喰い破る自画像
或る蛹が我を知る
考える葦になり
母体を喰い破る
無意識が絡む
産声を上げ、堕ちた。
───息が細くなる。筆を持つ手が僅かに震える。
意識が憑依され、自我が身を隠す。
雑音も沈黙も意味をなくし、無我が全身を静かに侵略する。
意識と無意識が迎合する、神経のその先までも。
筆を取る。退役した軍人の面影。
全能感と畏怖に包まれ、全身を塗り替えられる。
───蛹が、母体を、喰い破る。
「綺麗に収まりすぎている。無味無臭だ。」
溜息と共に投げ出され、必死に搔き集めた。
骨ばった指先の煙草。煙が目に染みる。
「いいか?お前にはな、面白みがないんだよ
教科書通りなら幾らでも代わりはいるんだ」
「お前にしかない毒で華を咲かせんだよ、わかるだろ?」
綺麗すぎる。纏まりすぎている。つまらない。
今まで何度、同じ言葉をぶつけられたか知れない。
毒を知りたい。手に入れたい。
新雪を汚す大胆さ、純白を墨で斬る強かさを。
殻を、喰い破りたい。
シルバースプーンではなく筆を持ち産まれた。
昔のように笑えないことに気づき、自嘲する。
あの頃は何を描いても楽しく、褒められた。
母に、褒められた。嬉しくて何度も描いてみせた。
あの時の衝動を、自由を、どうしても思い出せない。
十五の夜、母が亡くなり、ますます内省的になり、笑い方を忘れた。
母はミューズであり、創造の源泉だった。
母の絵は、もう、書けなくなっていた。
秋の冷たい空気が肌を刺す。
1LDKのアトリエに明かりが灯る。
失意のままベッドに倒れ込む。
─────今回は、自信作だった。
前回の反省点を全て踏まえ、一つ一つなぞる様に描き上げた。
「だからお前はダメなんだよ。俺の予想を超える作品を産み出さないと、凡百の独りだ」
分かっている。嫌という程、よく分かっていた。
ずっと、いい子だと褒められてきた。
意思も自我もない、貝殻の様に在るだけ。
意表を突く独創性や、息を飲む新鮮さがない。
怒りがふつふつと募り、勢いのままキッチンから包丁を抜きだす。
シンクの曇った鏡を荒々しく拭う。
見慣れた顔を、切っ先を向け憤怒で睨めつける。
呪詛が口をついて溢れ出す。
「どうした?怖いのか?腰抜けが」
(そうだ、お前はいつだって臆病者だ)
「ママがいなくなったのがそんなに辛いのか?」
(お前は、一人じゃ何も出来ない赤子同然だ)
「いつも同じ作品だ!芸術家は廃業しろ!」
(お前には才能がない、諦めろよいい子ちゃん)
声を荒らげ、己に罵詈雑言を吐き出す。
毒薬があれば、飲み干してしまいたい。
才能のない芸術家被れ。都合のいい良い人。
否。心の中には獅子が眠っている。
獣は牙を剥き、僕を食い荒らし、唯一無二の毒華を咲かせる。
それで初めて、僕は完成する────。
僕の中には、「もう1人の僕」がいる。
産まれた時から一緒だった、僕の半身。
自由で、恐れ知らず。声だけの存在。
譜面通りに弾かず、自由に作曲する破天荒。
だからこそ、予想通りに行かない、大胆さ。
僕が切望する、もう1人の自画像。
──────心の声は、次第に激しさを増す。
(お前が筆を握るのは、芸術に対する冒涜だ!)
思えば、僕はずっと陰に隠れていた。
嫌な事も辛い事も全て、「彼」が引き受けた。
安全地帯で、目を伏せ、耳を塞ぎ、逃げ続けた。
(そうだ、痛みを知らないお前は、何も描けない!)
痛み。恐れ。弱さ。敗北。弱者。腰抜け。
(それがお前だ、人から見下される、失敗作だ!)
───────失敗作。
僕の、僕だけの、毒。蛹が、殻を、喰い破る。
呼吸が荒い。血が上り、地を揺らす程唸る。
(お前の絵は見苦しい、愛しの母親は、お前を見捨てた!)
深い咆哮を上げながら、切っ先を振りかぶった。
蛹が地に堕ち、毒のように蠢く獣の心を震わせる。
血と汗が混ざり、筆を握る手は震えを超え、火花を散らす。
──────殻は砕けた。
粉々になった硬質の壁を蹴散らし、内側の光が裂け目から噴き出す。
深く抑え込んでいた欲望、怒り、絶望──全てが渦巻き、渾然一体となる。
地に転がる破片の中で、蛹の形は揺らぎ、体はねじれ、歪む。
だがその中心で、赤く光る心臓が一拍ごとに煌めき、鼓動と共に色彩が解き放たれる。
───────羽化。
薄紫、深紅、漆黒が絡み合った翅が生まれる。
それは毒華。美しく、強烈に、凶暴に。
見る者を惹きつける華麗さと、畏怖の同居。
羽ばたくたびに周囲の空気が震え、影と光を絡め取り、世界に刺さる。
「これが、僕だ──誰にも真似できぬ僕だ」
目は燃えるような琥珀色。
獣の瞳と人の瞳が融合した、唯一無二の視線。
自由を奪うものなど、もう何もない。
内なる声は歓喜に変わり、獅子の咆哮が全身を貫く。
筆は再び握られ、だが今度は支配ではなく解放のために動く。
線は暴れ、色彩は叫び、画布は惨劇の舞台。
殻を喰い破った蛹の毒華が、世界を塗り替える。
──────羽ばたく。毒華は飛翔し、自己の全てを曝け出す。
恐怖、痛み、絶望、憤怒─────全てを糧に、光と闇を抱えたまま、飛び立つ。
世界はその羽音に揺れ、残響する。
そして、静かに────蛹は消え、毒華だけが、虚像を喰い破り舞っていた。