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わたしのこと



少し、自分の体験のようなものを振り返って述べて見れたらなあと思います。




一つ言えることは、私の述べてきた教育観と異なる教育で、窮屈な思いをしていたということ(笑)




それなりに幸せでしたが、酸っぱさもありました。一言でまとめることのできないほど、膨大な思いや考えを抱えながら生きていて、そのような葛藤の中から抜け出せないような日々だったように思います。30冊以上考えた事なんかを書いていたノートがありましたが、取っておく必要はないし、そろそろお別れの時が来たのかもしれません。ということで、先日ゴミ箱に捨てることもできないので、神社ですべて灰になるまで見守っていたところです。




授業が分からずに、空想にふけっていたとか、理想は高くても、実際には何もできない自分に苛立ったり。すべてが手探りの状態で、自分がなかった。誰とも理解し合えないという孤独があったり、無性に誰かと繋がっていたくなったり。




苦しんでいたのは、親が悪かったとか、学校が悪かったとか、もともとの自分の気性なのか。いろいろな理由がつけられるかもしれませんが、結局のところいろんな原因が複合的に絡み合っていましたが、最終的には誰のせいでもない。自分の優しく明るく生きる心がけや決断が足りずに、「どこかで誰かが助けてくれる」と期待していた。




幸せになる方法が分からなかった。いえ、それを見たり学んだとしても、知った気になって実践しようともしなかったし、余計な知識が邪魔をしてはなっから拒絶していた場合もありました。あるいは、何か答えを見つけたかと思ったら、失い、また迷っていることの繰り返しに「もう、辞めたい」とうんざりしていたり。




周りに自分の姿を知られたくなかったし、人の目を恐れる半面、「誰かと心から分かりあう経験がしたい」という心。強がりと、甘えのどちらかに向かうかで身動きが取れなくなっていました。




つまり、若い人になら誰にでもあるプロセスです。それが、私の場合人一倍強かった。








人がどのような迷宮に迷い込み、どんな自分だけの宝を見つけ出すかは、人それぞれによって違うわけですが、その旅には、やはり助けになる人や本があれば心強いですね。




「寄り添う」という言葉を一瞬考えましたが、それは恐ろしいことなんじゃないかと感じています。それには、「人と一緒に迷え」というような気がして。私たちにできる一番のことは、自分の幸せを大切にしながら、他人に光を示すことなのだろうと思います。




当時の私自身も、「光の中で生きている人」の存在を欲していました。その、「ずっと手に入らないだろう」と欲していたものの多くが今少なからず手に入れることが出来て、自分ほど幸せな人間があるのかと思っていますので、それをおすそ分けしたいと思います。




キーワードとなる歴史を振り返ってみましょう。













・母親の呪縛





私がそれまでに経験した「生きづらさ」の根っこには、親の存在があるのかもしれません。




過干渉。進路や自分の考え方や人間関係にまであれこれと口出しをして、愛情深く接していると思いきや、些細なことですぐに機嫌を損ねどなり散らす家庭の中で、いつ親の逆鱗に触れないかと、怯えて神経質になっていたのを思い出しますし、このことを書きながら、「自分はいけないことをしているのではないか」という罪の意識がチラチラとのぞきますが、「ああ、これは悪魔の囁き。間違った観念なのだな」と確認しスルーすることに慣れてきましたし、「親にも満たされない苦しみがあったのだ」と許すことが出来るようになったので、あまり苦にもならなくなりました。しかし、そう思えないうちは本当に怖かったし、どうしていいかわかりませんでした。




例えるなら、「子どもというペットを自分の思い通りにして、そうならないと激こうして言うことを聞かせようとする子ども」のような。ともかく、檻から逃げることが出来なかった状態と言えば良いのでしょうか。




10代後半から二十代前半のうち、「すべて親のせいだ」と思って許せず苦しんでいた自分はまだどこかに「依存」の対象に飢えていたところがあったのかもしれません。




決して多くないとはいえ、経済的に、自分の稼いだお金でやりくりが出来るようになってから、精神的にも吹っ切れ、相手の未熟を許すことが出来るようになりました。




自分も昔はまるで追い詰められているようで、この考え方を拒絶していたので、信じたくない人は信じなくてもよいのですが、生まれる前に計画して自分で親を選んで生まれてくるというのです。なぜか、ひどい親のもとに生まれて、愛する事や許すことの喜びを知り、魂のステージを上げるため。本当かどうかは分かりませんが、自分を責める方向に向かうのではなく、傷を愛と許しで包み、それを生きる糧にする方向がきっと正解なのでしょう。








(はっ!いまさっきこの文章を打った時、天使がほほ笑んだ気がしました(笑)よしっ!)








