大切なおはなし
・何が「リアル」なのか
このトピックは、リアルに分かる人いるかなあ(笑)
物書きの私なのですが、文字の世界はすべて嘘でしかないと思っています。
少し、自分の「感覚」をじっと改めて観察してみてください。
「現実」に見えるものは、多かれ少なかれ「バーチャル・リアリティ」でしかないと。
お金とは、単なる紙切れです。学校の勉強も、紙とインクにしかすぎません。インターネットの世界も、単なる電気信号の羅列。
そんなものが、私たちの人生を支配し、それによって、生き、また死ぬという「現実」が存在します。つまり、人生とは、共有された「意味」の中で営まれるものなのです。
私たちの認識している「世界」は、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚でしか感じ取ることができません。それに、私たちは素晴らしいとか醜いとか価値があるとか、「意味」をつけ、その意味によって、喜んだり苦しんだりします。
しかし、それは「現実」なのでしょうか。自分の感覚も、感覚で認識する世界も、一刻一刻と生じては消え、生じては消えていきます。何一つとして同じものはありません。人間関係も変われば、国家も変わり、価値観も変わる。それを、どこかで「変わらないもの」であってほしいと思うことが、苦しみのもとなのではないでしょうか。
一度立ち止まって、自分が何に意味を見出しているのか、どこに意識は向かっているのか。それは如何にして生まれ、また消えていくのか、じっと観察してみてはどうでしょうか。
少し、心が晴れてくるでしょう。
最大の幻想、妄想は、「自分が実体として存在する」ということです。自我とは感覚の束でしかありません。また、存在のように思えるものは知覚されることでしかありません。「自分」というのは、単なる五感の電気信号が脳に届いて、「ある」ように錯覚しているにすぎません。自分と思っているものは、記憶の総体であり、またその記憶も、自我によって取捨選択されてストーリ付けされたものにしかすぎません。(そういうことを分かった上で、3章を綴りましたが・・・。)
「存在」と見えているものは、すべてが不確定な存在です。あらゆる有限的な存在を存在たらしめる、その奥にある「存在そのもの」を心の目で見つめる訓練を常々しておくことは、実は不確定な「現実」において、無意味なようでいて、もっとも意味のあることなのではないかと信じています。
・子どもだって、知りたい深い話
岩波書店の『ブッダの言葉』の「人間はどうせ死ぬ。絶対死ぬ。何をしようが死ぬ。金を貯めようが、王の身分になろうが、死ぬ。」というフレーズを、冗談交じりで、コピーして配っていたら、ある中学生が、「あの、この続きが読みたいです」と。
「これは、難しいからなあ・・・簡単なのを探して」と言ったら、後日、現代人向けの簡単なものを読んできてくれたそうで、でも、やっぱりそれは本質的ではないので、お勧めの本を貸したということがありました。中学生が仏教に興味があるとは、私自身びっくりしました。
特に、中学生高校生の時期の多感さは、私たち大人から想像もつかないほどであるということを注意しなければいけません。大人は仕事やお金儲けに興味があるでしょうし、先生になる人であれば、純粋に学問や知的探求そのものに関心がるかもしれませんが、彼らにとって、一番の問題は「混沌の中の自己自身」なのではないでしょうか。
「神っているんですか」「神様って何なんですか」「あの世はありますか」「天国、地獄ってありますか」「死んだらどうせ無になるでしょ」「前世とか来世ってあるんですか」
という質問が私のところに、やはり毎週のように来ます。
教育に関わる人なら、これらの答えの出ない問題に対する自分なりの答えや姿勢なりをしっかり考えておかなければならないと私は考えます。
私の場合、思想というか、実感として掴んでいる感覚を言葉で伝えるのは、まるで水槽の外から中の魚に外の世界を説明するみたいで難儀しているのですが、根気強く伝えていく義務はあるだろうと思っています。
社会に出てからは、特に、幸せに成功するためには、「見えないもの」に対するセンスやツキ、自分なりの哲学という部分やどういう心をもって生きているかということが、予想をはるかに上回る中心的なことになってくるでしょう。運やツキや人生を楽しむこと。これらは、五感の世界で客観的に認めることが出来るものではないため、学校では教えてはいけない空気がありますが、一番大切なことです。
・皮相的になりつつある「いのち」の見方
何故生きているか分からない」という「生きづらい」声を以前にもまして聞くようになりました。
そして、それらの「救いを求める」叫びに対しても、正面から受け止めることのできない大人が少ない。
