近づく距離と、見えない壁
彩花が私の部屋に居着いてから三日が過ぎていた。
最初は「警察に連絡すべきか」とか「親に返すのが正しいんじゃないか」とか、まともな大人の思考が頭をよぎった。
でも、彼女の目を見ていると、そんな言葉は喉の奥で引っかかって出てこなかった。
鋭くて、どこか壊れそうなその瞳が、私の理性を麻痺させる。
「ねえ、彩花。学校は?」
夕飯の支度をしながら、さりげなく聞いてみた。
コンビニの弁当をレンジで温めるだけの簡単な食事だけど、彼女が来てからは少しだけ料理らしいことをするようになった。
今夜は冷蔵庫に残っていたキャベツと豚肉で炒め物を作っている。
「行かないよ、もう」
ソファに寝転がって、私の古いスウェットをだらしなく着た彩花が答えた。
声に感情が薄くて、それが逆に気になった。
「何で?」
「意味ないから」
それ以上は続かなかった。
彼女はスマホをいじり始めて、私の質問を遮るように画面に目を落とした。
私は黙って炒め物を皿に盛り、テーブルに置いた。
夕飯を食べながら、彼女の横顔を盗み見る。
長い髪が頬にかかって、時折それを指で払う仕草が妙に大人っぽい。
歳下なのに、私よりずっと落ち着いて見える瞬間がある。
それが不思議で、妙に苛立たしくて、でも少しだけ羨ましかった。
「美咲さんってさ、仕事つまんないの?」
突然、彩花が口を開いた。
箸を止めて私を見ている。
「え?」
「だって、毎日疲れた顔して帰ってくるじゃん。何か楽しそうなことないの?」
その言葉が刺さった。
三十四年間生きてきて、確かに「楽しい」って感覚が薄れてるかもしれない。
仕事はこなすもの、人生は耐えるもの。
そんな風に思ってた。
でも、それをこんな子に指摘されるとは。
「楽しいことか……。昔はあったよ。学生の頃とかさ」
「ふーん。何してたの?」
「友達と夜遅くまで喋ったり、旅行したり。あとは……恋愛とか」
最後の言葉が出た瞬間、彩花の目が少しだけ光った気がした。
「恋愛? 美咲さん、誰か好きな人いたの?」
「いたよ。昔ね。女の人だったけど」
自分でも驚くほど自然に言ってしまった。
普段なら絶対に口にしない過去なのに、彩花の前だと何故か言葉が滑り落ちる。
彼女は少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「へえ、レズだったんだ。美咲さん、なんか意外」
「意外って何だよ」
「だって、地味そうだし」
「うるさいな」
私がむっとすると、彩花はクスクス笑いながら箸を動かした。
その笑顔が初めて見た柔らかい表情で、私は一瞬、息を呑んだ。
夜が更けて、彩花はソファで眠ってしまった。
私は洗い物を済ませて、彼女に毛布をかけた。
寝顔を見ていると、昼間の鋭さが消えて、ただの少女に戻る。
不思議な子だ。
裸でベランダに現れて、私の部屋に勝手に居座って、それでも何故か追い出せない。
その夜、私はなんだか眠れなかった。
彩花の寝息が部屋に響いて、それが妙に心地よかった。
三十四歳のくたびれた私に、こんな感情がまだ残ってるなんて思わなかった。
彼女がここにいる理由も、いつまでいるつもりかも分からない。
でも、ほんの少しだけ、この時間が続いてほしいと思った。