プロローグ:捨てられた愛の行方
王国の大広間というものは、いつも冷たい。
磨き抜かれた大理石の床は、踏むたびに足音を高く跳ね返す。天井から吊り下げられた水晶の大シャンデリアは、何百本ものろうそくの光を四方に散らし、居並ぶ貴族たちの金モールや宝石をきらめかせている。だというのに、そこにあるのはいつも、ひどく人工的な輝きだけだ。
その日、広間には百人を超える貴族が集まっていた。男たちは金糸を縫い込んだ上着を着込み、女たちはスカートを幾重にも重ねて扇を揺らしていた。彼らがひそひそと囁き交わすたびに、絹と絹が擦れる音が波のように広がる。
全員の視線が、広間の中央に立つ一人の令嬢に向いていた。
ナナ・オーレリア・ヴァンドール。
公爵家の令嬢にして、王太子クライヴ殿下の婚約者——あるいは、この瞬間をもって「元婚約者」となった女。
彼女の容貌は、絵画から抜け出たと表現するより、むしろ絵画の方がこの世界に追いつけていないと言った方が正確だった。
蜂蜜色の金髪は、蝋燭の光を受けて輝き、ゆるやかなウェーブを描きながら背中まで流れ落ちている。肌は磁器のように白く、薄い血管の青さが透けて見えるほどだ。目は深い紫色で、角度によって藤色にも、濃い菫色にも見える。すっと通った鼻梁と、柔らかな弧を描く唇。身に纏うのは純白のドレスで、腰から広がるスカートには細かな銀の刺繍が施されており、動くたびに星の瞬きのように光が走った。
誰もが息を呑むような美貌だった。
そして今、その美貌が、ゆっくりと——微笑んでいた。
「ナナ・オーレリア・ヴァンドール」
上座の玉座に座った王太子クライヴが、低い声で宣告した。年齢は二十二、ナナより一つ上の若い王子だ。整った顔立ちをしているが、今この瞬間はその顔が、見る者が気の毒になるほど青ざめていた。「貴様との婚約を、ここに破棄する」
広間が、水を打ったように静まり返った。
貴族の女性の一人が、扇で口を隠しながら隣の夫人に耳打ちする。男性貴族が、王太子の顔色と令嬢の表情を交互に見比べる。
ナナは、ゆっくりと瞬きをした。
長い睫毛が、蝶の羽のように上下する。
「……まあ」
それだけだった。
それだけ言って、彼女はまた微笑んだ。春の野に咲く白い花のような、穏やかで、柔らかな笑みだった。
「その笑顔が気持ち悪いんだ!」
王太子が立ち上がった。玉座の肘掛けを握りしめ、全身を震わせて叫ぶ。その顔には、怒りとも恐怖ともつかない複雑な色が浮かんでいた。
「貴様の『愛』とやらで、俺の護衛騎士が三人廃人になった! 俺の政務補佐官が『ナナ様以外に仕える気力がない』と失踪した! 俺の母上でさえ、貴様の顔を見るたびに『ナナちゃんは私の娘……私の子……』と涙ぐむようになったではないか!! 先日など、母上が夜中に俺の部屋に来て『ナナちゃんに会いたい』と一時間泣き続けたんだぞ!!!」
「まあ、お義母様ったら」
ナナは目元を優しく細めた。
「愛が、足りませんでしたかしら」
「足りない!? 多すぎるんだ!!!」
王太子の叫びが、大理石の壁に反響した。
広間の貴族たちは、誰一人声を上げなかった。ただ、何人かが静かに後退り、柱の陰に身を寄せるのが見えた。
追放状には「過剰魔力行使による社会秩序の破壊」と書いてあった。
ナナはそれを受け取り、きれいに折りたたみ、ドレスの胸元にしまい込んだ。
——愛が重い、か。
私はただ、愛を注いだだけなのに。
それが重いというなら、もっと愛を必要としている人のところへ行けばいい。
この世界は広い。愛が足りていない人が、まだまだたくさんいるはずだから。