大切なのは、自分に本気で優しくすること。そうすることで、人にも優しくなれるはず。




悪い親のもとに生まれてくるというのも、子の魂にとって学びなのですが、やはり同じ経験はさせたくないです。お母さんお父さんは、子どものありのままを認めて信じてあげて下さい。そして、もちろん自分自身のありのままも愛し、信じることです。




子どもの魂修行は子どものもので、誰も変わることはできません。自分は自分の魂修行を愛と光に満たしていくことがきっと大切なのです。










・受験



私は中学受験を経験しています。ひょっとしたら、私のことだから受験を否定されるだろうと予想している方もおられるかもしれませんが、何か物事を真剣に取り組み、勝負を経験することは、良い方向に向けば、魂を充実させることに繋がります。


朝から晩まで夢中になって勉強した思い出は、十何年たった今でも何事にも代えがたい宝物です。


しかし、受験くらいで絶望するほど苦しむくらいだったら無意味なので辞めた方がよいです。


大学受験の時がそうでした。私は毎週親と進路のことで言い争い、勉強も手につかず、イライラして、リストカットをくりかえし、そこに塩を塗りこむというようなことをしていました。とにかく、どん底でした。そのときは、本当に誰にも相談できなかったし、先生との話も、「もっと、頑張らなあかんで」。誰も気がついてくれないし、心の問題など親身になってくれる人が当時はほぼ皆無でした。


大人の方へ。子どもたちのうち、誰かがどこかで、SOSを求めている可能性を見落とさないでください。もし、見つけたら励ましたり、たくさんの言葉をかけたりせず、ただ、じっとそばにいて、その子が立ち直るのを信じること。ひょっとしたら、子どもは、自分の気持ちを尊重されず、「コントロール」されることを一番不快に感じている。一番大切なのは、一緒に苦しむのでなく、「自分は幸せ」であること。苦しんでいる子どもが求めているのは、同情や真面目さではなく、実は「楽しくて嬉しくて愛に満ちた人生」なんだということ。なぜなら、生命と言うのはそれが本質だから。









・就職活動に失敗して自殺未遂





さてさて、受験のどん底の時に、ふと手にした『No.1理論』という本。簡潔にまとめると、「ウキウキワクワクの状態が一番脳は強い。」「努力や苦労はしてはいけない。」という、それまでの常識を覆されて半信半疑でしたが、毎日感謝の言葉を唱えていたら、心から強く望んでいた第一志望の大学だけパスし、あとはみんな落ちていたという奇蹟が起ったりしました。




本当に「運命」ってあるのだなと感じた瞬間でしたが、大学に受かり、上京して数カ月すると自堕落な生活に。




ドイツ語と、サークルと、空手と、何でも無理をして両立させようとして、心に余裕がなくなり、ネットや酒に逃げる日々。周りに責められ、いつも怯えて、頭の中はいつもどんより。




心の中にはいつも「頑張らなければいけない」「逃げるな」の声。「誰かに分かってもらいたい」「助けてほしい」という気持ちを抱えながら、「人を頼っちゃだめだ」という自制と、依存の揺れ動く中で、心を開けた人間関係も結ぶことは不可能で、いつも心に何か足りないものを抱えていました。




講義中や、電車の中で、自分がコントロールできないような恐怖感に襲われ、救いを求めるように、精神科やカウンセリングに。気分良くなりたくて、強い酒で向精神薬を一気飲みするのは常習(決して真似してはいけません!)。立派な「メンヘラ」になっていました。




毎日ためいきをつきながら、「社会に出ると今以上に大変だよ。」「何一ついいことなんてないよ。」という大人たちを見ていて、「じゃあ、あなたたちの生きる意味って何?」と訊き返したくなりながら、「ああ、やっぱりそうなのかなあ」と。




