第五章 繊細な彼女 20
悟と口論になってから1ヵ月後、陽子はそれまで勤務していた大学病院を退職して地元の小さな個人経営のクリニックへと転職した。少人数ゆえ雑用が増えて大変な部分もあったが、それでも外来専門ゆえ決まった勤務時間と休日があり、何よりも仕事そのものに充分やり甲斐を感じる事ができる環境であった。
そして今までみたいに仕事に対する不平不満もなくなり、悟とも都合が合えば又以前の様にデートをする機会も増え、長期休暇に入ると必ず旅人庵へ赴く様になった。
それから月日はまた過ぎて2002年の夏を迎えたある日、2人はもう何度目か分からない程の旅人庵の”帰省”を楽しんでいた。
ある日は一緒にツアーに参加し、またある日はお互い別行動をとるなどして旅人庵での日々を楽しく過ごしていた。
「陽子ちゃん、どうだい?元気にやってるかい?」
ペアレントが陽子に声を掛けた。
「ペアレントさん!私は相変わらず地元で看護職としてバリバリ働いているわよ。ただアレね。私も今年で29歳で三十路間近だし、最近若くないんだなーて思うようになってきたのよ。ここのヘルパーや宿泊客だって最近じゃあ私より年下が多くなって来たし。職場でも後輩の指導をする機会が増えてきて、もう自分は若者ではないんだなって感じているのよね。」
「おいおい待ってくれよ、君が若くないって言ったら僕なんて化石になってしまうよ。それに年を重ねるって事はそれだけ陽子ちゃんが成長して大人になったって事なんだよ。」
ペアレントが大笑いしながら陽子の背中を叩いた。
「ただいまーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!」
玄関から声がした。ツアー客が行き先から戻ってきたのである。その中には悟も混じっていた。
「来た来た!おっ帰りなさーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!!!」
陽子も出迎え部隊に混じって太鼓を叩いてツアー客を出迎え、早速悟の元へ駆け寄った。
「ねぇ、今日のツアーどうだった?」
「ああ、今日は 摩周湖 方面まで行ってきたんだよ。『霧の摩周湖』と呼ばれる通り本当に辺り一面霧が凄くて湖が全然見えなかったよ。」
「へぇ、摩周湖は2年前の冬のツアーで行ったきりね。」
「そう言えばそうだな。あの時は本当に寒かったのを今でも覚えてるよ。そうそう、今日行けなかったんだけどさ、摩周湖の近くに『神の子池』っていう小さな湖があるらしいんだ。せっかくだからさ、明日レンタカー借りてその神の子池って場所に行ってみようか?」
悟は裏摩周展望台付近にある『神の子池』に翌日行こうと陽子に話を持ちかけた。
「神の子池って名前は聞いたことあるけどまだ行った事なかったわね。是非行きましょうよ。」
陽子がそう言うとそれぞれ一旦自室へと戻った。
「さぁミーティングだよミーティング!!!!!!おやっ!?今日は何だか随分と”濃い”旅人さんばかりじゃないの!!!!!!!!」
夜のミーティングにて、ミーティング進行担当の大広間が常連客で埋め尽くされている様子をヘルパーが眺めながら言った。この日はどういう訳か初めての客はまったくおらず、全員が全員”旅人庵歴何十年”と云った年季が入った常連客ばかりであり、陽子と悟ももれなく常連客の仲間入りと化していた。
「それでは本日の1曲目行きまーーーーーーーーーーーーーーーす!!!!」
ヘルパーのギターを構えると全員ザ・フォーククルセダーズの『あの素晴らしい愛をもう1度』を歌い、井上陽水の 『夢の中へ』 など1960~70年代のフォークソングを歌った。またこの頃になると奥田民生と井上陽水のユニット 『ありがとう』 やスピッツの 『ハチミツ』 など、1990年代のヒットソングもレパートリーに加わる様になってきた。
かつて旅人庵に馴染めず、1人で大広間の片隅にいた陽子も今となっては常連旅人の一員として積極的に前に出て声を出して歌い、悟も同様に元気良くミーティングに参加していた。そんな2人の姿をはじめ、楽しそうにミーティングに参加している旅人達の事をペアレントは後ろから温かい目で見守っていた。