したり顔で、遠くから、「いのちはとにかく大切だから死んでいけません。」「誰だって、生きている意味なんて分からないし、折り合いを付けながら妥協して生きている。」
責めるつもりはありませんが、そういった対応しかできないことを、とても悲しく思います。いのちの豊かさと、こころの豊かさというものは、繋がっているものなのではないでしょうか。
それにしても、10年間連続、何万人と自ら命を絶つような国は、「内戦」よりもひどい状態です。これからの時代はより一層、精神的なものや魂の飢えに対する需要は高まってくるはずです。これは、物質文明に対する、神からの「間違っている」というメッセージです。
でも、日本人は、どんな困難があってもそれを乗り越えてきた歴史がありますので、必ず痛みを乗り越えて、精神的にも豊かになっていくだろうと信じています。
2020年の東京オリンピックあたりが、世界に対して新しい「日本モデル」を発信していくときだろうと感じています。前回の日本のオリンピックは、高度経済成長。今回は、高度に精神的な成長が期待されます。
しかし、すべての始まりは、自分の心です。
・心にも養分を
何も食べなければ、人は衰弱して死んでしまいます。
同様に、心も食物を必要としています。心に何も食物や養分を上げなければ、心も死んでしまいます。
多くの人が、見えるもののみにとらわれ、その大切さを理解していないようです。
では、心の食物とはなにかというと、愛とか、正しい知恵です。
それは、どうやって与えることが出来るのかといいますと、代表的なものが「善い言葉」にほかなりません。「素敵だね」「ありがとう」「頑張ったね」。こういった美しい言葉が世の中から消えつつあります。そして、人の心に刺さるような言葉が、なにか当たり前のようになってきている。それは時に癒すことの困難な深刻な傷にもなりえます。
この世界を創り上げているのは、言葉です。
善い言葉は心を無限に豊かにし、世界を変えていきます。逆もしかり。
言葉が環境や現実や健康状態まで変えるということを、実感として体験した人もいるでしょう。今まで私の話を聞いてきて、分かってきた人もいるかもしれません。どうか、善い言葉を使い続けてください。
・自分を大切にして、相手も大切にする
古代のゾロアスター教にも、釈迦の教えにも、孔子の教えにも、キリストの教えにも同じことが言われています。
「自分を愛するように、他人を同じように愛しなさい。」「自分にして欲しいことを他人にもしなさい。」「自分のして欲しくないことは、人にしてはいけません。」
いわゆる「黄金律」といわれるものですが、人間にとって幸せになるために最も信頼できる法なのではないでしょうか。
「なぜ、こういうことをいうのだろう」と漠然と疑問に思っていたのですが、
「すべての魂の根源は繋がっていて、自分と他人は一体で異なることはない」ということを知った時、「なるほど」と感じました。
他人を苦しめて自分が得したように感じることがあるかもしれませんが、つまるところ、一番苦しむのは、魂の根源からずれた自分自身なのです。
「敵を愛し、自分を傷つけた人を許す」と、受け入れがたい教えも、つまるところ、「大本の自分」「真我」にもどり、満たされるために必須のことなのです。
マザー・テレサがなぜあれほどまでに献身的に貧しい人に尽くすことができたかということが、どうしても理解できませんでしたが、彼女は貧しい人々のことを考えているようでいて、実は、「神と自分の間のこと」をいつも思っていたのです。神といっても、恐らく、自分の心の奥底の「無限なる大きな愛のかたまり」とみていいかもしれません。その「無限の愛のかたまり」に繋がっていない限り、私たちは真に生きることはできません。
マザーは、最も貧しい見捨てられた人の中にイエス・キリスト―神―全宇宙を見出していました。だからこそ、彼女の人生と、それを見た世界は具体的物質的な次元を超えて、根本的な愛の喜びと幸福を知り、心動かされるにいたったのでしょう。
私は昔東京で、ホームレスの支援のボランティアに関わっていましたが、「何か言葉にできない違和感」を覚えながら、おにぎりを配っていました。それはおそらく、自分自身が「愛のかたまり」の内に満たされていなかったからでしょう。
・社会と怨恨
ちなみに、私は「格差社会」については、一概に「怒り」や「嫉妬」「怨恨」の心でもってして正そうとすることには反対です。社会主義の「正義」の根底には怨恨があったため、上に立った指導者は恐怖や独裁で人を支配するようになりました。