後に、様々な本を読むうち、「ああ、彼らは全く間違っていたんだな」ということもぱっとはっきり分かるようになりましたが。大人が子どもや若者の前でため息をつくのはおそらく一番悪いことで、罪です。笑顔と感謝で働く姿を見せるのが一番子どもに夢を与え、しいては社会全体の向上につながり、またこの国も良くしていきます。この国の運命は、お父さん、あなたの笑顔と喜びにかかっているんですよ(笑)




そのまま、社会に出るのが怖いのと、自分は本当に何がしたいのか考えるため一年留年し、就職活動をしましたが、とにかく朝は起きることが出来ないし、人と会うのも怖い。




バイト中に全身がひきつって倒れるなど、本当に勤務先には迷惑をおかけしました。ということをしているうちに、就職が決まらず、震災の混乱の中兵庫の田舎に帰ることに。




名目上、通信の学生として教職は取っていたのですが、実質はひきこもりのニート状態。「家族も、友人も、そして社会も自分という存在を認めてはくれない!」




もう、何をする気力もうせていました。ただ生きているだけで、あれこれと責められることに耐えられなかった。




「自分は真面目に生きてきたが、もうこれ以上生きていても未来はない。誰も助けてはくれないし、幸せにはなれない。そろそろ、人生は終わりにしよう。」と、とある些細なきっかけで、死ぬ決意をしました。「さあ死ぬぞ」と思った時、今まで心にあったもやもやがクリアになっていったのを覚えています。そのときに、自分はカトリックの洗礼を受けたばかりなのですが、やっぱり神なんて単なる気休めでした。自死は罪ということは存分に承知していましたが、やはり、死ぬ前に居るかいないか分からない神様に十字を切ってことわりを入れて、




処方薬を焼酎で流し込み、そして、手首を切りつけて、最後に、ドアノブにベルト。全部やりました。そこに首をひっかけるところまではいいのですが、あんまり圧力がかからなくて、何度挑戦しても無理。あきらめて、寝ることにしました。




今、考えると、ぞっとします。ははは・・・。








・教育実習で地獄を見る すべてが信じられなくなる





そんなこともありましたが、どうせ、教職を取るなら、もう一度東京の方で取りたいなということで、再び上京。自分以外にも、未来が不安定な中懸命に生きて教職を取ろうとしている人と励ましあって、「よし、やろう」と思ったのもあります。




「科目等履修生」という何でもない身分で、「大学院生ですか?」「いえ、違います」「えと、じゃあ、何なんですか?」「ええと・・・。」というやり取りは数え切れないほど。




付き合う友人も悪くなりました。教会には立派な人も集まりますが、まだ罪から洗われていない人も数多くいるわけで、なぜか、そういう人たちに捕まった。精神障害者や無職。さびしいので、誰でもよかったからつるんでいたかった。優しさを持ち寄り支えあう関係でなく、世の中に対して愚痴を言い合う仲で、人を利用して、何かを満たそうとする関係。「こんなことではいけない」と思いながら離れなれない。朱に交われば紅くなる、人間は自分の触れたものになる、といいますが、まさにその通りでした。




そんなことをしながら、無事に、実習にこぎつけました。




担当教官は、高校時代に自分が父親のように慕って尊敬していた先生だったのですが、「指導要領無視だ」とか、「生徒目線でない」など、その先生の方針への口出しという御法度を犯してしまい、「おまえにはうんざりだ。気持ち悪いんだよ。」とおおよそ教職者らしからぬことを言われ土下座の手前までして陳謝。さらに、聖書で、そう聖書で、言うことを言わない生徒を叩いてその聖書がヨレヨレになっていると自慢げに見せられたりしまして、そのときは言葉にできない気持ちと言うか、裏切られた感でいっぱいでした。まさに、『ブラックジャックによろしく』の斎藤先生の教育現場をそのまま体験したような。また、教員間での派閥や無能な教員は苛めぬかれて辞めていくとも脅され。「教育現場がこんなことでいいのか」と口出しもしたかったのですが、ぐっとこらえて、はにかみながら頷いていました。




