04
どうやら私は、このベイビーの筋肉としての来世を得たようだ。
ゴッド・マリアは、とある王女の力になってくれと言っていたが、まさか物理的に筋肉になるとは。
もし生まれ変われるならダンベルになりたいと思ったことはあるが、人生というものは何が起こるか本当に分からない。
贅肉だらけのこのベイビーは、どうやら自己嫌悪に苛まれているらしい。
鬱屈とした暗い気持ち、悲しい気持ち、全て筋肉を通して伝わってくる。
以心伝心――いや以筋伝筋とでも呼ぶべきか。
彼女の状況も、電気信号のように流れ込んできた。
だが……。
「誰なんですか」
「どうやら私は君の筋肉として転生したようだ」
「なんでしゃべるんですか! 気持ち悪い筋肉!」
「いいじゃないか、お話しする筋肉だっているさ」
「気持ち悪い気持ち悪い‼ ほっといてください‼ 私は死ぬんです‼」
といった押し問答があり、気づけば私はベイビーの体でブルガリアンスクワットをしていた。
ッハと我に返ったとき、ベイビーは白目をむいていた。
そうしてわずか五分で気絶したベイビーを、とても不思議な感覚で見守っているのが現状だった。
本気を出せば普通に彼女の体として動けるらしい。
おそらく、気絶している彼女を私は自分の意志で操ることができる。
でもそれは、あまりにもナンセンスだ。
それにしても、年端も行かない一国の王女が一日中屋上で過ごしていて、両親どころかメイドすら様子を見に来ないだなんて。
筋肉に流れ込んできた昨日の出来事も、あまりにも悲惨だった。
こんな小さな子が、自ら命を絶とうとする状況にも納得はできてしまう。
この子は誰からも忌み嫌われ、そうして自分自身すら自分を愛せなくなっている。
「……もう夜に。星が綺麗ですわ」
「起きたか、ベイビー」
「あなたは本当に、一体何なんですの? 私の中から出ていって下さい」
「そう言うな。さっきも言ったが俺はベイビーの筋肉に生まれ変わったらしい」
「何を言って。いえ、どうせ死ぬのですからどうでもいいですわ」
芝生の上で仰向けになって、私はベイビーと星を眺める。
東京とは違い、美しい星々を間近に感じる。
お月様も二つある。ここは本当に別の星なのだな。
「また死ぬ、と言ったか。なぁベイビー、少し俺の語りに付き合ってくれないか」
「……何ですの?」
あれだけ寝たのに、ベイビーはまだ少し苦しそうに寝転がったまま悪態をつく。
「ベイビーは死ぬ死ぬ、と言っているが死んだらどうなると思う?」
「それは……わかりません。きっと、神のもとに帰るのでは」
やはりそうだろう。
だが、死にたてほやほやな私は、ベイビーの疑問に答えることができる。
「そうか。信じがたいとは思うが、俺はさっき死んだ。そうしたら、君の筋肉となっていた。――答えはそうだ、筋肉になるんだ」
「……」
「君の感情、伝わってくるぞ。――あ、痛い。やめなさい、ちょっと本当にやめなさい」
――彼女の不愉快という感情とともにビリっと電気でも流されたかのような痛みを感じた。
恐ろしいな、以筋伝筋。
蔑みの感情は、筋肉痛よりも痛かった。
「バカな冗談はさて置いて、だ。そんなさっき死んだ俺も、かつては死にたいと望むとても太った少年だった。境遇は君ととても似ていた」
「……私よりも、ですか?」
ベイビーは怒ったとしても根に持たない性格なのか、私の言葉にも耳を傾けてくれていた。
それだけで分かる。
とてもいい子なのだと。
「それはそうさ。運動なんて大っ嫌い、歩くことすら嫌すぎてむしろ水中の方が速かったくらいだ。……俺はおそらく、特別太りやすい体質で、周りの子供たちとは少し違った」
「……あなたも、そうだったのですね」
私が彼女の筋肉となった瞬間、ベイビーの記憶の一部をのぞき込んでしまった。
初対面の、こんな訳が分からない状況だったが、私のことも少し知ってほしいという気持ちになった。
……私と彼女はとても似ていたから。
それに彼女の記憶を盗み見てしまったからには、そうしないとフェアではない、という気持ちもある。