これは、歴史のあらゆるところで見られます。フランス革命も実質的にはテロであり、ロべス・ピエールも狂気ではなく、理性に基づいて恐怖政治を行いました。民主主義が絶対的に正しいかといえば、そうでもなく、その中から生まれたヒトラー、ナチス政権を忘れてはいけません。中世のキリスト教も私はイエスの教えとは無関係、さらに言えば正反対だと考えています。虐げられた人のルサンチマン(怨恨)が「神」を装い、不安をあおり、人を縛り付け、戦争を起こす道具にしてしまったのです。「ベルセルク」という長編の漫画がありますが、あれは中世の狂気と霊的な世界の本質を見事に描写しているのではないでしょうか。現代でも、カルト集団が「正義である自分たちは弾圧されている」と、「正義の戦い」を装い毒ガスを撒いたりしました。パレスチナ問題にしろ、どちらも「自分は正義で、自分は被害者だ」と思って譲れないから、戦いは収まらない。あるいは、小さいところではいじめ事件の加害者の個人情報がネットに流出し、関係のない民家までが迷惑を被ったといいます。彼らは、「悪いことをしたから、いいだろう」と「義憤」に駆られて暴力行為を行っているのでしょうか。
あらゆる正義を装った悲劇の根底には「恐れ」「不安」「被害者意識」があります。そして、私たちはそれをどこかで「仕方ない」と思っている。しかし、それは間違いであり、破滅への道です。
「恨みや報復によって、争いは止まない」というのが釈迦の教えです。「右の頬を差し出されたら、左の頬も差し出しなさい」というイエスの言葉には、「なすがままにされるのではなく、かといって、暴力に暴力で応えてはいけない。暴力の行為それ自体を止めるのではなく、暴力を起こす心そのものに対して毅然と立ち向かいなさい。」というメッセージが込められているように思います。
難しいかもしれませんが、「許す」ことを覚え「恨むこと」をやめることが出来たとき、あらゆる争いはなくなるでしょう。
そして、実は「敵」と見えるものは、外部に存在するものではなく、自分の心のうちの「愛ではないもの」の疼うずきであり、幻影であると知ることです。すぐに理解はできないかもしれませんが、本当です。憎しみを外に向けるのではなく、慈悲と許しを自分のうちに惜しみなく注ぐことです。
そして、こういうことを言うと、「何を言っているのだ」と揶揄やゆされるかもしれませんが、祈ることです。「祈るしかない」のではなく、「祈りから始まる」のです。祈りなき政策はいくら立派なものでも完成ではありません。祈りはすべての始まりであり、またすべてを完成させるものだということを深く理解して下さい。
ジョン・レノンが「イマジン」で、「想像してごらん」と歌いますが、その平和なイメージこそ祈りなのだと思います。冗談でなく本気で、全員が平和を望み、それを心に描けば平和は実現するのです。
・「かかわってきた子どもたちへ」
長すぎて、ここまで読み終わった人がどれくらいいるのかわかりませんが(笑)、この本で私の伝えたいことの百分の一くらいは分かってもらえたかなあと思います(笑)
本当に、こんなに思いのたけを伝えることが出来た機会は人生で初めてです。
ええと、言いたいことは、一つ。
あなたたちのおかげで、私は生かされました。
あなたたち一人一人の存在が、私に生命エネルギーを与えてくれました。
私は、とても弱い存在です。一人のときは、いつも自分自身に負けていました。「人生なんてどうせ」「自分なんてどうせ」と流されるままでした。だけど、あなたたちが、私を信じて背中をみて、そしてついてきてくれるという熱い思いを知った瞬間、「絶対に強くならなくちゃ。死んでも負けられない」とまで、思いました。強く強く自分に誓いました。君たちの私への信を自分の利己心から裏切る時が、きっと私の死です。
君たち一人一人の人生で、せんせいの存在が、どれくらいのものかは分かりませんが、願うことは、「どんな時も自分を愛して、幸せに生きていってください」ということです。そして、君の人生は確実に良い方向に変わったのです!
地球上の人口は70億。人と人が出会う確率は、70億の二乗分の1。
すなわち、49000000000000000000分の1です。宝くじで一兆円が当たるよりヤバいことだと思ってください。だから、あなたたちは、選ばれた、運のよすぎる、ツイてツイてツキまくっている特別な人間なのです。それは保証します。
そして、私も、あなたたちという最高の生徒に囲まれて、もう二度とできない一期一会の教えを伝えることが出来て、最高について、ついて、つきまくっています。
ひょっとしたら、前世でもなにか縁があったのかもしれませんし、来世では、きっと私の方が出来の悪い生徒としてあなた方に教えを教わっているかもしれません(笑)
できたら、みなさんを集めて今世、同窓会でも開いておいしい酒でも飲みたいのですが、もしできなかったら、天国で、何を学んだか互いに楽しく教えあいましょう。