教壇では、怯えていたのでしょうか、「すごく分かりやすくて良かったです」という生徒からのコメントと同様に、「謝りすぎです。もっと堂々としていてください。」というコメントも。毎日、吐き続けて「あと一日、あと一日」と踏ん張っていましたが、実習終了後、完全にもぬけの殻に。




それから、1年以上はそのことがショックで、思い出してはうなされていました。俺がいけなかったのかな、それとも、向こうが間違っていたのかな、と。




人も許せなければ、何より、自分の卑小さも許せないという気持ちでぐるぐる。




「立派な人間」を目指していたはずが、とことん堕ちるところまで堕ちました。自分の努力ではどうにもならないし、這い上がろうという気持ちすらも続かない。他責の思いも、なにより自責の思いから離れられず、ひたすら苦しみました。




「神なんていない。どんなに善人だって、根底はエゴイストで本質的には悪だ。私が悪なら、社会も悪に他ならない。生きている限り不幸から逃れることはできない。全員地獄行きだ。あの時、自殺を成功させていればよかったかな。」なんて思いながら、大学の先輩である「夜回り先生」水谷修氏に、経緯から思いのたけをぶつけ「やっぱ自殺します。」とメールをしたら、「グリーフケア研究所所長」のシスター高木慶子に連絡しなさいということで、お話をすることに。




これが、ひとつの転機だったのだと思います。




「悲しみと向き合う」ことをテーマにしているシスターなのですが、いやはや明るくてそして強気なおばあさんで、話しているうちに元気になってしまいました。




人の罪以上に、神の愛と許しの大きさと深さを悟ることが出来る。煩悩の氷が多ければ、悟りの水も多いのです。











・執着を棄てる





そのシスター高木も講演で忙しくいつも会えるとは限らないので、ヨーガ療法士のK先生を紹介してもらい、そこで、カウンセリングなどを受けることに。




そこで、ヴィパッサナー瞑想というものを教わります。自己を客観的に観察していき、考えに「雑念」というレッテルをはり、ただ、流していく。




すべてのものは宇宙エネルギーから成り立っていて、肉体の私と思っているものは「偽我」で、本当の自分は、宇宙全体、「真我」だとかいうことを聞かされた時、「いったい何を言ってるんだ、この人は。怪しい。ここ、大丈夫かな」と初めは思っていたのですが、「過去も未来も実在ではない。今・ここに戻る」ということをくりかえしているうちに、「とらわれ」「執着」のようなものが晴れて、すっきりしてきました。そして、「自分」というのも、五感と脳の創り上げた単なる妄想にすぎないと知り、それまで単なる「思想」として見ていた、「無我」や「空」が身体で分かるようになりました。




それを機に、スリランカの上座部仏教(テーラワーダ仏教)のアルボッムレ・スマナサーラ長老の本や、原始仏典などに触れるようになりました。




今まで、大切だと思って離さなかったものが苦しみのもとでした。考え方とか、世間体とか、友人関係とか、義務と勘違いしていたことだとか。




それらを思い切って捨てることで、捨てたところに、新しい風が吹き込んでくるし、また生きることも楽になるし、楽しくなります。






・成功ってどういうこと





まるかんという健康食品会社の創業者で、生涯納税額が何百億円で日本一という大金持ちの斎藤一人さんという方がいらっしゃいます。漢方薬、サプリメントを販売しているだけでなく、精神的にも経済的にも豊かになる考え方を優しく教えてくれています。それがまた特徴的なのですが、信じられないけれど、「やはり本当なんだな」と確信しています。




「ツイてる」というのが口癖で、それだけで億万長者になってしまった。もちろん、これは教えの一部ですが、本を読むだけで、楽しくて嬉しくて仕方がなくなる発想の人なのです。大学時代からこの人の本はお気に入りだったのですが、実際にこのひとりさんの言うことを実行したわけではなく、また、「変に思われるだろうなあ」なんて思いながら、意志も弱くて「これくらい言ってもどうってことないだろう」とつい弱音や愚痴を言い、当然の結果、また悪いことが自分の身に降りかかるという繰り返しをしていました。




ある日、思い立ったように、「このままじゃいけない!自分は本気で変わるんだ!」という決意を固めて近くのまるかんの店を調べて、アポ無しで訪れ、(すみません。ありがとうございます笑)そしてサプリメントも買ったのが最近なのですがかなり前のように感じられます。




