窓口を通じた匿名提供、という形を取れば、提供者への報奨金も付与されます。また同時に、貴族院の倫理委員会へも——」
「ゼノ」
ナナが穏やかに遮った。
「難しいことはいいですよ」
「……はい、ナナ様」
ゼノが一歩引いた。
ナナは立ち上がった。
白いドレスのスカートが、床を掃くように揺れた。男爵の護衛兵十人が、一斉に槍と剣を構えた。しかしナナの歩みは止まらなかった。一歩一歩、ゆっくりと、男爵のもとへ歩いていく。
「お待ちください!」
ハクが前に出た。
外套の内側から取り出したのは、一枚の布だった。金糸で精緻に刺繍された、紋章の布。縫われているのはヴァンドール公爵家の紋章だが——よく見ると、その周囲に光の糸で何かが描き加えられていた。花のような、翼のような、あるいは何かを包み込む腕のような模様。
ハクはそれを高く、天井に向かって掲げた。
「このお方をどなたと心得る」
低い声が、広間に響いた。
「この世の愛の総量、ナナ様なるぞ」
一拍置いて。
「控えおろう!!」
護衛兵の一人が、小さく「えっ」と言った。隣の兵士が「え、それ何」と囁いた。「わからん」と返ってきた。「控えるの?」「どうする」「俺は控えとく」「俺も」——という会話が、武装した兵士たちの間でひそひそと交わされた。
全員が、じりじりと後退した。
槍を構えたまま後退したため、後ろにいた兵士と前にいた兵士が鎧をぶつけ合い、派手な音がした。
ガゾン男爵は、今や腰が椅子から半分浮き上がった姿勢で、ナナを見ていた。
ナナが、男爵の正面に立った。
二人の視線が交わった。
男爵の目——濁った水のような、乾いた、空虚な目が、ナナの深い紫色の目に映った。
「可哀想に」
ナナは静かに言った。
「こんなにたくさんのものを持っているのに」
「な……」
「愛が、全く足りていない」
男爵は言葉を失った。何か言おうとして、口を開けたが、声が出なかった。
ナナは腕を広げた。




