表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/15

第6話 天ぷらそば

 夜中、こっそりと家を出た。夫は仕事で出張中。駆け落ちの夜としては、最高な状況ではないか。


 飼い犬のジローとも別れを告げた。可愛いゴールデンレトリバーの彼と別れを告げるのは、哀しいが、翌朝にはお手伝いの佐野が来るだろう。


 美桜はそんな大きな家に住んでいた。三階建てのどっしりとした洋館で、裏庭にはプールもある。こんな田舎でプールがあっても使い道は特にないが、夫は夏に水浴びしていた。お手伝いさんも雇い、美桜も一切家事をした事がない。ジローにちょっと餌をあげるぐらい。美桜はいわゆるセレブ妻だった。


 同年代のアラサー女と比べて勝ち組といえよう。早期に婚活し、今の夫と知り合い、セレブの地位を手に入れた。夫は土地を多く持ち、会社もいくつか経営していた。庶民の女からセレブ妻。大逆転のシンデレラストーリー。友人は誰しもが羨ましいと呟く。


 それでも美桜は日常が面白くない。楽しかったのは新婚当初だけだった。夫は多忙でろくに会えず、毎日暇で仕方ない。語学やフラワーアレンジなどの趣味もやってみるが、暇。同時に心に穴が空いていくよう。子供でもいれば少しは違ったのかもしれないが、そんな兆候も一切なかった。しかも夫も女達と遊んでいるらしい。シンデレラストーリーの結末なんてこんなものである。暇と退屈さで心に穴が空いていく日々。


 そんなある日、ホストにハマった。田舎のホストだと舐めていたが、美桜の心の穴を塞ぐののは十分だった。一番のお気に入りは冷夜という。店でも一番人気で、美桜は貢ぎに貢ぎ、ついに恋人のポジションもゲットし、長らく交際していた。


 恋人とっても美桜は結婚を解消していない。不倫関係だった。正直なところ、今の地位を手放したくない思いもあったが、冷夜の笑顔にやられた。沼に堕ちた。やっぱり冷夜と一緒になりたいと思うようになり、駆け落ちの約束をして今に至る。


 最近は夫も何か疑っているようで、連絡も控えていた。最後に連絡したのは一週間前。そこで駆け落ちの約束を美桜が決め、今、そこに向かっていた。


 真夜中の県道沿いの道は、さすがに人も車も少ないようだ。最近は天気が崩れ、春なのに少し肌寒い。美桜は着ているスプリングコートのボタンを急いで閉じた。荷物も入れたカバンも持ったし、準備は完璧だ。後は待ち合わせ場所のコインレストラン・佳味に向かうだけ。


 あそこは地元では穴場スポットだった。無人の自動販売機のお店だ。一見、コインランドリーのような店構えだが、無人で営業されている。古めかしく、目立つ店でもないし、待ち合わせ場所ではピッタリだと考えた。


 店に入るが、案の定人気はない。うどんやそば、ハンバーガーを提供する自動販売機が静かに佇んでいるだけだ。


 美桜はほっと胸を撫で下ろし、とりあえず自動販売機でホットコーヒーだけを購入し、テーブルについた。ホットコーヒーは紙コップに入っているもので、別に美味しくない。家で飲んでいるオーガニックコーヒーの方が絶対美味しい。美桜の食生活もセレブだった為、正直、こんなコーヒーは美味しくはないが、今は冷夜の事を思うと、心が踊る。


 駆け落ちしたらきっと貧乏生活になるだろう。それでも冷夜と一緒にいたら幸せ。昭和の歌謡曲にそんな内容のもあった。目の前にある昭和レトロな自動販売機を見つめながら、頭にお花が咲いていた。冷夜と出会って無償の愛を知った。これが本当の愛なのだと。


 苦いコーヒーを啜っているが、心はすっかりピンク色だ。こんな古ぼけた自動販売機のお店だが、妙に華やかに見える。ハンバーガーの自動販売機は鶏がチキンを調理したイラストがデザインされていた。シュールで奇妙な絵。そんな絵もホッコリしてしまうぐらい。


 しかし、待てど暮らせど冷夜はやってこなかった。もう一時間以上たっていたが、誰も来ない。その内、窓の外から雨音も聞こえてきた。今は本当に天気が崩れているようだ。きっと満開の桜もこの雨で散るだろう。