一人さんの教えてくれた「愛してます、ツイてる、嬉しい、楽しい、感謝してます、幸せ、ありがとう、許します」や「私は愛と光と忍耐です」という言葉を、一日百回、多い時で千回以上口に出すことを始めました。




するとどうでしょう。




初めて数週間で、イライラどころか、悩まされ続けていた吐き気がなくなり、いつの間にかあれだけ多くあった白髪も消え、自然とすべてのことに感謝したり、ありがたいなあと思えるようになって、ビクビクしていて、落ち込みがちだった心が、ほとんど落ち込まなくなりました。こういう信じられない実感が自分に来るとは思いもよりませんでした。




「昔、ヤバかったんです」といっても、「全然そうは見えない」と、誰も信じてくれない(笑)




毎日の仕事も楽しみで仕方がなくなり、心なしか、関わる子どもたち一人一人の笑顔が増えたような気がしました。




とにかく、すべてがうまくいきすぎるし、以前にあった厭なことは本当にほとんど起こりません。




そういう実感があったので、勧めないわけにはいかない。先ずは、職場の子どもたちに。「やってみるといいよ。」と、言ってもきっとほとんどの人は「ふうん」だろうなあと思ったので、チェック付きのプリントにして配ってみると、案外何割かの人がやってくれました。




そして、しっかり楽しくやってくれた人の十割(笑)が、必ず何かのいい反応を見せてくれます。例えば、「いつも馬鹿にされていたのに、全く馬鹿にされなくなった」とか、「風邪をひきやすかったのに、全くひかなくなった」とか。ある子は、初めは挨拶もしない、暗い顔でうつむいてだるそうにしていたのが、笑顔が素敵でいつも嬉しそうに教室に通うようになったなあ、と。




すぐに効果が出る人も出ない人もいるかもしれませんが、「そういえば」という形で、必ずいいことは山ほどあることに気がつくはずです。








そういえば、自殺寸前までいった自分が、全くそういうことが信じられないかのように幸せにして毎日楽しく生きてるというのも、奇蹟ですねーははははー。












そして、学校じゃ教えられないことなのでしょうけれども、




神様のこととか、魂とか、潜在意識とか、守護霊や指導霊、生まれ変わりのこととか、感謝の大切さとか、因果の理法とか、幸せになれる正しい生き方というのは確かにあって、そういうことも分かってきました。












「何かの宗教やってるんですか」って訊かれて、私は一応クリスチャンなので、「宗教じゃないですよ」とさらっと言える人に比べて、なんとも言えないのですが、組織とか教義とか教祖を信じて押し付けたりするのは人間の我欲がちらほら見えて、私は好きではないですし、また神様的にも嫌いでしょう。なので、そういう人とは関わらないようにしています。




むしろ、大切なのは「まごころ」で、それは普遍的なものであり、生きるうえで、「最も根本的な関心」に応えられる関係です。それより、「こうしてみたら幸せになれますよ」というしっくりきて納得できる考え方を紹介してると考えていただいた方がいいかもしれませんね。大切なのは、個としての深い生き方や姿勢です。「透明さ」や「安心感」にきっと答えはあるはずです。




宗派とか関係なく、個人的な実感として、神様や仏様は実在していて、生きている人を一生懸命導こうとしているのは確かなので、信じて、謙虚さと感謝を忘れないようにした方が神様的に嬉しいと思いますし、力を授けてくれるはずです。




日本人は、「無宗教」と言われますが、初詣は何十分も待つほど、人でごった返して、有名な山奥の霊場にも、足の踏み場もないほど人が押し寄せる。日本人の信仰心は、「宗教」を持っている外国人に比べてもかなり深いのかもしれません。私は、この国の神仏の見方を本当に誇りに思っています。








いずれにしろ、私たちは常に生かされていて、守られて、愛されているのだということを忘れてはなりません。




大切なのは、自分のことだけを考えるのではなくて、自分を幸せにして、愛して、そして、周りの人も喜ばせて、すべての人にとって為になることを考えて行動すること。




なぜかというと、すべてのものは一つに繋がっていて、支えあい、与えあって生きているから。自己啓発が流行り久しいですが、つまるところ、すべての自己実現や成功は、この「利他」でないと空しいものといえるでしょう。それが、この宇宙のルールのようです。そこから外れたものには戻るまで苦しみが。しっかりとその法則にのっとって理解して生きていれば、ツキは一生ツキ続けます。