「あぁ。そんな少年はいじめられた。デブだ臭いだ言われ、嫌われていた。そうして気が付けば人が怖くなってな、それは大人になっても変わらなかった」
「人が……。私も……怖いです」
「だとしたら、かつての俺と一緒だ。……そのまま大人になったら無駄にペコペコして、嫌われないよう人の機嫌ばかりうかがって、いつしか空っぽの人間になっていた」
あの頃の私は、体重120キロ。
会社員時代は、朝起きるのが本当に憂鬱だった。
何のために生きているのか自問し、別に無理に生きていく必要なんてないと思うようになっていた。
けれども、死ぬのは、痛いのは怖かったから生きていただけだった。
「……限界がきて、心の病だと聞き、仕事を辞めた」
「それで……あなたは自ら命を絶ったのですか?」
いつしかベイビーは起き上がり、自分の胸に手を当て真剣に話を聞いてくれていた。
その一つ一つの所作に、丁寧さを感じる。
私自身、まだ状況を飲み込めない部分があるというのに、ベイビーは話を真摯に聞こうとしてくれていた。
その姿勢を見て、私の少女への好感はどんどんと高まっていった。
「いいや、まだ続きがあってな。たまたま読んでいた本に、筋トレをすればすべての問題を解決できると書かれていた」
今となっては、私の愛読の本だ。
本一冊で何が変わる、という人もいるが、それは受け取り手次第だと私は思っている。
どんな名著も、読者の心に響かなければただの紙切れだ。だが、確実に心に響くものもある。
それがたまたま、私にとってはその本だった。
「なんだこの馬鹿な本は、とはじめは思った――でも読んだら面白くてな、半信半疑で行動に移したら、すべてが変わった」
「……あの、私は神ヴァルクを崇める敬虔なヴァルク教徒です。宗教の勧誘は……」
ベイビー、宗教の勧誘ではないぞ。
この世界にも怪しい話はそうだという相場があるのだろうか。
「嘘に聞こえるかもしれないな。たかが筋トレなんて……って。確かに、死ぬほど努力して得たものは、ただの筋肉――だが聞いてくれ」
きっと人生に分岐点があるとしたら、私にとっては行動に移すことのできたその日がそうだろう。
仕事をやめてからは部屋に引きこもり、貯金がなくなったら死んでしまおう。
そう考え、毎日を無為に過ごしていた。
そんな日々の中、目的もなく立ち寄った古本屋。そこでなんとなくて手に取った本の一行目だった。
『死ぬ前に、筋肉を殺せ!』
なんだ、このちゃちな謳い文句は、とあざけ笑った。
が、読み進めるたびに、同時に涙を流している自分もいた。
そこには、ただひたすらに筆者の熱いメッセージが綴られていた。
自分に似た境遇の筆者が、必死に生きろと伝えてくれていた。
「その時に、ずっと自分を押し殺して生きていたことに気づいたんだ。周囲の目を気にして、自分の殻にこもり、ただじっと息をひそめて生きていた」
私は、いつしか筆者のメッセージはバトンであると考えるようになった。
私は確かに救われた。
筆者も、誰かを助けたいから本を書いたのだろう。
その思いは、きっとバトンだ。
誰かにつなぎ、伝えていく。
私の番が来たのだと、マリアは私を彼女のもとへと送ってくれたのだろう。
「……だがな、そんな生き方で、いったい誰が得をする?」
ベイビーは、芝生の屋上で立ち尽くしながら、静かに私の話を聞いてくれていた。
夜の独特な空気に包まれていた屋上。
出合ったばかり。しかもこんな奇妙な形だ。
だがしかし、もう少しで私の言葉は彼女の心に届くような気がした。
「嫌われないよう下を向いてへりくだって生きても、『都合の』良いヤツと思われて、好き勝手なことばかり言われて、いつの間にか空気のように忘れられる。……なぁ、馬鹿らしいとは思わないか」
「……私は、別に」
「本当にそうか。ムカつかないか? ……俺は我慢ならない」
「……」
「ベイビー、君のことを、君の本心を、君の口から聞きたい。教えてくれないか? 何を思い、なぜ死にたいと思ってしまったのか」