 桜が散る。そんな光景を想像していると、なんだか嫌な予感がしてきた。美桜の頭の中にある花もだんだんと萎んできた。


 トークアプリを開くと、冷夜からブロックされている事も気づく。悪い予感は当たってしまった模様。


 つまり、この駆け落ちは美桜の中で勝手に盛り上がっていただけで、冷夜はそうでもなかった。もしかしたら、付き合っていると思い込んでいたのも美桜だけ。向こうは単なる客の一人だけだったのかもしれない。


「な、なんで……」


 目の前に現実が押し寄せ、美桜の頭も冷えてきた。彼への愛は本当に無償のものだったか、分からない。単なる等価交換をしていただけなのだろうか。夫への愛もわからない。これも等価交換か。


 考えれば考えるほど、気持ち悪くなりそうだ。一つ言える事は、冷夜にはこの場所に来ない事。涙が出そうだが、自業自得な気がする。自分ってバカだったんだなと自覚してしまう。


「ああ、私ってバカだったんだ……」


 頭を抱えそうになる。これからどうしよう。家に帰るしか無さそうだ。結局、身の程も知らずに馬鹿な事をやっていたと自覚してしまう。例え冷夜と駆け落ちが成功しても、幸せになれなかったのかもしれない。こんな恵まれたセレブ妻でも幸せになれないのならどこへ行っても同じかもしれない。相手を変えても同じかもしれない。雨音を聞きながら、一人で大反省会を開いていた。


 気づくと顔は涙でぐしゃぐしゃだ。カバンからハンカチを取り出して拭くが、涙は一向に止まらない。自分の愚かさ、頭の悪さに情けなくて涙しか出ない。


「お腹減ってきたかも……」


 泣いたら、お腹も減ってきた。正直、自動販売機のご飯なんて不味そうだが、天ぷらそばを買う事にした。


 チャリンと小銭を三枚入れると、すぐに出てきた。プラスチックの白い器は、なんか汁っぽいが十分温かい。自動販売機のポケットにある割り箸を一膳もらい、再びテーブルにつく。


 ぱきん。割り箸を折る音が雨音と混じって聞こえる。


 そばの天ぷらは、汁に溶けてふにゃふにゃになっていた。そばの色も薄めで、多分小麦粉の割合が高そう。特別美味しくはない。それでも食べていると、泣きたい気持ちも少しは癒される。温かいせいか、天ぷらが柔らかいせいか分からないが、この夜食だけは今の自分に寄り添ってくれていると感じた。


 美桜の顔は涙とそばの湯気で、めちゃくちゃ。再びハンカチで顔を拭くと、少しはスッキリしてきた。喉や舌は汁の熱さでピリピリしていため、ぬるくなったホットコーヒーを飲んで中和させた。


「何これ?」


 テーブルの端にはノートがあるのに気づく。来客ノートのようだ。客のクレームや食品へにコメントが書く為のものらしい。イラストもあり、妙に賑やかな雰囲気だ。客たちはこの店を楽しみ、ノートでゆるく繋がっているよう。無人の店だが、このノートだけは他者の存在がいる事を実感させらた。


「へえ。イラストは可愛いけど……」


 来客ノートをペラペラ捲っていると、最新のコメントは目を疑う。ホストの翔一のコメントが書かれていた。よく一緒に騒いだホストの一人だった。しかもノートには、今までの犯罪も書き連ね、懺悔もしていた。万引きや不倫だけでなく、冷夜と一緒に組み、女性客を洗脳状態にした後、金をむしり取ったという事も書かれていた。


 美桜の顔は青くなっていた。もう夢は完全に壊れてしまった。ちょっと苦笑してしまうぐらいだ。


 ノートによれば翔一はこの後、警察に自首するつもりという。冷夜も逮捕されるのも時間の問題かもしれない……。


「そっか、そうか……」


 夢はもう完全に壊れた。そろそろ幻想から目覚め、現実を生きる必要があるかもしれない。夫との関係もきちんと考えよう。龍宮城で遊び周り、気づいたら老人になっていた浦島太郎になる前に。


 とりあえず今日は家に帰ろう。駆け落ちを企み、のこのこ家に帰るのは恥ずかしいが、飼い犬のジローやお手伝いの佐野は待っているだろう。


 その前にこの天ぷらそばもぜんぶ食べて帰ろう。美味しくないが、今はこの味に慰められている気がした。


 もう龍宮城から出てもきっと大丈夫。そう思う事にしよう。雨音は相変わらず静かに響いていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