第1話 きつねうどん
自転車をゆっくりと漕いでいた。真夜中の二時。仕事帰り、県道沿いの道を自転車で走っているのは、冴えない雰囲気のおじさんだった。
飲食店で日付けが変わるまで働き、今は帰宅途中だ。春の生暖かい風がくすぐるが、何の慰めにもならない。
今日もろくな客がいなかった。チェーン店の定食屋に一体何を求めているのかわからない。酔っ払い当たり散らす客はどう見ても疫病神。お客様は神様だというが、一神教が根付いていない日本には、色んなのがいる。疫病神と言っていいだろう。あるいは貧乏神か。
これでも最低賃金で店長にこき使われている。いわゆる氷河期世代だった栄一だが、病気や怪我などの不運に見舞われ、現在は飲食店でこき使われていた。待遇も仕事内容も最低レベルで、実家暮らし。両親の世話もあり、未来も暗め。この夜闇みたいに。今日は月も星も何もない夜空。闇にしか見えないのだが。
「あ?」
そんな憂鬱な事を考えている時、近くに変な店があるのが見えた。コインランドリーかと思った。似たような店構えだったが、「コインレストラン・佳味」という看板が出ていた。二十四時間営業らしく、レトロな雰囲気の看板だ。
うらぶれた雰囲気もある。近くにある大手チェーン店のコンビニと比べると、灯りも看板も控えめ。それに建物自体が古そう。コインランドリーのようにガラス張りの店頭で、灯りが漏れていたが、別に明るくはない。闇に浮かぶ欠けた月といった雰囲気。
それでも、レストランとか言われると気になる。コインレストランって何だ? そもそもこんな店あったか? 記憶に無いのだが。いつも通勤で通っている道だが、案外見落としているようだ。県道も夜中は車も人も少ないせいか、余計にこの店が目立っているような。
春の生ぬるい風が吹いた。栄一の薄い髪の毛も揺らす。そういえば、お腹が減ったかもしれない。変な店だが、ちょっと見てみるか。
自転車を店の前で止め、入ってみたが、想像もしていない雰囲気だった。
まず店員がいない。客もいないが。その代わり、妙な自動販売がずらりと並んでいた。普通の自動販売より大きめ。そしてレトロで古い自動販売機だった。ドリンクの自動販売機もあったが、うどん、そば、ハンバーガー、焼きそば、弁当など売っている。食事系が多い。
なるほど。コインで食事が買えるからコインレストランか。腑に落ちるが、自動販売のデザインは昭和レトロすぎた。古臭いを通り越して、ちょっと不気味だ。イラストが描かれたものもあるが、鶏がチキンやハンバーガーを作っていたりする。シュール。昭和のコンプライアンスを無視した粗野な雰囲気が伝わってきた。
あとは両替機や手洗いの洗面所、ゴミ箱もある。これは普通に令和でもありそうなデザインで、ちょっとホッとする。
テーブルや椅子の飲食スペースもあった。大きめなテーブルで四、五人ぐらいは余裕で囲める。ただ椅子は丸椅子。ベンチもあったが、どちらも長時間座っていのは不向きだろう。
それにしても自動販売機で食事を売るのは、良いアイデアではないか。飲食店の店員をしている栄一だったが、自分の仕事なんて消えていいと思っていた。昭和の人間が考えた商法の方が合理的だったとは。
「まあ、なんか食うか」
どれにしようか悩むが、あのニワトリのイラストが描いてあるのは、ちょっと嫌だ。味噌汁にも惹かれるが、やっぱりうどんか? うどんが一番美味しそう。というにも自販機にはポップが貼ってあり、運が良い人にはエビの天ぷらが入っているそうだ。
「ちょっと運試し?」
栄一は小銭に取り出し、百円玉を三枚入れる。チャリン。いい音だ。この音は悪くない。五百円玉は使えないらしい。相当レトロな自動販売機のようだ。
うどんの自動販売なんて初めて見たが、中はどうなっているんだ? この中では比較的地味なデザインの自動販売機だが、中が気になって仕方ない。それだけでワクワクする。気づいたら、さっきまで抱えていた憂鬱さはするっと消えていた。
驚いた事にうどんは三十秒ぐらいで取り出し口から出てきた。一体どうなっているんだ。手品か?
栄一は首を傾げつつ、うどんの器を持つ。かなり温かい。湯気も出てる。出汁の良い香りも。一体この自動販売は何だ? 不思議で仕方ない。
テーブルの上に置く。箸は自動販売機のポケット部分にあった。薬味の小袋まである。
丸椅子に座り、薬味をパラとふりかえた。中身は普通のきつねうどん。残念。海老天は入っていなかったが、これはこれでいいか。
プラスチックの丸い器に入っていたが、スープはすっと透明感がある。関西風のスープらしい。うどんは太く、色白でツルツル派。ネギも入っていたが、ラーメンのようななると入りだ。そこが何とも言えないチープ感を演出していたが、三百円だったら、こんなものだろう。それに夜に食べるうどん。本格的なうどんより、こんな安っぽさが良い。
子供の頃に食べたようなうどん。スープも薄いが、これはこれでアリか。何より自動販売機から出てきた事が、余計に味を良くしているような。
ズズっと啜る音が響く。行儀が悪いだろうが、一人で食べているんだからいいだろう。独りの夜に、ちょっと雑に食べるうどんって最高か?
気づくと完食していた。自分の人生を振り返ると、情けない。こんな安いうどんを独りで食べているなんて、ちょっと涙が出そうだが、味は悪くない。むしろ、独りの夜には贅沢すぎる味だ。
「なんだ、これ?」
テーブルの端には一冊のノートが置いてあった。表紙には来客ノートとある。客が自由に味の感想やクレームを書けるようだ。
驚いた事にクレーマーのコメントは一つもない。確かに良い味が薄いとか、器がベチャベチャしているというコメントはあったが、店主からの返事も書かれていた。それが綺麗な文字で誠実な内容だった。他のコメントも絶賛ばかりで、クレームなど入れにくいという雰囲気が形成されていた。
そもそも機械相手にクレームをつける事も虚しいだろう。街中の自動販売機に激しく怒っている人も見たことが無い。静かにそこに佇んでいるだけの存在だ。
今の栄一の仕事と比べると、虚しくなってはくるが。
「うわ。元ヤクザのコメントもある。ムショでは決して味わえない。当たりの海老天が出るまで通うとか書いてあるな……」
その字は決して綺麗ではなかったが、確かに塀の中ではこんな夜食は味わえないだろう。そもそも夜食事自体も禁止されているはずだ。
そうか、今は自由か。
今の現実には納得できないが、それでも不幸ではなさそうだ。こんなチープなうどんも美味しいと感じられる。また食べたい。海老天の当たりが出るまでは。
栄一はにノートに挟まっていたペンでコメントを記入していた。「ご馳走さまでした。また食べに来ます」と。
この店は無人。栄一も孤独だったが、このノートを見ていたら、誰かの存在も感じられた。今は独りでも、未来はそうでも無いのかもしれない。そんな希望がふっと胸に宿る。
「コーラでも飲むか」
ビン入りのレトロなコーラも買って飲む。うどんで熱くなった舌に、この冷たさが染みていた。
「ご馳走さま」
コーラを飲み干すと、栄一は笑っていた。久しぶりに心から笑ったような気がしていた。