・これからの時代は





19世紀~20世紀前半は「戦争の時代」でした。そこで必要なのは、「富国強兵」で、お国の為に命を投げ出し、殺し合いをできる人間。




戦争の時代が終わり、「工業や産業の時代」になりました。それに伴い、学歴がものをいう社会になりました。




ずいぶん前から、「21世紀は心の時代だ」ということが言われてきました。私も「本当かなあ」と半信半疑だったのですが、10年前は一部の人しか興味がなかった精神的な話が、だいぶ市民権を得ているのではないかと実感しています。そして、「魂の渇き」に苦しんでいる人が予想以上に多すぎるのです。




そういうことを感じ始めてから、それまで哲学徒として、拒み続けてきた「心の世界」のお勉強を真剣に学び理解を深め、しっかりと彼らの「魂の飢え」に応えられるものを提供したいと覚悟を決めました。




この世紀は、心の時代、もっといえば「魂の時代」なのではないでしょうか。




21世紀は、大きな戦争はありません。その代わり、経済を学ぶ世紀だといいます。そこでは、何がモノを言うかというと「魅力」というのです。




軍備拡張の競争から、魅力の出しあいっこ競争。これなら楽しそうですね。




そのなかで、「自分だけがよければ」という考え方と、「自分はいいのよ」という考え方で生きている人は、どちらも、間違いなのです。自分も幸せにならなければならない。「困ったこと」が起こり、「それは間違った考え方だよ」という天からのメッセージが来るはずです。






・正しい成功





というわけで、私の個人的な人間観とか、宇宙観についてなのですが、一部は、相当に難しいと、私も思います。眠れない人は、どうぞ私の文章を読んで、眠りについて下さい(笑)




会社の面接ではこういうことが言えないと思い続けていたのですが(笑)、松下幸之助さんとか、稲森和夫さんとか、先ほど言った斎藤一人さんにしろ、成功している企業の社長が、「宇宙の法則に則った経営」などといった、例外なく深い哲学を持っていらっしゃるので、世間体などよりも、勇気を持って謙虚にそちらの側に飛び込むことが大切です。




学生時代の私の苦しみは、「哲学者だねえ」と揶揄やゆされることが嫌で、友人と飲みや、世間話や、エロ話に明け暮れ、時に馬鹿もやったりしました(笑)




別に、「哲学者」というのは揶揄ではなかったと思うのですが、とにかくそういわれるのがカタブツみたいで厭だった。




しかし、そこに魂の充実感はなかったし、満たされることもなかった。心から本当の自分の居場所と感じられることもなかったのではないかと思います。




私の場合、20代、30代、40代あたりの人と話が合うことはあまりなくて、50代、60代、それも静養団体の代表とか、ヨーガの修行者の方や、聖職者の方とは何時間でも話で盛り上がってしまうようです。そして、隣の大人たちは寝ているという(笑)




きっと私の場合そういう魂なのでしょうかね(笑)




十代~二十代の世間話が、非常に難解です(笑)








私は、気がつきました。




「人生とはこういうものだよ。だからこうした方がいいよ」と若者にいろいろ教えてくれる大人の多くは、実は何も分かっていないんじゃないか、と。多くが、「なんとなく」で、真剣に考えたことも面倒くさくてやらない。




「自分が不完全だから、向上を目指して、世のため人の為に精進しよう。世の中を喜びに満たそう」というよりも、「意味は分からないけれども、とにかく、我慢して働いて給料を手にしよう」と。同じことをするのでも、前者と後者では、全く違います。




学生の頃は、後者の大人の多さに、混乱しがちで、またそういう思想に洗脳されそうにもなりました。成功者は特別なごく一部のひとで、自分たちとは違うのだと。




前者の大人がそこらへんにゴロゴロ転がっていてタナボタで出会える確率はあまりないです。「大人はどうのこうの」という前に、出会い教えを乞うために、本を読み、また自分から飛び込んでいかなければなりません。環境を自分で選ぶことで、自分もそういう幸せな成功者の仲間入りをします。






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