サユリに関わってはいけない
「サユリだっけ? あの女、なんか怖いんだよな。ケントこのままで大丈夫かな?」
十一月の夕暮れ時、仕事を終えて帰宅途中の私が駅前の繁華街を歩いていると、突然後ろから若い男の声がした。声の主はかなり早歩きをしていて、すぐに私を後ろから追い抜いた。男の顔は見えなかったが、髪は金髪で黒の薄いシャツにだぼだぼのデニムを履いている。
「わかる! なんだかうまく言えないけど、危ない感じがしたよねー」
男のすぐ横には茶髪で露出の多い服を着た女がいた。右手に持つ、キラキラと光る派手な装飾が施されたスマホケースが目を引く。二人とも薄着のせいだと思うが「寒い寒い」と呟きながら忙しなく歩いている。
遠ざかっていったことによってその後の会話は聞き取れなかったものの、二人の知り合いの『ケント』という男性に危険が迫っているということだけはなんとなく把握できた。
なんだかドラマにありそうな展開だと思ったが、今後彼らに起こることを私には知る由もないので気に留めないことにした。
「だから言ったろ! あの女絶対頭がおかしいって!」
聞き覚えのある声だった。仕事帰りに駅から家に向かって歩いていると、また同じ場所で後ろから男の声が聞こえた。前に聞いてからまだ一週間ほどしか経っていない。声の主はまたすぐに私を追い抜いていく。
「そんなこと言ってる場合じゃないじゃん! 今はまずケントを守ることを考えなきゃ」
この声も聞いた声。先日と同じ男女二人組がまた早歩きで歩いていく。先日よりも気温が下がっていたこともあり、二人とも冬らしい服装になっていたが、服装以外にももう一つこないだと違う点があった。二人とも前回と異なり明らかに口調に焦りが見られる。苛立ちを隠そうともせず、早口で言い合う二人から『ケント』が切羽詰まった状況なのが伺える。
信号待ちで止まってくれたおかげで二人の会話を聞くことができた。関わっちゃいけない女だった、頭がいかれてる、ケントの命が危ない、といった物騒な内容が次々に耳に飛び込んでくる。私は驚きながらもそれを顔に出さないように平常心を装いながら聞き耳を立てていた。
サスペンスものにありそうな展開だ。ドラマなら目が離せない状況なのだが、流石にこの後の展開までは追えないだろう。信号が変わり歩き出した二人はどんどん前に進んでいく。遠ざかる二人の背中を眺めながら、私は会ったことのない『ケント』の安全を祈った。
「やばいやばいやばいやばいやばいやばい……」
二度あることは三度あるらしい。今度は三日後に男の声を聞いた。また帰宅途中、駅から歩いていると足早に私を追い抜いていく。しかし、今回は女がいないし歩く速度も今までよりもずっと早い。むしろ早歩きと言うより小走りだ。
前回と同じように男が前の信号に引っかかっていたので、私は彼に追いつくことができた。彼の三歩ほど後ろで信号が変わるのを待っていると、男が小刻みに震えていることに気がついた。時折、だから危ないって言ったんだ、みたいな言葉を呟くのが聞こえてくる。
交通量が多い交差点。男は堪えきれなくなったのか、信号が青に変わるのを待たず、車が途切れた瞬間いきなり走り出し、走ってくる車のクラクションに構うことなく横断歩道を交差点を渡り切った。そして、何かに怯えるようにそわそわとしながら走り去った。
私を含め信号を待っていた何人かの通行人はその光景を驚きながら眺めていた。交通量の多い片側三車線の通りを、信号無視をしてでも逃げたくなる何か。彼は一体何から逃げていたのだろう。
交差する車線の信号が赤になる。間も無く前の信号が青になると思った時、真横に真っ赤なコートを着た人が視界に入ってきた。
「私達の邪魔をするやつは許さない」
小さな声だがはっきりとした口調で隣に立った人が言った。若い女の声だった。
信号が青に変わる。でも、私は歩き出せなかった。だって、真っ赤なロングコートを風になびかせて歩く彼女の手には見覚えのあるものがあったから。下品な装飾が施されたあのスマホケース、たぶんあれは……
歩き出せないまま立ち尽くしていると、気がつけば目の前の信号は真っ赤に輝いていた。もう男の姿も赤いコートの女も見当たらない。
私はあの日からニュースを見ないようにしている。見たらなんだか嫌なものを見てしまうような気がして。
赤い女を見てからもう一週間以上経つが、私はまだ金髪の若い男の姿を見ていない。